関連事項)マゼランが殺されたフィリピンのマクタン島(セブ島の東隣の小島)、スパイス戦争の舞台:メースの特産地:ルン島(旧英国領、オランダがマンハッタン島と交換)・テルナテ島(マゼランの部下たちが丁子を必死でかき集め、大量買い付けしたマルク諸島の中心。スペイン領・ポルトガル⇒オランダ領、1619年までオランダ商館-長崎商館)、鎖国前に日本人が居留したインドネシアのアンボン(香料諸島の政治的な中心,戦時中は日本軍の捕虜収容所が立地)島など。第二次世界大戦中はアメリカ・オーストラリア軍の侵攻ルート上にあったハルマヘラ島kau湾には日本海軍の航空隊基地が立地。
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2012年9月16日 島の火山Gamalamaが大噴火。記録(テルナテ王国年代記)によると島民たちは、度々、島外への軍事遠征を行ったようだが、その一つの契機となったのがこの火山の大噴火による生活基盤の喪失だった。
テルナテ島
限りなく透明に近いブルーの海
テルナテ島民は種族的にはパプアニューギニア人と同種のメラネシア系だが、中にはポルトガル人、華人やスラウェシ島やジャワ島から来島したマライ系の人たちとの混血も。
インドネシア・北マルク州のternate島はかつての香料諸島の中核島、マゼランが世界一周を試みようとし、フィリピンで戦死した後に、彼らの仲間が辿りつき、ありったけの香料(丁子)を買い込んだのもこの島。ここはその後、しばらくオランダの東インド会社の拠点になったところだ。拠点がバタビアに移動する1619年以前は長崎を出港した南蛮船はテルナテ港にも寄港していたはずだ。このマルク地方には当時、日本人傭兵(水軍くずれ)が沢山いたらしい。1623年にオランダは南マルク地方にあるアンボン島にいた英国商館をかれら日本人傭兵を使って急襲し、商館員らを殺害している。
当時の植民地支配の拠点が図中のFort Oranje。
【補足】
第二次イギリス・オランダ戦争(英蘭戦争)の停戦条約(1667)の中で現在の東インドネシアの小島ルン島・南米のギニア地方の一部(スリナム)を英国はオランダに割譲。その交換条件として英国はオランダからニューアムステルダム(現在のニューヨーク、その中心はマンハッタン島)を入手した。
17世紀段階にNYCの今日の様な繁栄を予想することは無理だったにしろ、英国とオランダの政治経済方針の違いが、このような交換を生み出した訳だが、旧態依然と重商主義に固執しようとしたオランダの先見の明の無さだけ目立つ一件ではある
このルン(Run)島(Banda諸島内)は17世紀を通じで香料(とくにナツメグ・メース)の世界最大の生産島だった。
この時代にはマルク地方で独占的に生産されたクローブだが、アジア地域以外の英仏植民地、たとえばアフリカの英領植民地ザンジバル島などへの移植は進み、オランダによる香料貿易独占体制は崩壊していく。
オランダ東インド会社によるテルナテ島でのクローブ生産の禁止(マルク地方の支配拠点であるアンボン島でのクローブ生産に限定)策は「香料諸島」伝説の実質的な消滅を強く印象つけるものだった。
バンダ海域はマーカッサル・ブギス族系や華人、アラビア系の海洋民、その他もろもろの海洋民が季節風を利用した交易活動をしてきたところ。大航海時代に入り、そこへポルトガル・スペイン達が、少し遅れてオランダ・英仏が進出してくる訳だが、かれらの活動に寄生したり、かれらの活動を傘下に収める形で世界貿易をおこなっていた訳だ。
『竹取物語』中の「ツバメの巣」といった広東料理に使われる食材(主産地はスラウェシ島を中とした南海地域)の話題などを考えると、古代人の食欲は決してローカルな物流の中には収まっていた訳ではないことになる。
テルナテ島の今昔
・・・・・(前略)・・・・・・・・・1871年島北部で火山の噴火と大地震、住民を恐怖に陥れる。1879年ニューギニアを除きテルナテ、ティドレ国において奴隷制撤廃(1890年当時テルナテのオランダ支配地区の一角には奴隷墓地があった)。
