- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

「離脱」後の明治社会主義者西川光二郎

2013年12月30日 | 教養(Culture)
明治社会主義運動の中心人物の一人:西川光二郎は過去の人として歴史からほぼ消去された感じの人物だが、かれの人生をいろいろ調べている人(例えばしまねきよし田中英夫(「西川光二郎小伝」、みすず、1990、604P.)もいる。

西川は40過ぎから儒教をベースとした説教(伝道)家活動を全国各地で展開した。
体制変革路線を諦め、人間の心の教化に目標を変更したわけだが、かれが発行した修養雑誌(自働道話社、大正3年~)がこれ

西川の経営した自働道話社の昭和15年段階におけるスローガンは「日本国民の良心覚醒運動」・「道徳の日用化(愛国心の日用化)」・「社会奉仕(親切の小出し)」。


西川は読者に対して、孔子らの言葉を引用しながら、大切なことは自分だけで実行することではなく、どうようの行為を周りの者にもするように働きかけ、みんなでやるような空気を作れる様な人間になることだといっている。それはその通りだが、この論理は潜在的に自分の話を聞いたあなたはあなたの周りの人にもその話を広めたくさんの新派をつくっていかなければならいという含意(for propaganda and mind control)の感じられる西川一流の言説だ。


そしてさらに善事を行うにも世間の評判をあまり気にしていたらだめだ。とにかく「良いと思ったら断固実行すること」だと・・・・。これはある程度自分自身に対して言い聞かせる意味もあるのだろ。
この辺が西川らしいところだが、転向/変節した人物の主張としてはいかにもご都合主義的な言い方で説得力半減だが、気持ちはよく理解できる。
そのことはともかく、この談話集(実例が日新公いろは、松陰先生・・・・、鍋島論語)、古臭さはあるのだが、今日われわれが読んでも汲み取るべき何かを含んでいるところが凄い。
明治維新をへてまだ日も浅く近代国家としてまだよちよち歩きであった我が国の時代状況の中で、西川は獄中において性急な社会全体の変革ではなく当面の現実的な課題としての個人の内面的な回心の必要性を考えるようになっていた訳だろ。
資本主義の発達(工業化の進展)の中で英国では労働者階級の貧困問題、環境破壊の問題、景観の汚損そして様々な醜悪な大都会の社会問題の発生が危惧されるようになった。こういう事態に対してラスキンは人々の美意識の後退と受け止め、これに対する対処法として彼は美的感覚の再教育を思いついた。美の感覚はただ、眼前の視覚だけの問題ではなく、人間全体に関する問題であり、それを改善するには倫理的存在としての人間生活そのものから始めなければ美的感覚の再教育などできないと考えた。西川光二郎辺りの転向もこのような英国における思潮と呼応するものだが、彼の場合は、明確にはその名前を挙げているわけではないが、ラスキンやモリスらの思想をキリスト教社会運動を含む当時の社会主義運動の中で享受していたのではないか。




西川の遺書「入神第一」にも収録されている。夫人の西川文子によれば楽之会の主宰者高島と札幌農学校の恩師新渡戸稲造そしてプロテスタント系新宗教の指導者松村介石は西川にとっては「人生の師」ともいうべき存在であったらしい。
西川の「心懐語」を読んでみたが、長期にわたる拘禁生活の中で気分的には軽いうつ病状態になったのではないかと、かってに思っている私だが、心境を系統立てて説明(文章化・言語化)するとか、己の立場を論理化するという面で、西川は少しく文章構成力が欠けていると感じる。まあ、単なる原稿料稼ぎで仕方なしに書いたものが大半だろうからある程度、仕方ないかな?!
西川の筆力や文章の構成力については、組合規約の羅列を主とした片山潜との共著『日本の労働運動』、岩波文庫、昭和27年初版を読めばある程度判る。
光二郎がゴーストライターとして執筆したと西川文子が指摘した明治44年良民社(代表:河本亀之助)著者兼発行者『地方青年の自覚』第四章(「自然と人間との接近」)は光二郎が『心懐語』の中に記述した俳人良寛風の生きとし生けるものへの細やかな愛情への覚醒に言及したものであり、『地方青年の自覚』全体としても出獄直後における西川の学知的水準、否見識の高さを知るよい資料だ。
西川は例えば「国家自衛の精神」の項目で当時の農村の疲弊を憂い、それに対して例えば農業(農産物輸入)を国家の国防(安全保障)上の問題と連関させて議論するなどその思考範囲の広範さには誠に恐れ入る


