- 松永史談会 -

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御用学者&皇国史観の喧伝者平泉澄(ひらいずみ きよし):東京帝大旧職員インタビュー記事

2014年11月26日 | 教養(Culture)

平泉澄(1895-1984):東京帝大旧職員インタビュー

平泉の経歴

東京大学文書館紀要 第15号 1997(平成9)年3月
表紙(目次・奥付)
論説
帝国大学体制形成に関する史的研究―初代総長渡辺洪基時代を中心にして―(中野 実)
資料
大学予備教育における普通教育の位置づけ
―明治三十五年学制改革案に対する二つのモデル―(所澤 潤)
学徒動員・学徒出陣関係『文部省往復』件名目録(昭和十二~二十年)
東京大学旧職員インタビュー(3)
平泉 澄氏インタビュー(三)


明治20年ころの東京帝大の本郷キャンパス内には狐が出没したという話から、震災後初めての会合とは関東大震災後初めての意味だろ。その震災後大正12年10月27日に日本学会と文科大学合同の学会が開かれ、平泉澄(1895-1984)は「対馬のアジールについて」(後に平泉『中世に於ける社寺と社会との関係』、一九二六年に収録)、金田一京助(1882-1971)は「アイヌの歌謡について」の研究報告を行った。その時の出席者に文科大学の井上哲次郎と高島平三郎らがいたという話だ。当時の高島はその何日か後には南満州鉄道会社の招請で満州に出かけている。当時平泉は28歳(高島の長男文雄/東京帝大法科卒とは同じ年齢)で東京帝大講師に就任直後、高島は59歳。平泉にとっては高島は著名な心理学の大先生に思えた事だろ。大正9年に起こる森戸辰男筆禍事件(「クロポトキンの社会思想の研究」、森戸家は旧福山藩士の出身、森戸辰男自身は高島が誠之舎舎長時代の寮生)の話題も語られているが、大正8年には高島が影響力を行使してきた洛陽堂からは上杉慎吉『暴風来』が上梓されたりしていた。


題字には特徴がある、多分前田剛二制作だろ




筆禍事件で大騒ぎしたのは、周知通り、上杉慎吉を中心とする興国同志会の面々。上杉らは森戸論文は「学術の研究に非ず、純然たる無政府主義の宣伝」と攻撃。
高島平三郎は郷党の後輩:森戸辰男に纏わる本筆禍事件をどのように受け止めていたのだろ。
森戸がかつていた大原研究所には労働衛生の専門家として永井潜の弟子が入所していた。


大正12年11月の中世史関係の平泉の講義には聴講生として女性方がたくさん出席していたようだ。若手歴史家ホープということで大人気だっただろ。花井卓蔵の娘(のちの検事総長夫人)、のちの松村兼三文部大臣夫人・旧姓平山ヒサ・・・・。東京帝大の聴講生になる女性たちの中には専ら結婚相手探しが目的の人もいたのだろか。

「対馬のアジール」に注目した網野善彦『無縁・公界・楽』に関して甥の中沢新一『僕の叔父さん 網野善彦』
「帰り際に網野さんから手渡された、平泉澄の著作『中世に於ける社寺と社会との関係』(一九二六年)を小脇にかかえて、名古屋駅から新幹線に乗り込んだのは、たしか一九七六年かその翌年のことだったと記憶する。その本の第三章をとくによく読んで、あとで意見を聞かせてほしいと言われたのだ。そこには「アジール」の問題が取り上げられている。その論文はたぶん、この主題をめぐって日本人が書いたはじめての研究だ。内容はたしかに画期的だが、そこには克服すべき多くの問題点が含まれている。しかし、その克服の作業はまだじゅうぶんにおこなわれたことがない。宗教学から見て、この本の価値をどう判断するか、よく考えてみてくれないかというのだった。
--略--
若き平泉澄の知的冒険ー対馬のアジール
大正八年の五月、当時まだ大学院に入りたての学生だった平泉澄は、玄界灘を越えて対馬に渡っている。古記録に散見する、対馬の天童山周辺に実在したという「アジール」の痕跡を確かめる旅であった。これについていちばん古い記録は、朝鮮の魚叔権が著した『稗官雑記』にある、つぎのような記事である。
「南北に高山あり、みな天神と名づく。南を子神と称し、北を母神と称する。家々では素齪をもってこれを祭る。山の草木と禽獣をあえて犯す者なく、罪人が神堂に走り入れば、すなわちあえて追捕せずと」(中沢による読み下し)

