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松永史談会10月例会のご案内

2023年10月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会10月例会のご案内

開催日時 10月27日(金曜日)、午前10-12時
  場所 蔵2階
「尾道・艮神社旧蔵『建治元年貢之郡尾道畧圖』考」(市民雑誌次年度号に投稿済み)
10月例会では赤松俊秀の提起した証験類を巡る「権力と権威」という側面と共に松永史談会7月及び9月例会の話題(folk-lore、就中Geographical-lore(例えば小早川秀雄/1802-1853は備中足守藩士出身の処士で徂徠系の儒学を修め、史伝を好み若い頃は諸州の旧跡遺跡の歴遊や古瓦遺物の収集、晩年は倉敷の書林林家に寄食しそれらの探究結果等を風土地理書:『吉備国史』稿と言う形で一部整理、内容的には古典的だが、『建治元年貢之郡尾道畧圖』理解には役立つ))繋がりで「知(ナレッジ=Knowledge)」に関わる問題にスポットを当てる形での話題の提供を心掛けたい。

吉田東伍 著 [他]『大日本読史地図』、昭和10 ●頼又三郎標註図記『校正標註日本外史』13、明治17年 に多数の考証地図

小早川秀雄が『吉備之志多道』の著者・古川古松軒(古川平次兵衛)と「吉備中国上古南方図」(鬼の身/キノミの城主上田家伝来にして、総社市山田村在住の三村某が所持したもの)を巡ってどのような関係を有していたのかという点については大いに検討の余地あり。この図面に関して古松軒は「海は地となれど共、山も形は動くべき理なし、是を以て、見るに齟齬多し。然れ共私意を加えず、旧図のままに図せり。見る人考えらるべし」(396頁)と。この人物の特徴は僻説を排する姿勢を貫徹しているところ。

吉備郡史・下巻(出版者名著出版、出版年月日1971、元版は昭和12年)によると小早川秀雄は足守藩士吉田源五兵衛方行の次男。秀雄の母親は古川平次兵衛の妹と三宅甚庵との間に出来た娘・八重。つまり古松軒から言えばその姪の子供に当たった(3522頁)。吉備郡史の中で編纂者永山氏は小早川秀雄と古川古松軒とを史志編纂家として分類。足守からは蘭学者の緒方洪庵を輩出。古松軒自身は独学の人だったらしい。

メモ

質問
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回答
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岡山県総合文化センター(現岡山県立図書館)には、例えば「備中国賀夜郡服部郷図」や古川古松軒自筆の「備中国加夜郡高松城水攻地理図」など「塚本家蔵図書」の印が押された資料が収蔵されている。塚本吉彦の名は岡山の郷土資料に接する者にとっては忘れがたい人物の一人である。  塚本吉彦は天保年間(天保10~大正5)の生れ。岡山藩学校に学んだ秀才と伝えられ、郷土の歴史や地理に興味を持って多くの資料を収集し、記録、編纂して、後世の郷土研究の先駈けとなった。号を澹如あるいは好古といった(雑誌『温古』77号 昭和5年6月)。  塚本吉彦は吉備史談会の活動とともに知られる。史談会での講演をまとめた『吉備史談会講演録』(明治37年、以下『講演録』と略す)の緒言によると、吉備史談会は、明治32年第三高等学校医学部(のち岡山医学専門学校)の眼科教授として赴任、東田町に住んだ井上通泰が塚本、岡直廬(なおり)、松本胤恭(たねやす)らに、「時々相会して吉備の歴史を研究しては如何」とはかったのが始まりという。同年11月18日付の「山陽新報」は会長に井上通泰、幹事に塚本・松本・岡のほか、羽生芳太郎(のち永明)の4人が決まったと報じている。  第1回の史談会は明治32年8月13日、井上の家で開催された。会は初め月2回、のちには月1回となったが、会員の増加によって薬師院、国清寺、さらに後楽園栄唱亭などが会場にあてられている。史談会の様子はその都度当時の山陽新報の記事になった。  『講演録』には、塚本のほか、岡直廬、有元稔、正宗敦夫、小野節、羽生芳太郎、井上通泰、武田猛夫などの40の講演が収録されるが、このうちには塚本の、姪八重へ与えた古川古松軒の書状を紹介した「古松軒の消息」のほか、「松平忠継君略伝」、「正木大膳亮時堯の伝」などあわせて16の講演が含まれ、その数は塚本が最も多い。  史談会での講演は生の資料を示しながらの報告であったと思われる。『講演録』の末尾に示される出品目録が物語るところであろう。  塚本は大正5年(1916)東京で客死したという。『温古』77号の記事は、塚本所蔵の吉備文献の多くは東京上野図書館に送ってあったため、不幸にも関東大震災で烏有に帰したと伝えている。『講演録』に紹介された資料はもはや現存しないのであろうか。  当館では『講演録』のほか、その編になる『吉備群書解題』や「類纂虎倉物語」(『吉備郡書集成』第三巻所収)ほかを閲覧できる。
質問
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羽生永明の生涯について知りたい
回答
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塚本吉彦と同じく吉備史談会の主要メンバーの一人で、平賀元義を世に紹介した功績で知られる。  明治元年(1868)に長野県で生まれる。本名は芳太郎、号は東洋。明治42年(1909)に永明と改名した。父は長野県飯田藩堀家家臣。  長野県尋常師範学校、国学院本科、選科を卒業した後、はじめ岩手県尋常師範学校に就職。  岡山との縁は、明治29年(1896)に岡山県岡山尋常中学校(岡山朝日高等学校の前身)の教諭として赴任したときに始まる。3年後の明治32年(1899)、郷土の歴史研究グループ吉備史談会が発足、それに幹事として参加し、岡山県の歌人、平賀元義について研究した。  羽生の研究成果は、明治33年(1900)1月21日より山陽新報上で「恋の平賀元義」と題して発表される。羽生の発表の形では8回だったが、それ以降井上通泰らからの意見・疑問が数多く新聞社に寄せられたため、思いがけず紙上で議論が沸騰し、最終的に26回の連載になった。これにより平賀元義という歌人を知った正岡子規は、明治34年に新聞「日本」での連載「墨汁一滴」で13回にわたって元義を紹介、その作品を絶賛している。  その後、羽生は長野で職を得て帰郷するが、明治39年(1906)には再度来岡する。金川中学校、西大寺高等女学校に教師として勤めながら、現在の久米郡柵原町の矢吹家に伝わる元義の数百部に及ぶ著作を調査した。これは後「平賀元義伝」としてまとめられるが、羽生本人の死去(昭和5年)、太平洋戦争などを経て世に出ることがなかったため、元義研究家の間では「幻の稿本」と呼ばれていた。  その原稿は昭和53年(1978)に東京の羽生家で発見され、昭和61年(1986)に山陽新聞社から「平賀元義」として出版された。元義研究の基本図書として高く評価されている。  なお、矢吹家に伝わる元義の原稿は、写真製本したものを当館で見ることができる。 【参考文献】 羽生永明の著作としては前出『平賀元義』のほか『平賀元義研究資料』羽生永明著文化センター製作がある。正岡子規の「墨汁一滴」は『子規全集第11 巻』/講談社1975 に収録されている。
ここで登場した史志研究家平賀元義は『西備名区』編纂者馬屋原重帯(しげよ)の古学的教養同様に今日的にいえば気の毒なほどお話にならない人ではあったが、この人は古川古松軒を軽く批判するなど結構鼻息の荒い地方文化人(郷学の先生)だった。
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