19世紀前半はテルナテによるスラウェシ島、ハルマヘラ島方面への、そしてティドレによるニューギニア島への軍事的遠征が相次いでいるが、火山の噴火による生産基盤の崩壊はそれに拍車をかけていた。
1871年現在の人口はテルナテ王の臣下61857人、ティドレ王の臣下30688人、奴隷(1828年-1044人、1833年-838人1854以後はなし)、マカッサル人など2311人、華人378人、キリスト教系の現地人428人、ヨーロッパ人など295人となっている。有名なフランス人探検家(兼軍人、のち文部大臣)ブーゲンビルはテルナテの影響力の強かったブトン島付近での記事の中で奴隷狩り(人身売買)にはオランダの東インド会社自体が深く関与している述べている。拉致された住民らは奴隷としてバタビアや南米のオランダ稙民地スリナムに移送された訳だ。
現在テルナテ島は全島が小さくまとまったKota Ternate→コタテルナテ県をなし、そのうち島の西半分がPulau Ternate→プラウテルナテ郡(Jambula,Kulabaなど16の村、面積110k㎡)、東半分が北テルナテ(Sangaji,Soasioなどの17町、面積24k㎡)と南テルナテ(Maliaro,Fituなどの19町、面積32k㎡)の各郡に分けられている。
北テルナテ(かつてのスルタン領)には地付きの住民が住み、伝統的にテルナテの島民兵の中核を担い、スルタンに対する忠誠心が強い。この地区には1512年に築造されたポルトガル要塞(Benteng Tolluko)、付近のDufa Dufaに船着場(至ハルマヘラ島ジャイロロ)、Mengkasar→ムンカサール地区の北のはずれにスルタンの王宮(Kraton,現在博物館)、島北東部のTarou,Sango地区に飛行場が。
現在テルナテ島の中心市街地を形成する南テルナテは植民地時代のオランダの管轄区に当たり、周辺の島々-ティドレ、マキアン、マカッサル、ゴロンタロからの移住者、華人やキリスト教系の島民が混住し、インドネシアの独立後はジャカルタ政府の出先機関が進出した。北テルナテとの境にオラニエ要塞(1619年以前はオランダの東インド会社の拠点、それ以後はモルッカ総督府)があって、その南側に海岸にそって南北に細長く南テルナテの町場が広がる。オラニエ要塞の北側一角にマカッサル人、南の魚市場付近に華人地区、植民地時代に刑務所・港湾事務所や総督官舎地区があった南部のパラワン・レヴォルシ通り沿いにインドネシア国立銀行や州政府庁舎や夜店がある。一帯が新町(kota baru)に当たる。この南テルナテは文化的な多様性に加えて、より近代的であり、社会的にも開放性が強く、スルタンを頂点とした保守的なイデオロギーには反対する立場をとった。
スハルト政権崩壊後の1999年11月の騒乱では南テルナテのイスラム教系住民らはテルナテのスルタンへの忠誠心の強い同地区のカトリック教住民らを襲撃したが、抗争の直接の引き金となったのはテルナテ、ティドレ両島でばら撒かれた、ムスリムに対する聖なる戦争に立ち上がるようキリスト教徒に呼びかけたビラであった。その結果両島を合わせて1~2万人のキリスト教系、中国系住民がスラウェシ島北部のメナドへの脱出(難民化)を余儀なくされた。この抗争はその後ハルマヘラ島北部の村々へと飛び火して行った。
【参考文献】
Ternate: The Residency and its Sultanate (Bijdragen tot de kennis der Residentie Ternate)
by F.S.A. de Clercq(=南マルク地方最後のオランダ人知事)
マウラナ・イブラヒム†,金 澤 成 保†「東部インドネシア・テルナテ市の都市形成に関する研究―近代に関する歴史的文書・資料の文献研究―」大阪産業大学人間環境論集 巻16、ページ49 - 63、発行年:2017-03
バリ島でのClove(クローブ、丁子)生産
【解説】
丁子、クローブ
ナツメグ・皮部分は「メース」
香料諸島(マルク地方)の今昔
インドネシア・ヨロズ情報サイト→北マルク州(旧日本軍関係の記事多数)
池部良「ハルマヘラ・メモリー(中央公論社 1997年、中公文庫 2001年)」
