- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

今更、魚澄惣五郎『瀬戸内海地域の社会史的研究』を

2021年01月11日 | 断想および雑談

魚澄惣五郎『瀬戸内海地域の社会史的研究』柳原書店、1952

研究者をまとめ上げる定評ある魚澄の手腕。1950-1960年段階の地域史研究の一つの到達点を示す本書を紐解くことにした。
「研究課題としての瀬戸内海地域」。
こんなことをいまどき口にすると誰かから苦笑されそうだが、いまなら『方法としての中国』とか『思想課題としてのアジア―基軸・連鎖・投企』風にリニューアルする必要がある命題設定かもしれない。
類書のサンプル


図中(A):下組(下条)、(B)戸崎・・・A-Bが浦崎半島

松永湾を塞ぐ形で東西に拡がる浦崎半島(尾道市浦崎町、旧沼隈郡浦崎村)を歩いて気づくことはわたしの認識の枠組に欠落した海と結びついたというか、要するに海洋性の何かがここには息づいているという点だった。


松永湾浦崎下組串ノ浜より戸崎方面を望む。海浜の地割はアサリ育成場(最近はアサリの生育が悪く不作)

松永湾岸における地域史研究の課題を「渚の営み」の解明だと見ていたのが地方史研究者村上正名だったが、戦後世代の我々というのは、戦後経済の発展の中で連絡船が連絡橋に置き換わり、海辺の芦原が臨海工業地帯へと生まれ変わり、生活世界自体が徐々に遠自然的もの(ライフスタイル的には身近な海や山に背を向けるあり方)になっていった。私としてはそういう反省点を踏まえて過去の再構成作業を進めようと思っている次第である。
わたしがこれまで取り上げてきた海関連事項
沼隈郡神村和田石井家に関連した妖火伝承「おやや伝説」の中には神村石井一族が海運と結びついたことを示唆するプロットがある(しかも、姻戚関係を通じてこの石井一族は備後国の島嶼部臨海部と深い結びつきを持つ)。

魚澄惣五郎『瀬戸内海地域の社会史的研究』については取り合えず「研究課題としての瀬戸内海地域」だけは読んでおこう(既読)。
方向性としては戦前からの(瀬戸内式気候・多島海、四国と山陽地方、都と西国及び大陸とを結ぶ「海の回廊」的位置といった地理的属性を有する)風土論とか文化史/文化圏的学説を加味しつつ、大塚久雄・高橋幸八郎・松田智雄編, 『西洋経済史講座-封建制から資本主義への移行-』, 第I〜IV巻, 岩波書店刊,1960からの熱風を背中に感じながら史学研究(気分的には封建的土地所有、共同体、前期資本主義、資本主義の生産様式とその社会的構成の発達などの確認作業)を進める辺りだったろうか。
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松永史談会 令和3年1月例会中止のご連絡

2021年01月10日 | 松永史談会関係 告知板
昨年末より新型ロコナウィルス感染症が急拡大をし、広島県東部福山市でも新年を迎え連日10人程度の感染者が確認される事態となっております。つきましては本史談会では厳冬期に当たる1月2月の例会開催は中止とし、3月以後の開催に向けて鋭意準備を進めて参ります。

中止となった1月例会(令和3年1月22日、第4金曜日  松永公民館和室、午前9.30-12時)
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わたしの手元にある濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』 明治32刊

2021年01月06日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』 明治32刊を岡山市内の古書店から正誤表付き元版と言うことで入手した。

革装で目立つ傷みなどはないが品良く古びていた。
本文は普通に綺麗であったが、裏表紙(見返し)の隅に、福山市内、木綿橋南詰にあった千華堂書店(古書店)のラベルがついていた。いろいろ転蔵を繰り返しながら、遂にわたしのところに辿り着いたといった感じの書籍だった事が判る。とりあえず手持ちの戦前戦後の住宅地図を含む福山市街地図を調べてみたが1938年まで存在した木綿橋南詰(神島地区)にその古書店を見つける事は出来なかった。
奥付ページはこんな感じでその直前にはこんな押印があった。曰く「調査完了・福山市 ふくやま書林」。

探してみたところこんな調子の印影が大小6ヵ所見つかった。すべて紹介しておこう。
表紙裏(見返し)には正誤表と大きめの蔵書印:「研智備徳/図書/小早河家」・・・・これを見て旧蔵者が誰であったのかわたしには直ぐに見当がついた。


