明治社会主義運動の中心人物の一人:西川光二郎は過去の人として歴史からほぼ消去された感じの人物だが、かれの人生をいろいろ調べている人(例えばしまねきよし&田中英夫(「西川光二郎小伝」、みすず、1990、604P.))もいる。
西川は40過ぎから儒教をベースとした説教(伝道)家活動を全国各地で展開した。
体制変革路線を諦め、人間の心の教化に目標を変更したわけだが、かれが発行した修養雑誌(自働道話社、大正3年~)がこれ
西川の経営した自働道話社の昭和15年段階におけるスローガンは「日本国民の良心覚醒運動」・「道徳の日用化(愛国心の日用化)」・「社会奉仕(親切の小出し)」。
西川は読者に対して、孔子らの言葉を引用しながら、大切なことは自分だけで実行することではなく、どうようの行為を周りの者にもするように働きかけ、みんなでやるような空気を作れる様な人間になることだといっている。それはその通りだが、この論理は潜在的に自分の話を聞いたあなたはあなたの周りの人にもその話を広めたくさんの新派をつくっていかなければならいという含意(for propaganda and mind control)の感じられる西川一流の言説だ。
そしてさらに善事を行うにも世間の評判をあまり気にしていたらだめだ。とにかく「良いと思ったら断固実行すること」だと・・・・。これはある程度自分自身に対して言い聞かせる意味もあるのだろ。
この辺が西川らしいところだが、転向/変節した人物の主張としてはいかにもご都合主義的な言い方で説得力半減だが、気持ちはよく理解できる。
そのことはともかく、この談話集(実例が日新公いろは、松陰先生・・・・、鍋島論語)、古臭さはあるのだが、今日われわれが読んでも汲み取るべき何かを含んでいるところが凄い。
明治維新をへてまだ日も浅く近代国家としてまだよちよち歩きであった我が国の時代状況の中で、西川は獄中において性急な社会全体の変革ではなく当面の現実的な課題としての個人の内面的な回心の必要性を考えるようになっていた訳だろ。
資本主義の発達(工業化の進展)の中で英国では労働者階級の貧困問題、環境破壊の問題、景観の汚損そして様々な醜悪な大都会の社会問題の発生が危惧されるようになった。こういう事態に対してラスキンは人々の美意識の後退と受け止め、これに対する対処法として彼は美的感覚の再教育を思いついた。美の感覚はただ、眼前の視覚だけの問題ではなく、人間全体に関する問題であり、それを改善するには倫理的存在としての人間生活そのものから始めなければ美的感覚の再教育などできないと考えた。西川光二郎辺りの転向もこのような英国における思潮と呼応するものだが、彼の場合は、明確にはその名前を挙げているわけではないが、ラスキンやモリスらの思想をキリスト教社会運動を含む当時の社会主義運動の中で享受していたのではないか。
西川の遺書「入神第一」にも収録されている。夫人の西川文子によれば楽之会の主宰者高島と札幌農学校の恩師新渡戸稲造そしてプロテスタント系新宗教の指導者松村介石は西川にとっては「人生の師」ともいうべき存在であったらしい。
西川の「心懐語」を読んでみたが、長期にわたる拘禁生活の中で気分的には軽いうつ病状態になったのではないかと、かってに思っている私だが、心境を系統立てて説明(文章化・言語化)するとか、己の立場を論理化するという面で、西川は少しく文章構成力が欠けていると感じる。まあ、単なる原稿料稼ぎで仕方なしに書いたものが大半だろうからある程度、仕方ないかな?!
西川の筆力や文章の構成力については、組合規約の羅列を主とした片山潜との共著『日本の労働運動』、岩波文庫、昭和27年初版を読めばある程度判る。
光二郎がゴーストライターとして執筆したと西川文子が指摘した明治44年良民社(代表:河本亀之助)著者兼発行者『地方青年の自覚』第四章(「自然と人間との接近」)は光二郎が『心懐語』の中に記述した俳人良寛風の生きとし生けるものへの細やかな愛情への覚醒に言及したものであり、『地方青年の自覚』全体としても出獄直後における西川の学知的水準、否見識の高さを知るよい資料だ。
西川は例えば「国家自衛の精神」の項目で当時の農村の疲弊を憂い、それに対して例えば農業(農産物輸入)を国家の国防(安全保障)上の問題と連関させて議論するなどその思考範囲の広範さには誠に恐れ入る
西川の「心懐語」を読んで高島は洛陽堂の河本を使者に立て西川との接触を試みたが、転向後の西川と高島とは西川が亡くなるまでの修養を共通項にしながら30年間途切れることなく交流があったらしい。高島が西川に送った挽歌だ。その間大正15年には内務警察官僚丸山鶴吉が立ち上げた「建国祭」準備委員会のメンバーとして元社会主義者赤尾敏らと行動を共にしたりしている。
○西川は精神修養家ではあったが、独自の哲学をベースとしたモラロジー運動を展開した訳ではなく、前代的な儒教倫理にぶら下がり続けた。
メモ)修養関係の言説は福沢諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』初編、明治5年2月(1872)がキリスト教(プロテスタント)倫理学系のフランシス・ウエイランド(Wayland, Francis,「The elements of moral science」1835)を引用。