南北にそびえる高山とあるのは、南岳は豆酸村の龍良山をさし、北岳は佐護村の天童(道)山をさすと伝えられる。いずれも実在の場所であり、十六世紀後半に書かれたこの記事が信用するに足るものとすれば、かつて天童山周辺の山林ではいっさいの動物や植物を傷つけることが禁じられ、罪人でさえその山林に走り込んでしまえば、もう世俗の法の力の及ばない領域に入ってしまったとして、人々は追捕をあきらめなければならなかった。人類学的に見ても、これはまぎれもないアジールである。「野生の思考」が活発な働きをおこなっていた頃には、人間は自分たちの生きている世界を、社会的な規則がつくりあげている「文化」の領域と、動物や植物の生命を生み出しているトランセンデンタル(超越論的な バルタン注)な力の支配する「自然」の領域とのふたつに分けて、ものごとの意味を思考しようとしていた社会的な規則の支配できる領域は、まだ今のように地球上に全面化されていなかった。それは人問の開墾した狭い領域に限られていたため、自然の根源につながるトランセンデンタルな力の充満している領域は、「神のみそなわすところ」として、社会的な規則や法の支配圏の外部に置かれたのである。」
超越論的な力の支配する場として対馬のアジールを口にし出すと中沢新一のように堕落した観念の遊戯に帰結してしまう(フッサールの超越論的現象学から着想を得て使っているのだと思うが、観念の遊戯という面では丸山真男のいう「歴史意識の古層」と同類)。網野善彦の場合『無縁・公界・楽』はその超越論的な力の支配する場が有する絶対的自由の特殊中世日本的発現形態として仮構されており、(網野は素晴らしい感性をもった大学者だが、)こうなってくると、もはやまじめな学知的論争をいくらやっても無駄な様な気がする。

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高島米峰のユーモア

2014年11月24日 | 教養(Culture)
『高島先生教育報国60年』に寄稿した高島米峰のユーモアも中々だったが、融道男『祖父 融道玄の生涯』、勁草書房,平成25、234P.に収録された高島米峰も中々、米峰らしい。

後略の文章だが、女人禁制の高野山に肉食妻帯という異文化(破戒行為)を持ち込み、それを押し通した「新仏教」提唱者融道玄の図太い神経と奥さんの心理状態に同情を寄せた一文だが、ここでも「米峰節」全開! 省略部分は引用先の融道男『祖父 融道玄の生涯』か、収録雑誌「新仏教」で直接読んでほしい。

新仏教11-1、1910、pp41-42








高嶋米峰自叙伝,高嶋米峰、学風書院、昭25
米峰回顧談,高島米峰、昭26、初(続高島米峰自叙伝・装〔百穂〕)

雑誌「新仏教」論説集
・・・・・雑誌に掲載されたはずの短報などの記事は所収されていない。雑誌の元版は京都の龍谷大学図書館(西本願寺近く)が所蔵。復刻(CDーROM)版は国会図書館など。

融道玄と鈴木大拙とは同年代、東京帝大は鈴木が卒業した年に相前後して融が入学する。前者はスペイン風邪が悪化して46歳で亡くなり今ではほぼ世間的には忘れられた存在、鈴木は「近代日本におけるもっとも偉大な仏教者」として賞賛され、文化勲章も受章。
融道玄と高島平三郎は子供時代からの知り合い。道玄の兄貴:小田勝太郎と高島はともに講道館で柔道を学んだ。
道玄と高島米峰はともに宗教学者で、同志的間柄。高島平三郎と米峰は東洋大学の教員で、ともにそこの学長経験者。両者は道玄を媒介としながら親密な間柄だった。





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融道玄(1872-1918)ー高島平三郎の幼馴染

2014年11月18日 | 断想および雑談
「近代日本における知識人宗教運動の言説空間
―『新佛教』の思想史・文化史的研究」

The Discursive Space of an Intellectual Religious Movement in Modern
Japan : a Study of the "Shin Bukkyo" Journal from the viewpoint of the
History of Culture and Thought
科学研究費補助金基盤研究B 研究課題番号 20320016
2008 年度~2011 年度
代表:吉永進一(舞鶴工業高等専門学校)

◎融 道玄(とおる どうげん
生没年 未詳
(1)略歴
広島県福山の生まれ。真言宗僧侶。高野山大学教授。生年・家族構成共に不詳であるが、高島平三郎と同郷であり、かつ融の実家は高島の家の「すぐ向ふ側」にあったという。融の実母が高島家に世話になっていたとしているので、父を早くに亡くしている可能性がある(「他人の疝気」4-11)。
1883(明治16)年から84(明治17)年にかけて備中の寺にいたとあるが、詳細は不明。しかし融の師僧である葦原寂照(1833~1913)が岡山県出身であり、岡山では東雲院や性徳院にあったという(『密教大辞典』)。
1888(明治21)年に第三高等中学校に入学する。当初は宗像逸郎の家に寄宿していたが、その後中沼清蔵の家に移ったという。中沼家には有馬祐政も寄宿していたと回顧している(「山のたより」13-3)。
1894(明治27)年に東京の誠之舎という旧福山藩人の寄宿舎に入り、1895(明治28)年に東京帝国大学文科哲学科に入学。1896(明治29)年頃には本郷台町の北辰館に下宿しており、北辰館では三島簸川と同室であった。またこの頃から釈尾旭邦と交友があったという(「一日一信」8-9)。1898(明治31)年に同大学を卒業。同窓生に朝永三十郎、近角常観、吉田静致らがおり、朝永とは手紙のやり取りを続けていたようである(「一日一信」8-9)。同年、
同大学院に進み「密教ノ教理及其発達」という研究題目で1903(明治36)年まで在籍。
仏教清徒同志会の設立に際して創設者の一人であるが、当時の活動については明らかではない。『新佛教』上には宗教・宗教学に関する論説を多く翻訳しており、この時期にケアードの『宗教進化論』を訳出している。
1909(明治42)年末に、融が高野山大学の教授兼教務主任として現地に赴くことになったことを受けて送別会が行われているが、既に1905(明治38)年頃に高野山の大学林に関係しているような文章がある(「南山の一月」6-2)。なお送別会には同志会の中心的な人物の多くが参加しており、融の同志会における交友関係が窺われる。
送別会の段階で融には既に妻子があったようであるが、1912(明治45)年頃に高野山中の準別格本山自性院にて一家五人で暮らしていると述べている(「山のたより」13-3)。
1913(大正2)年2 月に融の師僧である葦原寂照が死去。葦原が京都高尾山神護寺の住職であったため、融は神護寺の住職となるべく京都に向かったという(「人、事、物」14-4)。
後、同年7 月には藤井瑞枝(=妙頑禅尼)を高野山で案内しており、その際に藤井は融のことを高野山新派の驍将であるとしている(妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。なお、この藤井の紀行記において、東寺の総黌(現、種智院大学)に高野山大学を合併するという動きがあることが述べられているが、おそらく藤井の訪高野山後に融はこの問題に関連して文部省に陳情している(「人、事、物」14-8)。
その後の消息は不明であるが、1917 年の『現代仏教家人名辞典』に神護寺の住職を勤めていること、権小僧都であることが述べられており、かつ高野山大学教授として高名であるとされている。