欲深い日本人たちはハルマヘラ・モロタイ島辺りでも旧日本軍の埋蔵金(300トン)騒動を起こしているようだ。
「大東亜共栄圏」
第二次世界大戦に関するアメリカ軍の太平洋戦線資料(フィリピン・レイテ島への再上陸)
アメリカ軍の進攻方向とマルク地方の位置関係
観光ガイド
2023年2月5日に新規書込み
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2012年9月16日 島の火山Gamalamaが大噴火。記録(テルナテ王国年代記)によると島民たちは、度々、島外への軍事遠征を行ったようだが、その一つの契機となったのがこの火山の大噴火による生活基盤の喪失だった。
テルナテ島
限りなく透明に近いブルーの海
テルナテ島民は種族的にはパプアニューギニア人と同種のメラネシア系だが、中にはポルトガル人、華人やスラウェシ島やジャワ島から来島したマライ系の人たちとの混血も。
インドネシア・北マルク州のternate島はかつての香料諸島の中核島、マゼランが世界一周を試みようとし、フィリピンで戦死した後に、彼らの仲間が辿りつき、ありったけの香料(丁子)を買い込んだのもこの島。ここはその後、しばらくオランダの東インド会社の拠点になったところだ。拠点がバタビアに移動する1619年以前は長崎を出港した南蛮船はテルナテ港にも寄港していたはずだ。このマルク地方には当時、日本人傭兵(水軍くずれ)が沢山いたらしい。1623年にオランダは南マルク地方にあるアンボン島にいた英国商館をかれら日本人傭兵を使って急襲し、商館員らを殺害している。
当時の植民地支配の拠点が図中のFort Oranje。
【補足】
第二次イギリス・オランダ戦争(英蘭戦争)の停戦条約(1667)の中で現在の東インドネシアの小島ルン島・南米のギニア地方の一部(スリナム)を英国はオランダに割譲。その交換条件として英国はオランダからニューアムステルダム(現在のニューヨーク、その中心はマンハッタン島)を入手した。
17世紀段階にNYCの今日の様な繁栄を予想することは無理だったにしろ、英国とオランダの政治経済方針の違いが、このような交換を生み出した訳だが、旧態依然と重商主義に固執しようとしたオランダの先見の明の無さだけ目立つ一件ではある
このルン(Run)島(Banda諸島内)は17世紀を通じで香料(とくにナツメグ・メース)の世界最大の生産島だった。
この時代にはマルク地方で独占的に生産されたクローブだが、アジア地域以外の英仏植民地、たとえばアフリカの英領植民地ザンジバル島などへの移植は進み、オランダによる香料貿易独占体制は崩壊していく。
オランダ東インド会社によるテルナテ島でのクローブ生産の禁止(マルク地方の支配拠点であるアンボン島でのクローブ生産に限定)策は「香料諸島」伝説の実質的な消滅を強く印象つけるものだった。
バンダ海域はマーカッサル・ブギス族系や華人、アラビア系の海洋民、その他もろもろの海洋民が季節風を利用した交易活動をしてきたところ。大航海時代に入り、そこへポルトガル・スペイン達が、少し遅れてオランダ・英仏が進出してくる訳だが、かれらの活動に寄生したり、かれらの活動を傘下に収める形で世界貿易をおこなっていた訳だ。
『竹取物語』中の「ツバメの巣」といった広東料理に使われる食材(主産地はスラウェシ島を中とした南海地域)の話題などを考えると、古代人の食欲は決してローカルな物流の中には収まっていた訳ではないことになる。
テルナテ島の今昔
・・・・・(前略)・・・・・・・・・1871年島北部で火山の噴火と大地震、住民を恐怖に陥れる。1879年ニューギニアを除きテルナテ、ティドレ国において奴隷制撤廃(1890年当時テルナテのオランダ支配地区の一角には奴隷墓地があった)。
19世紀前半はテルナテによるスラウェシ島、ハルマヘラ島方面への、そしてティドレによるニューギニア島への軍事的遠征が相次いでいるが、火山の噴火による生産基盤の崩壊はそれに拍車をかけていた。
