- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

パソコンでは無理だった高島平三郎家探し

2019年03月29日 | 高島平三郎研究

融道玄の記述から自分の実家から言えば「すぐ向こう側にあった」高島の家。


明治21年に帰省した融道玄の実家というのは恐らく小田勝太郎の生家のあった天神町内のそれを指すだろう(徹道男『祖父 融道玄の生涯』、勁草書房制作部、2013、27頁 「福山市深安郡福山町安西」とあるのは大いに誤りで”福山城下”位にしておこう)。
浜本鶴賓『福山藩の文人誌』に小田包貞として天神町居住とある(173頁)。濱野徳蔵(親父は小川某、息子は漢学者浜野源吉)の一族と思われる濱野文造(浜野知三郎の親父)として東町居住。
『慶応元年福山城下絵図』(同類の『廃藩直前の福山城下絵図』)を見るとその辺りには2,3軒ほど高島姓の武家屋敷が存在(昭和55年写本では一軒は高島ではなく島)。当然江戸屋敷住まいの高島錡之助(高島平三郎の親父)家はそこには記載されていないはずだが、本家を含め高島平三郎の親戚が2軒(東町の高島猪平と天神町の高島半蔵)の中には含まれていたのだと思う。小田勝太郎屋敷の近辺には(天神さんに至る道路沿いを)「すぐ向こう側にあった」高島の家という感じで大正8年以前、高嶋辰之助所有の居宅(天神丁南乙130番地)があった。これを『廃藩直前の福山城下絵図』記載の屋敷に合わせると、そこは高島半蔵の屋敷だったところで、この図面の中には小田という名字の付いた屋敷はない。小田勝太郎が天神町生まれだったことに間違いがなければ、おそらく「士長屋(敷)」内に生家があったのだろう。東町の高島猪平と天神町の高島半蔵
もしそうだとすれば明治21年当時の高島平三郎の実家は福山西町上小学校の学区から天神町の方へ転居していたことになる。また、小田勝太郎の母親小田芳(明治5年に夫銀八死亡後は未亡人、芳は明治38年歿)は天神町界隈にいた高島一族の人間からいろんな形で世話になっていたことは十分に考えられる。
銀八家は典型的な下級武士(「西備名区」記載の阿部家中の中では俸禄:金4両、2人扶持の御郡同心-小頭、勝太郎の親父銀八はやり手だっただろう、阿部正弘時代に蝦夷地探査のメンバーの一人)で、明治5年に三代目銀八が亡くなると次男・三男(坊の融道玄)は寺に預けられ、長男勝太郎は家族を養うために17歳の時(明治11年)には松永小学校(当時の校長は高橋新太郎、史伝作家高橋淡水の親父)の教員として働き始めている。
もし高島平三郎さんの戸籍謄本が入手できれば、以上述べてきたことの点の真偽を含めて、より一層事実解明が進展することだろう。

高嶋平三郎の姉・鎰子(イツ)は吉津(天神町の隣村)の寺尾三千助に嫁いでいた。その息子の一人が寺尾辰之助(明治12,3年頃の生まれ・・『高島先生教育報国60年』、171-172ページに寺尾の寄稿文)。高島辰之助と寺尾辰之助とは意外と同一人物であったかも・・・(一つの検討課題として、そう口にしてしまった私だが当時は親戚間でそんなことがよく見られたというだけで確たる証拠はない

【メモ】「阿部家中系図纂輯」という手稿本に小田原時代からの足軽:高島四郎左衛門定儀の子孫の記載がある。ただし、高島平三郎家は曾祖父が信義、祖父が信賢となり、通字が「信」、高島四郎左衛門定儀の子孫家の場合は「定」。家筋が異なっていることが判る。高島平三郎の系統は曹洞宗泉龍寺(広島県福山市霞町4-2-3)の門徒(確認済)。現在は古い墓石は郊外の某所(神辺・新市方面)に移転と住職。いまは檀家に高島姓はないとのことだった。高島平三郎の父親の墓は泉龍寺境内ではなく、城北の木ノ庄墓地(城北中学北側・・・現存する門田重長墓近くだった)。
曹洞宗・真宗など最近は個人情報ということで坊さんは檀家のルーツに関してはほぼ沈黙(最近ある人物の墓石を調べてみたが、寺の住職は過去帳をPCで管理していて、私の目の前で正しく情報提供してくれたので、この辺は個人情報云々というよりもその寺院のPCなどを導入した最新の情報管理の存否の問題も影響していそう)。

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またしても城北探検

2019年03月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

本日は資料取りモードで出かけた。

北吉津の實相寺境内のモクレン。


山門を上ると・・・・  三浦・内藤など福山藩の重臣の墓地が目立った。上田勘解由は水野家の家老の家筋(上田玄蕃の弟)。この玄蕃は本庄重政の嫁の実家の人。副住職の案内を受けて小田勝太郎墓地へ。あとで小田勝太郎の写真帳を見せてもらった。すごく画質の良い簡易製本の写真帳だった。『法鏡山実相寺 復興の秘密』というタイトルの本(寺院観光用限定・・テレビディレクターを称する著者だが、中身はなし)を頂いた。なかなか気の利く住職夫人だった。


この寺でも雨乞行事が行われたようだ。


小田銀八夫婦・その子勝太郎(笠付墓、高島平三郎の友人、柔道家)夫婦の墓。小田勝太郎の弟が融道玄
銀八については『西備名区』に御郡同心として金4両・二人扶持とある(『備後叢書・3巻』、732頁内容的には寛政末年の分限帳のもの)。【追記】「小田銀八」の名前は幕末期に蝦夷地に派遣された福山藩士の中や文化13年改訂版「沼隈郡東村検地帳」(要確認)の検地役人(山林奉行か山奉行のような役職まで出世)の中でもお目にかかったことがある。