(2)年譜
未詳 広島県、福山に生まれる。生年・家族構成共に不詳。
1883-4 この頃備中の寺(未詳)にいたという。
1888 第三高等中学校に入学。在学時にはまず宗像逸郎の家に寄宿し、その後中沼清蔵の家に移ったという。
1894 「東京丸山の阿部伯爵の前にある誠之舎と云ふ旧福山藩人の寄宿舎に入った」という。
1895 東京帝国大学文科哲学科入学。
1896 この頃本郷台町の北辰館に下宿し、三島簸川と同室であったという。
1898 東京帝国大学文科哲学科卒業、東京帝国大学大学院進学。研究テーマ「密教ノ教理及其発達」。
1903 東京帝国大学大学院に在学していた最終年度(翌年は名簿に名前がない)。
1905 この頃、高野山に滞在して学林に関係していたようであり、日露戦争戦勝祝賀の式を高野山小田原天神で挙げたという(「南山の一月」6-2)。
1909 高野山大学に教授兼教務主任として招かれ、現地に赴くことになる。12 月9 日に神田で送別会が行われ、同志会の主要な人物が集まった(「融道玄君送別会の記」11-1)。
1912 この頃、高野山中にある準別格本山自性院にて一家五人で暮らしているとのこと(「山のたより」13-3)。
1913 2 月19 日に師僧である葦原寂照が死去。これを受けて葦原が住職であった京都高尾山神護寺の住職になるべく高野山から京都に向かう(「人、事、物」14-4)。
7 月に藤井瑞枝(=妙頑禅尼)が高野山を訪れ、融はこれを案内(「私信の公開」14-8、妙頑禅尼「高野山奥の院と融先生」14-9)。
その後(7 月から8 月にかけての頃)上京して文部省に高野山大学問題について陳情(「人、事、物」14-8)。
その後の消息は未詳。
(3)著作
訳書としてエドワード・ケヤード著、融道玄訳『宗教進化論』(帝国百科全書、第128 編)
博文館、1905 がある(原本、Caird, Edward The Evolution of Religion, 1894)がある。



また河南休男、越山頼治との共著で『註解英文和訳辞典』東華堂、1909 年を出している。
(4)『新佛教』との関係
仏教清徒同志会の創設者の一人。融道玄、(融)帰一、(融)希山、(融)友世といった筆名で『新佛教』には70 本近くの寄稿をなしているが、やはり高野山に移った1910 年以降は寄稿が少なくなり廃刊号にも寄稿がない。
寄稿の多くは宗教学に関する論説の翻訳であり、宗教学に強い関心を持っていたことが窺われる。その集大成的なものとして11-1 に融道玄編述『宗教学』という全79 頁の冊子が附録として付けられている。これは融が編述したものであるが、冒頭でチーレ『宗教学綱要』(Tiele, Cornelis Petrus Elements of the science of religion, 2 vols. 1897-1899)、ジャストロウ『宗教研究』(Jastrow, Morris The study of religion, 1901)、プライデレル『宗教哲学』(Pfleiderer, Otto The Philosophy of Religion, 4 vols. 1886-1888)、ケヤード『宗教進化論』(前掲)、マックス・ミュラーの著作などを参考にしたとあり、当時の宗教学受容の一端を見て取る事ができるだろう。
融自身の著述としては、例えば2-5 の六綱領の解説では「迷信の勦絶」を担当しており、「平安時代の日本人は、加持や祈祷をよろこんでをッた。吾々にはこんなことでは満足ができぬ」としている。融が真言宗の僧侶であり、かつ後に高野山に招かれるように宗門との関係を保ち続けていくことを考え合わせると興味深い。
その一方で、「原始仏教と新仏教」(6-7)では『新佛教』で論じられている汎神論を「頗る自由なる進化論的汎神観」であると指摘した上で、しかしそれに基づいた「健全なる信仰」が「果して仏教なるや否やに疑なき能はず」として根本的な疑義を呈しており、同人の間での見解の違いが明らかになっている。
(5)関連事項
藤井瑞枝は高野山の紀行文において、融の見かけが高野山の阿闍梨風であるとしながら「これがどうして野山で公然たる肉食妻帯を主張された青年文学士であるなどと思へよう!?」としており(14-9)、かつてそのような主張を公にしたことが窺われる。
また関樸堂は融と田中治六の名を挙げて両者共に学究肌で真面目であると評している(「人物漫評(一)」7-11)。

