- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

松永史談会7月例会のご案内

2024年06月29日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会7月例会のご案内

開催日時 7月26日 金曜日 午前10-12時
場所    蔵2階

話題  宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌→国文研の国書データベースへ』について



松永史談会では令和6年度は2月・3月例会において野外調査の鬼ともいうべき備中・古川古松軒、虚実混淆居士だった備後・馬屋原重帯を、5月例会では14世紀紀行文学の名作今川了俊(文武両道だった室町幕府の武将による南朝方勢力拠点九州太宰府への行軍途次記:)「道行きぶり」、6月例会は編集作業のまずさから結局、帯に短し襷に長しに終わった『芸藩通志』の頼杏坪を取り上げてきたので、今回はその続編としての話題の提供となる。
参考文献
『府中市史・史料編Ⅳ地誌編』(宮内庁書陵部蔵版『備後郡村誌』に関する有元正雄による解説・解題、2-6頁)、昭和61及び古文書調査記録第40集『宝永8年差出帳の用語解説・上巻』、福山城博物館友の会、令和5、Ⅶ-ⅩⅡ。
なお、本史料および関連地方史料についてはこれまでにも部分的には何度か言及するところがあったが、今回は菅茶山『福山志料』を視野におきながらの検討となる。これまで参照してきた『水野記』や宮原直倁[ゆき](1702~1776年)『備陽六郡志』、『防長風土注進案』及び『防長地下上申』などについても既往の古地誌研究の成果を踏まえながら、今後あらためて(今日とは異なった形で)、神話(虚)と歴史(実)とが地続きであった時代の社会的論理を考慮しながら、これまで通り、淡々と内容分析を試みる予定。
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文政期の賀茂郡吉川村絵図

2024年06月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
村を流れる古河(ふるこう)川を見ると丸木橋・土橋・飛渡の区別がなされ、住民達の日常生活上の感覚や意識(地域的社会感情)がよく汲取れる素朴な村絵図だ。「田所(中世の村役場)」「国松内正尺(しょうじゃく=領主の手作地)」と言った地名や呼称には1820年当時この地域に残っていた中世村落の面影が感じられる。新開・楮畑は広島藩の専売制度の反映。

割庄屋亮平宅とあるが、亮平とは竹内氏、 のち亮左衛門のこと。

吉川地区全体の地形を立体的に見ることが出来る。↓



現在は東広島市八本松町吉川・・黒瀬川支流の古河(ふるこう)川流域。吉川村は台地上に立地。古河川河岸には河岸段丘が発達。


広島県立文書館は簡単に済ませたが、これからもいろいろ史料の原本調査が続きそうだ。

参考文献(服部英雄氏)

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梅雨入りを前に本日は比治山・多聞院(広島市南区)に賴家墓墓参

2024年06月02日 | 断想および雑談
慌ただしく出かけたので、地図を忘れて出かけ、帰りを急ぐ余りにカバンに常備している巻尺での墓石の計測もし忘れた



比治山公園界隈は幼少期以来の訪問だった。正面に真言宗・多聞院。



最新のものは令和元年95才で没した頼 惟勤(1922-1999、山陽の長男:頼 聿庵/いつあんの子孫)夫人尹(ただ)子さんのもの。罰(ばち)があたらないように『芸藩通志』編者・賴杏坪墓によく手を合わせておいた。

ジャンボな毘沙門天本堂の背後に賴家墓地(googlemap上の「賴家の墓」表示場所は誤り)がある。そこは開析谷底の奥まったところに当たり、寺の人の話では原爆の影響は殆ど無かったらしい。比治山・多聞院周辺には賴山陽の記念施設(例えば賴山陽文徳殿)や時代遅れの楠公追慕塔などが立地する。率直な印象として、花こそ供えられていたが、広島県史跡「賴家之墓」(賴山陽・賴三樹三郎などの墓は不在)の現在は奥側の木立の中には放置された原爆被災建物と思しき木造の廃屋(下の写真では廃屋そのものは毘沙門堂の建物の背後に隠れて見えない)があったりして美観的には些か気の毒な状況にある。


安芸本郷で途中下車して中世・沼田庄辺りの探訪を考えていたが、通過時刻が16時近くになっていたので他日を期すことにした。
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松永史談会6月例会のご案内

2024年05月31日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会6月例会のご案内

開催日時6月28日 午前10-12時
場所 蔵

話題:『国立公文書蔵版芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンスについて


なお、先月予告の通り、松永史談会の活動報告をかねて引き続き①令和6年度市民雑誌『文化財ふくやま』第59号投稿論攷(無査読)ついては雑誌本体を6月例会時に配布、②『福山城博物館友の会だより』№54(無査読)分については抜刷形式で7月例会時に配付予定。

関連記事
➊(亀山士綱)➋(古川古松軒、馬屋原重帯)
参考資料及び文献:
広島藩の地方(ぢかた、=地域)情報及び地方支配に関する諸規則を集めた役用マニュアル本=『吹寄青枯集』(広島県立文書館資料集 1、1991 地域情報なし)・『芸備郡要集』や国郡志編纂用佐伯郡辻書出帳など(『廿日市町史』資料編2/付図付き,1975.に所収)。勝矢倫生「享和期における広島藩諸郡の経済状況-『芸備郡要集』の分析を中心として-」、尾道短期大学研究紀要 32 (1), 1-40, 1983(「広島藩における農政に関する基礎的研究-2『芸備郡要集』にみる享和期農政の動向-」,尾道短期大学『研究紀要』第30集の1の続編とある)。勝矢は地方書研究の専門家だが、『芸備郡要集』自体の理解に関していえば本史料を直接参照することで事足りよう。



『芸藩通志』・『防長注進案』に関しては羽賀祥二「記録の意図と方法-19世紀日本地誌と民俗記述-」(若尾祐司・羽賀祥二『記録と記憶の比較文化史』、名古屋大学出版、2005、57-88頁)・・・ユニークな問題意識に動機づけられた論攷
西村晃「世羅郡の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の編集について」、広島県立文書館紀要13号、2015、p193-217・・・【「国郡志御編集」の中身をチェックするために宇津戸で行った作業を世羅郡全体でも行う予定同様に『尾道志』と33/34巻との比較も】。
広島県内の自治体史には域内の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の紹介やその郡単位での編纂過程について説明したものが各種存在する。例えば『東城町史・古代中世・近世資料編』、1994.『呉市史』近世Ⅱ、1999など。
最近では広島県立文書館が西向宏介「近世芸備地方の地誌」で史料紹介など、ほか多数。