関連記事:御木本とラスキン研究:御木本隆三「ラスキン研究彼の美と徳と経済」、厚生閣、大正13 なお、実はラスキンの考え方をもっともうまく取り込んでいたのは無論『貧乏物語』河上肇だが、それを外せば例えば福沢諭吉の弟子田尻稲次郎『地下水利用論』洛陽堂刊辺りではなかったのでは・・・・。
西川は40過ぎから儒教をベースとした説教(伝道)家活動を全国各地で展開した。
体制変革路線を諦め、人間の心の教化に目標を変更したわけだが、かれが発行した修養雑誌(自働道話社、大正3年~)がこれ
西川の経営した自働道話社の昭和15年段階におけるスローガンは「日本国民の良心覚醒運動」・「道徳の日用化(愛国心の日用化)」・「社会奉仕(親切の小出し)」。
西川は読者に対して、孔子らの言葉を引用しながら、大切なことは自分だけで実行することではなく、どうようの行為を周りの者にもするように働きかけ、みんなでやるような空気を作れる様な人間になることだといっている。それはその通りだが、この論理は潜在的に自分の話を聞いたあなたはあなたの周りの人にもその話を広めたくさんの新派をつくっていかなければならいという含意(for propaganda and mind control)の感じられる西川一流の言説だ。
そしてさらに善事を行うにも世間の評判をあまり気にしていたらだめだ。とにかく「良いと思ったら断固実行すること」だと・・・・。これはある程度自分自身に対して言い聞かせる意味もあるのだろ。
この辺が西川らしいところだが、転向/変節した人物の主張としてはいかにもご都合主義的な言い方で説得力半減だが、気持ちはよく理解できる。
そのことはともかく、この談話集(実例が日新公いろは、松陰先生・・・・、鍋島論語)、古臭さはあるのだが、今日われわれが読んでも汲み取るべき何かを含んでいるところが凄い。
明治維新をへてまだ日も浅く近代国家としてまだよちよち歩きであった我が国の時代状況の中で、西川は獄中において性急な社会全体の変革ではなく当面の現実的な課題としての個人の内面的な回心の必要性を考えるようになっていた訳だろ。
資本主義の発達(工業化の進展)の中で英国では労働者階級の貧困問題、環境破壊の問題、景観の汚損そして様々な醜悪な大都会の社会問題の発生が危惧されるようになった。こういう事態に対してラスキンは人々の美意識の後退と受け止め、これに対する対処法として彼は美的感覚の再教育を思いついた。美の感覚はただ、眼前の視覚だけの問題ではなく、人間全体に関する問題であり、それを改善するには倫理的存在としての人間生活そのものから始めなければ美的感覚の再教育などできないと考えた。西川光二郎辺りの転向もこのような英国における思潮と呼応するものだが、彼の場合は、明確にはその名前を挙げているわけではないが、ラスキンやモリスらの思想をキリスト教社会運動を含む当時の社会主義運動の中で享受していたのではないか。
西川の遺書「入神第一」にも収録されている。夫人の西川文子によれば楽之会の主宰者高島と札幌農学校の恩師新渡戸稲造そしてプロテスタント系新宗教の指導者松村介石は西川にとっては「人生の師」ともいうべき存在であったらしい。
西川の「心懐語」を読んでみたが、長期にわたる拘禁生活の中で気分的には軽いうつ病状態になったのではないかと、かってに思っている私だが、心境を系統立てて説明(文章化・言語化)するとか、己の立場を論理化するという面で、西川は少しく文章構成力が欠けていると感じる。まあ、単なる原稿料稼ぎで仕方なしに書いたものが大半だろうからある程度、仕方ないかな?!
西川の筆力や文章の構成力については、組合規約の羅列を主とした片山潜との共著『日本の労働運動』、岩波文庫、昭和27年初版を読めばある程度判る。
光二郎がゴーストライターとして執筆したと西川文子が指摘した明治44年良民社(代表:河本亀之助)著者兼発行者『地方青年の自覚』第四章(「自然と人間との接近」)は光二郎が『心懐語』の中に記述した俳人良寛風の生きとし生けるものへの細やかな愛情への覚醒に言及したものであり、『地方青年の自覚』全体としても出獄直後における西川の学知的水準、否見識の高さを知るよい資料だ。
西川は例えば「国家自衛の精神」の項目で当時の農村の疲弊を憂い、それに対して例えば農業(農産物輸入)を国家の国防(安全保障)上の問題と連関させて議論するなどその思考範囲の広範さには誠に恐れ入る
西川の「心懐語」を読んで高島は洛陽堂の河本を使者に立て西川との接触を試みたが、転向後の西川と高島とは西川が亡くなるまでの修養を共通項にしながら30年間途切れることなく交流があったらしい。高島が西川に送った挽歌だ。その間大正15年には内務警察官僚丸山鶴吉が立ち上げた「建国祭」準備委員会のメンバーとして元社会主義者赤尾敏らと行動を共にしたりしている。
○西川は精神修養家ではあったが、独自の哲学をベースとしたモラロジー運動を展開した訳ではなく、前代的な儒教倫理にぶら下がり続けた。
メモ)修養関係の言説は福沢諭吉・小幡篤次郎共著『学問のすゝめ』初編、明治5年2月(1872)がキリスト教(プロテスタント)倫理学系のフランシス・ウエイランド(Wayland, Francis,「The elements of moral science」1835)を引用。
関連記事:御木本とラスキン研究:御木本隆三「ラスキン研究彼の美と徳と経済」、厚生閣、大正13 なお、実はラスキンの考え方をもっともうまく取り込んでいたのは無論『貧乏物語』河上肇だが、それを外せば例えば福沢諭吉の弟子田尻稲次郎『地下水利用論』洛陽堂刊辺りではなかったのでは・・・・。