(6)参考文献
『シリーズ日本の宗教学(4)宗教学の形成過程』クレス出版、2006 年(訳書の『宗教進化論』
所収)
東京帝国大学編『東京帝国大学卒業生氏名録』東京帝国大学、1926 年
『現代仏教家人名辞典』現代佛教家人名辭典刊行會、1917
写真が「新仏教編集員」写真(『新佛教』5-1)内にある。(星野靖二)  以上は全文引用(261-263頁)

同年代(融は1872年、姉崎は73年生まれ)の宗教学者姉崎 正治とは第三高等中学-東京帝大哲学科と同じコースを歩む。
融道玄は井上哲次郎門下(だが、明治30年に東京帝大に迎えられる高楠順次郎の薫陶をうけていたのだろか)。
融は井上円了の哲学館(東洋大学)を媒介として、境野哲、渡辺海旭、加藤玄智、田中治六、安藤弘、高嶋米峰、杉村縦横とつながっていた。後年高楠や高島平三郎は東洋大学の学長を務めた。

阿部貴子「真言僧侶たちの近代ー明治末期の『新仏教』と『六大新報』から、現代密教23号

、明治維新前後の廃仏毀釈により衰弱していた仏教者の意識を鼓舞し、仏教の近代化に邁進したものとして、大谷派の境野黄洋、本願寺派の高島米峰、浄土宗の渡辺海旭らによって明治三十二年に結成された「新仏教徒同志会」がある。その活動は吉田久一や柏原祐泉といった近代仏教研究者により論究され、綱要である「健全なる信仰・社会改善・自由討究・迷信勦断・旧来的制度儀式否定・政治権力からの独立」の六カ条は、今日でも明治仏教の特徴として語られている。
なかでも同会が特に強く主張したのは、非科学的迷信と利己的欲望に基づく「祈祷」の否定であったが、その「祈祷儀礼の排斥」運動が仏教界全体の主流だったわけではない。少なくとも古義・新義の真言僧侶が、都会で開催される演説会の議論に大きな影響を受けることはなかったと言ってよい。明治期の真言宗は、明治五年の一宗一管長制、明治十一年の分離独立(西部大教院・真言宗・新義派)、明治十二年の再統合、明治三十三年の分離独立(御室・高野・醍醐・大覚寺・智山・豊山)、明治四十年の四宗独立(東寺・山階・小野、泉涌寺)に直面し、これに拘わる内部論争で紛糾していたという事情が大きいだろう
) 1 (
。しかし、一部の若き真言僧侶―毛利柴庵、融道玄、古川流泉、和田性海、小林雨峰―が、宗団権力と離れたところで、「新仏教徒同志会」として活動していたことは注目すべきである。社会主義者で後に僧籍を剥奪された毛利柴庵以外に、学界で彼らの名前が挙がることは少ないが、いずれも明治三十三年七月に発刊された同会の会報誌『新仏教』において大きな役割を担っていた。
そのうち、融道玄、古川流泉、和田性海は、古義真言宗系の会報誌『六大新報』を創刊して学者や布教師として活動し、豊山派の小林雨峰は『加持世界』を創刊する。」

「○融道玄(皈一、帰一、希山)
融道玄は、これまで近代仏教研究者にほとんど注目されてこなかった。生没不詳であるが、明治三十八年にエドワード・ケヤード『宗教進化論』の翻訳を出版し、明治四十四年より高野山大学の教授となった人物である。「新仏教徒同志会」の評議員として活躍し、『新仏教』創刊号(明治三十三年七月)の「所謂根本義」では、輪廻転生や厭世観を排して中道に徹するべきであると示す
) 4 (
。また、翌年の「迷信の勦絶」では、「宗教の心髄は、理想を渇仰し発現するにありといってよい。…平安時代の日本人は加持や祈祷をよろこんでをッた、当時の性情には、これでもよかッたのである。吾々にはこんなことでは満足ができぬ。時代の精神といふものがあッて、時代に相応する理想を立てさしてをる…彼等を導いて吾々と同様に時代相応の理想を立てさせようといふのが、迷信勦絶の真意である。」と、迷信祈祷の排斥という新仏教運動の綱要を説明している。
) 5 (
しかし『新仏教』誌上では、最初期にこそ自らの主義を唱えるものの、その後は西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介に徹しており、後述するように、一貫してこの姿勢を保持したわけではなかった。」
tek_tekメモ:「西洋の宗教哲学や神秘思想の紹介」という部分だが、高野山には元東大助教授福来友吉が[物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行なった。1921年(大正10年)、真言宗立宣真高等女学校長、1926年(大正15年)から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授。]