江木鰐水(てか、福山藩医家五十川)家の墓地だ。江木千之は5歳で亡くなった鰐水の次男。五十川は福山藩医の家系だが、鰐水の嫁さんの家と繋がる。偶然発見。その後注目して探してみたが五十川訒堂墓はいまのところ未確認。だが、ここにあるらしい(千之墓の隣の五十川某がそれか、要確認)。



近世墓の学習用画像、台座が台形、宝篋印塔の形状、お墓のサイズや形状は今津薬師寺墓地にある神村屋石井家の江戸中期墓と同じだが、戒名が・・・三浦氏は院澱号+大居士、石井家は信士。

実相寺から市内を展望・・・・遠方の山塊の右端部分に最高所:熊ヶ峰


木之庄5丁目の地神


高橋碧山の医学の先生:寺地強平のお墓@仁伍の神道墓地。『備後国名勝巡覧大絵図』に”序文”を寄せた人物だ。福山医学の祖。

仁伍の神道墓地(西端部分)のパノラマ写真。


門田重長墓(儒者墓というよりも神道系の墓石)より河相保四郎家墓地を展望。土塀囲まれた河相墓地の手前に福田禄太郎墓、門田重長墓周辺には墓じまいしたのか空き地が散見されたが、もしかするとまさにその場所を含めて、この一帯には高島平三郎の両親の墓があったか。『得能正通年譜2』にはこのように記述されているので其れで良いのだろうと思う。調査開始からまる4年、やっと高島賢齊墓の場所が判明した。


福山市木之庄町尾ノ上共用墓地全景


塀に囲まれた河相保四郎一家の墓地。外務省事務次官・河相達夫(松永浚明館で高島平三郎と出会った後の東京帝大医科教授永井潜の実弟)のお墓でもある。息子が太郎。




河相達夫の息子:河相 洌⇒孫:河相周夫(外務次官→侍従長→上皇侍従長)河相 洌と河相周夫の親族関係については要確認。



本日の最大の成果は①福山城博物館で『廃藩直前福山城下地図』の復刻版を購入。この中に。東町に高嶋」という苗字の士族屋敷が一軒、そして天神町に1軒あることが確かめられたこと(ただ小田という姓の士族屋敷は不在であった)。②文化期の江戸丸山藩邸屋敷図中に「高嶋」を見つけた。これが高島平三郎とどうつながるのか、つながらないのか今後の検討課題だ(併せて高島が入学したのは福山西町上小学校、天神町生まれの融は当然福山東町小学校 この辺の違いをどう理解するべきか)。
なお、『廃藩直前福山城下地図』中の江木鰐水(繁太郎)屋敷は藩校誠之館の北隣りにあった。
膝の具合がよくないので、効率的に調査活動を進めるため駅前からタクシーで目的地へ。あとは歩行。

北吉津の地神。木之庄でも地神をみた。


実相寺着・・・12時21分~12時58分
地神・・・・・・・13時13分
仁伍の神道墓地で寺地強平墓発見・・・・13時21分
河相保四郎一家墓地・・・・13時30分
城北中学通過・・・・・13時55分
福山城公園到着・・・・14時08分、館長に挨拶し、古地図類を購入し、早々に帰路に就く。・

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パソコン上で行う高島平三郎の旧居宅探し パート2

2019年03月25日 | 高島平三郎研究
今回は「パソコン上で行う高島平三郎(1865‐1946)の旧居宅探し」の続篇だ。
高島平三郎の友人小田勝太郎(1862‐1935)の弟:融道玄(1872-1918)が雑誌「新仏教」に掲載したエッセイの中にそれを考えるヒントがある。

融皈一という筆名で雑誌「新仏教」に投稿した文章の一部だ。この文の前に高楠順次郎のところに本を返しに行ったときに、高楠から密教の教理を研究するより、博物館がスタッフ不足で困っている仏教美術史家を目指したらどうかと言われ、融道玄は仏師の倅じゃあるまいし、こんなご時世に骨董品いじりなどしている暇などない、バカバカしいと憤慨していた。そういうプライドをもった鼻っ柱の強いところがあったのだろうか。そして最後に高島平三郎のことに触れ、つぎのように記述していた。
1903年、道玄41歳のことだった。


明治22年の夏休みといえば高島25歳の事。その数か月前に当たる明治21年10月22日に学習院幼稚舎取締になったところで、我が国における児童教育界のリーダー的存在に就き始めたころのこと。このとき融は18歳で第三高等中学校に入りたて。家が近所で、親同士が懇意で道玄の兄小田勝太郎と高島とが友人関係にあったことから融は高島とはすぐに仲良くなれたらしい。お互いにインテリ同志だという意識が強かったのか相当の英語かぶれだったようだ。参考までに高島と融の身長差は25センチ位はあっただろか。融道玄はいわゆる永井潜同様の神童で、典型的な山椒は小粒でもピリリと辛い&歯に衣を着せぬ人だった。
この文章から高島の家は道玄の実家の「すぐ向こう側」にあったらしい。ってことは高島は城北にではなく士族屋敷の一角を占めた天神町辺りに住んでいたのか。この辺の問題は徹底的に追究していくつもりだ。まず最初に

いずれにせよ「パソコン上で探す高島平三郎の旧宅探し」は前回提示の仮説の修正を急がなければなるまい。

参考までに融道玄(後年高野山大学教授)は東京帝大初代梵語学講座教授(1897年)の高楠順次郎(三原時代の長谷川櫻南の教え子)に盾を突くくらいの人間だったので姉崎正治のように東京帝大における高楠の後継教授にはなれなかったし、当時流行していた留学経験がなかったために3年先輩の鈴木大拙のように国際的な活躍をすることなく46歳の若さで亡くなってしまう。高楠も姉崎も留学経験が豊富で、相当の語学の達人だった。