賴杏坪論関係では
頼 祺一「朱子学者の政治思想とその実践-賴杏坪の場合-」(上・下)、芸備地方史研究64(1-14頁)、および65/66合併号(20-29頁)、1967参照のこと(近世後期朱子学派の研究 、渓水社 1986年に転載・・・基本文献)。
頼 祺一や重田定一(『賴杏坪先生伝』、明治四一年の著者)らによると、賴杏坪の場合は29才時に藩儒(朱子学、陽明学を否定)として登用され、70才過ぎには三次町奉行になった人物で、いわゆる朱子学の教説を信奉した教養ある吏員ではあった。『芸藩通志』編纂を見る限り『防長風土注進案』(時局的に実現を見なかった『防長国郡志』の現存する草案)(→研究書:『防長風土注進案別冊付録』)を編纂する長州藩の長州藩家老村田清風や国学者近藤芳樹ららに比べ、逼迫した財政状況下での広島藩の取り組みはどの程度のものだったかはちょっと気になるところ(。。。。論理化中)。なお福山藩の場合は『備後郡村誌国文研の国書データベースへ』と菅茶山ら編纂の藩主用政治書・教養書『福山志料』。
【メモ】貝原益軒『筑前国続風土記
巻2ー河内地名(山間一谷内にある村々、例えば筑前国那珂郡岩戸河内 12ヶ村構成)、世羅郡宇津戸村や沼隈郡山南村ー谷中
貝原益軒はGeosophie(生活環境をデザインしたり、生活世界の在り方を特徴付けている時代的知や社会的知)研究の対象者として把握予定。


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説明板に見る郷土史愛好熱

2024年05月05日 | 断想および雑談
みどりの日はカメラをもって旧沼隈郡内をエクスカーションした(9時過ぎ出発で15時過ぎに帰宅、全行程30㌔)。
エリアは福山市津之郷・山手・佐波(神島)・草戸
神島・草戸については、いまだに人生の過半(40年間)を京都で過ごした状態にある私にとっては、今回が人生初めての探訪であった。

元禄13年検地帳記載の地字「御てん(御殿)」の惣堂明神社。地字「森脇」・「御天
高校生時代に経験した私の記憶ではこの礎石は、寺の一、二十㍍南にある田辺寺前の農道脇にポツン置かれていた。引用した昭和40年代の国土地理院・空中写真で農道脇に便宜的にマークをつけたが、自信なし。この辺りは水田地帯だったが、昭和50年代以後都市化の影響で景観が激変






本谷川を挟んで向って右側の丘陵上に惣堂明神社、左側に田辺(でんべい)寺。水田面と本谷川河床面との比高に注目。河床は1㍍程度低位。新幹線高架橋以南は後述するように付近の住宅の一階床上~天井下あたりが河床面)


現在は旧山陽道(県道378号線)脇に移設「大師講中が建立した石仏」




本谷川は条里制遺構の残る新幹線高架橋下以南の平野部分では左岸=向って左側の住宅に対しては天井川化
津ノ郷村内の字「九ノ坪
一昔前の歴史地理学の話にはなるが、これを手掛かりになんとか条里坪付の復原の第一歩が踏み出せるかも。

津之郷・惣堂神社から見た南側(河出川→草戸明王院下手で芦田川と合流する河川の形成した流域小平野)の風景


御殿畑・惣堂神社境内から見た神島方面。最高所は通信施設の立地する彦山。草戸ー瀨戸丘陵上に明王台団地。団地の上方(南端)部に立地する明王台高校がかすかに見えるが、春先から初夏にかけては黄砂のため毎年このような状況だ。


杉原氏ゆかりの山手三宝(さんぼう)寺門前。山頂部のこんもりした樹木が茂った山が萱野山。山頂部にはハングライダーなどの野外スポーツの愛好家が屯した時期もあったらしい。





三宝寺山門の100㍍南の参道沿いに「太閤屋敷」の表示板。ここには屋敷神を祀るような堂祠があったと思ったが、現在は玉ねぎを干し納屋のような感じになっていた。郷土史愛好家だった先代が亡くなられ、代替わりでもしたのかなぁ。考古学的な確認作業に関しては不知だが、土地割がどうだの地名がどうだのと言った程度の推論は色々出されているのだろうか。あらためてチェックして見たが終戦直後米軍が撮影した空中写真を見る限り、三宝寺の立地する萱野山山麓の沖積錘上には屋敷地風のブロック状地割が割とまとまった形で分布する。ここが『豊臣秀吉九州下向記』文禄元年4月8日条に記載された秀吉軍が着陣した「備後の杉原の三宝寺」に当たる。秀吉軍は大軍団を編成していたが陣地の規模としては上記のスペースに収まる規模だったのだろうか。


萱野山山麓に立地する山手三宝寺。三宝寺の寺前に朝鮮征伐時の秀吉の宿所。備後国に流離中の将軍足利義昭が秀吉と面会した場所がこの付近(中学時代の社会科の先生だったのが田辺寺住職で、その姉がわたしの家の分家筋に嫁いで来ていたのだが、十数年前にあった時には80才くらいで、すっかり津之郷一の故実仁になっていた)。そういえば馬屋原重帯・菅茶山の編纂物にも『備中府志』からの引用がみられたが、地元の山城研究家が(古川古松軒曰く)辟説まみれの『備中府志』を無批判に引用して津之郷にまつわるhalh-truthな偽史言説を流布させていた。細川幽玄が訪れた足利義昭の公儀御座所は津之郷にあった(津之郷町づくり協議会は前掲の「御殿畑」に公儀御座所の所在地を比定。惣堂明神社は地字「御てん(御殿)」なので、その蓋然性が高いと思われるが、たまたま出会った地主の方の話ではそれらしい遺物などは何も出ていないとのことだった。遺称地名「御殿畑」の件はそれとして、この辺は当然考古学的な発掘調査結果を待つなど慎重に結論を出す必要あり)。
天正15年(1587)島津征伐時作成の『九州御動座記』では吉備中山から8里の距離にある備後赤坂に到着し、その近辺に居留中の足利義昭(公方様)は秀吉を迎えるべく「この所」へ出かけてきて酒を酌み交わしながら秀吉と義昭とが名刀を贈与しあった(=足利義昭が秀吉に対して恭順/臣従の意思を表明した儀礼的交換)。公方様の御座所も赤坂の近所にあったと記述していた。ここに記載された「この所」とは普通に考えれば田辺寺(元禄検地帳上では田辺寺寺中として3畝27歩、5間×13間)のような小さな田舎寺ではなく、天下人と公方様にふさわしい新造の格式ある宿所を指すのだ思われるが、赤坂近辺にあった公方様の御座所の方は上述した細川幽玄が訪れた津之郷の公儀御座所というものに当ろう。


帰途、サイクリングで13時50分頃、今から今治に帰るという人と出会ったが、赤坂バイパスと県道54号線の分岐点のところでしきりに携帯でコース確認していた。ここからでは70㌔、100㍍を越えるアップダウンが何カ所かあるのでしまなみ街道通過は真夜中になってからだろう。どこかで一泊するのが得策。わたしは赤坂・イコーカ山のところで河出川沿いの市道を勝負銅山調査で訪れたことのある赤坂小学校まで行きそこから山陽本線の線路敷を跨いで国道二号線にコース変更し、途中買い物をしたが、60分後の15時過ぎには無事帰宅(30㌔行程)。新緑が美しいシーズンで三宝寺あたりではあちこちでしりきにウグイスがさえずっていた。草刈中の人の話では山手三宝寺辺りでは猪よりも鹿が出没し畑を荒らすという話だった。

