- 松永史談会 -

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矢野天哉「高諸神社神明記・3」

2019年05月31日 | repostシリーズ




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西川國臣編『芦田鶴の聲』明治26

2019年05月27日 | 教養(Culture)
西川國臣編『芦田鶴の聲』明治26


February 27 [Fri], 2015, 11:53


西川國臣(蕉月)の母親:玉琴77歳(喜寿)祝いの句集『芦田鶴の聲』を名古屋の古書店で入手した。






備後とある福田桃洲・石井竹風・井出松塘・井出松烟.らは松永在住者、立神多樹麿は西村(尾道市西藤町の神官)、阿部正学は福山藩主阿部家の親族で江戸屋敷を中心に勢いを持た佐幕派が藩主・阿部正方の後継者として推した人物。

「(前略)猶関藤藤陰が喜多村安正と同時に類中風を発した事が言つてある。又塩田良三、矢島玄碩の仕宦を評した一句がある。良三、後の真と云ひ、渋江優善、当時の矢島と云ひ、並に皆枳園の平素甚だ敬重せざる所であつた。それゆゑに枳園は劇を評する語を藉り来つて、「官員様大出来也」と云つたのである。 書中には又阿部正学の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来した棠軒は、其日記 ...(後略) 」(森鴎外『 伊沢蘭軒』)






明治26年と言えばその年の暮れ12月に穀蕃合資會社が松永で創業開始した年に当たるが、我国の文学・文芸史的には正岡子規が「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の

革新運動を開始した年に当たる。西川のこの句集から当時俳句が全国的に流行していたことの一端は伝わってくる。











「広島藩では,侍士でも100石以上と以下とでは格式が大きく異なる。100石以上の侍士は,知行取りといい,知行地(給知)を指定され,年貢を直接知行地から徴収する。100石以下は切米取りといい,藩の米倉から米を支給される。 侍士はさらに細かく,長柄(ながえ)以上(行装に長柄傘の使用を許された者),布衣(ほい)以上(礼式に布衣の着用を許された者),馬持(うまもち)以上(知行高300石以上),御直支配(御側詰以上),御序(おついで)の御前御用(御直支配に準する格式),それ以下(知行高100石以上)に分かれる。20石が侍士の最低である。」西川(●五郎)さんの話では表向き300石でも三原藩での実際の手取りは28石程度だったとか。(Q041 : 広島藩士の階級と俸禄



こういうものは玉琴女史の知人友人が自発的に喜寿記念歌(句)集刊行会を立ち上げ、玉琴ゆかりの人たちに声をかけて作品を提供してもらい、句集をだすという性格のものだと思うが、西川國臣の場合は今回も、その辺が違っていたな~「非売品」?・・・・まあどうでもいっか 松上鶴はコウノトリのこと。当時は今津河原辺りでは普通にコウノトリが飛来していたらしく、我が家の倉庫には最近まで紐に釣るされたコウノトリの脚部があった。今津村の古記録『村史』(天明~寛政期)には付近の剣脇新涯への鶴(葦田鶴:あしたづ)の飛来が(やや珍しい事柄として)記載されている。







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Repost版 『水野記』にいう今津浦の川東

2019年05月06日 | 断想および雑談
『水野記』にいう今津浦の川東
15, 2015 06:05
中世における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったという話は第四紀学的や地形学的な根拠を基にしていわれていることではないが、沖田地区に関して長波と矢捨分に分かれ、集落として矢捨(安毛)は神村八幡の氏子、長波は本郷八幡(剣大明神)の氏子圏内、また農業水路「安毛川」が「大明神」と「宮下」との字堺に当たり、宮下地区の水田には神村住人の所有地もある。
ところで、『水野記』に「今津浦川東は神村の内」という記述がある。
この古記録は扱いの難しい代物だが、削平された字田中の「大明神」社の立地する小丘が今津分で、その丘に建立された大明神は今津への帰属を明示するマーカーだから、当然そこまでは<川西>。<川東>とは河川Aを念頭に置いたものではなく、大明神以東を流れていた川の東のことのようだ。
どうも河川Aの中世後期段階での旧河道の一つを捉え、その川東は神村分だという領域認識を『水野記』は表現していたようだ。
明治26年今津村測量図中の字「宮下」はその付近の宮前などの地名から考えて明らかに神村八幡宮を念頭に置いた地名。字「宮下」は神村にもあり、今津分との境は八幡さんの参道だ。近世の村切りの段階にこのようなことになったのだろ。同様の措置がとられたため、中世の沼隈郡神村内に属した安毛集落は村切りの結果今日では行政的には今津村分だが、祭祀面ではなお神村八幡の氏子。こうしたことを勘案すると川東は現在の農業用水路「安毛川」あたりに中世後期段階の河川Aの流路があり、その東にあたる字「宮下」あたりは『水野記』にいう今津浦の川東だったのかも。 
今回取り上げた『水野記』のこの文節の重要なところは河川Aの河道は、羽原川ー町裏川同様、どうも後代に瀬替えされ、中世後期段階には大明神より東方にあったらしいというという点を史料面で示唆しているところだ。


安毛川はJR松永駅の南端部から松永町の長和島西側の竪入川に接続する水路だが・・・・一度、中世後期における本郷川の旧河道が現在の安毛川に在ったか否か、第四紀学的や地形学的調査をやってみる必要がありそうだ。


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