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松永史談会2019‐4例会のご案内

2019年03月25日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2019‐4例会のご案内

日時と場所
4月26日(金曜日)、午後1時半
3月例会と同じ、東村・石井さんのお宅

晴天時には15:30~16:30をめどに小学校の屋上より「屏風絵に描かれた『遺芳湾』」の実景を展望。

話題 福山の嘯雲嶋業(しょううんとうぎょう)編「備後国名勝巡覧大絵図(復刻版)」について。 


虚実を交えながら備後国および当該国内14郡の成立過程を説明。この中に嘯雲嶋業(メモ:金嶋嘯雲の方は明治25年に67歳なので、万延元年と言えば33歳。これが嘯雲嶋業その人であったのか否か。明治維新後さびれた福山から尾道に転居したヵ。どうなんだろ。)類似の人名の尾道図模写者:金嶋嘯雲)の神儒仏が渾然一体となったユニークな(=前科学的)思惟・思考の一端が垣間見れる(検討中)。

76-8 福山 嘯雲嶋業製 - 彫刀 西備福山 學古堂 萬延元年庚申二月發行 木版(彩色) 1舗 141.3×122.6cm(30.1×16.7cm) 舟里漁翁
印記: 蘆田文庫, 蘆田伊人圖書記
注記・解題: 袋付。出版者として「京都書林」とのみあり。その下は板木を削りとったと見える。袋の表に「清溪堂」「嘯雲字成賀」(朱角印)あり。裏に嘯雲堂著の近刊広告あり。この部分でも「皇都書肆」の下の板木を削りとっている。道路の朱は色刷り。

松平亮『東備郡村誌 高島』、天保8年

【解説】嘯雲嶋業と松平亮とはともに吉備国のルーツ説明を『大成経』の黄蕨譚に依拠。両者の違いは後者はこの典拠を明示の上、そういえばという形で高島宮旧跡付近には蕨が繁茂するというような話(根も葉もない話に現実味を付与.本居宣長『古事記伝』の主張を受け入れるかたちで、高島宮に関しては断定は避けながらも備前・高島は狭小すぎるとして、児島・宮之浦のほうがふさわしいと見ていた)を展開。ただ『大成経』が言うところの黄蕨⇒吉備説は疑問視し、代わりに寸簸(きび)⇒吉備説を提示。さらに備前の名山:箕山は「簸の山」の起源になった山だとし、ここからスサノオの八岐大蛇退治神話と連結した簸川⇒「簸(み)の山」説へと暴走。それに対し嘯雲嶋業の方は、どうも松平亮『東備郡村誌』の件は知っていたように思われるのだが、『大成経』の黄蕨(きび)譚を不正確に引用しながら、かつその典拠をさりげなく隠蔽(沈黙)、その上で五行思想の中での黄色の色彩象徴を下敷きにしつつ黄蕨国(「当国」=吉備国)が八州(=おおやしま)の中央だとの一歩踏み込んだ説明。神武天皇の高島宮の所在地を古都として捉え、その話は嘯雲嶋業の沼隈郡・宮崎村説へとつながっていく。この説は国府犀東『神武天皇鳳蹟志』(73-91頁)が紹介している通り、菅茶山『福山志料』説(巻之29、弁説・名勝雑事 「高島」)そのものだった。
嘯雲嶋業と松平亮といったある程度教養を身につけた御仁たちの学知的水準といったものも今から考えればその程度のものだったわけだ。
資料

ネット公開中の海図@東北大学

岩礁情報はこちらが豊富国土地理院の沼隈半島南部のゾワイ


『大成経』には言及のない神道研究家の労作。


国文学研究資料館蔵『備後国名勝巡覧大絵図

金嶋嘯雲関連のメモ
資料に関する注記

一般注記:
タイトル注記:原題簽存(中央双辺)。内題「備後国御調郡尾道市街地絵図」。
縹色表紙。表紙寸法18.5/12.9。書写者金嶋嘯雲は伝不詳。尾道の人か。
カテゴリ名:無し
資料の種別:地理 地図
資料の分類:一枚物-地理 地図 地方図 山陽道
公開範囲:ウェブ公開
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資料詳細
内容細目:
備後尾道市街の略地図。寺院と神社名、及び僅かの地名を注記する。彩色入り(山は緑、海は藍、道路は代赭色)。亀山士綱編『尾道志稿』(文化11年成)に拠るもので、図の右に尾道の建置沿革、諸方道法、名臣について補訂記事を記す。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)
解題・解説:
冒頭に書写識語「此ノ図ハ文化十三年丙子孟春尾道処士亀山士綱著ハス処尾道志十一冊第十之巻中ニ図スルヲ模写スル所也余地図ノ癖アリテ此書閲センコト既ニ年アリト雖得ル不能一日葛西喜水翁ト閑談ノ折リ其書籍ハ予カ家ニ蔵セリト乃チ借覧ヲ乞フ翁コレヲ赦ス仍テ熟読スルコト再三ニ至リ頗ル地勢沿革ヲ悟リ心欣然トシ老筆ヲ揮ヒ僅カ脱漏ヲ補フ明治廿五年壬辰八月四日六十七歳ノ老夫金嶋嘯雲此日陰雲醸雨嗚呼暑熱難堪」。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)








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太田屋杉谷氏の親類縁者は健在か

2019年03月24日 | 断想および雑談

31歳で病死した国太郎の戒名は「靖心義範居士」。弟が漢文体の墓誌に書いていたように、いい人だったのだろ。

お彼岸なので申し訳程度に榊が手向けられていた。よかったよかった

関連記事
なお、むかしの話になるが沼隈郡今津村に地権者としての杉谷氏はなし(ただし、松永町の今津島には地権者として杉谷姓あり)。
昭和10年代の神社総代に杉谷(渡辺)という人物。


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沼隈郡今津村にあったもう一つの中世宝篋印塔

2019年03月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
相輪部は宝珠・伏鉢部分が欠損、九輪部分も過半が欠失。笠部分の隅飾りは心持ち外側へ傾き、隈取が二重線(2弧)。塔身部の4面に薬研彫りのキリーク(金剛界四仏の種字)・・・東西南北の向きに誤り有。南面する正面側に阿閦如来(あしゅくにょらい)⇒東が来ている。基礎部分の格狭間(こうざま)は花頭曲線の左右方向への張りがあり、内側も彫りこんでいる。現在残っている部分の高さは110センチ。

