- 松永史談会 -

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遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実

2019年08月02日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
遺跡/遺物を通して見た幕末期に活躍した地方文化人を巡る虚と実
August 18 [Sat], 2012, 15:29
京都大に山路機谷の長男球太郎が寄贈した機谷の著書『白雪楼読史記考文』、『白雪楼史記読本』などがあることを知った。
山路機谷とは・・・・・・。池田春美編『山路機谷先生伝』、1933を通じて少々紹介しておこう。


池田春美 編「山路機谷先生伝、 森田節斎と平川鴨里」

[目次]
標題
目次
第一編 山路家總說
第一節 山路家略歷 / 1
第二節 山路系譜 / 6
第二編 山路機谷先生事蹟
第一節 系出 / 16
第二節 漢學者としての山路機谷 / 16
第三節 勤王家としての山路機谷 / 21
第四節 山路機谷と神社佛閣 / 34
第五節 機谷の公共慈善事業 / 60
第六節 山路機谷の殖産 / 70
第七節 機谷の儉約 / 72
第八節 鐵砲所持不仕證文 / 73
第九節 百姓騷動と岡本 / 74
第十節 豐臣秀吉公遺愛の石燈籠 / 76
第十一節 山路機谷の終焉 / 77
第十二節 機谷の贈位運動顚末 / 83
第三編 森田節齋先生事蹟
第一節 森田節齋の修學 / 85
第二節 森田節齋と江渚五郞 / 85
第三節 森田節齋と吉田松陰 / 86
第四節 森田節齋と岡村達 / 87
第五節 森田節齋と杜預藏 / 87
第六節 賴士剛を送る辭 / 89
第七節 森田節齋と魯三郞 / 90
第八節 吉田松陰と江渚五郞、宮部鼎藏 / 91
第九節 森田節齋と藤川冬齋 / 93
第十節 吉田松陰の入門 / 94
第十一節 節齋姫路侯に仕官す / 95
第十二節 節齋の勤王 / 95
第十三節 節齋の文章三戰 / 96
第十四節 節齋無絃女史を娶る / 96
第十五節 節齋山路機谷に寄寓す / 97
第十六節 節齋の晩年 / 99
第四編 平川鴨里先生事蹟
第一節 平川家略歷 / 100
第二節 鴨里の修學 / 100
第三節 鴨里十四歳にして詩を作る / 101
第四節 鴨里高橋氏を娶る / 101
第五節 鴨里寺地舟里に師事す / 101
第六節 藤江村に開業 / 103
第七節 明治戊辰の役 / 104
第八節 榮進 / 104
第九節 笠岡にて徒に授く / 105
第十節 鴨里佐々木東洋に師事す / 106
第十一節 福山に開業す / 106
第十二節 二兒を送るの辭 / 106
第十三節 翁の晩年 / 107
第十四節 翁山陽に私淑す / 108
第十五節 翁と編者 / 108
第十六節 二竹樓記 / 109
第十七節 鴨石 / 112
第十八節 翁の人となり / 112
第十九節 遺著 / 113
第二十節 自製碑銘 / 114
第二十一節 結尾 / 116
第五編 其の他の事蹟
第一節 山路之保 / 116
第二節 山路嘉兵衛 / 117
第三節 山路亀太郞同妻キヌ / 118
第四節 山路重信 / 119
第五節 山路重敏 / 120
第六節 岡本家監松兵衛 / 121
第七節 山路右衛門七 / 122
第八節 山路康次郞 / 124
第九節 其の他 / 125 (以上、「国立国会図書館のデジタル化資料」より)


かれは幕末期に備後国で活躍した豪農兼社会事業家、やや浪費的なB級文化人(=dilettante)だった。

岡本・山路家は明治24年に没落するが、機谷の友人平川鴨里が昭和3年に、そして昭和6年にはこの池田がこの山路の贈位運動を展開するが、いずれも失敗に終わっている。
断っておくが、ここで参照する池田春美著『山路機谷先生伝』(元版は昭和8年、その後昭和60年に内外印刷・出版部より復刻版)はそういう著者の思いの込められた貴重な自費出版書だ。山路機谷のイメージは『沼隈郡誌』と本書に基づいたものが流布しているが、それはあくまでも彼の一面を捉えたもの。