融道男(道玄の長男で医師の紀一の子:精神科医で国立大学医学部名誉教授) 著 『祖父 融道玄の生涯』 勁草書房 平成25年。
この本は書店購入は出来ず、創造印刷 白井担当、TEL 042-485-4466(代)より購入可能だ(¥3000)・・・・実際に読んでみたが、道玄の著書(英語辞書や翻訳書など)や主な投稿雑誌の抄録など掲載するなど貴重な内容を含んでいるが史料としては”融道玄日記”など翻刻されていないなどやや残念な部分が目立つ。本書が融道玄研究の出発点となることを願う。
わたし?
①融と高島平三郎との関係、②融の父祖;福山藩士小田(おだ)家のルーツが芦品郡有地・字迫出身の迫氏で、本姓は小田(『備陽6郡誌』外篇・芦田郡之2・小田家系、『備後叢書・1』、536-39頁)と言う点、そして③融が新仏教運動に参加した当初の思想を曲げて加持祈祷を肯定するようになった経緯:福来の高野山大学への招へいが何か影響していたか否か、以上3点には興味があるが・・・・・・

雑誌「新仏教」CDーROM版
下有地の小田氏に関しては『備陽6郡誌・外篇 芦品郡の2』(備後叢書1、536-538頁に系図を掲載)、融道玄の兄貴勝太郎は柔道家で旧福山藩学生会の創設メンバーの一人で、柔道家・誠之館の柔道教師(嘉納治五郎の弟子、高島平三郎の友人)、親父の儀八の墓は福山実相寺にある。儀八は軽輩だったが山林奉行など務めた能吏で、一時期福山藩による蝦夷地探査にも関藤藤陰(石川和介)・寺地能平同様に派遣されている。
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『西備遠藤実記』に言う「大谷深山小田越」

2014年11月16日 | 断想および雑談
藩主阿部正倫(まさとも)時代の福山藩では幕藩体制中期の代表的農民一揆「福山藩天明一揆」が発生。その時の状況を江戸時代の藩主の福山藩領認識の欠如と藩主正倫に気に入られ総郡之御用惣掛にまで出世する遠藤弁蔵の当時の非情な施策とそれに反発して起こされた農民一揆(天明一揆)の領内諸村での動静を「西備遠藤実記」は詳細にルポしている。こちらは一種の告発本たる「西備遠藤実記」の紹介論文だ。




小田谷と大谷(旧本郷温泉峡)の間の馬背形の山体


現在祭礼で使われている高張提灯(尾道市高須町)




夜分、上有地から新庄村に抜けるときに道を間違って大谷深山小田越を行い、午後10時前後に本郷村庄屋石井宅に到着したという話だが、「大谷深山小田越」は旧福山市本郷町と芦品郡との境界部に位置する峠(溜池は小田池)だ。

元禄検地帳や宝永期の本郷村絵図に「小田(こだ)」という地名(二人の名請け人が居住した小集落地名、元文年中/1736-41年の小田池造成に伴い廃村化)が出てくる。また『村史』に小田池普請関係(何故か小田池は「月小田池」と記載、沼隈郡諸村挙げての夫役提供で完成)の文書がある。この辺は新庄奥山と称していた場所に当たり、「小田池」が現存し、その池の西縁に当たる山地斜面に湯女奥(ゆなおく:現在の本郷森林公園のある一帯)へ通じる古道(幅員1㍍強)の痕跡が断片的に残る。一帯は明治以後赤松が繁茂し、昭和30年ごろまではマツタケのたくさん採れたところ。

「小田谷」を北上し、図面では省略されているが元官林(御建山)とある部分に峠がある。それを越えて有地と新庄本郷とを結んだ古道上に「大谷深山小田越」があったわけだ。『西備遠藤実記』にはここを「凄々(すごすご)しくもたち越えて」と表現しているが、夜中に提灯の明かりを頼りに細い急坂を登った様をなかなか上手く表現している。

今津村保長に「河本膳左衛門」の名がみられるが、河本亀之助の親父さん。小前総代の中の「小川恒松」(わたしの高祖父の末弟)は『河本亀之助追悼録』に亀之助が東京に出発する前にあいさつ回りに訪れた人物の一人。お世話になっていたのだろ。
戸長河本幹之丞は河本本家のご当主で、餞別50銭を亀之助に渡している。永年今津村の村長を務めた。
村上専三は松永村郷侍の島屋村上氏ご当主の公儀名。
絵図面は近世以来の懸案事項であった新庄奥山の入会山の分割相論時のもので、この山論は昭和12年大審院判決が出るまで続いた。