個人的なもの、町内会(マチ作り協議会)発のものそして教育委員会発のものと様々な「説明板」を見かけたが真偽/正誤/虚実が入り交じっている感じだった。教育委員会の建てた「説明板」を含め、真偽の見極めが肝要。

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松永史談会5月例会のご案内

2024年04月26日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会5月例会のご案内

開催日時と場所
5月31日(金曜日)午前10-12時、『蔵』
話題 今川了俊『道ゆきぶり』の内容分析。


先月予告の話題[佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)]は6/7月例会に順延。
テキストとして稲田利徳執筆の『中世日記紀行集』小学館、1994、389-425頁に所収版を使用予定。この詳述版が後掲の基本文献①/稲田利徳論文1~5。

松永史談会の活動報告を兼ねた市民雑誌(中近世移行期に於ける松永湾北岸域の風景点描②を扱った『文化財ふくやま・59号』と幕末期沼隈郡内豪農層の思想傾向と関連付けながら行った安政4年「松永湾岸風景図屛風」の絵画史料分析物を『福山城博物館友の会だより・54号』)掲載論攷(学会誌では「短報」)の抜刷2冊(『文化財ふくやま・59号』は抜刷及び雑誌本体)は6月例会時に配付。

紀行文研究に関する松永史談会の関連記事①松永史談会2024年2月例会:賴山陽の修史事業に影響を与えた、史志(or 地誌)編纂家古川古松軒(1726~1807)の行動と精神(=学的方法論)について
関連記事②松永史談会2017年5月例会:賴山陽『東遊漫録』に言及した「湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―」

参考記事
基本文献)
ネット上に公開されたテクストとしては国文学者稲田利徳「今川了俊『道行きぶり』注釈1-5」、岡山大学教育学部研究集録、1992。
この小学館版には稲田利徳校注・木下勝俊(長嘯子/ちょうしょうし)『九州の道の記』、571-586頁もある。4月例会では広島県立博物館のメイン展示物草戸千軒遺跡と福山城下の中に再編された「神島 上中下市」に言及したが、実は後者のみが『九州の道の記』には登場し、ここに居住した人物と木下は暫し蹴鞠を楽しんだ場所として登場(珍しい蹴鞠に付近の住民が多数参集し見物・・・出兵時の武将:木下勝俊がどういう精神状況だったかは不明だが、現在の神島橋付近のしかるべき場所で、ここ住まいの都会育ちの人物某(足利義昭の近習)らと長時間蹴鞠を楽しんだ)。なお、4月例会では広島県歷博発「神島(地字「古市」あり)不在の草戸千軒論」には不自然さがあることを指摘。5月例会では今川了俊『道ゆきぶり』には無記載だが、この朝鮮出兵(1585年)当時の旧沼隈郡域の記述に関しては『中世日記紀行集』小学館版細川幽斎『九州道の記』(伊藤敬校注に言う、秀吉の滞在先=備後津郷にあった公儀御座所、郷土史家の間では足利義昭がらみの言説として流布する場所)など他の古記録についても紹介予定。
単行本)中世史家川添昭二『今川了俊』、人物叢書、吉川弘文館、2023(初版は1964)。

雑誌論文)地名考証関係では渡邊世祐「足利時代の山陽道」1-3、歴史地理4-8/9/10、1902.


角重始「道行きぶり」の世界、広島文教女子大・文教國文學25,2023、10-27頁。....既往の研究を川添(歴史)>稲田(文学史)に(九州地方平定作戦を推進させる中での紀行文制作という文脈に焦点=)比重を置きながら今川了俊の九州行を要領よく再整理したもの(謂わば、国文学者による歴史学的研究もの)。
小沢富夫『家訓』、講談社学術文庫683 今川了俊の「今川状」(弟仲秋に残した人生訓・・・江戸時代の庶民道徳にも影響を与えたもので、利欲を廃し公正を尊び、神仏を敬うと言った道徳観に支えられた武家道徳を説いたもの)
今川了俊『難太平記』

[福岡県・みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」]よりとりあえず参考までと言うことで、全文引用
「今川了俊は、九州進発にあたって、前の大将軍渋川義行の失敗にかんがみて慎重に作戦計画を立てた。すなわち、一族の者を豊後と肥前に上陸させ、その地の武士を糾合(きゅうごう)して太宰府へ向かい、了俊自らは少し遅れて正面から門司へ渡り、豊前・筑前を経て、太宰府で一族の者たちと合流し、懐良親王方を壊滅させるというものであった。
 了俊は京都出発にあたって、備後・安芸の守護職を兼任して、両国の軍勢を動員し、更に、周防・長門の守護大内弘世と婚姻関係を結んでその協力を得て、その強大な軍事力に頼るところ大なるものがあった。
 応安四年(一三七一)六月、了俊は子息義範(よしのり)を備後尾道から、船で豊後高崎城に向かわせた。
 豊後では、このころ大友氏継(うじつぐ)から親世(ちかよ)へ家督が移り、氏継が南朝方へ走るという事件があった。足利義満―細川頼之ラインが守護クラスの大名家の家督問題に介入したらしい。今川了俊は「京都の御さたのおもむきをしり候ハぬ人々」が、これを不満に思って、氏継とともに南朝側へ走ったと述べている(『入江文書』卯月十五日付)。
 菊池武光は、高崎城の今川義範軍を包囲して、翌応安五年(一三七二)正月までの半年間に、一〇〇余度も合戦を繰り返した。
 今川義範が豊後へ向かった翌月、了俊の弟仲秋(国泰・頼泰・入道仲高)も尾道を船出し、十一月、肥前松浦に上陸し、松浦党の支援を得て、肥前の各地で戦い、応安五年二月、烏帽子(えぼし)岳で戦って、菊池次郎武政を破り、軍を筑前に進めた。
 今川了俊は、応安四年十月に入って長門国に到着し、十二月、門司へ渡海した。これを聞いた菊池武光は高崎城の包囲を解いて、軍を太宰府へ返し、肥後との連絡路を確保して、太宰府の維持に努めた。
 応安五年二月、今川了俊の軍は、筑前麻生山の多良倉・鷹見岳(八幡西区カ)攻めにかかり、少弐冬資や大内弘世の奮戦によって、両城を抜き、太宰府に近い高宮に陣をしき、肥前長島庄から蜷(にな)打へ進出してきた弟仲秋の来陣を待った。同年八月、菊池肥前守武安を筑後酒見城で退けた仲秋軍は、菊池武安を追って筑前に入り、了俊の軍と合流して、両者は一挙に太宰府攻撃に移った。
 応安五年八月十二日、太宰府は陥落し、懐良親王・菊池武光らは、筑後高良山へ移った。このあと、大内弘世ら中国勢は帰国した。」

ネット上で見つけた参考文献
川添昭二・朱雀信城共編「九州探題関係文献目録-今川了俊-」、年報太宰府学第五号、74-60頁→今川了俊の研究文献リスト
太宰府市史・中世資料編(未見)

