- 松永史談会 -

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防地番所の現在ーカメラ片手にブラブラー

2017年04月29日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

正面にかつての番所役人の子孫:岩田氏の方が住む新居。一帯は工業団地・住宅団地が造成され、峠の景観が昔とは一変。




防水シートを被せられた岩田さんの旧宅とその眼下の新宅。旧宅はかつての番所屋敷(間口6間、奥行き3間、それに裏付属屋、まことにこじんまりとした職住混合型建築物だ)。番所役人というのは、福山城下の士長長屋の住人のように四書五経には通じていても慎ましい生活を余儀なくされてきた人たちだったのだろう。




正面は左右対称形

浸食によって地盤が大きく削られ建物の基礎の石組が露出


防地峠、手前(福山藩)側は高須町、向こう(芸州藩)側は久保町,子供時代に一度父親に連れてこられた記憶がある。それ以来の防地峠




福山藩側番所役人の子孫・岩田家の墓地。家紋は卍、高須町普門寺門徒の麻生氏(屋号:土居)と同じ。幕末期のご先祖は簑島村の庄屋の出だったとか。岩田という名字は福山市内では水呑・古野上辺りに多い。


番所屋敷の立地する低山の頂部を構成する海成の砂礫層(地質図では沖積世とするが洪積世),
不整合面の下の小石交じりの砂層にラミナが・・・。一帯は地形的には福山市本郷町御領丘陵に対応する。


芸州藩側に当たる久保町1193番地の住宅。

この石組は旧芸藩時代の番所遺構の一部か

岩田家旧宅(番所屋敷)脇に打ち捨てられた石臼を発見。我が家の石臼に比べ相当に貧弱。廃藩置県後は耐乏生活を強いられたか。いまとなってはこの建物、貴重な文化財だ。


一度壊されたか。


防地上池堰堤の「南無阿弥陀仏」石碑。左右の石仏の類似物は善勝寺境内から千光寺参道沿いなどでも散見される。








尾道市久保町1193番地から見た尾道水道・・社叢林は久保の八幡さん、その隣に巨大瓦で有名な真宗浄泉寺。向島の通称”兼吉の丘”は山頂部に龍王碑がある(いわゆる雨乞い神事の行われた龍王山を意味する)。しかし、地図では「地王山」と表示。大林映画尾道三部作のロケ地の一つ。
2017年4月撮影

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三吉冠山経営の大成館に学んだ三井勝治郎の生家と墓地確認

2017年04月23日 | 断想および雑談
最近、三吉冠山大成館の門下生で日清戦争で戦死した三井勝治郎の消息確認に出かけた。以前に見たゼンリンの住宅地図を思い出し、聞き込み開始。
三井総本家とか書かれた墓石を発見し、そこで大方の情報を入手し、そこから明治初年に分家した三井敬治郎家にたどり着いた。所要時間は60分。遠い昔の話なので三井敬治郎家の子孫の方も大きな安ど感というかまさかといった私のもたらす情報に不思議な感興を覚えたようだ。それが表情から読み取れた。この先祖さんの詳しい消息が分かり、今後は今以上に大切に祀っていくということだった。
今回は幸運にもうまくいったが高須尋常小学校初代校長三島静(『赤坂町史』中に瀬戸町出身と記載)と、明治16年生まれ東京帝大医科卒(永井潜の教え子で法医学専門?)の三島粛三という人物(沼隈郡高須村出身)については依然手掛かりなし(というか本気では探していない





参考

大元山から見た上浜の三井家の家々



橙〇が生家、黄色→付近が墓地の所在地(朝10時に出発、11時10分に高須小学校に到着・・・・探索開始で11時36分に墓地発見、通学路を利用すれば三井勝治郎生家からその墓地まで10分程度で行ける場所に当たる)。小学校を起点に周辺の杉原・延広などの墓地の分布傾向から果樹園あるいは普通畑脇に造成されていた三井家墓地を無事探し当てた。付近にはかつて火葬場があったらしい。この地区のお墓は寺院境内あるいは境外に造成された共同墓地形式と畑の脇に点在する形で布置するという形式の墓制が混在状態にあることがよく理解できた。
野外調査ではヒトの持つ動物的な勘も大動員だ


三井敬治郎家墓地全景・・・この地方では作田高太郎一族並に抜群に立派な墓石だ。むろん三井総本家という家の墓地を大きく超えている。この辺は自慢の息子・勝治郎の親父(三井敬治郎)のprideが詰まっているのだろうか。教導団は当時東京にあった陸軍の下士官養成学校で、成績優秀者は陸軍士官学校への門戸が開かれていた。
当時のことだから勝治郎の遺骨は故郷沼隈郡高須村においては公葬を経て、三井家の山畑脇に当たるここに埋葬されたのだろう。