歴代住職の墓石に交じり、中世の宝篋印塔。この宝篋印塔は事情が判らず、ここに運びこまれたもの。わたしの朧げな記憶では付近のどこかにあった宝篋印塔だ。


法量


これまでルポしてきた今津村の宝篋印塔(この宝篋印塔は現在は削平して駐車場になっている旧岡見山の上にあった。この一帯は中世の金剛寺境内地)



沼隈郡今津村における中世宝篋印塔が薬師寺関係の場所に存在した。
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『万延元(1860)年備後国名勝巡覧大絵図』-古地図研究の面白さ・3ー

2019年03月23日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
保安庁のHPからの引用だが、いかのような記述が目に留まった。
瀬戸内海の浅瀬名(普通名称)
 
 この海域の浅瀬名をその数の多い順に列記すると瀬、石、岩、磯、ソワイ (ソワ)、出シ、州、碆、礁、藻、ツガイ、ソノ、アサリ、喰合などがある。このうち「出シ」「ツガイ」「喰合」はこれら暗礁の位置を探し出す目的で付与された特別な呼び名で、航海・漁業用語ともいえるものである。

この「ぞわい」(隠顕岩=海岸などで干潮時には水面上に現れ、満潮時には水面下に沈んでしまう岩)という言葉自体は国土地理院の地形図にも記載があり、既知の事ではあったが、それが近世絵図にも記載されていた点が今回は注目された訳だ。この点は『備後国名勝巡覧大絵図』の大きな特徴を示すものだともいえよう。
この地図史料は広島県立博物館にも所蔵されているようだが、今回初めて満井石井氏からの紹介で知った。
この穏健岩の所在地を示すと思われる「ソワ」の注記のある『万延元年備後国名勝巡覧大絵図』がこちら。


宮内省書陵部のサイトより直接閲覧されたい→Googleで『備後国名勝巡覧大絵図』を検索。


蛇足ながら


当時一般に流通していたのは今津・剣社(古社)・陰陽石、高須・高諸神社(式内社)ということだったらしい。

こちらに比べると寛永の備後国絵図にみる芦田川の流域は相当に不正確だった。
使用されている地図記号・・・・当時流通していたものを採用しているわけだが、古城址のマークや神社マークなどは今日と同じものだ。

この種の地図史料の研究手順としては①記載された地域に関する情報密度の分布及び②近世地誌類との参照関係のチェックなどだが、第一印象としては比較的簡単に処理可能だ。郷土誌的には貴重な資料の一つだが地図史的には新鮮味はない。



金嶋嘯雲
資料に関する注記
一般注記:
タイトル注記:原題簽存(中央双辺)。内題「備後国御調郡尾道市街地絵図」。
縹色表紙。表紙寸法18.5/12.9。書写者金嶋嘯雲は伝不詳。尾道の人か。
カテゴリ名:無し
資料の種別:地理 地図
資料の分類:一枚物-地理 地図 地方図 山陽道
公開範囲:ウェブ公開
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資料詳細
内容細目:
備後尾道市街の略地図。寺院と神社名、及び僅かの地名を注記する。彩色入り(山は緑、海は藍、道路は代赭色)。亀山士綱編『尾道志稿』(文化11年成)に拠るもので、図の右に尾道の建置沿革、諸方道法、名臣について補訂記事を記す。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)
解題・解説:
冒頭に書写識語「此ノ図ハ文化十三年丙子孟春尾道処士亀山士綱著ハス処尾道志十一冊第十之巻中ニ図スルヲ模写スル所也余地図ノ癖アリテ此書閲センコト既ニ年アリト雖得ル不能一日葛西喜水翁ト閑談ノ折リ其書籍ハ予カ家ニ蔵セリト乃チ借覧ヲ乞フ翁コレヲ赦ス仍テ熟読スルコト再三ニ至リ頗ル地勢沿革ヲ悟リ心欣然トシ老筆ヲ揮ヒ僅カ脱漏ヲ補フ明治廿五年壬辰八月四日六十七歳ノ老夫金嶋嘯雲此日陰雲醸雨嗚呼暑熱難堪」。
(提供元: デジタルアーカイブシステムADEAC)

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大正通りの今昔

2019年03月18日 | 断想および雑談
今日午後は大正町通り(大正通りを指す)を探訪した。黒金屋・”番頭=集金人”行廣房吉家(息子は元中学校校長、1932年生)を訪ねちょっと聞き取り調査。後日再調査(現在再調査中…住宅リホーム時に黒金屋関係の帳簿類をすべて廃棄ヵ 本日の聞き取り調査中興味深い一言を耳にしたので来週あたりから真偽問題含め、資料面から逐一確認予定だ)。


写真左端、ガード下に「悪水」が東西に通過(大半が暗渠)。これが沼隈郡今津村と松永町との境界(上図中の黄色太い線)。




大正町通りと旧九州往還(国道二号線に包摂)の交差点より、南側、「大正通り商店会」。


国道二号線との交差点以北。大正町通り脇に鉄板カバーで暗渠化された農業水路=安毛川

鉄板カバー下に暗渠化された安毛川。大正町通りは旧九州往還の南北でズレ。写真奥側にJR駅に通じる商店街。

大正町通りの九州往還以北での戦後の区画整理後出現した旧特定郵便局(松永日の出町郵便局)の今。


区画整理反対派の意思表示→首なし地蔵




大正10年に開通した大正通り建設記念碑(36年建立)・・大正期における駅前地区の整備事業を発起した立神誠一(1866-1931)・井上寅吉・行広房吉を顕彰。こういう人たちの貢献なくして昭和期の松永市(とくに松永・今津地区)の発展は望めなかっただろ。




