- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

な、なんと・・・・

2014年08月26日 | 断想および雑談

同じ話題



新仏教徒同志会(東洋大学)編『来世之有無』、井冽堂、明治38年刊の印刷責任者は国光社時代の河本亀之助だった。

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雑誌「露西亜文学」明治44年1月号の雑誌広告

2014年08月25日 | 教養(Culture)


同人の集合写真。興味のある方は人物を特定してみてほしい。
わたし? まったく判らないてか、あまり興味のない連中だ




まだ東京外国語学校ロシア語本科の学生だった米川正夫中村白葉らが出した雑誌「露西亜文学」明治44年正月号。発刊は明治43年10月(1年1号)。


本誌に広告を寄せた雑誌「芸文」と「スバル」。
京都帝国大学内に編集拠点(=京都文学会)を置いた雑誌「芸文」には哲学者西田幾多郎、心理学者松本亦太郎、言語学者の新村出、経済学者高田保馬、考古学の浜田青陵そしてもっとも記事数が多い投稿魔の上田敏ら。変わったところでは松本亦太郎の教え子:京都帝大学生三浦恒助「透視の実験的研究」を掲載。松本は元良勇次郎の死後は東京帝大の教授に転出するが、元良の下で当時東京帝大の助教授だったのは超常現象研究にご執心の福来友吉だった[助教授であった福来は学者としての資質を問題視され大正4年東京帝大を休職(事実上の分限免職)させられている]。当時、大正生命主義の堕落した局面を福来・三浦は悲しいまでに体現していた訳だ。
雑誌「スバル」には森鴎外・与謝野晶子・高村光太郎・吉井勇・和辻哲郎・谷ヶ崎潤一郎(谷崎潤一郎)・木下杢太郎ら。ちなみに表紙画は藤島武二。和辻は当時20歳、第一高等学校を卒業した頃。


雑誌「白樺」2巻一号の宣伝:柳宗悦・木下利玄・武者小路・志賀直哉ら
記者7名「自由劇場試演に就いて(座談)」で取り上げられた話題は文芸雑誌「新思潮」明治44年元旦号の特集「自由劇場号」と同じ。彼らは当時一つの読書空間を共有していたのだろ。

雑誌「白樺」、洛陽堂刊


雑誌「劇と詩」第二巻1号と文芸雑誌「新思潮」(第一次)。
いずれも創刊まもないよちよち歩きのヒヨコ状態の雑誌たちだが・・・・
前者には坪内逍遥・小川未明ら、後者:自由劇場号には谷崎潤一郎・和辻哲郎・小山内薫・小泉鐡・木村荘太ら。


ロシア語学科の学生が出して間がない雑誌に、広告を出させた米川らのエネルギーと各雑誌発行者のフレンドリーな姿勢(=連帯精神)/対応にも感心させられるが、なにより歴史に名を残した人々が当時としては大変前衛的であったこれら雑誌の中にキラ星のごとく登場しているあたりが凄い

天晴会講演会の講師の中に高島平三郎、小笠原長生。長生の6女:小雪の夫は牧師から無政府主義者そして最後には天皇崇拝者へと転生を重ねた詩人で評論家の加藤一夫。刑務所から出てきて生活に困窮していた時代、加藤は洛陽堂からたくさんの著書・翻訳書を刊行。高島平三郎は洛陽堂の最高顧問。

日蓮讃仰天晴会編『天晴会講演録・第一輯』、明治43より

武者小路の処女作『おめでたき人』が明治44年に洛陽堂から出版されたのは高島平三郎の尽力によるが、当時の文学界の新しい潮流に対する高島平三郎の反応はおよそこのようなものだった。

高島「日蓮上人の文学」(日蓮讃仰天晴会編『天晴会講演録・第一輯』)463-477頁。
文学青年どもよ、チト文体が難解かもしれないが日蓮の遺文録などは昨今の新文学よりよほど為になる。よい文学作品というのは文学的な美を備え、人に何かを教え、人を動かす力があるものだが、そういう条件をすべて備えた日蓮さんの遺文録をいまどきの文学青年たちには読んでほしいものだ。高山樗牛の作品を通じて日蓮さんの著作物に触れるのもよいが、日蓮さんの文章が読めるだけの教養も同時に身に着けて欲しい。そういった講演内容だったようだ。講演のテーマが「日蓮上人の哲学(倫理学)」なら凡庸だが、「日蓮上人の文学」という風にちょっと外したところが高島平三郎の面白さ(or センス)かな~