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松永史談会2024年4月例会のご案内

2024年04月16日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2024年4月例会のご案内

日時 4月26日 金曜日 午前10-12時
場所 蔵
話題 松永史談会2023-12月例会提供話題の続編として今回は青木茂「中世港町における航運活動-高野山領備後尾道を中心にして-」(『魚澄先生古希記念論集-国史学論叢』、1959)及び柴垣勇夫編『中世瀬戸内海の流通と交流』、2005、塙書房所収(兵庫・岡山・広島の県立博物館・考古学主導)の矢田俊文・藤田裕嗣(ここでは掲載論文ではなく、同氏の「安芸国沼田庄の市場と瀬戸内流通網」、歴史地理学136,1987を取り上げる)・松井輝昭氏らの論攷を検討しながら、中世瀬戸内海における経済(物流/交通)圏域論の現状とその問題点(具体的には史料の歪みや研究者自身の抱える歪みの所産、及び歴史研究者が陥りやすいパレイドリア現象の兆候)を洗い出しながら、松永史談会が実践してきた環境-歴史-文化という<思考の三角形>(⇒博物誌的)側面から中世備南地方に於ける新たな地域史研究の在り方を探って行く。

パレイドリア( Pareidolia)現象:視覚刺激や聴覚刺激を受けとり、普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにもかかわらず心に思い浮かべる現象、こうした現象はThomas Gilovich流に言えば「わずかなこと(=史料断片)から肯定的な(=自分の仮説に合致する)情報を探し求めたり、信じている(=自分の立てた仮説が動機付けとなって)と、そのように物事は(=なんでもない史料なのに当該仮説に合致した証拠資料のように)見えてくる。そして自分が信じたいもの(例えば自分が取り組んできた尾道・厳島)(=それらの港が瀬戸内交通の要衝であったと思えてくるといった風に)信じようとする」傾向とでも言い換えることが出来よう。
従って今回は網野善彦・宮本常一氏や予てより注目の中世瀬戸内海域史研究の第一人者山内譲氏にはちょっと失礼という感じの話題提供となる。なお、4月例会の話題は5月例会予定の佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)の紹介のつなぎとして提供するものである。

これまで関連記事
①歌西金寺境内の伝「和泉式部供養塔」から見た松永湾
②続「中世歌島荘研究の成果と課題」
③松永史談会2023年11月例会のご案内-第一報-  杉原保
④2023-6例会「庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-」
⑤2022-11例会: 毛利氏の「海の御用商人」尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つる木浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(1)-
⑥2022-5 「中世沼隈郡新庄今津における『弁財天女の霊廟』-薬師寺蔵今津金剛寺本尊如意輪観音像の拝観に事寄せて-」

❽松永史談会11月例会のご案内-第一報-網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。
❾伊予-備後の田頭氏と「因島中庄田頭氏家伝」(全面的にrewrite予定)、松永史談会会報2021-1/2(号外)//非表示
❿松永史談会2023-12例会:網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく
など多数。
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2024年3月3日のExcursion trails

2024年03月03日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
『西備名区』の編纂者である向永谷の馬屋原重帯(しげよ)のゆかりの地探訪が目的でサイクリングコースはおよそこのようなものだった。神辺での迂回は持参のUSBメモリーから地図をプリント出来るコンビニを探したため(中津原には気づかず)。芦品郡ではアップダウンの多い芦品広域農道に入り込み宣山(むべやま)辺りで大きくコース変更余儀なくされた。
帰途は子供時代の記憶・思い出の地を経由し、次のようなポイントを通過した。この中の馬屋原家が「永世賜」ったところの高増山(馬屋原『西備名区』巻之13、454頁に言う品治郡向永谷村武倍山だとさ。もともとは「古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山(ムベサン)の御陣にて」に登場する自分が創作した「武倍山」に付会した山名(精神構造を含め馬屋原理解には「武倍山陣蹟雑記」「長井斎藤別当実盛墓」「馬屋原包重百回祭記」を読めば事足りる)。近所(駅家町今岡)に「宜山」=むべやま)(399㍍、高増山頂→山麓に高倉/高御蔵社→新庄本郷村の八大竜王/竜王を遷宮したものという説話:『西備名区』巻38,922頁ありが鎮座)は本郷川橋梁からも一部(α)が見え、予てよりマークしていた山だったので感慨もひとしお
  
 嘯雲嶋業『万延元年備後国名勝巡覧大絵図』は一種の読史地図だが、そのベースになっているものは先哲の説:馬屋原『西備名区』によるもの。例えば中津原のところには「日本武尊悪人を退治したる処」と注記。嘯雲嶋業の狙いは(現実には果たせなかったようだが、中国を真似した)こちらの完成だった。

『沼隈郡誌』評議員だった神原敬太郎氏(『沼隈郡誌』口絵写真参照、昭和42年刊『赤坂村史』編纂常任委員の一人として口絵写真)は村田静太郎氏(の場合は雑誌「まこと」の配達で毎月来訪)と共に我が家を訪ねてこられた、わたしの幼少期の記憶にある人物の一人で広島県に帰省後は予てより一度お宅訪問をしてみたいと思っていた。其れが叶って本日は誠に充実した一日だった。
神村町須恵の「高島平三郎先生景慕(敬慕)碑」に立ち寄り、たまたま出会った地元のKさんに以前奥田のSさんに額入り写真を送った時にこちらにもそうしたと思っていたが、そういうものは倶楽部にはないということで、明治18年撮影の「高島先生」肖像写真を倶楽部用にと言うことで寄贈する約束をして帰宅した(17時過ぎの帰宅だったので本日は7時間ばかりのExcursion Trailsだった)。高島先生の顕彰碑は綺麗に管理され、わたしとしては一安心だった。
いやはや本日は県道上ではどのルートでも数は多くなかったがサイクリング愛好者とすれ違った。松永史談会3月例会にむけて本日からぼちぼち『西備名区』のテクスト分析に入るが、こちらはこれまでやってきた延長線上で比較的簡単に処理できそうだ(当面、『備後叢書』版を使っていくが、今後に向けては福山城博物館蔵の自筆本なども当然のこととして調査予定・・3月8日に馬屋原重帯調製『文化5年2月・西備図絵』など自筆本数冊を含め閲覧済)。
向永谷の県道157号松永新市線沿線(バイパスが整備され海ヶ峠付近など一部は中国自然歩道化)。馬屋原/光の丘病院(精神科)の背後の丘陵上に(学識不足に由来する虚実混淆居士だった)馬屋原重帯家のお墓(元禄期のものが最古、参考までに馬屋原『西備名区』は馬屋原氏のルーツについて鎌倉期に「神石郡志麻利荘」[神石郡三和町一帯に立地]に地頭として入部した東国武士なのだと)はある。福山藩の豪農文化人の墓石(顕彰碑)は、岡本山路機谷浦崎笠井治右衛門もそうだったが、異様に感じられるほどジャンボ。
撮影時刻は13時54分、赤坂町に出る峠(標高差160㍍、水平距離3㌔)越えに徒歩で1時間を要した。健脚の人なら on a bicycleで20分程度のコースだろうか。
【後日談】『宜山村誌』昭和29、88頁、巻末に「宜山郷土史(むべやまきょうどし)」として「現在の史跡コース地図」を掲載。この図面を頭に入れておいて向永谷公民館辺りから県道157号線を南下すると兜山・実盛塚を見落とすこともないだろう。
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松永史談会 2月/3月例会のご案内