A:上有地、B:本郷
大谷深山小田越・・・・・小田(こだ)池と呼ぶので、小田越は「こだこえ」と読むのだと思う。なお、融道男『祖父 融道玄の生涯』では福山藩士の家系に生まれた小田勝太郎のルーツに関して、有地村の字・迫で迫という居所の地名を転用して姓を名乗っていたが、本姓は小田(おだ)だったとしている、ケースもある。

「大谷深山」という言い方は地元では慣用されていない呼称だろと思う。集落から遠く離れた奥地の山は深山ではなく”奥山”(例えば湯女奥山)というのが普通だからだ。参考までに、地域の入り口=「口」(用例としては京都府の通称「口丹波」)、対するのが「奥」(用例としては京都府の通称「奥丹波」)。
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伊藤梅宇

2014年11月11日 | 断想および雑談
伊藤仁斎の子供の一人だ。異母兄に著名な伊藤東涯。
伊藤梅宇(天和3年8月19日or 20日~延享2年10月28日、享年63歳)は36才の時に山崎闇斎の高弟佐藤直方(和田英松『芸備乃学者』、明治書院)の影響が濃厚に残っていた備後福山に藩儒としてやってきた。
梅宇は沼隈郡今津村の村鎮守の縁起(寛保元年夏6月)を書いた人物のとしてこのBLOGで何度か取り上げてきた。


撰文の依頼者は河本伝十良(郎)信定(弥吉之政の父親、1751年没)


梅宇が今日文学史上の人物として取り上げられるのは井原西鶴の実名:平山藤五だと父親から聞いた伝聞情報らしいが後世の人間にもたらしたことからだが、校訂者が指摘するように、湯島聖堂に有難く孔子廟を祀る中国崇拝が横溢する思想状況の中で、偏狭な日本主義に陥ることなく、中国よりも本朝(日本)の教養に対して広い自覚的関心を寄せた梅宇の姿勢には現代人から見ても感心させられるものがある。叙述の仕方は逸話の集成。そういう意味では具体例の提示に留まり、至って単純。
この人物の著書は今日多くが行方不明状態のようだが、唯一の例外として、最近まで亀井伸明校訂『見聞談叢』、岩波文庫が刊行されていた。

わたしがアマゾンから入手したのはかなり傷んだ昭和15年刊版だった。扉に校訂者の献本(筒井鞏二宛)の書き込みがあった。筒井は伊賀上野(当時の伊賀上野町福居町)在住の旧制中学の教師だった人物のようだ。
三重県立上野中学:筒井鞏二きょうじ先生(漢文担当)。BLOGの主の伊室一義嫁さんは尾道出身のようだ。⇒伊室家の家族写真2014年撮影のポートレート(特定は可能だが・・・ここままでにしておこう)

校訂者:亀井の論文。亀井は三重県出身で京都帝大に在籍していたのだろか。


一昨日アマゾンに屯する古書店(古物商)経由で入手した昭和15年版が粗〇品だったので、「日本の古本屋」登録店で買い換えた『見聞談叢』、1996年版

和田英松『芸備乃学者』には黒川道祐・佐藤直方(山崎闇斎=崎門の三傑の一人、藩主水野勝種の師匠)・永田養庵(崎門の重鎮、水野家家臣の出)・菅茶山を取り上げている。紙数の多くは佐藤と菅の記事で占められている。福山藩では伊藤仁斎の学派は後出組だった。



伊藤梅宇関係の史料が福山城博物館に所蔵

ワシは金を貯める、お前は耕せ!
生きる世界への広がり(以下全文引用)

読書三昧だった私に、ある時、父が言葉をかけてきた。父は、まだ生きる気力を出しきれないままの私にこう言ったのである。

「一義、ワシは金を貯める。お前は畑で食糧を作ってくれ。高い闇物資を買わんで済むようにな」

その頃の父は、三重県内の配給統制を司る食糧公団(のち営団)三重支部のサラリーマンになっていた(戦前まで理事長を務めていた上野米穀商業組合はその傘下に入っていた)。

物不足、食糧不足の時代である。堅実な勤め先を持った身でも、子ども3人を抱えた家族を養っていくことは並大抵のことではない(上の2人の姉は既に他家に嫁ぎ、3番目の妙子は母の実家の養子になっていた)。

敗戦後の急激なインフレーションで高騰する食糧を手に入れることすら厳しい世相だ。だが幸いなことに、比較的裕福な米穀商だった昭和一桁の頃(まさに昭和恐慌の頃だ)、困窮した農家から米だけでなく田畑も買い受けていた時期があった。その頃買い取った農地を合計すると、膨大な美田を持つ大地主になっていた。しかし、その田んぼは遠いところにあって小作農から地代を得ているだけだった。幸い、家から300mほどのところにも1反(約300坪=約1,000㎡)の畑を持っていたので、それを私が耕すことにした。これだけの広さの畑を手入れし、耕しさえすれば、一家が闇米を飼わずに食いつないでいくだけの作物は充分に確保できる。

敗戦による鬱屈した精神状態からはまだ解放されてなどいなかったが、身体を動かすことによって、却ってその心の曇りを晴らすことができるかもしれない。私は一時でも、自分が抱えている「負の思い」から抜け出したくて、父の申し入れを受けることにした。