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内務省地方局『感化救済事業講演集・上下』、1909

2014年08月21日 | 断想および雑談
社会福祉は大きく、慈善事業、感化救済事業、社会事業、社会福祉事業などの段階を経て発展してきたが、感化救済事業期の特徴は、貧困や失業などの社会福祉問題を社会的問題と捉えずに、個人の生活態度や性格的な問題と捉えるところにある。したがって、その対応には、道徳や教育的な視点が導入されることが多い。感化とは、ものの考え方や生き方などに影響を与えて、自然にそれを変化させることだったようだ。

高島平三郎
西川光二郎が取り組んだのは社会改革(=革命)を否定し、ここでいう「感化」(高島は「心的革命」)事業の推進だった。
洛陽堂は明治44年9月に良民社編『英雄物語-良民講話-』を出版、その後良民社を立ち上げ雑誌「良民」を山本瀧之助に委ねている。『英雄物語』の序文は山本や当時生活に困っていた山口孤剣(田中英夫は山口執筆だと)・西川光次郎ではなく、良民社の名義での文章であり、やや稚拙な用語法と朴訥な文体なので『かまくら及江の島 』の執筆者でもある河本亀之助自身の執筆だろ。
出獄後の心変わりを西川は『心懐語』という自著の中では、明言は避けているが、多分体制側の人間から懐柔されて堺利彦・荒畑寒村らから袂を別ったのだと思う。

幕末・明治の人の感覚では「未曾及修身、譬猶敗絮質、炫成金色新」(大沼枕山の漢詩「飲酒」・・・『江戸詩人選集・10巻、岩波、1990、223-224頁』)、中身はボロボロの綿入れ状態だが、それを飾り立て金ぴかにみせるような新人類が目立つ。問題は革命ではなく、そういう新人類の意識改革だ。高島の主張もそういう思潮の延長線上に位置づけられようか。

池本によると感化救済事業の主旨は、天皇の慈恵を地域社会での共同のあり方が依拠すべき模範としつつ、国民が共同で社会防衛に努め、国家利益に叶うように自営の道を講ずることとなる。感化救済事業を提唱することによって、救済事業が従来の「一部の救恤問題」という理解から「自営の方法」すなわち防貧へと、その範囲が拡大されて把握されるようになったといえよう。それは、恩賜としての窮民救済を受ける民であることから、地域社会の構成員として、恩賜を受けず、国家に負担をかけない「良民」すなわち一般勤労国民となることを積極的に奨励していく方向を目指すものといえる。この自営の道を講ずることが、地方の隣保相扶の堅持・強化の要請となり、さらには、地方の再編という課題に結びつく」ようだ。





これらの講演集は国会図書館のデジタルアーカイブの中で公開されている→こちら


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河本哲夫:洛陽堂編集部

2014年08月21日 | 断想および雑談
高島平三郎監修 河本亀之助編『国民教養知識の泉』、洛陽堂、大正8

洛陽堂編集部に高島の弟子:関寛之、河本亀之助の弟:哲夫らがいたようだ。


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胎児嬰児の教養

2014年08月18日 | 断想および雑談
タイトル児童研究講習録. 第1編

出版者児童保護研究会

出版年月日大正11

児童研究講習録 第1編

高島平三郎講 ; 兒童保護研究會編




[目次]
目次
第一編 總論
第一章 人生に於ける兒童の意義 / 1
第二章 兒童發育の原理 / 10
第三章 兒童と大人 / 29
第二編 胎內敎育
第一章 胎兒の身體發育 / 41
第二章 胎兒の精神發育 / 48
第三章 遺傳の力 / 52
第四章 胎敎
第三編 嬰兒期の敎養
第一章 嬰兒の保護衛生
第二章 嬰兒の身體の發育
第三章 嬰兒の精神
第四章 嬰兒の疾病 / 220
第五章 環境と保健


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Brigitte Poschner-Klebel というメゾソプラノ歌手の出演音楽CDめっけ!

2014年08月17日 | 断想および雑談
シューマンが10年の歳月をかけて完成させた大作「ファウストからの情景」は、その内容の深さに比して録音が少ないですが、このアバド&ベルリン・フィルは極め付きともいうべき名演奏です。主役のブリン・ターフェルと筆頭に、端役まで文字通り超一流の歌手を贅沢にそろえ、作品に内包する魅力をあますところなく描き出しています。おなじみスウェーデン放送合唱団、エリック・エリクソン合唱団、テルツ少年合唱団も澄んだハーモニーと優れたディクションで演奏に貢献しています。
ソニー・ミュージック