2024年02月05日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2月例会のご案内
2月例会(2月の最終金曜日が天皇誕生日のため、開催日を一週間後ろへずらす
3月1日 午前10-12時 蔵2階
話題:賴山陽の修史事業に影響を与えた、史志(or 地誌)編纂家古川古松軒(1726~1807)の行動と精神(=学的方法論)について

その他、例えば古川古松軒『東遊雑記』平凡社・東洋文庫版、「四国道之記」翻刻版 岡山県立博物館研究報告10…国会図書館は利用登録をすれば簡単にデジタルコレクション内の書籍閲覧が可能。古松軒の年譜は岡山県立博物館研究紀要1(古川古松軒史料--日記・雑記 / 竹林栄一/p23~46)、1978が掲載。

関連記事➊「湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―」松永史談会2017年5月例会
関連記事➋「偽史言説(0r fakelore)としての「高諸神社」@福山市今津町」(論文化予定のため非公開)
これまでの古松軒に関する研究上の論点を抑えたうえで、本年度公開の市民雑誌投稿論攷に続編という位置づけでの話題提供となる。古松軒を京都帝国大学の経済学者黒正巌(1922年)は江戸時代の「地理学者(geographer/geographical-lorist)」だとしたが、正確にいえば当時としてはgeographical-loristとしての傑出した「地理学者」だった。学術的には地理学者野間三郎辻田左右男の業績等も一応頭の片隅には置いたものとはなるが、ここで今回注目するのは新井白石/貝原益軒-長久保赤水/林子平/古川古松軒→・→(我が国の読史地図研究=今日の読史地図派歴史地理学や地名考証学に道筋をつけた)吉田東伍・河田 羆(高橋淡水の地理学の先生)へと繋がる(和漢混淆/和洋折衷ということにはなるが)我が国に根付いていた、一昔前の”Historiography”の水脈にも光を当ててみる。

3月例会
開催日時 3月29日 午前10-12 開催場所 蔵 
話題:『西備名区』(西備図絵を含む、文化元年~5年、1804~1808)に見る馬屋原重帯の地理事蹟研究及び古学研究の在り方(学知的傾向とその水準)について(菅茶山『福山志料』・弁説の中身に関しても必要に応じて言及)
<要旨は2025年度の市民雑誌(無査読)投稿予定>
西備名区』@国会図書館(簡単な利用者登録が必要)。
岩橋清美『近世日本の歴史意識と情報空間』、名著出版、2010。佐竹昭「地誌編さんと民衆の歴史意識」、広島大学・地誌研年報5,1996、59-76頁など一応視野に入れておくが「空間認識」「歴史意識」ではなくknowledge(知→geosophy:前近代的地理思想)上の問題として定式化していく。なお、副次的な問題に過ぎないのだが、佐竹論文はlocal historyがnational historyに包摂される過程を構想した論攷だが、わたしの理解では事柄の本質は佐竹論文の真逆、すなわちnationalなもの(例えば尊王思想、瀟湘八景といった類の「思考の鋳型」)がどのような形で「地元化」=regional/localなもの中に拡散/浸透(=定着)して行っていたのかという側面の見極めにあると考えており、その方面からの言及予定。

参考文献:西向宏介「近世芸備地方の地誌」広島県文書館収蔵文書の紹介
国土地理院・地形陰影起伏図
等高線図(一〇メートル~一〇〇メートル間隔)
色別標高図
表層地質図@国土地理院
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下迫貝塚と馬取貝塚の今昔

2024年01月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

柳津町馬取貝塚は、今まで謎だった松永町・山本新さんという人物が大正15年8月段階に発見し、その後昭和7年1月に至って沼隈郡教育会によって実地調査が行われた。大正15年5月6日~9日の太田貝塚調査で面識が出来たのか山本新さんはその3か月後には京都帝大教授清野謙次(医学)に対して、太田貝塚から言えば、松永湾の対岸に当たる沼隈郡柳津で見つけた馬取貝塚の情報を伝えていた。すなわち清野氏は著書『日本石器時代人研究』 、1928の中では、山本新さん発大正15年8月25日付私信から得られた伝聞情報をそのまま紹介している。参考までに「太田貝塚は尾道市の東郊に して、本邦先 史考古學、人類學の最 も重要なる遺跡である備中津雲貝塚 を西に去る直線距離約8里 の所に位する瀬戸内海 に南面 した緩斜地である。最初大正十五年四月十二 日當時長崎考古學會々員たりし佐藤翼穗氏が試掘 し體 を獲、その報 に島田貞彦 氏急行 して同月十五 日には更に5髄 の古人骨が發掘 5された(但 し人骨番號に第8號 迄)。越 えて翌五月六 日より九日に亘る清野謙次、平井隆、金關丈夫3氏の發掘は更に58例 の古人骨を追加 し合計66例 となつた。」という。 露頭部分は花崗岩の風化土(原地形を一部残す。頂部に柿の木、大正15年当時一帯は桑畑)。地形的には低平な丘陵端の上に貝塚層が乗っている。金江・藤江あたりの海岸部は多数の円礫(古い地層の場合は風化し腐り礫化。これはなし)の露頭が目立つ洪積台地。写真中の水路は人工河川の新川で、新川筋の潮汐限界点はこの地点より若干上流側にある。従って、水路の側面石垣の見られる変色位置は満潮時の水位探る有力な手掛かりとなろう。興味のある人は現場で確認してみるとよい。この貝塚での縄文時代の遺物包含層は満潮時の潮位よりたかだか3㍍程度上位に位置するにすぎない(要確認)。  

『福山市史・上巻』に言及が見られるが、倉敷考古館蔵の土偶(福田貝塚 縄文後期)

解説文によれば「(前略)土偶はそのときの調査以外で、採集されていたのである。いずれにしても、当地方としては土偶は大変珍しく、縄文時代も後期の(後略)」。

 