今はこんな感じ。黄色〇は墓地の所在地




戒名は「寶蓮院釈智徳善士」、秀才だったのだろう「智徳善」士とある。
墓誌  明治28年 友人石井勇太郎(明治2~昭和19、広島師範卆、晩年は本郷村第十代村長、三吉冠山(熊八郎)経営の漢学塾:大成館三吉塾での先輩後輩関係)撰文。当時の代講は本郷立神の岡田侃次郎(慶応2~大正5、東京控訴院検事)、大成館三吉塾の塾友には松永村・井手健爾、金江の大林一彦(映画監督大林の御祖父さん)、今津の竹野豊八(河本亀之助が慕った小川恒松の息子)、今津村長波の村上辻太郎、東村の小川戒三らがいた(『福山市本郷町誌』第九篇人物伝による)。河本亀之助とは同世代の人たちである。




松崎大尉の指揮下で7月25日に渡韓し、29日に戦死したわけだから気の毒な話だ。ちなみに緒戦の山場は9月15日の平壌戦だったが、勇敢さを「先登奮進」という言葉(美談→「戦病死者の葬送と招魂 - 名古屋大学」)で讃えている。「忠勇義烈」・・・三井勝治郎の人柄の一端にも触れた言葉のようにも感じられるが、戦死者に対する常套句そのものだった。やはり主戦場に至る前の勝治郎の早すぎる戦死はいささか哀しい。




敬治郎の次男:慈一(1887-1969、87歳で没)が家を継ぐが、慈一の次男・悟は昭和20年4月29日29歳でフィリピンにて戦死。その妻は昭和23年に33歳で死亡、悟の2人の遺児卓夫は8歳(18歳で死亡)、豊は6歳(54歳で死亡、独身)。三井敬治郎家では敬治郎の長男勝治郎、家を継いだ孫の悟の二人もが戦争で命を奪われていた。親友の石井勇太郎(福山市本郷町、南屋石井家二代目、尋常小学校校長⇒町長、昭和19年に76歳で没)のお墓。


三井敬治郎家墓地のすぐ手前に小さな自然石を置いただけの墓地。水子供養にしては数が多く、両墓制はないので埋め墓でもなかろうし、三井家一族のものだとおもうので機会があれば調べてみよう。


これが三井家一族の普通サイズの墓石。三井・総本家もしかり。


三吉冠山経営の大成館の出身者の消息がわかったことは今回の調査での細やかだが大きな成果だった。

三井総本家の主人の描いた墓地までの経路図、これが車を使って墓参をするときのルートだったのだろう。現在は小学校裏から入るという三井勝治郎さんの子孫の方の話にあったルートが一番の近道。

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天保5年備後国国絵図の中の「つるぎの宮」

2017年04月22日 | 松永史談会関係 資料配布
天保5年備後国国絵図の中の「つるぎの宮」

沼隈郡内では九州往還沿いの「つるぎの宮」・伊勢山、明王院、そして瀬戸内航路(山陽沿岸を通る地乗り航路)に沿った阿伏兎観音、鞆の番所・古城跡・鞆の観音堂そして鞆町あたりの無人の島々など。街道沿いの河川については船渡・歩行渡など渡河事情が詳細に注記されている。今津一里塚と鞆街道の表現はやや地図的なディフォルメが著しい。
鞆町及び後地一帯は大きく誇張されている。
鞆の番所は記載されても芸藩と福山藩との藩領境にあった防地の番所は無記載。わたしが注記した「川尻」(藤井川河岸)辺りに図示されている一里塚は今津一里塚同様、場所がかなりずれている高須のそれ。


国立公文書館デジタルアーカイブ
公開されている内容:
元禄国絵図
元禄郷帳
天保国絵図
天保郷帳
正保城絵図


jpeg2000でDLすると2.8Gバイトくらいの巨大なファイルになる。高精細だが、普通の人には扱いにくいかもしれない。
備後国郷帳



備後国国絵図は天保図のみ公開



寛永の備後国絵図では神村は「賀村」(かむら)と表記している、発音は「かむら」だろう。
九州往還は吉和―尾道―高須ーそのまま山手方面に。今津は記載なし。
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寛政8年当時の東川(本郷川)河口部状況を考えるヒントを与えてくれる古文書メッケ

2017年04月19日 | 松永史談会関係 資料配布




寛政8年8月6日夜、夜間魚取りのため本郷川(土手)を下っていたところ松永方面から川を渡ってくる不審者たちと遭遇。忠右衛門・留八が𠮟責したところ、かれらは前新涯角土手に備後表7荷を残したまま逃走したという話だ。