曲目】
シューマン: ゲーテの"ファウスト"からの情景
【演奏】
クラウディオ・アバド(指揮)
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
テルツ少年合唱団
スウェーデン放送合唱団
エリック・エリクソン室内合唱団
カリタ・マッティラ(Sp)
バーバラ・ボニー(Sp)
イリス・フェルミリオン(A)
スーザン・グラハム(Ms)
ハンス=ペーター・ブロホヴィッツ(T)
ブリン・ターフェル(Br)
ヤン=ヘンドリク・ローテリング(Bs)、
【録音】
1994年 ベルリン、フィルハーモニー (デジタル:ライヴ)
ここではその他扱いの彼女だ
メイン
指揮:Claudio Abbado
アンサンブル:Berlin Philharmonic Orchestra
演奏団体:Swedish Radio Choir


その他
演奏者:Hans-Peter Blochwitz 、 Barbara Bonney 、 Harry Peeters 、 Bryn Terfel 、 Iris Vermillion 、 Susan Graham 、 Jan-Hendrik Rootering 、 Endrik Wottrich 、 Karita Mattila 、 Brigitte Poschner-Klebel 作曲:Robert Schumann
アンサンブル:Tolz Boys Choir 、 Eric Ericson Chamber Choir

この歌手は1985-91年の一時期、ウィーン国立劇場と専属契約していた。1989年のアバドらとの来日公演で、メンデル交響曲第二番「讃歌」の、ソプラノのパートを歌っていたのが、いまだに耳の奥底に思い出され懐かしい。
Moussorgski - La Khovantchina

略歴サイト
1961年生まれ。ウィーンの音楽大学を出て、現在は声質が変化しコンサート、オラトリオを手がけているらしい。2004年には国際ヨハネスブラームスコンクールで審査員。現在の消息
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大教育者高島平三郎に見る「慟哭」

2014年08月12日 | 教養(Culture)
『高島先生教育報国60年』に高島平三郎の吉野かどこかに行った時のエピソードを教え子が書いていた。
彼は(後醍醐)天皇陵(吉野の如意輪寺の御堂の林の奥に円丘を高くして葬られ、北面の陵)の前で大地にひれ伏して慟哭したと・・・・・。その時は変わった人だな~と思いながら、何となく韓国の哀号(人の死を悲しんで大声で泣き叫ぶこと。 また、その泣き声)風を連想したものだ。高島に見られるこの辺りの尊王精神のあり方は敬慕していた頼山陽ゆかりのものだろ。

先ほど高島『婦人と家庭』、大正元年を読んでいて、同様のエピソードを高島自身が告白していた。






付録の「余がより受けたる教訓」


「母の埋骨された塚にすがりつきたくなる」、母親を荼毘にふすとき、鉄の扉を開いて母の棺がその場に入れる時には「気絶せんばかりに、泣き悲しみ、その後も泣いて泣きぬいて・・・・」

「人々の諌めるに任せて泣きをやめて入浴せしに、忽然一種の霊感に打たれ、一大勇猛心の奮起するを覚えた」と
この辺りの説明は超常現象(心霊)研究で知られる東京帝大心理学科助教授の福来の影響があったのか、なかったのか。
大教育者高島が追究してきた科学を越えた、何んとも驚きの発言だ。
感情を押し殺すのは腹膨くるる技というか、・・・・・やはりフラストレーションがたまるばかりで体にも良くないということなのだろ。


メモ:高島は「武士道」精神を大切にした人だが、その中には母親からの教えが多々あった。


内務省地方局『感化救済事業講演会』下、明治42年、高島「児童研究」の文末部分

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木村俊臣『哲学より見たる感覚時間空間』、大正13年

2014年08月07日 | 教養(Culture)
序文を書いた永井潜(1876-1957)は長谷川櫻南経営の浚明館で神童と呼ばれた人物で、後年(大正4年)東京帝大医学部生理学教室教授になった。高島平三郎との出会いもこの漢学塾で高島の勧めで、漢学塾を止め、広島県師範学校付属小学校へ。永井は高島を恩人として終生慕い、高島の長男文雄は東京高等師範学校付属中学時代には永井家に下宿させてもらっていた。当時永井家には潜の弟河相達夫(戦後外務次官)が居て、高島文雄(国際弁護士)は永井の長女ともども兄弟のように育てられたようだ。



本書は若くして亡くなった哲学の学徒木村俊臣の遺著として出版されたもの。大正13年、高島平三郎がかつて編集長を務めた右文館から出版の予定だったが、関東大震災で中止に。急きょ文化生活研究会より出版された。
科学的思考のできる人物の哲学論といえば・・・・・、当時日本では永井の右に出る人はいなかっただろ。

むかし空間論に関していろいろ文献を漁っていたが、図書館にあるといえば、レトリック全開の瞑想集ともいうべき京都学派の哲学書や中味のない建築家のものくらいで日本語文献にはまともに使えるものがなく往生したものだ。
木村はフッサールとかハイディッガーといった現象学寄りの哲学を志向していたのだろうか、後日、暇を見つけて精読してみたい。

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