協賛者名碑


写真左端の駐車場看板奥に大正町通り商店街入口。正面アーケード街が日の出町


スラム・クリアランスや都心再開発、そして都市更新urban renewalが進まないのは・・・・都市行政の無策か、それとも複雑な地権者状況や・・・か

関連情報

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「地方文化開拓者」といわれた男

2019年03月15日 | 断想および雑談

三原乙吉(1864-1946)は今津町471に居住した御仁だ。不動産は昭和32年に山形武に名義変更(相続)されている



三原喜七の息子だったようだ。喜七は屋敷を担保に村上重右衛門に借金したようで、明治33年3月3日に乙吉が村上から買い戻している。炊事場のほかに2間しかない粗末なかやぶき屋根の家だった。むかし後継者の山形武は玄関先で、仕入れたウナギを器用にさばき、店で出すかば焼きの下ごしらえをよくしていた。時には家の前の溝を泳いでいるドジョウを捕まえ、それをいきなりかば焼きにすることもあった。こういうwildなことをする山形武さんのことだからアナゴやウナギのかば焼きに混ぜてドジョウのそれをお客にふるまっていたかもしれぬ。奥さんに関しては私の記憶にはほとんど残っていないのだが、仲居さんだということを子供のころ祖母から一度聞いた覚えがある。昭和32年に国道二号線が建設され、以後山形家の人々の消息は不明だ。今回見かけたお墓に榊が手向けられていたので山形さんを含む三原乙吉さんの親類縁者は健在なのだろ。




「地方文化開拓者」という言い方は聞きなれないやや力んだ表現だ。
念のため、矢野天哉『人生画帳』を調べてみたが、わかったのは文選堂という新聞雑誌販売店を経営した御仁だったってこと。それを捉えて地方文化開拓者と称していたわけだ。なるほど、なるほど定期購読者を増やす業務(市場開拓)は活字に縁のない人々の中に分け入って行くわけだから明治後半期においてはまさしく文明のすそ野を開拓する行為そのものだったろ。三原はそのことに関してなにがしかの矜持を持ち、使命感を抱いていたのだろうか。その後、『松永市本郷町誌』・本郷町誌年表/明治25年の項目に「今津村三原乙吉新聞配達業を始む」(953頁)とあることを確認した。新聞配達店の開業はまさにそのくらい画期的なことだった事が判ろう。なお、三原という苗字はこの地方では駅家(万能倉)・赤坂(長者原)に多い。
大正2年本殿再建費寄付者芳名碑

下の方に三原乙吉の名前


大正2年本殿再建費寄付者芳名碑に見る高額寄付者



なんとなくだが西組(剣大明神鳥居前の薬師寺所有地に居住)の「栄虎」とはやはり見栄の張り方からして平櫛民治郎かなぁ。これはわたしの勘だからあまり大きな声では言えない。

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猪原軍兵衛と上村貞良

2019年03月14日 | 断想および雑談
柳津・善立寺にある墓石
一つは上村貞良、今一つは家塾の先生猪原軍兵衛
上村は幕末期に九州よりこの地に寄留してきた医者


猪原軍兵衛は読み書きそろばんの先生として未だに記憶されている塾の先生、門人が建てたお墓。形状がちょっと変わっている。


猪原は鞆津出身の人だろうか

類似の墓石:渡辺金兵衛@西町の定福寺


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阿部藩政をめぐるもう一つの断想

2019年03月12日 | 断想および雑談

本郷町の清光寺(無住寺)といえば本郷村の石井一統(上古屋・下古屋・下土居・増古屋・南などの屋号を有する石井一統)の墓地のあるところだが、明治40年に松永町に転居した端古屋の墓地は今津薬師寺の石井家墓地に移動していた。


笠付墓が5基(スペースの関係で2基は笠部分を廃棄)ある。『松永市本郷町誌』431‐433、712‐713頁によれば近世中期における本郷村きっての豪農だったらしい。初代庄左衛門(寛保3年歿)、二代目又三郎(宝暦2殁)そして三代目蘭蔵(文化)5年歿の時代にあたる。近世後期には藤江村の岡本山路家が江木鰐水らとの交流を重ねていたが、これは福山藩側からすれば太い献金のパイプを構築し、それを維持するためでもあったのだろ(幕府の御尋ね者で尊皇思想の唱導者森田節斎をかくまうに当たっては山路機谷と坂谷朗蘆・江木鰐水らは同志的連帯をした)。江木鰐水が書いた山路機谷編『未開牡丹詩』の序文には岡本山路氏に対する軍資金拠出の件が赤裸々に記載されているし、江木鰐水日記を読めば郡奉行の浜野徳蔵(濱野家は城下東町の足軽、子孫健在、徳蔵の息子は漢学者濱野章吉)が大量の鉄砲代金を献納(万延2年3月7日条、『江木鰐水日記』上巻、297頁)していたことが判る。能吏でもあった、この浜野の場合は幕末期の窮乏する藩に対する忠誠心の大きさが、民衆への負担増を強いる形で立ち現れ、それが結局のところ民衆的な反感をかうところとなった構図が手に取るように見えてくる。
【注】『江木鰐水日記』下巻は明治4年9月20日条において、沼隈郡芸領接界の農民騒乱の中では笠井治右衛門(浦崎、向って左側の墓誌の撰文は江木鰐水)と今津の河本(保平)が槍玉に挙げられたと記述している(58頁)。明治維新期に福山藩の意向を受けて新涯開発を主導した津川右弓・濱野徳蔵(戒名は「順善院義徳日行居士」。浜野家墓地は長正寺だが、徳蔵墓は行方不明、息子の浜野源吉墓は境内墓地北側壁に無縁墓石群の中にある。同じく北側壁墓石群中の津田右弓墓の近辺)、笠井治右衛門・久井屋栄介(沼隈郡柳津村・・「人夫らに提供した粥は米粒が少なく水ばっかりで、これを啜ると腹を壊したと人夫らは噂し合った」という意味のことが兵庫県在住の西久井屋の子孫の方の備忘録に記載されていた)らだが明治3年の海嘯(大潮)で堤防が不運にも破壊され、これが周辺住民の夫役負担を倍増。ために明治4年の農民騒乱時にこれらの人たちはことごとく焼討ちの被害を被ったと同書は記述。