下迫貝塚一帯の現在(水路は新川

柳津町下迫貝塚 。縄文時代後期の地形面は新川筋の堤防道路面の1メートル上位。 地元の人に場所を訪ねたが、下迫貝塚を馬取貝塚と混同する人がいたが、ほとんどが馬取貝塚すら不知だった。あらかじめネット情報と住宅地図で見当をつけていたお宅(坂本順助さんの昭和25年生まれのお孫さんがご当主)を訪問し、それが正解だった。むかし、郷土史家I@神村が訪れたことがあるということだったので、わたしの訪問はそれ以来のことだったのだろう。場所的にはわたしが以前からよく訪れていたところ(柳津町市場組・fake史蹟:「神武天皇上陸碑」「磐井」, 村鎮守:清平大明神の「清平」は地名だが、これを祭神光孝天皇皇子一品式部卿清平親王(要確認)の「清平」と解釈し、ここから虚偽言説の大迷走が始まり、明治初年以後は実在が定かでない祭神「清平親王」/「橘清平」とはせず、一挙に著名な祭神「橘諸兄」へと跳躍。この人を祭神とした橘神社に移項させていく。柳津はそういう支離滅裂のFakeloreがまかり通る愛すべき土地柄・・・『沼隈郡誌』515-516頁参照)の数十メートル南方に当たった。縄文後期の土偶は馬取貝塚発見者でもある松永町在住の山本新さんが、昭和14年に考古学研究者村上正名さんらが訪れる1ヶ月ほど前に、坂本さんの屋敷地内で発見したということに菅原守・吉原晴景『高島宮史蹟』、昭和14年が言及していた。当該土偶は現在、東京国立博物館に所蔵されている。下迫貝塚は宅地だったため坂本さんの屋敷地の北西隅のわずかな面積を掘り下げただけだったようだ。


島田貞彦「備後國沼隈郡高須村太田貝塚に就いて / 島田貞彥/p23~33」、歴史と地理、26-4,1930.

   

太田貝塚の立地環境は、隆起海岸低地(松永湾岸での貝塚はこの地形面上、山陽本線線路以東は干拓地で海抜0m地帯、西国街道は海岸低地上、この地形面の2m上位に隆起海岸低地が拡あり、その地形面上に貝塚が立地)(潮汐限界点よりも2m弱上位・、満潮時の海水位よりも3メートル程度上位・・。この太田貝塚が立地する地形面は松永湾岸の干拓地の背後に形成されていた海岸低地の山側で縁取る形で分布。近世の西国街道の地形面と太田貝塚立地の地形面の高度差=a+b) 場所 

追加調査:明徳4年(1393)の年紀をもつ、『延寿院殿佐藤左馬頭治信大居士』という珍しい戒名の墓石。一見してFake(インチキ)なのだが・・・。家のルーツ関して深い思い(この点が唯一の事実)が込められているこの地方ではまま見かけるものだ。この形式の墓石はこの地方では江戸前半期のもの。数年前から注目してきた史料なのだが、本日はご子孫の消息確認ができた。半歩前進! 懇意にしていた仏壇屋のお婆さんは平成30年没で、2才年上の主人はその三週間後に亡くなっていた。

戒名

室町~戦国期の稲村城主田坂家の戒名@備後・三原 三原市文化課
松永・山本新という人物は実を言うといまだに謎のままなのだ。 『洗谷遺跡』1976、福山市教育員会 水呑町洗谷、洗谷橋南200m、芦田川河口部右岸 占部徳十郎屋敷前、海抜3-7m。馬取貝塚と同じような地形の場所(地山海抜2.4m)。 本谷遺跡は不知だが、その他の貝塚は松永湾岸と同様の地形環境に立地するようだ。 木ノ庄貝塚@木ノ庄町中央時計台の向(城北中学と樹徳小学校の間の道を北上した高校の立地する台地の端(海抜5-6㍍)
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慶賀光春

2023年12月30日 | 「okey dokey(オキドキ)」へのgate

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松永史談会12月例会/次年度1月例会の予定

2023年12月01日 | 松永史談会関係 告知板

令和6年1月例会予定(第一報)

開催日時:1月26日午前10-12時

開催場所:蔵2階

話題:続編執筆を念頭に入れた令和6度版市民雑誌投稿済み原稿の一つ(Microstoria/ミクロストリア・・単なるケーススタディーではなく、史料的細部の精緻な分析を通じて、「小さな場所で大きな問い」を立てようとする類のイタリアのカルロ・ギンズブルクらが提起した歴史研究における一つの野心的試み)について補足的・発展的に解説

 

松永史談会12月例会のご案内

開催日時:12月22日 金曜日 午前10-12時

開催場所:蔵2階

提供話題:網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの第二回目として、

12月例会では 西田正憲氏論攷の内容紹介/(批判的吟味)検討を含めて、次年度市民雑誌投稿済み原稿の一つを取り上げ、その内容を補足的・拡張的な方向で解説する[原稿の中では「遺芳湾(茶山が松永湾に与えた風雅な呼称)」との記述に留めたが、より正確に言えば、菅茶山自身は藤江・奇好亭から望む松永湾岸の風景を中国の代表的景勝地の一つである杭州「西湖」に準(なぞら)え称賛(明言はしていないが、感覚としては松永湾岸の風景を”小「西湖」”に見立てる・・・漢詩人:梁川星厳は上野不忍池や東金八鶴池を漢詩の中で風雅な”小西湖”と呼んでいる)。従って、茶山が松永湾を捉え「遺芳湾」と命名したのは、当該湾一帯における諸利権を福山藩から独占的に付与され、藤江山路氏が栄華を誇っていた当時(1826年当時)の時代状況を文芸的に表現したもので、それは漢詩「遺芳湾十二詠」の台詞中の文言(「予因名其湾曰遺芳以祖先為南朝遺民而不受足利氏汚穢也」)にある通り、山路氏の先祖が後醍醐天皇に忠誠を尽くした南朝方の遺民・北畠氏(あるいは別の言い伝え/実はわたしの直観によれば、橘姓楠木氏流・讃岐白方の山路氏)で、今日の繁栄は儒教的名分論の精神にも合致した素晴らしい遺徳(遺芳とほぼ同義)の表れであるという意味でこの名称を使ったものだ」と指摘し、それに関連した諸解説を行った]。

参考文献

  • 西田正憲『瀬戸内海の発見』中公新書1466、1999。
  • 西田正憲『自然の風景論』AsahiEcoBooks33,2011年。
  • 白幡洋三郎『瀬戸内海の文化と環境』(新・瀬戸内海文化シリーズ2)、1999.西田正憲「瀬戸内海の風景と異文化のまなざし」、246-267頁(中公新書版の論旨をまとめ直したもの)。
  • 瀬戸内海の環境情報@環境省
  • 野間晴雄編著『風景表象の比較史』、関西大学東西学術研究所、2023。林倫子「山紫水明と東山鴨水」111-140頁と西田正憲「自然の風景表象と風景の政治学」141-164頁を所収。
  • 松永湾(@備後灘・燧灘)の水環境・・・干潟・藻場に注目

 

 

 

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旦過寺@東広島市西条町(山陽道安芸・四日市)駅裏

2023年11月24日 | repostシリーズ

広島県文化財ニュースという雑誌のバックナンバーをチェックしてみた。この埋蔵文化財調査関係の分野は予算が潤沢なのか情報が豊富だ。ちょっと目にとまった情報・・・・・旦過寺@安芸・四日市
吉野健志「御建遺跡の発掘調査」、広島県文化財ニュース204号、平成22.10-15頁。
『芸藩通志』に秀吉が泊まった四日市(東広島市西条町西条、JR西条駅北側)の旦過寺(現在は旦過寺観音堂)の記事を確認予定(12月03日に確認済み)。安芸国分寺跡は土地割でもそのジャンボな範囲の痕跡が追跡できる。上道(うわみち)は近世の西国街道の古道(古代山陽道の遺構と考えられてきたもの。道幅は側溝を除くと150センチ程度のかなり細いものだったようだ。この上道は南東方向に直線的に伸びて、近世の山陽道と同様、松子山(まつごやま)峠に向かうことが想定できるようになったらしい、前掲論文12頁。古代の官道としては道路幅が狭すぎるので先行研究に当たるなど、要注意。現在御建公園野球場になっている一帯の円形のくぼ地はなんだったんだろう。戦時中の軍用施設?実は大正13年造営の御建神社付属の神苑付属馬場:

「御建(みたて)馬場」だった(現在は公園化され野球場)

旦過寺跡南側を南東-北西方向に土地の起伏を無視した形で伸びる直線路は「上道」(うわみち)。古代の山陽道の痕跡だと見られている。

四日市(JR西条駅)を西に通過すると山陽道及び山陽本線線路わきにひろがる田園地帯(古代条里制の痕跡が明瞭→田園部に見られる碁盤目状の土地区画)に石見瓦こと西条瓦(赤瓦)の印象的な民家が散居する農村風景となる。現在は東広島市駅前周辺の都市化が進み、市街地化している

『芸藩通志』賀茂郡 四日市・五郎丸村図中にある御茶屋は旧西国街道沿いの本陣(現在賀茂鶴酒造↓)を指す。
御茶屋は豊田郡本郷村図中にもある。なお、沼田庄の故地、本町図中には「風呂小路」。
参考文献:例えば
足利健亮:吉備地方における古代山陽道⇒内容的には全くダメ。(藤岡謙二郎編『古代日本の交通路Ⅲ』、大明堂、1981,99-105頁に転載)

高橋:『古代交通の考古地理』、大明堂、1995(備後地方は手薄で隔靴掻痒)及び『広島県史』(こちら要確認、高齢の米倉二郎執筆の場合は内容の確認が必要・・・ちょっと見、真正面からは扱っていない)
国土地理院地形図
GoogleMap松永史談会

◎旦過ついては

  1. 松永史談会記事➊
  2. 松永史談会/拙稿「尾道の『丹花(たんが)』について」、尾道文化40(2022)、63-71頁。
  3. 平泉澄『中世に於ける社寺と社会との関係』、国史研究叢書第二篇、1934、至文堂→卓越した学知的感性。
  4. 服部英雄『中世景観の復原と民衆像-史料としての地名論-』、2004→豊富な事例を掲載
  5. 榎原雅治『地図で考える中世: 交通と社会 』、 2021/3/27→思考面で上滑りや論理の飛躍が目立つ。
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松永史談会11月例会のご案内-第一報-

2023年11月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会11月例会のご案内-第一報-

開催の日時と場所
11月24日 喫茶「蔵」2階
話題 網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。

○渡邊 誠 「胎蔵寺本尊胎内施入の元版本『大乗妙法蓮華教』について」芸備地方史研究303 2016の吟味を兼ねて、瀬戸内地方でのInter-regional( 相互地域的)な視角のあり方について考えていく。渡辺には本論攷の続編:渡邊 誠  「備後国の臨済宗法燈派(安国寺・常興寺・善昌寺)についての補訂」芸備地方史研究309,2018、1-16頁がある。ここでは宗派図を増補し、招来した経典類を一般輸入品としてではなく留学僧の持ち帰りもの(一種の土産物)と言いたげである。なお、山手三宝寺(伝杉原一族の墓が少々)の話題は登場するが、大檀那杉原氏(坊さんたちのスポンサー達)自体の動向に関しては沈黙。

参考事項)福山市北吉津町・胎蔵寺胎内施入物 

真言宗大覚寺派胎蔵寺(地図)について(全文引用↓

「胎蔵寺は、正式には「松熊山(しょうゆうざん) 阿釈迦院(あしゃかいん) 胎蔵寺(たいぞうじ)」と称し、京都・嵯峨野の 大本山大覚寺を本山とする、真言宗大覚寺派の寺院です。現在の広島県庄原市西城町に創建された寺で、中世には七坊を数える大寺院であったとされています。現在その地は「胎蔵寺跡」として庄原市の史跡となっています。胎蔵寺山門の屋根を支える蛙股の中に刻まれている紋は、西城に居城した宮氏のもので、胎蔵寺が西城より移建されたことがうかがえます。江戸時代初頭の慶長年間(1596~1615)、福島正則の時代に西城町から福山市神辺町へ寺地を移転し、福島丹波の祈願寺とされました。」『水野記』(寛永期社寺温改めの結果)には吉津に移転し、そこでは一向宗・成興寺、本尊は釈迦三尊と記載、その後寺の名称が胎蔵寺に変更され現在に至るようだ。本堂にまつられる本尊は、胎蔵寺の本尊ではなく、福山城地に築城以前にあった「常興寺」の本尊を胎蔵寺の本尊として移されたもの。毛利氏以後の大名たちによる寺院つぶしの強引なやり方が痛感されよう。つまり、現在の胎蔵寺の本尊は今はなき常興寺のご本尊という謎(転用・廃物利用)を秘めた代物だ。なお、鞆安国寺のご本尊(善光寺式阿弥陀三尊)は1273年に造られた元金宝寺のご本尊。ここでは胎蔵寺のケースと異なり、足利尊氏の時代(1339年)に寺の名前だけを安国寺に変更したらしい。松永史談会の関連記事、例えば「新庄つる木浦新考」(2022年11月例会)
中世塩浜考-「文安3(1446)年備後国藁江庄社家分塩浜帳」を巡る比較文化論-(2020年1月例会)
(「法人類学視点から見たオランダ領インドネシアの中国銭についてーインドネシアの慣習法典(Buku awig awig subak)を読むー」2023年2月例会)

続「中世歌島荘研究の成果と課題」(2023年5月例会)庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-(2023年6月例会)
古くは「『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』を読む”」(2018年8月例会)

◎宮本常一「瀬戸内海文化の基盤」、民族学研究26-4、1962、237-257頁(→貴重な成果だが、かなり陳腐化)。

草戸千軒遺跡から出土した舶来陶磁器事例と胎蔵寺(旧深津郡椙原保・常興禅寺本尊)仏像胎内施入経典の印刷先(浙江省杭州)、寧波は尾道発の日明貿易船(15世紀)の中国側入港先。

杭州龍興寺の刊経活動

杭州@googlemap、天台山国清寺
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松永史談会10月例会のご案内

2023年10月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会10月例会のご案内

開催日時 10月27日(金曜日)、午前10-12時
  場所 蔵2階
「尾道・艮神社旧蔵『建治元年貢之郡尾道畧圖』考」(市民雑誌次年度号に投稿済み)
10月例会では赤松俊秀の提起した証験類を巡る「権力と権威」という側面と共に松永史談会7月及び9月例会の話題(folk-lore、就中Geographical-lore(例えば小早川秀雄/1802-1853は備中足守藩士出身の処士で徂徠系の儒学を修め、史伝を好み若い頃は諸州の旧跡遺跡の歴遊や古瓦遺物の収集、晩年は倉敷の書林林家に寄食しそれらの探究結果等を風土地理書:『吉備国史』稿と言う形で一部整理、内容的には古典的だが、『建治元年貢之郡尾道畧圖』理解には役立つ))繋がりで「知(ナレッジ=Knowledge)」に関わる問題にスポットを当てる形での話題の提供を心掛けたい。