西川の「心懐語」を読んで高島は洛陽堂の河本を使者に立て西川との接触を試みたが、転向後の西川と高島とは西川が亡くなるまでの修養を共通項にしながら30年間途切れることなく交流があったらしい。高島が西川に送った挽歌だ。その間大正15年には内務警察官僚丸山鶴吉が立ち上げた「建国祭」準備委員会のメンバーとして元社会主義者赤尾敏らと行動を共にしたりしている。


○西川は精神修養家ではあったが、独自の哲学をベースとしたモラロジー運動を展開した訳ではなく、前代的な儒教倫理にぶら下がり続けた。
メモ)修養関係の言説は福沢諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』初編、明治5年2月(1872)がキリスト教(プロテスタント)倫理学系のフランシス・ウエイランド(Wayland, Francis,「The elements of moral science」1835)を引用。

関連記事:御木本とラスキン研究:御木本隆三「ラスキン研究彼の美と徳と経済」、厚生閣、大正13 なお、実はラスキンの考え方をもっともうまく取り込んでいたのは無論『貧乏物語』河上肇だが、それを外せば例えば福沢諭吉の弟子田尻稲次郎『地下水利用論』洛陽堂刊辺りではなかったのでは・・・・。
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道話とは

2013年12月24日 | 教養(Culture)
人生の中で、さまざまな問題や困難に出くわし、悩み苦しんだ時に誰かから聞いたり何かの本で読んだ話がヒントになり、苦境を脱したと言う経験を持つ人も多いと思うが、そうした話が「道話」、つまり生きてゆく上での道しるべとなる話だ。

そういう話をしながら全国行脚した人物の一人に西川光二郎がいた。
道話には中世の御伽草紙から江戸時代の「心学」道話などいろいろ系統があるようだ。西川は常設の演芸場で寄席形式行うのではなく、出張講話をしたようだ。学校建設資金を得るために行われた妖怪学の井上円了と同じやり方だ。農村行脚を行った山崎延吉もそうだった。高島平三郎の場名は文部省から委嘱され「修養」関係の講演活動を全国各地の学校などを回りながら行っている。

西川光二郎の遺著「入神第一」中に夫人の文子が書いた知人・恩人の短文があって、その中に明治43年西川が「心懐語」を出し、それを読んだ高島が河本亀之助を頼んで、自宅への招待と「楽之会」での講演依頼をしたことが記述されている。西川にとって高島平三郎と松村介石・恩師新渡戸稲造は恩人だった。

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丸山鶴吉『在鮮4年有余半』(植民地帝国人物叢書25,2010)

2013年12月23日 | 教養(Culture)
丸山の在鮮時代(大正8年8月-13年,1919~1924)に朝鮮警察協会会長として機関誌「警務彙報」に執筆した記事と内地外地に亘る日本各地での講演内容とを収録。朝鮮の警察制度を中心とした朝鮮統治の推移と現状を著したものだ。
本書は国会図書館でデジタル化資料として公開されている。

内務官僚丸山のユニークな人物像が伺える大変興味深い文献史料だ。
ちょっと斜め読みした印象ではかなり回りくどい文章表現だ。
ゆまに書房刊の復刻版、本文活字の明瞭さは惜しい広島県(良好)




丸山鶴吉は朝鮮時代(警務局長)に朝鮮総督斎藤実の薫陶を受け、警務局長退任後は斎藤の同郷の親友後藤新平の世話になった。 


丸山鶴吉 著「在鮮四年有余半」

[目次]
標題
目次
一 朝鮮統治策に關し吉野博士に質す / 1
二 朝鮮統治と現下の趨勢 / 15
三 近代社會事業の趨勢 / 39
四 太平洋會議と朝鮮問題 / 76
五 戰後の二大思潮と公正なる思潮の批判 / 90
六 我輩の覺悟を表明す / 115
七 露國過激派と其陰影 / 125
八 世界思潮と我國の地位 / 144
九 就任の始めに際して / 153
十 警察と社會救濟 / 159
十一 民衆と警察との理解を促す / 200
十二 警察より佛の道へ / 211
十三 民衆處遇は親切叮嚀、强制處置は必要主義を提唱す / 236
十四 國境警備に就て / 245
十五 朝鮮の治安に就て / 255
十六 朝鮮現下の病弊 / 288
十七 時事雜感 / 307
十八 朝鮮の實情を說いて其の理解を促す / 334
十九 朝鮮人に眞の宗敎心を植付けたい / 404







