- 松永史談会 -

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丁酉倫理会 倫理講演集(480号)に掲載された高島平三郎78歳の心境随想

2014年07月28日 | 教養(Culture)
丁酉倫理会 倫理講演集(テイユウ リンリカイ リンリ コウエンシュウ) 1942年 10月号 第480号




「数年前まで、ほとんど毎号、本紙に投稿していた」とあるので、
丁酉倫理会倫理講演集 1輯 - 519輯(1900-1946)に掲載された高島の論文をすべてチェックしてみる必要がありそう。参考までに高島が多数寄稿した福島四郎の「婦女新聞」、雑誌「教育時論」、「児童研究」などは復刻版が出ている。
しっかりとした高島平三郎研究を目指すなら、まず、全集を編さんすることを前提とするくらいの覚悟がいるだろ。





高島は沼隈郡内で生涯を終えるつもりも、またここでの教員生活に対しても自分の終生の仕事とは考えていなかったようだ。青年らしく現状からの脱出願望も強く、外国(欧米先進国)に対するあこがれも強かったようだ。
田舎の山の中で頑童相手の生活には不満があったようだが、高島の素晴らしいところは与えられた持ち場の中で常に最善を尽くし、かつ抜群の成果を上げてきたところだろ。





インテリそろいの町に住んでいたが、近所の道路の掃除をして広い家屋敷を構えた人とか官吏・実業家の家の前は概してゴミだらけと(強きをくじき弱きを助ける風の)高島節もちらり。
高島米峰と高島平三郎は年齢差をこえて深い友情で結ばれていたようだ。本エッセイは『高島先生教育報国60年』掲載の高島米峰の文章に対する返答的な意味合いを有する内容。

参照のこと


文章は軽妙洒脱でユーモア全開 雑誌の性格からいえばやや場所を弁えぬ高島一流の”羽目の外し方”が多少気になるところか。あわせて(言い方は悪いかもしれぬが)婦女新聞紙上での「文雄日記」(周りの空気が読めず、延々と連載)以来、毎号投稿という(良い意味での)相当の”投稿魔(=●●依存症気味)”だったという部分など高島平三郎を語る場合押さえておくべきキャラだったようだ。

枯淡(枯れた)というか諦観というか高島は、その後女子高等学園が休校(廃校)となり校長を退く、そしてしばらく間をおいてから、終戦前後には東洋大学学長を任されるのだが、そういう境地に達していたのだろうか。

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紹介:大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル

2014年07月24日 | 断想および雑談
紹介:大日本教育会・帝国教育会広島県会員ファイル

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須江分校教師時代の高島に大きな影響を与えた本:西周訳、約瑟・奚般 (ジョセーフ・ヘーヴン) 著『心理学』

2014年07月22日 | 断想および雑談
心理学 上

約瑟・奚般 (ジョセーフ・ヘーヴン) 著 ; 西周 訳



[目次]
標題紙
目次
緒言
第一区 智ノ能力ヲ論ス / 45
発端題目
第一部 表視力ヲ論ス / 77
第二部 再現力ヲ論ス〇総論 / 145
第三部 反射力ヲ論ス / 283
第四部 直覚力ヲ論ス / 419
増補題目 / 637

心理学 下

約瑟・奚般 (ジョセーフ・ヘーヴン) 著 ; 西周 訳



[目次]
標題紙
目次
第二区 情ヲ論ス / 1
発端題目 / 1
第一部 単純ナル情緒ヲ論ス / 29
第二部 情款ヲ論ス / 118
第三部 欲ヲ論ス / 177
第三区 意ヲ論ス / 1
発端総論 / 1
引用書

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この一年間に集めた高島平三郎関係の文献史料と論文原稿

2014年07月21日 | 教養(Culture)
雑誌「教育壇」第一巻4~6号(1897年)に掲載された高島の代表的論文の原稿の一部。本論文は大泉『文献選集 教育と保護の心理学 明治大正期 第二巻、1996』に再録されている。



長野師範教員時代に生まれた長男文雄に触発された論稿で、参与観察の対象:文雄。子煩悩な父親:平三郎が垣間見れる論稿でもある。その公私混同ぶりが後述する高島の心理学研究の未熟さを目だ立たせたか




