- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

またしても城北探検

2019年03月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

本日は資料取りモードで出かけた。

北吉津の實相寺境内のモクレン。


山門を上ると・・・・  三浦・内藤など福山藩の重臣の墓地が目立った。上田勘解由は水野家の家老の家筋(上田玄蕃の弟)。この玄蕃は本庄重政の嫁の実家の人。副住職の案内を受けて小田勝太郎墓地へ。あとで小田勝太郎の写真帳を見せてもらった。すごく画質の良い簡易製本の写真帳だった。『法鏡山実相寺 復興の秘密』というタイトルの本(寺院観光用限定・・テレビディレクターを称する著者だが、中身はなし)を頂いた。なかなか気の利く住職夫人だった。


この寺でも雨乞行事が行われたようだ。


小田銀八夫婦・その子勝太郎(笠付墓、高島平三郎の友人、柔道家)夫婦の墓。小田勝太郎の弟が融道玄
銀八については『西備名区』に御郡同心として金4両・二人扶持とある(『備後叢書・3巻』、732頁内容的には寛政末年の分限帳のもの)。【追記】「小田銀八」の名前は幕末期に蝦夷地に派遣された福山藩士の中や文化13年改訂版「沼隈郡東村検地帳」(要確認)の検地役人(山林奉行か山奉行のような役職まで出世)の中でもお目にかかったことがある。


江木鰐水(てか、福山藩医家五十川)家の墓地だ。江木千之は5歳で亡くなった鰐水の次男。五十川は福山藩医の家系だが、鰐水の嫁さんの家と繋がる。偶然発見。その後注目して探してみたが五十川訒堂墓はいまのところ未確認。だが、ここにあるらしい(千之墓の隣の五十川某がそれか、要確認)。



近世墓の学習用画像、台座が台形、宝篋印塔の形状、お墓のサイズや形状は今津薬師寺墓地にある神村屋石井家の江戸中期墓と同じだが、戒名が・・・三浦氏は院澱号+大居士、石井家は信士。

実相寺から市内を展望・・・・遠方の山塊の右端部分に最高所:熊ヶ峰


木之庄5丁目の地神


高橋碧山の医学の先生:寺地強平のお墓@仁伍の神道墓地。『備後国名勝巡覧大絵図』に”序文”を寄せた人物だ。福山医学の祖。

仁伍の神道墓地(西端部分)のパノラマ写真。


門田重長墓(儒者墓というよりも神道系の墓石)より河相保四郎家墓地を展望。土塀囲まれた河相墓地の手前に福田禄太郎墓、門田重長墓周辺には墓じまいしたのか空き地が散見されたが、もしかするとまさにその場所を含めて、この一帯には高島平三郎の両親の墓があったか。『得能正通年譜2』にはこのように記述されているので其れで良いのだろうと思う。調査開始からまる4年、やっと高島賢齊墓の場所が判明した。


福山市木之庄町尾ノ上共用墓地全景


塀に囲まれた河相保四郎一家の墓地。外務省事務次官・河相達夫(松永浚明館で高島平三郎と出会った後の東京帝大医科教授永井潜の実弟)のお墓でもある。息子が太郎。




河相達夫の息子:河相 洌⇒孫:河相周夫(外務次官→侍従長→上皇侍従長)河相 洌と河相周夫の親族関係については要確認。



本日の最大の成果は①福山城博物館で『廃藩直前福山城下地図』の復刻版を購入。この中に。東町に高嶋」という苗字の士族屋敷が一軒、そして天神町に1軒あることが確かめられたこと(ただ小田という姓の士族屋敷は不在であった)。②文化期の江戸丸山藩邸屋敷図中に「高嶋」を見つけた。これが高島平三郎とどうつながるのか、つながらないのか今後の検討課題だ(併せて高島が入学したのは福山西町上小学校、天神町生まれの融は当然福山東町小学校 この辺の違いをどう理解するべきか)。
なお、『廃藩直前福山城下地図』中の江木鰐水(繁太郎)屋敷は藩校誠之館の北隣りにあった。
膝の具合がよくないので、効率的に調査活動を進めるため駅前からタクシーで目的地へ。あとは歩行。

北吉津の地神。木之庄でも地神をみた。


実相寺着・・・12時21分~12時58分
地神・・・・・・・13時13分
仁伍の神道墓地で寺地強平墓発見・・・・13時21分
河相保四郎一家墓地・・・・13時30分
城北中学通過・・・・・13時55分
福山城公園到着・・・・14時08分、館長に挨拶し、古地図類を購入し、早々に帰路に就く。・

コメント    この記事についてブログを書く
« パソコン上で行う高島平三郎... | トップ | パソコンでは無理だった高島... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。