後日ゆっくりと読んでみたい。内務官僚丸山がまったく新しいタイプ(政治的には疑似右翼的だが・・・・)の官僚であったことは章のタイトルを見ただけで判る。次世代(計画経済的な手法を取ろうとした革新官僚)の重政誠之・岸信介とは真逆。

参考文献

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小説「夏」(丸山鶴吉『50年ところどころ』、第15章)を読む

2013年12月21日 | 教養(Culture)
「丸山は大正2年に警視庁第二代特高課長に就任。その時の方針として当時期鬼畜のように恐れられた社会主義者も結局は人間であり、血も涙もある人間に相違ない、出来ることなら人間的に接してみたい、自分にこれを導きうるだけの力がないにしても、何か人間的な接触によって一道の光明をその間に見出すことができないとも限らない。内務省のご趣旨には反するかもしれないが、機会あるごとに主義者と会見をすることを避けまいと決心をした」らしい(183ページ)。
「フランス物で、今明瞭に記憶していないが社会主義理論を翻訳した小さなパンフレットが無届で出版されて、主義者の間で流布していたのを発見したのである。その出版者が●●君であるということも明瞭になった。そこでわたしはこれを機会に●●君と一席談じてみたいと感じた」(185ページ)。
「●●君には娼妓あがりの内縁の妻があった。」

「●●君は警視庁に出頭すれば直ちに検挙される、留守中の妻君の生活費のことを心配して、ある雑誌社からたのまれた原稿をせっせと書き上げて、自分が監獄に行くまでに原稿料を受け取っておきたいと非常な努力をした様子」(185ページ)。
大杉君が警視庁も門前まで●●君を送ってきた。その時はちょうど夏の盛り。

「会見の顛末を当時の社会主義の機関誌に、○○君が小説『夏』と題して書いた。その『夏』、いっそう●●君と私との会見に関する心理状態を読むことができた」(190ぺーじ)。

そのご、心が通うようになったと見えて、「大杉君と●●君は時々私の官舎に二人して訪れてくるようになった」(192ページ)。
「かくしてわたしが警視庁特高課長在任2年半の間には●●君は一回も法律規則に違反した、乱暴な行動にでることはなかった」と。
そして最後に
「大杉君はまたこんなことも言っていた様子である。『どうも丸山という男は惜しい男で、役人をしているから、あんな心にないことを言っているが、あれを不遇にして野に置けば、きっとわが党の士になる男である』と。わたしも大杉君の頭の良いこと、非常に敏感なこと、またある点において非常に純情なことも、接触するに従って見抜いていたので、どうも家庭の関係や周囲の関係で、大杉君はかかる憐れむべき主義者となっているが、彼をして志を得せしめれば、立派な文芸家となり、政治家を志せば立派な政治家になるのであるが、誠に惜しむべきことであると人に語ったことがある」(195ページ)と書いている。
この丸山の記述はやや言葉が滑った感じがする部分だが、これから察するに大杉周辺には警察側への密通者が配されていたのだろ。

小説「夏」を機関誌に執筆し、娼妓上がりの内妻をもつフランス語の翻訳できる社会主義運動家が誰であったのか、わたしには判らないが、これは丸山が社会主義者を転向させ、社会建設に寄与させる方向で動いたことがあることを少しくほのめかした興味深いエピソードだ。

変節(節をまげること)・転向の社会主義者と昔の同志たちから随分攻撃された西川光二郎の著書『悪人研究』に寄せた高島の序文には社会主義運動に対する西川の情熱をもっとほかの面に向けるほうがよいことが書かれているが丸山の主張もこれと同じ発想の思(保守的な言説)いの表明にすぎなかった訳だ。
『入神第一』によると出獄直後の経済的難局期に、西川「心懐語」に感激した高島が西川を支援すべく河本亀之助を使者に立てて、自らが主宰する「楽之会」に西川を引っ張り込んでいく。

ところで「当時かれら主義者が出していた平民新聞など、随分辛辣な手段で印刷前にその内容を知る方法を講じて、新聞の刷り上がると同時に、発売頒布の禁止を断行して全部を差し押さえたことなどしばしばあった。そしてそういう事件のあるたびに大杉君は」「目をつりあげて怒鳴りこんで来」た(192-193ページ)とか。

