- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

汐廻又左衛門と東荒左衛門

2016年07月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
地券を交付された架空の人物たちだ。815番地は字西田にある正一最上位長信稲荷社のある土地だ。明治20年には神主三藤六平の所有地。



西岡荒之助と平岡荒太郎これらもやはり同じ。西岡の西は字西坂、平岡は字平岡山(長波地区、元禄検地帳では「廣岡山」)を指す。
架空の人物たちについては研究課題になりそうだ。




東は字東坂のこと。東荒左衛門。荒太郎、荒三郎などいろんな架空名が登場する。山畑地域にそのようなものがかなり存在した。







【汐廻し】  福山市川口・汐廻し川


福山市柳津・金江町境樋ノ堂付近の「潮廻し川」

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鐘鋳久保

2016年07月23日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
野取帳の表紙に注目

「鐘鋳久保 善性寺 附り 福寿庵」 より「上組 神本又吉」に至るとあり、鐘鋳久保は1810番地の土地の地名らしい。


野取帳中の1810番地は善性寺の所有地であった。



火葬場の東隣だった。


56番山は組持ち山、その一角に火葬場。


黄色丸マークの場所に比定できる。鐘鋳久保 善性寺 附り 福寿庵とあるので、ここでおそらくは善性寺
付属福寿庵が建っていたことが分かる。その場所の地名が鐘鋳(かねい)、つまり梵鐘を鋳造した久保=谷間のくぼ地。考古学的調査結果を待つ必要がある話なので梵鐘を鋳造したことのある場所云々には言及しないでおこう(その後の調査で同じ地名が沼隈郡東村・西村にあることが確認された。結論的に言えば梵鐘の鋳造地ではなく、釣り鐘状に抉られた谷間の形状起源の地名のようだ。ちなみに西村の鐘鋳久保は西村龍王山山頂に立地する龍王社の祠から福山大学のサッカー場側にかけての明治和紙公図上の地名)。今回取り上げた沼隈郡今津村の鐘鋳久保は火葬場はすでに別の場所に移転していたが、真っ赤な赤土土壌のとれたスプーンで抉ったような形状の小浸食谷の頭(谷頭部)に立地。その辺りで子供時代に土器探しを兼ねて土壌採取した記憶がある。





長波地区には今回紹介した福寿庵のほか、屋号の「尾庵」、通称地名の「長庵」など庵の呼称がつくものがある。



鐘鋳久保(かないくぼ)・・・・「カナイクボ」と言う地名は沼隈郡東村、同郡高須町や西村にも存在する。西村の場合は現在の福山大学の野球場・サッカー場から南の竹藪(一角に西村高オカミ社が立地)一帯、かなりこの地方ではポピュラーな地名だと判ろう。
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丹下氏の工房で改鋳されていた薬師寺の旧釣鐘

2016年07月08日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

「寛政10年11月に宇津戸で行っていた・・・・・」の注記は別史料(土肥日露之進氏が昭和46年に当時の福山市立図書館に寄贈した『寛政年間沼隈郡今津村政用記録』第二分冊)からのもの・・・・土肥氏の稿本に関しては史料(『村史』第四分冊)にあたってのチェックが必要⇒チェック完了/無問題。なおこの件に関しては矢野天哉作成の「今津町年代譜」(昭和15)は無記載。

梵鐘搬送の推定ルート(石見街道を三成まで出て、西村経由で今津へ)

栄明寺(広島県府中市元町344)の釣鐘
・・・・・・・・・・・・・・薬師寺の釣鐘(関連記事)もこういうデザインだったのだろか。福山藩の場合藩主阿部正弘時代(安政元年)に寺院の梵鐘を大砲に改鋳する政策(藩内6ヶ寺の梵鐘を残し、それ以外は供出させた。この地方では矢掛の鋳物師が鋳造した本郷東蔵坊梵鐘が第二次大戦前まで残っていた)を強行しており、古い梵鐘はあまり残っていない。屋号の「据置」太田氏だが、城山の南東麓にある太田さんの一族ヵ(一部は横浜移住)

関連資料


高さ134㎝、口径74㎝の青銅製の梵鐘。 元祿4年(1691)、栄明寺第十九代翁阿上人の発願により、御調郡海裏邑(現在の世羅町宇津戸)の鋳物師丹下甚兵衛実次が造ったと銘文にある。現存する丹下氏作の梵鐘としては、甲山今高野山の寛文7年(1667)銘のものに次いで古いものとされる。




太田荘歴史館
丹下氏は、河内国(大阪)の鋳物師天命家の出で、近江国の丹下村に住んで草部氏を称してした。
鎌倉時代末期~南北朝時代に備後国御調郡宇津戸村に移住し丹下氏を名乗り、鋳物業の傍ら海裏(うづと)庄の領主として政治にも関与し、山名氏、毛利氏、和知氏、上原氏と、時の権力者の保護のもと、多くの作品を残した。

しかし残念ながら太平洋戦争のときは、お寺の梵鐘も供出対象であったため、多くの梵鐘が失われ、世羅町周辺で現存する丹下氏一族による梵鐘は8鐘。

丹下氏が使用した家柄・権威を示す鑑札や、助手である小工鋳物師に発行した印鑑(資格証明)、また梵鐘を製作するときの道具類など貴重な資料が展示されている。
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イングランド南西部wiltshireで発見された古代ローマ/ポストローマ期遺跡