1871年現在の人口はテルナテ王の臣下61857人、ティドレ王の臣下30688人、奴隷(1828年-1044人、1833年-838人1854以後はなし)、マカッサル人など2311人、華人378人、キリスト教系の現地人428人、ヨーロッパ人など295人となっている。有名なフランス人探検家(兼軍人、のち文部大臣)ブーゲンビルはテルナテの影響力の強かったブトン島付近での記事の中で奴隷狩り(人身売買)にはオランダの東インド会社自体が深く関与している述べている。拉致された住民らは奴隷としてバタビアや南米のオランダ稙民地スリナムに移送された訳だ。
現在テルナテ島は全島が小さくまとまったKota Ternate→コタテルナテ県をなし、そのうち島の西半分がPulau Ternate→プラウテルナテ郡(Jambula,Kulabaなど16の村、面積110k㎡)、東半分が北テルナテ(Sangaji,Soasioなどの17町、面積24k㎡)と南テルナテ(Maliaro,Fituなどの19町、面積32k㎡)の各郡に分けられている。
北テルナテ(かつてのスルタン領)には地付きの住民が住み、伝統的にテルナテの島民兵の中核を担い、スルタンに対する忠誠心が強い。この地区には1512年に築造されたポルトガル要塞(Benteng Tolluko)、付近のDufa Dufaに船着場(至ハルマヘラ島ジャイロロ)、Mengkasar→ムンカサール地区の北のはずれにスルタンの王宮(Kraton,現在博物館)、島北東部のTarou,Sango地区に飛行場が。
現在テルナテ島の中心市街地を形成する南テルナテは植民地時代のオランダの管轄区に当たり、周辺の島々-ティドレ、マキアン、マカッサル、ゴロンタロからの移住者、華人やキリスト教系の島民が混住し、インドネシアの独立後はジャカルタ政府の出先機関が進出した。北テルナテとの境にオラニエ要塞(1619年以前はオランダの東インド会社の拠点、それ以後はモルッカ総督府)があって、その南側に海岸にそって南北に細長く南テルナテの町場が広がる。オラニエ要塞の北側一角にマカッサル人、南の魚市場付近に華人地区、植民地時代に刑務所・港湾事務所や総督官舎地区があった南部のパラワン・レヴォルシ通り沿いにインドネシア国立銀行や州政府庁舎や夜店がある。一帯が新町(kota baru)に当たる。この南テルナテは文化的な多様性に加えて、より近代的であり、社会的にも開放性が強く、スルタンを頂点とした保守的なイデオロギーには反対する立場をとった。
スハルト政権崩壊後の1999年11月の騒乱では南テルナテのイスラム教系住民らはテルナテのスルタンへの忠誠心の強い同地区のカトリック教住民らを襲撃したが、抗争の直接の引き金となったのはテルナテ、ティドレ両島でばら撒かれた、ムスリムに対する聖なる戦争に立ち上がるようキリスト教徒に呼びかけたビラであった。その結果両島を合わせて1~2万人のキリスト教系、中国系住民がスラウェシ島北部のメナドへの脱出(難民化)を余儀なくされた。この抗争はその後ハルマヘラ島北部の村々へと飛び火して行った。
【参考文献】
Ternate: The Residency and its Sultanate (Bijdragen tot de kennis der Residentie Ternate)
by F.S.A. de Clercq(=南マルク地方最後のオランダ人知事)
マウラナ・イブラヒム†,金 澤 成 保†「東部インドネシア・テルナテ市の都市形成に関する研究―近代に関する歴史的文書・資料の文献研究―」大阪産業大学人間環境論集 巻16、ページ49 - 63、発行年:2017-03
バリ島でのClove(クローブ、丁子)生産
【解説】
丁子、クローブ
ナツメグ・皮部分は「メース」
香料諸島(マルク地方)の今昔
インドネシア・ヨロズ情報サイト→北マルク州(旧日本軍関係の記事多数)
池部良「ハルマヘラ・メモリー(中央公論社 1997年、中公文庫 2001年)」
欲深い日本人たちはハルマヘラ・モロタイ島辺りでも旧日本軍の埋蔵金(300トン)騒動を起こしているようだ。
「大東亜共栄圏」
第二次世界大戦に関するアメリカ軍の太平洋戦線資料(フィリピン・レイテ島への再上陸)
アメリカ軍の進攻方向とマルク地方の位置関係
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