この「随分辛辣な手段で印刷前にその内容を知る方法」とは一体どういう方法で、だれを介してリーク(漏えい)情報をキャッチしていたのだろ。

社会主義運動から離脱した西川は大正15年の建国祭(赤尾敏提案、丸山が準備委員会を立ち上げ、その委員の中に西川光二郎)には準備委員会のメンバーとして参加。西川の性格上思いっきり右旋回して疑似右翼の丸山と行動を共にするまでになっていた。
赤尾敏・西川光二郎は共に元社会主義者で、『50年ところどころ』に描かれた警察官僚OB丸山の人柄や丸山ー高島平三郎の繋がり等から類推すると、もしかすると・・・・
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O‘ahu Ahupua‘a Map

2013年12月18日 | 教養(Culture)
O‘ahu Ahupua‘a Map(ハワイ群島における流域(Ahupua‘a))



https://www.google.co.jp/search?q=ahupua'a+of+oahu&sa=X&tbm=isch&source=iu&imgil=Kl6N-j8cw0Fa-M%253A%253Bhttps%253A%252F%252Fencrypted-tbn1.gstatic.com%252Fimages%253Fq%253Dtbn%253AANd9GcQv-FhYIYZGOJ1kg1gii8vBxAKeOrF8yL9WQdtvnh4xmdocyeRBsQ%253B1120%253B591%253Bh91k3jmNd9OsXM%253Bhttp%25253A%25252F%25252Fen.wikipedia.org%25252Fwiki%25252FFile%25253AOahu_ahupuaa.gif&ei=UlCxUrPKBcqPkAXimIGACg&ved=0CCsQ9QEwAA&biw=1440&bih=782#facrc=_&imgdii=Kl6N-j8cw0Fa-M%3A%3BHXSGW2nHBmP1iM%3BKl6N-j8cw0Fa-M%3A&imgrc=Kl6N-j8cw0Fa-M%3A%3Bh91k3jmNd9OsXM%3Bhttp%253A%252F%252Fupload.wikimedia.org%252Fwikipedia%252Fen%252F7%252F72%252FOahu_ahupuaa.gif%3Bhttp%253A%252F%252Fen.wikipedia.org%252Fwiki%252FFile%253AOahu_ahupuaa.gif%3B1120%3B591
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私立女子高等学園第十五回卒業生アルバム

2013年12月18日 | 教養(Culture)
私立女子高等学園第十五回卒業生アルバム

昭和16年、1冊

児童心理学者の高島平三郎によって設立された二年生の私立学校。西方町(本郷)に存在したが、S18年に解散。ピアノ・茶道・マッサージ・お花・謡曲・料理・裁縫・コーラス等、いわゆる花嫁学校。