沼隈郡本郷村における「藩政末期の献金」については『松永市本郷町誌』684‐690頁が参考になる。この段階には藩主信仰が浸透していたのか農村内部の富裕層に限らず村民こぞって拠出に応じている。

菅茶山らは中山南の何鹿桑田氏同様、この端古屋石井家との交流も密にした。こうした在り方は福山藩の政策として、少数の家中だけで藩領を支配することの困難さを熟知していた(他所からの来住型=よそもの)藩主水野・阿氏らが採った、広範な在地勢力を効率的に統制するために一部の住民に対して特権(例えば受とか受所=収税・徴税の業務委託、江戸後期のことであるが御用商人の顔を持つ在方扶持人資格)を付与する形で在方の豪農・豪商層に育て上げ、彼らに寄生する形で藩政運営を行おうとしたことの所産であった。菅茶山ら文化人たちの役割は藩主側から言えば自らとこれら在地勢力側との接点、接着剤として機能することであったはずだ。豪商・豪農たちはひと時の栄華の夢を見ることが出来たが、家運が傾けば、簡単に別の豪農・豪商たちによって交代させられ歴史の表舞台からは消えていった。近世中期に全盛を迎える神村屋石井家・端古屋石井家であったが、いづれも阿部藩政の上述のようなやり方に翻弄された悲劇的な旧豪農層の例であった。
私にはこういう構図が見え隠れするのだが、研究レベルの話としては夢想や妄想を排し、具体的な証拠を提示しつつ手堅く議論をしていく必要があろう。
さて、昨日は90歳近い品のよい老婦人と息子さんがお墓参りにきていたので早速挨拶をしておいた。墓地がきれいに手入れされ本日はまことに晴れやかな気持ちで帰途に就くことが出来た。

赤点マークが江戸中期の神村石井家の墓石
赤マーク墓石の中に高さ1メートル以上の塔婆型墓石5,6基あるが、いづれも福山市沼隈町枝広本家の寛文―元禄期の墓石。

細かく見ていくと完全倒壊のものも・・・


神村石井五郎兵衛近次とあるが、神村石井氏⇒和田石井氏第四代(『松永市本郷町誌』、317頁)のこと(享保4年=1719年墓)。


大型の笠付墓は宝永6(1709)~宝暦9年(1759 ),舟形光背墓や板碑型墓石は18世紀前半期のもの。薬師寺の場合は本堂裏手に局限。現在は枝広(子孫によって管理されている)・神村屋石井系、尾道屋高橋(ともに放置・放任状態)・・・その他は不明。






濱野徳蔵家との姻戚関係を通じて本郷町金原(東金原)氏は幕末期に急速に富裕化)
渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』2、続日本史籍協会叢書、527-529頁に「山岡八十郎ノ諌死(かんし)」という項目があり、その中で安政元年3月の事として、山岡が近年異国船が頻繁に襲来し、そのための海防経費負担が福山藩内では上下を上げて生活困窮化に拍車をかけているという意見を、藩主阿部正弘に直訴する形で話した。藩主に直接意見を述べることは山岡の身分(元締め役)には許されないことであったようで、直訴が身分を越えた行為であるとの武家社会の慣例に従って、翌日切腹(諌死)をとげ責任をとったという。この話題は濱野『懐旧紀事-阿部正弘事蹟-』には登場しない。なお、山岡八十郎とは岡田吉顕の伯父。阿部藩政の犠牲者は御用商人(在郷商人=豪農)だけではなかった訳だ。

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今津村の木村さんあれこれ

2019年03月10日 | 断想および雑談
お墓参り方々、いろいろ調べごとをしてみた。

兄貴杉谷国太郎の3回忌に建てた墓に刻まれた弟福松の歌「きよらかな兄の心の奥深く秘めし切なさ知る人ぞ知る」。杉谷は6歳で父親と死別したようだが、大正7年に28歳の妻を失い、失意の中で7か月後の大正8年4月に31歳で病死していた。弟の歌はいささか文学的な感興に乏しいものだが、いばらの道を歩まざるを得なかった兄ではあったが、家業面でもそれをうまく軌道に乗せこれからというところだったか。福松は父親代わりのような国太郎の人柄に惹かれるものがあったのだろ。この杉谷国太郎さんは明治28年歿の太田屋初代・杉谷善助の息子に当たり、太田屋という呉服店を経営していた。

こちらはその近くに並び立つ明治の蕉風俳句/地方俳壇の宗匠福田桃洲とその弟子石井瓢水のお墓。演出されたほほえましい師弟愛というか息子石井亮吉の粋な計らいに拍手

前置きはこれくらいにして本題に入ろう。
大正3年当時、今津村372番地屋敷に居住した木村茂十(❶)。


その場所は三藤六平→明治31年三藤熊太郎→明治35矢野善助(矢野天哉の親父)が買得。どうも三藤六平以前は373番地の地権者:工藤文七(今津村757番屋敷居住の藤江屋工藤巳之助の親)がここも所有していたらしい。地租改正段階にはここを矢野善兵衛が買得。373番地は工藤文七→三藤喜三兵衛→明治29年三藤亦三郎→昭和17三藤克己→昭和24矢野寛次郎(若木屋)。
ってことは最初に挙げた372番屋敷に居住した木村茂十というのは矢野善助家の間借り人か借家人だったことになる。



その372番地とは九州往還沿いの吾妻橋東詰め、堤防下の地所を指した。

この地方で木村姓が多いのは近くでは芦品郡の福田や有地だが、木村茂十の場合他所から転住してきた家筋?
結論的に言えばNO!今津宿の旧家だったのだ。

すなわち沼隈郡今津村で古くからあった木村姓の世帯はと言えば726番地 木村駒吉(❷)only。この726番地は今津宿の旧問屋場(幕末明治初年には村上重右衛門→明治25年熊田佐助→明治27年天野又兵衛→明治33年橋本吉兵衛→明治34年沖村喜助→大正4年沖村徳三郎)の東隣。駒吉屋敷は明治41年に木村恒松(1882‐1930)・木村定吉→昭和9年木村理人(1917-1979)→同年・井上義郎(柿渋屋・倉庫として利用)へと地権者が移動していた。

