- 松永史談会 -

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地租改正時における旧岡見山荒神一帯の薬師寺所有地-中世沼隈郡新庄研究/その2-

2017年01月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
緑色で表示した区域は明治初期の今津村野取帳に記載された旧岡見山荒神一帯の薬師寺所有地。


この区域の一部に「門前」という地名があったことを矢野天哉の手稿本で見たことがある。わたしは剣大明神の鳥居前なのに不思議だな~と感じていたが・・・・。江戸中期に蓮華寺の山門が建立されたのでこれ関連のものなんだろと勝手に想像し、その時は深くは追及しなかった。

【メモ】旧末広町に「新川」という小地名があり、それを長波の某氏が屋号にしていると矢野は注記していたが、この新川については『松永村古図』に記載があった。藤井川の新川は橋の名前にのこっているが,起源的には旧末広町のそれと共通したものだ。

剣大明神の参道と西国街道の交差点角に前元楼・田新という2件の旅籠があったがその土地は薬師寺有だったし、剣大明神の鳥居前の道路状広場の両側も同様であり、そこには旧暦7月の剣社祭礼時の常設芝居小屋や臨時の出店が設営された。芝居小屋が立ったのもそこであった。つまり、福山藩における興行場としては鞆・祇園社と一宮さんの宮内の鳥居前とこの剣大明神の鳥居前が公認され、賑わいを見せていたのだが、剣社における興行場は薬師寺所有地であった点はとりあえず注目されてよかろう(元禄期における薬師寺の土地所有状況に関しては確認中)。
江戸時代における各種の興行が社寺境内で行われ、住職や一部の住民が勧進元となるケースが多かった
以下はもしかしたらといったレベルの話なのだが、かつて戦国時代には存在し元禄期には消滅した南方院という場所的位置付けで金剛寺(伝承によると法灯的には薬師寺に統合)が一帯にあり、今回指摘した場所は系譜的にはそれと何か関係があるものだったのかとも思い始めたところだが、確たる証拠は得られていない。




明治末に大道芸人たちの便宜置籍地として今津村が使われたわけだが、大きく言えば、それは盛り場として発達してきた剣大明神鳥居前の歴史と役者の世話人栄虎(平櫛氏)の存在がそうさせたのだ。
高諸神社鳥居前およびその境内周辺の景観・・・・写真に写ったほぼ鳥居前の全域がかつては薬師寺所有地だった。


この神社境内に置かれた宝篋印塔だがかつて金剛寺境内か岡見堂付近にあったものだろうか。昔は忠魂碑のあった小丘(岡見山)上にあった。現在は小丘を削平し駐車場とされたため、神社境内に移動。


玉垣の親柱に村上重右衛門(竹本屋)の名前が。なお、もう一方の親柱は三藤傳助(長波屋)寄進。


念のため「慶長5(1600)年備後国沼隈郡新庄打渡坪付帳(渋谷家文書)」・・・・この資料の中にわたしが今、直感した点を裏付ける手掛かりがあるような,ないような。わたしの郷土理解は本日一段階上がった気がする。

金剛寺関係の数少ないデータ↓









中世の沼隈郡今津には蓮花寺・金剛寺という寺院があった。前者は江戸中期に西坂より現在地に移転し、現存するが、後者については薬師寺に法灯が継承された後はその場所すら不明である。院号に薬師寺を東方、蓮花寺を西方、金剛寺を南方院と呼んでいる史料があるので今回話題にした現在の高諸神社馬場脇の旧薬師寺所有地がもしかするとその金剛寺と関係したものかも知れないと推測してきたところだが、これまで確たる証拠は得られなかった。だが、最近松井輝昭「厳島神社の弁財天信仰の成立とその成立」、県立広島大学人間文化学部紀要8,137-148頁、2013文保2(1318)制作の『渓嵐拾葉集』(鎌倉時代末成立の天台宗系の「百科全書」、大正新脩大蔵経. 第76巻 :続諸宗部 第7、503-888頁に所収(ただし大正新脩大蔵経所収本は誤植が多々らしく、要注意もの)中に(厳島神社の祭神である)「龍女をもって弁財天に習うこと、云々。龍女すなわち如意輪観音なり」という文言のあることを知った。(松井輝昭氏の論攷に無批判に飛びつくのは私的にはやや危険のようにも思われるが、松井氏の天台宗における弁財天信仰の教学的理解に関しては山本ひろ子「成仏のラディカリズム-「法華経」龍女成仏の中世的展開」、『岩波講座 東洋思想 第十六巻 日本思想2』、1998,及び『異神-中世日本の秘教的世界-』,平凡社、1998に依拠。なお、中世末期における今津金剛寺は真言宗、尾道西国寺末寺)
高諸神社神明記(3)に記載があるとおり、近世剣大明神においてしばしば挙行された「雨乞い神事」は金剛寺の本尊が如意輪観音だったという点に注目して言えば、高諸神社境内に現存する「弁財天岩」と関係した祭礼であったかも知れないのだ。この点に関しては今後証拠を積み重ねて実証していく必要があるが、とりあえず今は一つの作業仮説として現在の高諸神社馬場脇の旧薬師寺所有地は金剛寺の旧境内地であったかもしれないということをここでは提起しておきたい。
高諸神社境内石段脇の弁財天岩(闇龗神社/くらおかみのかみ社・石祠)
弁財天岩の梵字