音楽学者の田辺尚雄(1883-1984)が教職に就いている。(和洋音楽の解説・レコード使用) ■表紙擦れ・左上少削れ欠

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高楠順次郎「アジア文化の基調」

2013年12月17日 | 教養(Culture)
アジア文化の基調

高楠順次郎



[目次]
標題
目次
第一章 人間と自然
一 生の動きと知の動き / 1
二 日本文化の創造力 / 9
三 日本文化の性格 / 23
第二章 新文化の基調としての國家觀
一 精神文化の性格 / 40
二 精神文化の基底 / 45
三 三神器の意義 / 50
四 血の文化の意義 / 54
五 佛教の國家觀 / 61
六 全體性原理の實行 / 65
七 無我性の實現 / 68
八 宗教に對する認識不足 / 71
九 語部に依る神代史話 / 74
一〇 知識と智慧 / 78
一一 差別と平等 / 83
一二 保存の日本 / 88
一三 古寺院の聖教調査 / 91
一四 本地垂迹説 / 95
第三章 印度文化の全貌
一 文化創造の原動力 / 101
二 印度文化の四成分 / 103
三 印度の先住民族 / 109
四 印度とアリヤ族との接觸 / 113
五 森林文化の成熟 / 118
六 自然に同化せる文化の性格 / 119
七 婆羅門教と佛教 / 121
八 印度とアリヤ族と第三度の對立 / 123
九 アリヤ族婆羅門教の印度化 / 126
一〇 回教時代に於ける印度 / 130
一一 英統治下の印度 / 132
一二 英主權に對する最後通牒 / 135
第四章 印度文化史再檢討の基準
一 印度古年代推定の基礎 / 141
二 印度文化史全系假定年代 / 149
三 世界を動かすスメル民族 / 153
第五章 大東亞文化圈の文化振興
一 大東亞文化圈の指導位 / 166
二 皇國としての大日本帝國 / 169
三 大東亞文化圈の二大國群 / 172
四 海涯國群に於ける大小乘の對立 / 178
五 海洋國群に於ける宗教の對立 / 188
六 回教の性格 / 197
七 宗教の對立を統一する力 / 204
第六章 東西思潮の合流
一 自然に對する見方 / 210
二 物質的自然觀 / 211
三 生物的自然觀 / 212
四 羅馬時代の自然觀 / 215
五 生物的自然觀に於けるアラビヤ學者の功績 / 217
六 科學文明時代の物理的自然觀 / 218
七 科學に於ける四つの絶對 / 220
八 物質科學の三大法則 / 221
九 物質科學の全盛時代 / 222
一〇 相對性原理の一石 / 223
一一 相對的自然觀の異議 / 226
一二 スメル民族の大行進 / 228
一三 生物的自然觀に凱歌 / 229
一四 四絶對・三大法則の崩壞 / 231
一五 一般科學思想の轉換 / 235
一六 東西民族思潮の對抗 / 239
一七 來るべき世界を支配するもの / 242

この当時の高楠は悪魔に魂を売ったのか、盛んに大東亜共栄圏とか「南進論」にお墨付きを与えるような思想を提示。
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花井卓蔵全伝

2013年12月17日 | 教養(Culture)
花井卓蔵全伝 上巻

大木源二 編著

[目次]
標題
目次
第一編 門地篇
第一章 花井卓藏博士の閲歷 / 1
第二章 生家三原藩士立原家 / 10
第三章 生父母及同胞 / 13
第四章 養家花井家 / 20
第五章 近親宇都宮家 / 22
第六章 血緣。姻戚 / 28
第七章 生地三原藩及三原町 / 32
第二編 出藍篇
第一章 俊爽兒生る / 47
第二章 栴檀は雙葉にして香し / 53
第三章 手に負へぬ腕白餓鬼大將 / 59
第四章 先生を手古摺らす亂暴塾生 / 63
第五章 十一歲で立志笈を負ふ / 66
第六章 山田十竹塾の塾生 / 69
第三編 蚊龍篇
第一章 長谷川櫻南塾に學ぶ / 73
第二章 少年敎員 / 78
第三章 遖れ少年政客 / 84
第四章 十五歲再度の上京 / 89
第五章 山尾子爵家の玄關番 / 92
第六章 亂髮勝氣の貧書生 / 96
第七章 英吉利法律學校在學時代 / 104
第四編 法曹界活躍篇
第一章 二十三歲代言人試驗登第 / 113
第二章 少壯にして斯界の重鎭 / 120
第三章 不對等條約反對の熱辯 / 130
第四章 刑事辯護の第一人者 / 135
第五章 人權擁護の權化 / 143
第六章 東奔西走の辯護旅行 / 216
第七章 法曹生活四十年の著名事件及辯論 / 235
第八章 先生の博士號は學閥打破の先例 / 420
第九章 法曹界の元老 / 423
第十章 勳一等瑞寶章の恩命 / 430
第十一章 功成り名遂げ法曹界引退 / 434
第十二章 空前の大法律家 / 439
第五編 政界活躍篇
第一章 三十歲にして國會議員 / 481
第二章 議會政府肉薄の巨彈 / 486
第三章 下院を壓する隨一の論將 / 497
第四章 一人一黨主義の宗家 / 512
第五章 下院の名副議長 / 516
第六章 下院飛躍二十二年の回顧 / 523
第七章 勅選貴族院議員 / 544
第八章 上院無雙の大論客 / 549
第九章 政府攻擊の銳鋒 / 599
第十章 上院奮躍十年の足跡 / 639
第十一章 帝國議會比なき立憲熱辯家 / 643
第十二章 華かなりし政治生涯 / 649
第六編 長逝篇 / 659
第一章 不測瓦斯中毒にて急逝 / 659
第二章 朝野驚愕の弔問客 / 662
第三章 動一等旭日大綬章授與 / 667
第四章 凌巖院釋卓憲稚翠大居士 / 669
第五章 盛大なりし葬儀 / 671
第六章 佛事及追悼會 / 673