1962年の住宅地に登場する木村は沖浜(α)と柳ノ内(β=寄高商店の裏手)の2軒だけ。後者の木村は場所的には372番地屋敷とは目と鼻の先ではあるが、前者の木村と同様に典型的な路地裏の居住者だった。
木村茂十は大正5年12月24 日に69歳で殁っしていた(合葬者の行年36歳の女性は大正5年11月15日殁)。この茂十一家の本家に当たる木村駒吉ー恒松ーー理人一家が恒松の死後何らかの事情で自宅を売り払い路地裏住まい(α)を余儀なくされていたことが、今回の調査で、判明した。合わせてこの一族のSK(1937-‐1974、実は私生児)は苦学して公立大に進学し、教師になっていたが若くして病死(本当は自殺)していたことを今回の墓石調査などで知った。そういえば高校時代の進学就職問題で悩んでいた時、SKが一度わたしの家をたずねて来て進学を進めたという親父の話を今でも思い出す。
なお、今回発見した木村家墓地内に木村茂十の孫「光善童子」のお墓を探したが見つからなかった。木村家の墓地は我が家の新墓地の近辺に立地するがいつも綺麗に除草されている。

てな状況で未だに木村浅次郎さんの出自に関しては把握しきれていない。
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断片的歴史情報の連結作業

2019年03月03日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

沼隈郡今津村旧剣大明神境内の寄進(奉納)物と寄進(奉納)者を引き合いに出しつつ、断片的歴史情報の連結作業を行ってみよう。 明治40年に今津村在住の木村浅治郎義光(福山藩では献金の対価として、金額の大小に応じる形で細かく細分化された武家社会の格式をそれを望む農民や商人に「切り売り」した(沼隈郡藤江村あたりでは村民の1割程度が自作農で、彼らはおおむねこういう格式ある名前を取得・・要確認)。木村浅治郎義光は浅治郎がそういう形で得たもの)が寄進した左右一対の立派な狛犬 昭和8年に神村出身・寺岡為次郎(昭和初期に塩田を購入した製塩業者)が寄進した石橋「亀園橋」。為次郎は寺岡七右衛門の子で、寺岡伍一の親族。今津島久井屋浜(現在K"s電機が立地)を没落した石井憲吉より大正4年5月25日に買得し、昭和4年に神村より今津村に転居(通称「柳町」)。同時期に今津島・三谷屋浜を買得するが、ここは昭和5年12月に石井清一(益田屋)に譲渡し、昭和7年2月には河本猛郎は大西浜と合わせて三谷屋浜を買得している。大西浜も三谷屋浜も塩田としては陸水(地下水や雨水)の流入が見られよくなかった。 亀園橋の文字はひょっとするとこの時代蓮花寺住職(1928-1938)をしていた石井友三郎(善学)のものか? 為次郎の場合は今津小学校の奉安澱(天皇と皇后の写真=御真影と教育勅語を納めていた建物)も寄贈したりしていた。 「神村出身」とあるので多少自己顕示&社会的承認の獲得のためといった打算が働いたかもしれぬが、今津に転居し、”どうぞよろしく”といった意味合いを込めた寄付行為でもあったのだっただろう。 明治24年に「式内社」の文字入り標注を寄進した芦品郡有磨村の河邨(河村)秀興(「河村太吉秀興」だったかどうかはいまのところ未確認) 芦品郡有磨村上有地の河村太吉は今津村の通称「沖田」にあった山路右衛門七所有地を没落(明治24年)時に大量に買得していった御仁(上有地村の産業資本家で豪農かがす河村氏)だ。福山町の河村秀行(1853-1918、蚕病消毒用の河村式噴霧器の考案者、福山市住吉町、画家鎌田呉陽第二子、河村秀行のお墓は福山木ノ庄・神道墓地で見かけたことあり)とこの河村太吉との関係及び、河村秀行と今津との関係については目下のところ不明(その後追調査済み・・・無関係)。。かれらと高諸神社に前述の標柱を寄進した有磨村の河邨(=村)秀興との関係についても同様だ。 これらの点は今後の解明していくべき課題だと思うが、山路所有の農地の買得と神社への「式内社」と書かれた標柱の寄進行為との間には何かしら繋がりがあるようにも思えるのだが・・・・残念ながらいまのところ確証は得られていない。 大正2年の境内社殿整備時の献金者芳名碑 文化10(1814)年に尾道の播磨屋松之助(1778-1838)が仲間2名とともに寄進した狛犬一対(@高諸神社)。 同時期に尾道のお寺に寄進された父親の供養塔 天保9年に60歳で没していた御当人のお墓。 関連記事 関連記事 麻生は大坂北浜で株取引をしていた人物(今津・柳町に大正10年に息子源平名義で、ハイセンスな庭園付の新居建設、明治期には吉井石井家の御曹司石井得雄と協働して花筵の海外輸出を手掛けた)、故郷へのUターンを契機にお剣さんにこのジャンボ標注を寄進したもの。当時流行した敬神観念 or 善意の発露という形式を借りた一種の誇示的消費行動(=必要性や実用的な価値だけでなく、それによって得られる周囲からの羨望(せんぼう)のまなざしや社会的承認の獲得を意識して行う消費行動)。典型的には森下仁丹創業者(森下博、沼隈郡鞆出身)や大坂で活躍した尾道出身の山口玄洞による社会事業への寄付行為とか社寺造営。
高諸神社南の前新開堤に植えられた千本松原(戦時中に松脂採取のため伐採)は天然痘封じの大願成就を記念して村民有志が植樹したもので当時の今津村民の敬神観念の在り方を伺わせるもの。 関連記事 【参考文献】 矢野天哉「高諸神社神明記 其の3」、雑誌まこと29-12、昭和14