今は立派な石垣を残すだけとなっている岡本山路家邸跡


彼一族の墓地の現在


荒廃した山路家墓地だが、手前左端の空風輪のない五輪塔が山路氏の祖:山路孫三郎の墓、もとは鞆・南光山にあったが、後代に藤江村の念仏院に改葬したものらしい。墓石の風化度等勘案すると後代のもののようだ。
藤江村の山路家は貞享3年嘉兵衛之勝の時代に、藩主水野勝種より松永湾の独占的な漁業権(藩側からみると漁業を巡る一元的な入漁料=営業税の委託徴収権)を得たらしい。
ここは山路一族の菩提寺・念仏院の墓地だが、墓地の中央に機谷の巨大な墓石(慶応2年に妻が没したときに造立した生前墓)があって、山路氏の祖の墓はその左奥に収まっている。墓石の規模・配列などからも、機谷のやや自己中心(=独善)的な性格というか有頂天と言うかそういう気分が読み取れよう。浜本鶴賓は「家富むも自ら奉ずる倹素、孜孜として自ら鋤犁を把って耕す」(序9頁)と述べているが、藤江村民の大半は間脇(430戸)・名子(13戸)・水呑百姓(104戸)で本百姓は明治4年のデータでは585戸中わずか30戸だったし、庄屋・山路家の墓石の大きさはこの地方の庄屋クラスの水準を大きく超えており、機谷の生き様は、周知のこととされる倹約質素のイメージからは程遠い。
特に化政時代:表山路の嘉右兵衛之保ー嘉兵衛之基、之基の弟で吉本山路の忠平重信(剣大明神に玉垣・雁木などを寄付)ー熊太郎重㉀(岡本山路を継ぎ、機谷と号す、歿年53)以後は、過剰なまでの敬神崇祖の念を抑えがたく、藩権力側から与えられた特権に胡坐をかき、村内・村外に民心とは遊離した形での威信財(社寺仏閣を含む)の建造・整備に腐心した。そのため、いまでは念仏院・柳見堂・大神(だいじん)社は倒壊寸前のものを含め相当に荒れている。福山藩内の溜池築造などの公共工事は藩内6郡あるいは関係する一郡の請負で行われたが、岡本山路家の場合はそれを自前で行い、それが地元では美談として語り継がれているが、それは民衆の不満を予防するための一種のガス抜き政策の所産に過ぎないことだっただろ。
これと比較する意味で福山藩の儒官伊藤梅宇(伊藤仁斎の次男)の墓碑(高さが1メートルにも満たない、中央の板碑型石碑)を掲載しておこう。
牛頭天王か牛神か 山路機谷が建造した港を見下ろせる丘陵の一角に打ち置かれていた。地元の人の話では天神さんの一部で、山路家所縁の大神(だいじん)社にこれだけ移転されなかったらしい。


機谷の息子たちは家を再興するためにアメリカの大学に留学し、長男は中退、二男はペンシルバニア工大を卒業し、ボストンにて兄弟で事業(古美術品販売・・廃仏毀釈で叩き売りに出されていた旧寺宝類をアメリカに輸出しそれを現地で販売)を興したが、失敗し、帰国している。山路球太郎の方は日本に活動写真の映写機を輸入し、福澤諭吉等を興味がらせたらしいが、晩年は親類の備前屋を頼り港町尾道に帰っている。そういえば、江木鰐水の息子:外務官僚の江木高遠が外交特権を悪用した美術品密輸に関わったとして大使館の吉田公使から叱責され、ために高遠は1880年6月6日にワシントンの日本公使館で自殺していた(江木高遠は明治の地理学者:志賀 重昻の恩師の一人)。

参考 今は無き山路家ゆかりのモノたち


山路忠平重信は機谷の父親。山路忠平乗時と言う人物が慶応2年「石州戦争」に出兵し、戦死している(森本繁『福山藩幕末維新史』、131頁掲載の「福山藩戦死者の位碑」参照)。この人物は山路一族の系図には出てこないが、おそらく何らかのゆかりの人物だろう。この山路は調べて見る価値はあるかもしれない。当時は士卒身分の藩兵だけが藩領外の戦に参戦していたが、さてさて山路忠平乗時という不運な青年はなにものだったのだろ。

尾道・浄土寺門前の巨大標柱金石文
松永湾の西岸・山波から見た岡本山路氏の拠点

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