吉田東伍 著 [他]『大日本読史地図』、昭和10 ●頼又二郎標註図記『校正標註日本外史』13、明治17年 に多数の考証地図

賴又次郎(士剛)は賴山陽の二男、賴三樹三郎の兄。広島賴家・賴春水の後継者となる賴餘一(聿庵)・・・賴山陽の長男ヵとは異母兄弟(要確認)。

小早川秀雄が『吉備之志多道』の著者・古川古松軒(古川平次兵衛)と「吉備中国上古南方図」(鬼の身/キノミの城主上田家伝来にして、総社市山田村在住の三村某が所持したもの)を巡ってどのような関係を有していたのかという点については大いに検討の余地あり。この図面に関して古松軒は「海は地となれど共、山も形は動くべき理なし、是を以て、見るに齟齬多し。然れ共私意を加えず、旧図のままに図せり。見る人考えらるべし」(396頁)と。この人物の特徴は僻説を排する姿勢を貫徹しているところ。

吉備郡史・下巻(出版者名著出版、出版年月日1971、元版は昭和12年)によると小早川秀雄は足守藩士吉田源五兵衛方行の次男。秀雄の母親は古川平次兵衛の妹と三宅甚庵との間に出来た娘・八重。つまり古松軒から言えばその姪の子供に当たった(3522頁)。吉備郡史の中で編纂者永山氏は小早川秀雄と古川古松軒とを史志編纂家として分類。足守からは蘭学者の緒方洪庵を輩出。古松軒自身は独学の人だったらしい。

メモ

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岡山県総合文化センター(現岡山県立図書館)には、例えば「備中国賀夜郡服部郷図」や古川古松軒自筆の「備中国加夜郡高松城水攻地理図」など「塚本家蔵図書」の印が押された資料が収蔵されている。塚本吉彦の名は岡山の郷土資料に接する者にとっては忘れがたい人物の一人である。  塚本吉彦は天保年間(天保10~大正5)の生れ。岡山藩学校に学んだ秀才と伝えられ、郷土の歴史や地理に興味を持って多くの資料を収集し、記録、編纂して、後世の郷土研究の先駈けとなった。号を澹如あるいは好古といった(雑誌『温古』77号 昭和5年6月)。  塚本吉彦は吉備史談会の活動とともに知られる。史談会での講演をまとめた『吉備史談会講演録』(明治37年、以下『講演録』と略す)の緒言によると、吉備史談会は、明治32年第三高等学校医学部(のち岡山医学専門学校)の眼科教授として赴任、東田町に住んだ井上通泰が塚本、岡直廬(なおり)、松本胤恭(たねやす)らに、「時々相会して吉備の歴史を研究しては如何」とはかったのが始まりという。同年11月18日付の「山陽新報」は会長に井上通泰、幹事に塚本・松本・岡のほか、羽生芳太郎(のち永明)の4人が決まったと報じている。  第1回の史談会は明治32年8月13日、井上の家で開催された。会は初め月2回、のちには月1回となったが、会員の増加によって薬師院、国清寺、さらに後楽園栄唱亭などが会場にあてられている。史談会の様子はその都度当時の山陽新報の記事になった。  『講演録』には、塚本のほか、岡直廬、有元稔、正宗敦夫、小野節、羽生芳太郎、井上通泰、武田猛夫などの40の講演が収録されるが、このうちには塚本の、姪八重へ与えた古川古松軒の書状を紹介した「古松軒の消息」のほか、「松平忠継君略伝」、「正木大膳亮時堯の伝」などあわせて16の講演が含まれ、その数は塚本が最も多い。  史談会での講演は生の資料を示しながらの報告であったと思われる。『講演録』の末尾に示される出品目録が物語るところであろう。  塚本は大正5年(1916)東京で客死したという。『温古』77号の記事は、塚本所蔵の吉備文献の多くは東京上野図書館に送ってあったため、不幸にも関東大震災で烏有に帰したと伝えている。『講演録』に紹介された資料はもはや現存しないのであろうか。  当館では『講演録』のほか、その編になる『吉備群書解題』や「類纂虎倉物語」(『吉備郡書集成』第三巻所収)ほかを閲覧できる。
質問
(Question)
羽生永明の生涯について知りたい
回答
(Answer)
塚本吉彦と同じく吉備史談会の主要メンバーの一人で、平賀元義を世に紹介した功績で知られる。  明治元年(1868)に長野県で生まれる。本名は芳太郎、号は東洋。明治42年(1909)に永明と改名した。父は長野県飯田藩堀家家臣。  長野県尋常師範学校、国学院本科、選科を卒業した後、はじめ岩手県尋常師範学校に就職。  岡山との縁は、明治29年(1896)に岡山県岡山尋常中学校(岡山朝日高等学校の前身)の教諭として赴任したときに始まる。3年後の明治32年(1899)、郷土の歴史研究グループ吉備史談会が発足、それに幹事として参加し、岡山県の歌人、平賀元義について研究した。  羽生の研究成果は、明治33年(1900)1月21日より山陽新報上で「恋の平賀元義」と題して発表される。羽生の発表の形では8回だったが、それ以降井上通泰らからの意見・疑問が数多く新聞社に寄せられたため、思いがけず紙上で議論が沸騰し、最終的に26回の連載になった。これにより平賀元義という歌人を知った正岡子規は、明治34年に新聞「日本」での連載「墨汁一滴」で13回にわたって元義を紹介、その作品を絶賛している。  その後、羽生は長野で職を得て帰郷するが、明治39年(1906)には再度来岡する。金川中学校、西大寺高等女学校に教師として勤めながら、現在の久米郡柵原町の矢吹家に伝わる元義の数百部に及ぶ著作を調査した。これは後「平賀元義伝」としてまとめられるが、羽生本人の死去(昭和5年)、太平洋戦争などを経て世に出ることがなかったため、元義研究家の間では「幻の稿本」と呼ばれていた。  その原稿は昭和53年(1978)に東京の羽生家で発見され、昭和61年(1986)に山陽新聞社から「平賀元義」として出版された。元義研究の基本図書として高く評価されている。  なお、矢吹家に伝わる元義の原稿は、写真製本したものを当館で見ることができる。 【参考文献】 羽生永明の著作としては前出『平賀元義』のほか『平賀元義研究資料』羽生永明著文化センター製作がある。正岡子規の「墨汁一滴」は『子規全集第11 巻』/講談社1975 に収録されている。
ここで登場した史志研究家平賀元義は『西備名区』編纂者馬屋原重帯(しげよ)の古学的教養同様に今日的にいえば気の毒なほどお話にならない人ではあったが、この人は古川古松軒を軽く批判するなど結構鼻息の荒い地方文化人(郷学の先生)だった。
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