花井卓蔵全伝 下巻

大木源二 編著

[目次]
標題
目次
第一編 人物篇
一 風貌 / 1
二 人物 / 3
三 修養 / 4
四 學識 / 6
五 雄辯 / 8
六 識見と經綸 / 9
七 志操と信念 / 12
八 行動 / 13
九 手腕。智才 / 15
一〇 情誼 / 17
一一 習慣癖と道樂 / 18
一二 勉勵 / 19
一三 性行 / 20
一四 理想 / 22
一五 人格。聲望 / 23
第二編 私生涯篇
一 趣味、嗜好と生活 / 27
二 家庭及一族 / 31
三 交友と門下 / 35
第三編 逸話篇
一 警察から詫狀文を取つた話 / 45
二 佐々木英夫氏の語る博士の逸話 / 49
三 博士は自發的特待生だつた話 / 55
四 博士の選擧に關する話 / 60
五 博士も相當擔ぎ屋だつた話 / 63
六 恩師から養子に望まれた話 / 65
七 一寸氣障な處もあつた話 / 67
八 博士の野人振り拾ひ話 / 70
九 六十餘歲の殺人犯を無罪にした話 / 74
一〇 志田鉀太郞博士を嘆ぜしめた話 / 77
一一 博士は活き金を費はれた話 / 80
一二 大震災當時の博士の話 / 84
一三 逝去當時新聞の傳へた博士の逸話 / 89
第四編 勳業篇
第一章 法律取調委員としての偉勳 / 95
第二章 臨時法制審議會委員としての功績 / 102
第三章 現行陸海軍々法會議法の功勞者 / 111
第四章 陪審法調査委員としての功績 / 124
第五章 新刑法(草案)調査委員長としての功業 / 151
第六章 刑事被告人の生き神 / 157
第七章 政治上に於ける勳業 / 164
第八章 學界に貽せし功勳 / 191
著作年表 / 200
第五編 追悼篇
編纂餘錄
本編纂事業完成に際して 山村茂十郞 / 1
一外務員私感の一端 大崎十三 / 7

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五百木良三の正体

2013年12月13日 | 教養(Culture)
日比谷焼打事件(ひびややきうちじけん)は、当時は日比谷騒乱事件と呼ばれたが、これは「日露戦争後の賠償に対する不満から、1905年9月5日、東京市麹町区(現在の東京都千代田区)の日比谷公園で行われた集会をきっかけに起こった日本の暴動事件」だ。「群衆の怒りは講和を斡旋したアメリカにも向けられて米国公使館などが襲撃の対象となったことで、アメリカの世論は憤慨し黄色人種への人種差別感情をもとにした黄禍論の高まりと共に、対日感情が悪化してアメリカ国内で日本人排斥運動が沸き起こる一因となり、後の第二次世界大戦を引き起こす日米対立に繋がってい」ったようだ。

決起集会の呼びかけ人の中には小川平吉(宮沢喜一首相の外祖父:母親の親父)、五百木良三(1871‐1937)らも
五百木は正岡子規の友人であり、対露同志会に属する大物国粋主義者であった。半藤一利は「国家興亡40年説」の中で日露戦争後の日本を破滅に導いた張本人の一人(我が国を日韓併合、満州侵略に誘導した黒幕)としてこの人物を名指ししている。


尾崎行雄と並び「憲政の神」と呼ばれた犬養毅、古島はその秘書。


松井茂は広島県出身の警察(内務)官僚。本書の刊行者代表は内務官僚としての後輩に当たる丸山鶴吉。
松井茂の静岡県知事時代に丸山の盟友田澤 義鋪(よしはる1885-1944) は静岡県安倍郡長だった。
松井は日比谷騒乱事件発生時(明治38年)の警視庁第一部長で暴徒の鎮圧指揮にあたった。丸山は明治43年暮れに警視庁方面監察官(・・・・大正2年警視庁特高課長)となり第二次焼打ち事件の鎮圧に関わっている。



本書は日比谷騒乱事件の警視庁側の史料だ。丸山は自伝において警察はいやでいやでしょうがなかったと書いているが、おそらくそれはある程度本音だろ。しかし、その思いに反するように彼は終生警察官僚、警察官僚OBとして生きた。

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吉森悟市の転向ー丸山鶴吉のお節介それとも親心?