2016年07月07日 | 断想および雑談
ネット情報に標記のような記事があった。そこで場所探しを早速

この居館だが、サイズは50メートル四方と相当にジャンボだとか。部屋数は20-25程度、175-220AD頃に建てられ、4世紀中ごろ(ポストローマ期)に再建されたらしい。発掘現場から古代ローマ時代のコイン、色タイル、植木鉢に転用されていた子供用石棺。発掘現場はIrwin家(アイルランドのダブリン出身のデザイナー)所有の17世紀に建てられた古民家農場(住宅)になっている場所だ。類例は1864年にChedworth(Gloucestershire州)で発見されたローマ遺跡でもみられ、こちらは1924年ナショナル・トラストに登録されている。




この地区(イングランド南西部wiltshire州,Heytesbury教区,ロンドンの西方150キロ)のカントリーハウス(4つの寝室)販売価格

間取り

なんと、95万ポンド


発掘現場はここ

地図右下の広大な庭園を有する大邸宅はマナーハウス(貴族およびジェントリの住居として建設された邸宅)


ローマンロードとの位置関係 原図@wiltshire


Brixton Deverill(A)とWest Knoyle(B)の農村景観の違い



11世紀の土地台帳(domesdaybook)に記載されたBrixton Deverill


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松本恒吉・もと『新婚初養蚕記』、洛陽堂、大正7年

2016年07月05日 | 河本亀之助と東京洛陽堂


自信はないが、おそらく松本もとの筆跡だろ。興味のある人は調べてみるとよい。勝木先生への謹呈本だ。


中身は妻もとが書いた4月1日~6月10日までの養蚕日記だ。
野党的な反抗を繰り返した平塚雷鳥・西川文子らとは真逆の、学校側、体制側の意見を代弁するようなある意味”模範的な”女性であった。『新婚初養蚕記』だが、養蚕にかかわる歌人たちの短歌は紹介されているが、中身は文芸的感興が欠けた、いささか味気ない養蚕の作業日記。




二列目中央に東京高等蚕糸学校(現在の国立東京農工大学の前身)2年(大正3年)時、皇居紅葉山御養蚕所訪問記念の集合写真だ。


松本恒吉は結婚後7年目に当たる大正12年に没しているが、なかなか根回し好きの企業家精神旺盛な農場経営者さんだったようだ。松本らは温情主義的地主あるいは模範的農民を演じていた。

日露戦役 婦人の力(出征兵士に届いた家族・恋人からの書簡集だ。彼女たちの手紙が弊衣)

どうしてそういうことになったのかはわからないが「所有土地台帳」「小作台帳」などはいずれも洛陽堂刊。「報徳歌留多」とか「農業福引」・・・・・著書を天覧に供したり、序文に著名人・大家に頼むなどマメな人だったようだ。







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松本恒吉「征露土産」、国光社、明39.3

2016年07月02日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
松本恒吉「征露土産」、国光社、明39.3

陸軍歩兵大佐恒吉忠道(最終階級は少将)とは正岡子規の妹正岡律の最初の夫(律15歳で結婚し9か月で離縁された。律は恒吉の従兄妹)。
長堀均の序文は天皇皇后に対する謝辞に終始しているが、この種の間抜けな表現は北朝鮮国民が共産党トップを世襲する金一族に対して使うだけだけだろ








洛陽堂刊になる松本恒吉の著書
日露戦役婦人の力」、洛陽堂 (1912/1/1)は大空社「女と戦争・第三巻」で復刊




この中に松本恒吉が赤十字広島病院に入院中、看護婦として勤務していた河本テルとの会話が収録されている。
その中で、河本テルの方から、こまめに日記を書いていた松本に対し、原稿を本にしてみないかといった勧誘をしている。そのときテルは新聞記者が書いたものより、事実を記載したものの原稿としてはよいという意味のことを発言している。テルは松本に看護婦になるような女はろくでなしが多いというようなことを言い、揶揄う。それに対し、子供を残し仕事に従事せざるを得ない身の上など話しながら、松本の言葉によるジャブに涙を浮かべながら言い返している。このときの原稿を本にする商談が松本恒吉「征露土産」、国光社、明39.3という形で実現したもの。編集発行者は松本本人、発売元は松本家農場。そういう形式の出版を河本亀之助は洛陽堂時代も実践。
この当時看護婦鈴木テルには高島平三郎との間に出産直後に養子に出した謙ちゃん(猪瀬謙一)をもうけていた。
夫人の松本もと(1885-1955)

松本モト「貧女の一灯」T11
ジュネーブでの国際労働機関(ILO)の第3回総会及び国際婦人労働者会議に出席する政府側代表委員顧問として参加し、政府見解に沿った発言をした(河本亀之助『『かまくら及江の島 』1901も同様)。すなわち、労働問題についてのもとの考えは「献身的努力と温情の待遇」という言葉で表現されるもので、会議では政府見解に則って、農業労働者の就業時間制限の問題を討議事項から削除する立場をとったとされる。


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洛陽堂(出版)書目

2016年07月01日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
洛陽堂の経営が曲がり角にさしかかった時期の出版書の書目。
大正7年は出版不況で紙の値段が高騰、雑誌「白樺」から撤退した直後で、雑誌「良民」、「都会及農村」だけが出されていた時期のもの。大正11年のものは河本亀之助の死後弟の俊三時代のもので、関東大震災直前にだされている。売れ残り本の一掃を目指し特価販売を行っていたようだ。


大正7年版の洛陽堂出版書目の中身

大きな文字はよく売れている本か、洛陽堂の営業面で一押し本なのだろう。鈴木貞美編著『大正生命主義と現代』の中では永井潜の存在は周辺に追いやられている感じだが・・・・。



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