拝殿西前にあった寛文13年鋳造の釣り鐘には「剣大明神」の社名。史実の改竄事例として高諸神社(式内社)が用いられた初見史料は再三指摘した通り安永期建造の「高諸神社石橋」。この社名変更を強く批判したのが菅茶山編『福山志料』。
高諸神社拝殿の西側前方に複数の岩で構成された「宮島さん」祠があるがその一角に「沼隈郡浦崎・田頭音次郎」寄進の石灯籠がある。寄進者の田頭音次郎は現在の尾道市浦崎町海老にかつて居住した久保屋田頭氏のことで音次郎は浦崎法運寺(曹洞宗)に永代供養料の石碑が立て、他所に転居。地元で聞き取りしたところ「瓦屋」を営んでいたとか(要確認)。

関連記事:三坂幸助(大正4年に現在の松永駅前地区にあった石井四郎三郎所有田地を競売時に買得した尾道土堂の人)
高諸神社境内の力石・注連を寄贈した向島西村及び東村の住人に関しては調査開始(2021年10月~)
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高島平三郎が敬愛した恩師門田重長のお墓探し

2019年03月02日 | 断想および雑談
史料取りを終え、歩いて駅まで引き返したが、膝の調子が悪いため、タクシーで高島平三郎の生家があった木之庄町へ(徒歩でも10数分程度の距離)。そこの通称仁伍墓地(木之庄町字尾ノ上)へ。高島は帰省(正確に言えば来福)した時は恩師門田重長のお墓参りをしていたらしい。
下車したところに興味深い墓石を発見高島平三郎の家は曹洞宗だったので、もしかしたらと思い写真に収めた。13時2分に付近で見つけた河村秀行翁(1853-1918、蚕病消毒用の河村式噴霧器の考案者、福山市住吉町、画家鎌田呉陽第二子))墓。 この河村氏を捉えて、墓地が近接することから、次に紹介する上有地出身の河村の一族だと誤解するところだったが、両者はまったく異なった系譜関係を有する人たちだった。T.ギロビッチ(『人間 この信じやすきもの-迷信・誤信はどうして生まれるか-』、新曜社)流の言い方をすればとかく人間は誤りやすく信じやすい。前後関係と因果関係を取り違えたり,ランダムデータに規則性を読み取ってしまったり,願望から事実を歪めて解釈したりする。2つの河村氏を十分吟味もせず、お墓が隣接しているからという理由だけで同族だと見なしてしまうといった誤謬は前後関係と因果関係の取り違えとか願望や期待が多き過ぎると惹起されやすくなる認知的とか動機的とか言った類の誤解に当たるのだろ。
墓誌を書いた平川良坪は山路機谷のところに厄介になっていた森田節斎の弟子平川鴨里のこと。

ちょっと離れた処(城見町の本行寺管理の墓地の中)にあった河村墓。こちらには出身地上有地の記載があった。


13時9分




13時18分 門田重長(1831-1915)墓(Y)を発見。この門田は森戸辰男の恩師でもあった人だがすでに無縁墓状態だった。ちょっと気の毒  安部諭吉は高島の両親の墓とこの門田のお墓を「ほど近き」(安部諭吉「晴洲高島平三郎先生」、『高島先生 教育報国60年』、昭和16、188-192頁)と説明しているので賢斎夫婦墓も同じ仁伍地区にあったのだろ。
参考)洞林寺境内の北条悔堂墓



13時43分。墓地全体をブラブラしていて思いがけなく福田禄太郎墓(昭和12年建立)発見。禄太郎(1865-1931)は昭和6年歿、享年66歳。墓石には69歳で亡くなった夫人(1872-1941)と55歳(1898--1953)・32歳(1927-1959)で没した子息と孫2名+昭和60年歿寿実子(孫娘、1920-1985)享年65歳とあった。福田家の家族関係・家族状況が透かし見えてきそうな佇まいだ。

福山市木之庄町尾ノ上共用墓地。奥津城と書いた神道墓もたくさん見かけた。

東京帝大・生理学教室教授永井潜の弟・達夫が養子に行った河相保四郎家の墓地だ。仁伍墓地ではひときわ目立つ。白壁の塀に囲まれ、「河相保四郎一族之墓」と書かれた墓石が一基あるのみ(木之庄村字尾ノ上421番地、大正11年西町河相達夫名義で買得
。この土地は同年福山市へ移管。河相は大正12年に449番-2,450番の山畑も買得。こちらは農地解放で人手に渡る)。整理整頓が行き届いていた。河相達夫(1889-1966)は外務次官まで上り詰めた外務官僚だったが、10歳年下だった同郷の池田勇人(大蔵官僚→首相)とはなんとなくそりが合わなかったようだ。
達夫の婿入り先(明治期に最も栄えていた千田村庄屋河相家の分家筋:河相源三郎家の分家)が、幼少期からの知己で終生永井潜と家族付き合いしていた高島平三郎の御膝元であったとは・・・・。達夫の嫁は河相保四郎の養女となった、姪:河相トミ。



一応所期の目的を達したので、駅まで引き返す。高島平三郎の親父賢斎墓(明治25年歿)の傍には桜の木を植えたと書かれていた。空中写真ではその判読は難しいので、もし次に行く機会があったら木之庄~北吉津(實相寺)地区の墓地でその点(樹齢120年の桜木)を捜索をしてみよう。

古第三紀暁新世 の堆積物だろうか。福山城の立地する常興寺丘陵と同じ。











14時14分。所要70分間の門田重長墓探し旅であった。わりと今回も簡単だった。さてA~Dは何だったでしょ?
いま高島の生家のあった場所に関して、高島が残した文章からわたしが勝手に推察して水野勝俊墓のある日蓮宗の妙政寺墓地からA/Bにかけての丘陵部と睨んでいるのだが・・・・。さてさて実際はどうだったのだろ。

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