幼い頃には扁平胸で虚弱だった私だが、中学から陸軍幼年学校、予科士官学校と経由してきた間に身体も鍛えられ、体力もついていた。戦時下と言えども、軍学校の生徒は、栄養状態の悪い「地方」を横目に、しっかりと食べさせてもらっていたこともあって、身体的にはきわめて頑強な健康体に育っていたのだ。

「いま、この身体を使わない手はない。いまは頭よりは身体だ」

そう思うと、気持ち的には“ひきこもり”状態からほんの半歩は前に進むことができるように思えるのだった。

そして私は、1反の田畑を耕す“にわか百姓”と化した。鋤、鍬を使った人力のみでの1反の耕作というのはけっこうな重労働だ。しかし、私はまったく苦にならなかったどころか、土に塗れることに夢中になることができた。そして、陸稲、イモ類、カボチャといった腹に溜まる炭水化物系のものを中心に、大根、トマト、大豆、スイカまで、ありとあらゆる作物を育て、収穫していくのだった。

昼間は懸命に耕し、農作物の世話に勤しむ。夜はまた読書に明け暮れる。そんな生活にもそれなりの充実感があった。必ずしも心の中のすべてが晴れ晴れとしてくるわけでもなかったが、田畑の耕作に集中しているときには、つまらない思いは吹き飛んだ。

一日の農作業を終えての夕飯時、懐かしい人が訪ねてきたことがある。それは、中学時代の担任、筒井鞏二きょうじ先生だった。父と中学の同級生であった先生は、戦後もずっと伊賀上野にお住まいで、教員という職業にも変わりはなかった。復員後の私のことを心配して、様子を見に来てくださったのだ。敗戦をはさんでの4年ぶりの再会に、私もことのほかうれしかった。

「なんだ、元気そうじゃないか。良かった、良かった」

復員後の私の顔を見ると、ほとんどの大人は「良かった、良かった」を繰り返してくれたものだが、筒井先生も例外ではなかったので、この時ばかりはおかしかった。

戦後、年長の大人たちは、若者が地元に戻って来ることを心底よろこんでくれていたのだ。私よりもう少し年上の出征兵士には、もちろん多くの戦死者がいたし、例え生きていても、さまざまな事情からなかなか復員できずにいる者が少なくなかったのだ。戦地で死んだものと、諦められてしまった人間も多くいたはずだ。

先生は柔らかい笑顔で、率直に問うてきた。

「で、いまはどんな暮らしぶりなんだ?」

私は、机の上に積んであった文学全集を指さした。

「毎日、あんなものを読んでます。昼間は畑仕事で手一杯ですが…」

そう言いつつ、一番手前の見えやすいところにあった本が『若きウェルテルの悩み』であることに気づき、私は先生が漢文の教師であることを思い出して一瞬慌た。そして、その恋愛小説を隠そうとした。が、先生の方が先に本を手に取ってしまった。

「おお、ゲーテか。いいじゃないか。お前ぐらいの歳のころには、オレも読んだ。まぁ、ウェルテルみたいに、死んじまったらイカンけどな。せっかく生きて帰ってきたんだからな」

あとから聞けば、筒井先生は、4年前に幼年学校へ送り出してから、私のことをずっと気にかけてくださっていたという。私の何年か上の先輩たちの中にはやはり戦死した者もいて、それには先生の教え子も含まれていたのだ。私たち復員者に対する大人たちの「良かった良かった」の言葉は、真摯に子どもたちと向き合い、誠実に教員という職務を果たしていた筒井先生のような人が発する時、まさに掛け値なしの心からの喜びがこもっていた。

筒井先生は何気なく言っただけなのかもしれない。しかし私には、はじめて家族以外の親しい人に自分の生還の事実を受け止めてもらえたことで、生きる世界への間口が少しだけ開かれたようだった。私は筒井先生の言葉を繰り返し味わっていた。そうだ、せっかく生きて帰ってきたのだ──。

「上の学校へ行ったらどうか?」とT先生
旧制高校へと心が揺れる
その日も相変わらず畑の手入れに余念がなかった。秋から収穫されるネギや白菜が終わり、割に育ちやすいジャガイモの植え付けを始める。鍬でもって土を掘り返す作業をしていると、畑の向かえ側で大工が家を立て始めていた。どんな人の家だろう。そう思いながら、種イモの植え付けが終わるまでの2週間ほどが過ぎてみると、その家の住民が判明したのだ。

何と、中学で熱心に幼年学校進学を勧めていた、あのT先生の家ではないか。4年前の教室での言葉がよみがえってきた。

「幼年学校に行ってみろ。白い手袋をはめて、飛行機に乗り込むときなんか、こんな風に敬礼するんだぞ(ここでかっこよく敬礼なんかをして見せる)。どうだ、かっこいいだろ…」

私の学年では、私を含めて2人しか幼年学校に合格しなかったが、上級生の中には、T先生の勧めで何人かが士官学校に進んでいた。その中には、将校となって戦地で散っていった者もいると聞いていた。