【メモ】臥雲日件録抜尤」(『続史籍集覧. 第3冊』309-510頁)
『渓嵐拾葉集』(国会図書館デジタルアーカイブ経由にて史料入手済):『渓嵐拾葉集』は、仏教教理のみならず多くの説話や巷説、和歌を含み、中世の思想・文学・歴史を網羅する当時の百科全書

例えば
・瀬戸内の海上信仰調査報告 西部地域 瀬戸内海歴史民俗資料館/編 瀬戸内海歴史民俗資料館 1980
  ※p.211-214「竜神信仰」
・瀬戸内の海上信仰調査報告 東部地域 瀬戸内海歴史民俗資料館/編 瀬戸内海歴史民俗資料館 1979
  ※p.235-237「竜神信仰」
・弁才天信仰と俗信 笹間良彦/著 雄山閣出版 1991.6
  ※p.67-74「厳島神社と弁才天」など。
本書の325-502頁は『渓嵐拾葉集』と宇賀神/異形の弁才天女に関する研究書山本の著書は『渓嵐拾葉集』を正面から捉えたものではなく、坊さん向けの作法に特化した説明で終わる。田中貴子の『渓嵐拾葉集の世界』は貴重な成果だが、内容的には残念ながら研究の入り口段階の著作物。古くは喜田貞吉『福神』の弁才天/宇賀神論などもある。
一般的な文献(歴史民俗学関係)

わたしの場合当然のことであるが従来通り文化人類学・社会人類学的感性から地域史研究を再構築していくことになろう。この種の立場からの研究としては例えば桜井英治『贈与の歴史学-儀礼と経済のあいだ-』、中公新書、2017。
平安・鎌倉遺文中の「龍神」

松永史談会2022年5月例会で報告した関連記事
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広島高等師範学校仏教青年会編『教育と信仰』大正7

2017年01月15日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



巻頭論文は前田慧雲。広島県人の高楠順次郎・富士川游らの名前も。彼らの影響を広島高等師範付属中学に入学したての角倉志朗辺りは間接的には受けたのだろうか。大正デモクラシーの時代は修養と宗教教育(例えば仏教)への注目度が最高潮に達した時代だ。
備後地方では明治10‐20年代に廃仏毀釈の影響でお寺は荒れた状態にあった。明治末には地方の富裕層たちにすり寄る形で再建を図っていくが、大正デモクラシーの時代は全国的なその総仕上げ期、高島平三郎あたりも明治40年代には日蓮宗内の新派の人たち、軍人たちと国家主義的思潮注入のための活動を共にしていた。





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恐れ入りました。粟村吉三行年100歳

2017年01月10日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
このところ左足が痛くて歩行にも困難をきたしていたのだが、薬師寺の墓地調査。


通路手前、首なし地蔵墓の向こう側に明治11年の年号の石柱墓がある。これが粟村吉三のお墓だ。サイズは幾分小ぶり。付近には淳和期の百翁三藤六平の墓石もあった。

尾道屋源次郎妻(享保)墓の後ろ側には松永新涯重助夫婦墓(寛政9)。


その筋向いにあるのがこれ:粟村藤蔵墓。粟村のルーツは沼隈郡西村の粟村氏。『備陽六郡誌』が熊野信仰と関連つけていたあの粟村氏だ。


屋根付きの墓石(江戸中期)は石井孫右衛門(神村屋)系のもの。屋根付き墓石は神村をはじめとした石井一統ではごく一般的というか、そういう面では特徴的な墓石の形だ

武井節庵のお墓の東となりにも粟村姓の墓。粟村姓の墓がかなり集まってる感じだ。


『備陽6郡誌』は沼隈郡・西村の粟村氏と熊野信仰との関係に言及していたが、熊野権現を地主神とするこの寺との関係は・・・・・?

参考)真宗門徒の粟村姓が多い

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『葛原勾当日記』の付録

2017年01月09日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
江戸末から明治初期にかけて活躍した、京都以西では並ぶものなしと言われた生田流筝曲(琴)の名人で、童謡作家葛原しげるの御祖父さんに当たる人物の、文政10(1827)年から明治15(1882)年までの出稽古記録だ。



校訂者小倉豊文は広島文理科大学助教授時代に被爆し、唯一生き残り戦後教室の再建に尽力された方。専門は歴史・文学。少年時代に葛原しげる(箏曲家宮城道雄の支援者)から感化を受けた人物で、人生最後の大仕事として齢80歳前後のころ全身全霊を傾けながら校訂作業に取り組んだと記している。
本文316頁。それ以後が付録:語句の註解、地名・寺社名録、年譜、その他各種参考文献(317-375頁)。
小倉の考証編は内容的にやや徹底さを欠く。

例えば

「(松永村扇屋=大木屋岡本氏の)若君2人が剣宮に参詣せらるるに誘われて」というくだりに関し、校訂者の小倉豊文は剣の宮を松永村潮崎神社だとしている(本書340‐341頁)が、これは旧暦7月の祭礼に関する記述であることから判断して明らかにあやまり。正しくは今津・剣大明神のことだ。若君という言い方をしているので扇屋はもしかすると大木屋のことだったかも。まあこの辺は小倉豊文のまったく死角となっている部分だ。


それはそうと
旧暦7月1日条で、「涼しくなり、いよいよ秋になった
こんな文章表現が本当に勾当時代のものであったか否か大いに?マーク。わたしには現代表現そのものにしか思えない(原典に当たってチェックしてみる必要性を感じる)。それ以上に夏祭りの季節に秋を感じる勾当のトンチンカン(否、そうとうにシュール)な感覚にもいささか・・・・・・
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