2013年12月12日 | 教養(Culture)
丸山鶴吉は大塚惟精の後を継ぐ形で警視庁の第二代目の特高課長を勤めたが、自叙伝「50年ところどころ」には社会主義運動の取り締まりの顛末に言及がある。大正初年ごろの社会主義運動の中心人物は関東大震災当時甘粕大尉によって絞殺された大杉栄や●●らだったらしい。

一八九三年以降は高等警察専任警官が置かれる。一九〇六年四月に高等課を新設し、さらに一九一一年八月二一日に特別高等課が分設された。(参考『続・現代史資料1』松尾尊兊《まつお・たかよし》の解説)

●●はフランスの社会主義理論の翻訳本を無届で出し、それが出版法に触れるということで、丸山から呼び出され、説教されたときのことを社会主義の機関誌に小説「夏」という形で書いたらしい。丸山と大杉・●●とは多少の情が通ったのか両人が丸山の官舎に来るようになていたらしい。丸山は彼らが出していた「平民新聞」などを辛辣な方法手段で印刷前にその内容を知る方法を講じて、新聞の刷り上がりと同時に頒布禁止を行い、発行紙の差し押さえを行い、そのたびごとに大杉栄は関係官庁(神田警察か新宿警察)や丸山のところへ目をつり上げて抗議しに来ていた。丸山は自分の特高課長時代には社会主義者の問題で紛争を引き起こすことがなかったのは自分の「人間的接触」の大きな成果だったと述懐する。丸山と大杉栄とはよく似た人間で、丸山は大杉に対して「どうも家庭の関係や周囲の関係で、大杉君はかかる憐れむべき主義者となっているが、彼をして志を得さしめれば、立派な文芸家となり、政治家を志せば立派な政治家となるのであるが、まことに惜しむべきことである」と。

警察官僚丸山は自叙伝の中では自らの人間味を感じさせるエピソードを披歴しているが、上述のエピソードは第二代特高課長時代(大正2ー6年)の話題である。わざとらしいといえばわざとらしいが、この丸山が警視庁方面監察官時代(明治42年暮れ~)転向させられたのが西川光二郎ではなかったか。丸山は彼らを改心させるには自分には無理(たとえば堺利彦・西川光二郎らは年齢的に丸山より10歳以上も年長のため)だが相応の人物の感化を受けることが必要であると考えていて、西川光二郎の場合は高島平三郎がその役割を果たし、洛陽堂(河本亀之助)が西川の著述活動を支えた。
丸山がいう辛辣な方法とはいかなる方法を指したかは不明だが、まさか、「平民新聞」の印刷には国光社の印刷部門のトップを務め、その後独立をした河本亀之助の知人たちが・・・?
まあ、この辺のことは単なるわたしの妄想だから笑って見過ごしてもらえればよい

丸山が●●と伏字した御仁は誰なんだろ。
昔は共産主義、20年前はオウム・統一教会などの新(新)宗教



我が国の民族的結合の特有性をを勘案すると社会主義とか共産主義は「国柄」に合わないと丸山


吉森悟市著「嵐を蒔くソ聯共産主義の禍乱」、西川光二郎他序文・初版135頁・経論会(国民史総統一叢書4)、昭13という書籍もある。

[目次]
標題
目次
第一編 靑年は何故赤化するか
序論 / 1
一 半自叙傳的經路 / 5
一 幼少年時の環境 / 5
二 靑年時の環境 / 8
三 赤化の主要動因 / 18
二 一般子弟の赤化思想抱懷過程 / 20
一 勞働者農民の子弟の場合 / 20
二 小ブルジヨア、小市民の子女の場合 / 27
三 上流家庭の子女の場合 / 32
四 軍人、敎員、官吏、學生の赤化の過程 / 44
五 赤化分子の結成過程 / 58
第二編 魂顧錄
一 破船 / 64
二 不開の慈門 / 67
三 流轉 / 73
四 孤雁 / 78
五 暗冥 / 85
六 斷想 / 87
七 自活 / 88
八 叛旗 / 91
九 負笈 / 95
十 同志 / 98
十一 續同志 / 101
十二 囹圄 / 104
十三 懷疑 / 110
十四 微光 / 113
附錄 / 117
共同被告同志に告ぐる書 / 117

昭和13年、経政春秋社出版部、137P.

「国立国会図書館のデジタル化資料」より

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