備後表の抜け荷は絶えなかったようだが、おそらく舟でやってくる尾道の商人に密売するために備後表をひそかに前新涯角土手に置いていたのだろう。
前新涯角の地先には幕末・明治期にかけて通称「三角」(末広新涯)が造成され寛政期の景観は一変したがこのあたりは備後表7荷積み出す舟の着舟可能な場所であった訳だ。


頼山陽が辿った尾道―今津間の航路。矢印アニメは舟の動き。


寛政9年当時でも九州往還の川尻(藤井川デルタ地帯)付近で通行不能になることがったらしく、その場合は険しい迂回路を避け、尾道ー今津間を舟で行き来することがあったらしいことがわかる。

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松永史談会5月例会のご案内

2017年04月11日 | 松永史談会関係 告知板
開催日時と場所:
5月15日(月)、午前10‐12、喫茶店「蔵」

テーマ:湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―

頼山陽(宮島誠一郎筆写)「東遊漫録」(富士川英郎によって偽書の可能性は考える必要はないとされる)の分析を通じて山陽一行が下船した今津とは何処だったのか、考えてみたい。この点の解明ができれば福山藩領内でも数少ない興行場(芝居・相撲などの興行を公認された場所)が形成されていた剣大明神境内一帯を包含しつつ瀬戸内海の水運ともリンクしていた今津宿の新たな地域像(瀬戸内地方の風土性や備後福山藩領と芸藩領との境界性など)が浮かび上がらせていく。



頼山陽一行の尾道―今津間の推定航路(賴山陽が下船した今津湊の場所は高諸神社南:慶応期に干拓された前新涯北端/千本松原部か、本郷川河口に当たる旧今津小学校敷地東横松原のあった本郷川河岸部あたりだっただろうか。船着き場との関連は不明だが、雁木遺構が高諸神社境内の東御池岸に見られる)





尾道商人たちが寄進した剣大明神の狛犬。
中島屋忠三郎・茶屋儀八・播磨屋松之助については詳細は不明だが、今津宿内の「「宿」を舞台に芸者や遊女たちを置いて客に遊興・飲食をさせるいわゆる茶屋(水茶屋・引き手茶屋・色茶屋・芝居茶屋・相撲茶屋などの総称)経営者たちではなかったかと思われる。尾道にある浄土真宗浄泉寺入口には播磨屋松之助が父親(戒名:釈松寿信士)のためにジャンボな常夜灯形式の供養塔を建立(文化14年)しており、敬神観念が旺盛でありかつ、剣大明神に対して何がしかの献金代わりに自己顕示欲を満足させるやり方で狛犬一対を寄進したものであろう。これは祭礼と経済活動とが一体となっていた時代の貴重な遺物に他ならない。
こういう娯楽・商業活動が期間限定付きではあったが公認された場(福山藩は芝居相撲興行を剣大明神・鞆祇園社と備後一宮において公認)が剣大明神境内とその鳥居前には存在したということはもっと注目されてよい。

文化十一年→文化十年


旅籠や芝居小屋が立地したのは剣大明神鳥居前だった。ここを一円的に所有したのが薬師寺。芝居相撲興行は剣大明神の祭礼とタイアップした形で剣大明神境内及び当該鳥居前で行われた。


【参考】
後掲の文明17(1484)年備後国尾道権現堂檀那引注文には古志氏の支配下にあった新庄(荘鎮守は本郷八幡宮)内「今津」及び「今伊勢」が悉皆的に熊野権現の信仰者だとしていること、また毛利氏の行った惣国検地には熊野権現を地主神とした蓮花寺・金剛寺・薬師寺三ヶ寺の記載があることから判断して今津湊が尾道及び瀬戸内海水運との関りをもっていた熊野権現とのかかわりを持つ存在であったことが判る。そういうことから鑑みて、おそらく今津+剣大明神というのは遠い昔から受け継がれてきたもの(正統性を有する伝統)ではなく後代に人工的に創られた伝統であるかあるいは他所から持ち込まれたものだったのだろう。同様の検討は神村伊勢宮さんと熊野信仰についても必要である。ちなみに神村町では現在熊野権現は八幡さん内に摂社として祀られている。


【メモ】文化期の尾道の遊郭事情については青木茂『尾道市史』『新修尾道市史』に関連史料掲載。尾道では洗濯女と呼ばれた遊女も尾道町と後地村の同業者間で客の取り合い。大崎島辺りからの遊女の出張営業、沼隈郡山波村沖合で「おちょろふね」を使った営業など尾道地区の業界は不況状態だったようだ。そういう時代状況の中での久保浄泉寺のジャンボ供養塔を含めた播磨屋松之助の狛犬寄進だった。
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