最初はT先生も気づかなかったようだが、自分の家の前で黙々と畑仕事をしている若者はやはり目立ったらしい。私は初め無視を決め込んでいたが、ある時、先生の方から近づいてきた。

「伊室か、元気にやっていたか。良かった、良かった」

この「良かった、良かった」という声をかけられてさすがに黙ってやり過ごすことはできない。以前から知っていたT先生からの言葉とは思えない温かさを感じた。そこで私は、いまようやく気がついたというふりをして、麦わら帽子を脱ぎつつ、返答をした。

「T先生…。ご無沙汰しております。東京から復員してまいりました…」

そのあと自分から何を話していいかわからなかったので、私は言葉に詰まった。しばらくの沈黙ののち、先生は言った。

「お前、勉強の方はどうした。その歳で、お前ぐらいの成績なら、上の学校へ行ったらどうか?」

先生は何を言い出すのだろうと訝いぶかって、しばらく口ごもったが、自然と次の言葉が出てきた。

「いえ…、いまは百姓をしていますから、これでいいんです…」

私がきっぱりと言い切ってしまったので、先生は説得口調になって言い返してきた。

「いや、学校へは行った方がいい。農業をやるんなら、三重農専へ行けばいいだろう」

T先生は諭すように言ってくれたが、その時、なぜか私の身体は先生の方を向かないままだった。正直に言えば、「いま、あなたとは話したくない…」と心の中で叫んでいたほどだった。

思わず、「いや…、いいんです」と吐き捨てるように返答し、先生に背を向けて無愛想に鍬を土に入れつづけた。先生は私を見ていたのかどうか…、私の後ろ姿に言葉をかけた。

「そうか…、まぁ、身体さえ丈夫なら、何だってできるからな。生きててくれて良かった…」

その時、私は「はっ」とした。T先生の最後の物言いが引っかかったのだ。「生きててくれて良かった」という一言だ。それは筒井先生の「せっかく生きて帰ってきたんだからな」という言葉と、何かが通じ合っていた。いや、それ以上に、「死ななくて良かった」という反対の意味が深く響きわたってていることに強く心を動かされたのだ。しかし、先生のその思いの重みを受け止めつつも、私は先生の方を振り返ることもなく、黙々と耕しつづけたのだった。

そして、T先生は寂しそうに言い放って、新築の家の中に戻っていった。

「達者でいろよ、もう死ぬ理由はないんだからな」

いま思えば、T先生にとっての戦後は、自分が軍隊への道に送り出した全ての生徒に対する、深い贖罪の時間だったのだ。かつて自分が積極的にかつて幼年学校への勧誘をしたために、軍以外の上級学校での勉学の道を途絶えさせ、ことによっては死に至らしめたという自分への自責と、私を含むすべての生徒たちへの後ろめたさが、先生の心の底に沈んでいたのだ。

振り返ると、一瞬だけT先生の背中だけが見え、そしてその背中は家の中に吸い込まれていった。

このときT先生が口にした「上の学校へ行ったらどうか?」という言葉は、しばらく私の脳裏を離れなかった。一方で、「今さら学校だなんて…」という反発がなかったわけではないが…。

正直なところを言えば、上級の学校に未練がないわけではなかった。戦後でもまだ旧制の学制が存在し、陸軍幼年学校卒業資格があれば、高等学校には編入が許されたからだ。心は揺れていた。

ちなみに、幼年学校では卒業成績の上位3番までは、天皇陛下から時計を賜ることになっている。いわゆる恩賜の時計だ。この時計をもらった者は、ほとんど無条件で旧制高等学校に編入学ができた。実際、同期では2番で卒業したK君は三高へ、3番のW君は一高へ、それぞれすんなりとで編入学を果たしている(1番のH君は身体をこわし、残念ながら編入学は叶わなかったが、後に早稲田に入った)。

そこに友人から連絡があり、高等学校の編入試験を受けてみろと言われ、京都にある第三高等学校の編入試験を受けることにした。昭和20年の11月だったと思う。試験と言っても、学科試験はなく、口頭試問だけだった。」
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備後国沼隈郡今津村『当村風俗御問状答書』(文化15年)

2014年11月09日 | 断想および雑談
ここでは柴田実先生古希記念論集『日本文化史論叢』(本書は福山市立図書館内松永図書館に寄贈済み)に掲載された備後国沼隈郡今津村『当村風俗御問状答書』(文化15年) by平山敏治郎を紹介する。原本は京都大学附属図書館所蔵 谷村文庫 『当村風俗御問状御答書』 にある。



















解説

この史料をどのように分析するか、それは分析者の能力次第。
「備後国今津村風俗問状答書」の筆者「四郎左衛門眉旨(むねなが)」の、父親:「保平知義」は四郎左衛門眉旨9歳の時に亡くなった。「保平知義」は天明元年に「四郎左衛門」に改名しており、『村史』中の文書(「天明元年・当村神社除地書上帳」)において剣大明神(「当国惣鎮守」と記載)の神主:四郎左衛門は保平知義その人を指す。「備後国今津村風俗問状答書」の筆者:四郎左衛門の方は文化15年当時の庄屋:四郎左衛門眉旨。御年26歳だった。

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