後述するとおり「土肥日露之進(古物/古書商で郷土史家だった土肥日露之進[1905-1968])」の名前も記載されており、本書は正しくこの人の旧蔵本だったのだ。「ふくやま書林」というのがご本人の経営した書店名だったのだろう(要確認)。ハワイ大学梶山文庫に雑誌「豊艶」第三号「豊艶文庫主人」(1947年)とあるのがこの御仁である。

おやおやこちらには「土肥小早河家弐拾八・世孫土肥日露之進平篤」と力んだ名前。この御仁は「小早河家」を名乗ったり、こんな力んだ名前を使ったり、1963年に児島書店から出した南郷土史研究=末顕真実= : 第2輯には確か日本刀を脇に正座した肖像写真が掲載されていたような・・・、すこぶるユニークな人だったようだ。参考までに『松永市本郷町誌』の近世史料部分は殆どこの人の研究成果に依拠していた。『松永市本郷町誌』(例えば205-218頁)には「小早川家文書」からの引用が散見されるが、これは土肥日露之進所蔵文書のこと。。 


『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』の編纂・校正作業に関わった人物(ジャンボな土肥の印影付き、曰く「弐拾八代・・・」。資料集めの責任者は濱野章吉一人、それに濱野の教え子世代に当たる田辺新七郎(建築家田辺淳吉の親父)・山岡謙介岡田吉顕の兄貴)・関藤成緒(関藤藤陰の養子、京都帝大内藤湖南の秋田師範時代の恩師)が資料提供を含め全面協力。
引用書目(旧幕府要人からの聞取り資料を含む)





全体の構成は阿部伊勢守の年譜(7頁)・事蹟(872頁)・行略(15頁)・弁疏(弁明、14頁)・付録(157頁)。要するに伝記ではなく阿部伊勢守関係編年史料集成だ。
誤植だらけの本なので正誤表が不可欠だ。
この書籍に対する私自身の関心は優柔不断な”瓢箪鯰”と陰口をたたかれながらも幕閣として安政の改革を中心的に断行した、福山藩第七代藩主阿部正弘にではなく、もっぱら編者濱野章吉の方。とりあえず濱野が執筆したと思われる行略(15頁)・弁疏(弁明、14頁)は通読しては見たが・・・・(先ほど「旧福山藩学生会雑誌」第二十二号、明治33を見ていたら「阿部伊勢守行略」は次号で取り上げるという一文を見つけた)。濱野章吉の名前を挙げたので、ここではついでに阿部の指示で蝦夷地探索を行った関藤籐陰(『観国録(1856-57年)・・・阿部正弘の死亡によりお蔵入りした蝦夷地調査報告書(松永史談会2019年5/6月例会にて『観国録』の博物誌的水準に言及)』)・寺地強平(松永史談会2019‐4例会にて一部言及)らについてもこれまで通り注視するつもりだとしておこう。

それにしてもわたしが入手したものはそこら中に土肥日露之進の印影による”汚損”があった。
ネット上に転がっていた土肥情報(みはら玉手箱17号 平成28年9月)⇒土肥日露之進の寄進物@小早川家菩提寺米山寺

『小場家文書 上巻』123-124頁に土肥日露之進「検地説は事実無根なり」からの引用あり(土肥さんは古文書はある程度読める郷土史家だったが、研究者としては素人)。

メモ)阿部伊勢守正弘(1819-1857)福山藩主、幕閣。ペリー来航当時の幕府老中首座=”徳川幕府の首相” 。阿部正弘の死後幕府の実権を握る大老井伊直弼とは対立。阿部は江戸城西の丸の再建の功績で1万石の加増となり、それを元に困窮する領民救済ではなく将来を見据えた領民(士庶に開かれた)教育機関「誠之館」を創設している。

福山・誠之館高校蔵

本書の中の阿部伊勢守についてだが、私的には「藩主信仰」という切り口を絡めた検討を行うことになろう。
阿部正弘事蹟に関しては渡辺修二郎本(人物評伝・史伝)が最良。濱野編集本(編年史料物、誤植が200か所近くあり、正誤表は不可欠)は副次的価値しかない。やはり、渡辺と浜野との間には能力差がある。
最近刊行された後藤敦史『阿部正弘-挙国体制で黒船来航に立ち向かった老中-』、戎光祥選書ソレイユ011、2021年刊、228頁は等身大の阿部正弘像の提示(私信の中で吐露した文面から阿部の人柄批判とか異国船監視のために行った農繁期の農民徴用などの苛政等指摘)ということをセールスポイントした貴重な書籍だが、渡辺修二郎の阿部正弘研究を越えるものではない。
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