教育研究所編の児童研究法2冊(明治32-33年)。第二輯「児童研究法」は明治33年、右文館刊で「河本蔵印」が押されている。右文館は明治31年に高島が長野師範教員を辞し、再就職した教科書出版会社(高島は編集長を務めた)。このころ河本亀之助は教科書出版会社:国光社の印刷部門のトップに。
以上は事実。
以下で言及することはわたしの予感;
雑誌「児童研究」に掲載された日本児童学会員の会員名簿中には「河本」は明治40年ころの日本女子大学学生・河本(かわもと)のみ。本書はハードカーバー改装版で帝国図書館と同じ本文最初のページに押されたとても印象的な蔵書印を有する。わたしはこの河本は明治30年段階に高島の近傍にいた高島の弟分たる河本亀之助=集書家だろうと思っている。児童研究者でもない人物が本書のような特殊な書籍を入手したのは高島平三郎から感化や寄贈されたからだろう。高島は教科書出版の右文館編集長、河本は国光社印刷部門のトップで10年後には洛陽堂を立ちあげている。


『心理漫筆』(開発社、明治31年)と『心理百話』(洛陽堂)・・・・明治30年代以後に心理学の普及に大貢献した心理学概論の名作。タイトルは異なるが内容は同じ。

雑誌「児童研究」2-9(明治33年5月3日刊)に投稿された高島の代表的な論文(「精神進化論」)原稿・・・
・・・関東大震災・第二次世界大戦の戦災をくぐり抜け、よく残っていたものだ。高島平三郎の子孫たちの家にはこの手のものは残っているのだろうか。


現代人にはチト難解な文体の、小野沢の論理学の本、高島がコメントを加筆


高島が右文館編集長時代の、恩師元良勇次郎著の倫理教科書(明治33年)




高島平三郎の出世作となった心理学と教育学の教科書(明治26年、高島27,8歳当時の著書)


教育時論に掲載された高島の小論文「雉経松の説」(明治19年・・・・・平三郎が金見小学校校長時代、首つり松という前科学的な日本の伝統社会に巣くうDoxa/憶断考、)


普及舎の経営者西村正三郎と高島とはかつてともに教育時論上で論陣を張っていた(明治20年)。


高島が「蜻洲」の号で投稿した「新体心理学の歌」・・・金江・観音堂で東京の教育雑誌に論文を投稿しつつ高島が刻苦勉励していた様が偲ばれる内容


心理学者高島平三郎と広島県出身の医学者呉秀三・富士川游とが結びついた瞬間を示す記念碑的著書(明治38年).高島は後年自分は心理学会の中では学閥の壁の外に置かれ(、疎外され)た存在だったと述懐しているが、広島県出身が大きな力を持った医学の人間への接近と高島自身の未熟でやや硬直した心理学研究のあり方と
高島の”学問事業”面での旺盛な行動力(発言面では露骨に忠君愛国イデオロギーを児童研究を通じて流布)とが当時のアカデミズムの中では多少違和感を持って受け取られていた結果かも・・・・・・


感化救済事業講演集(1909)に心理学・教育学プロパーの日本を代表する専門家の一人として執筆。「児童研究」と題して幼児から青年までを視野に入れた教育的感化の在り方を論じている。


日本児童学会 編「児童学綱要」大正1、洛陽堂
本書は日本児童学会が明治44年11月に神奈川県師範学校において開催した講演会要旨を筆録したもの。講演会は医学を中心としたものであったようで、東京帝大系の心理学者たちとの間には路線的な対立でもあったのだろか・・・・、結局これに参加した心理学者そう多くは無かった(当時東京帝大大学院にいた倉橋惣三:後年の幼児教育での権威)。所収された多くの論文が高島の既往のものの転載であったことも不可思議な話。

本書は大泉『文献選集 教育と保護の心理学 第五巻』に再録。


母親と妻の追悼録・・・『涙痕』は親思いの高島の好きな言葉だった。明治36年12月の婦女新聞には父親の病気見舞い記を同一のタイトルで投稿して居る。なお、『涙痕』は明治42年刊だが、印刷責任者は河本亀之助。洛陽堂を創業する河本だが、本書は実質的に洛陽堂が刊行した最初の出版物であった。
家紋(丸に剣・カタバミ)は高島家のものだろ。


高島平三郎の心理学の集大成版、先日入手した。内容的には明治26年『師範学校教科用書・心理綱要』
を肉付けしたもの。高島の心理学は明治30年代段階にはほぼ完成されていたのだろ。
精神と肉体の問題は名著『体育原理』という形で結実。 青年心理に関しては修養関係の「現代の傾向と心的革命」洛陽堂 1910、生涯を通じて、否、ことに晩年は女子教育に打ち込むことになるが、その面での教育実践では我が国の第一人者となっている。


なお、『心理漫筆』、『師範学校教科用書内国教育史』と『師範学校教科用書心理綱要』、そして『心理学綱要』とは『高島平三郎著作集』第一巻、第六巻に所収されている。

大泉編著『高島平三郎著作集』によって高島の業績はある程度増幅される形で後世に伝承されることになった。
童謡・童話・子供グッズなど明治・大正期には子供文化とでもいうべき流れが醸成されるが、ある時期、おそらくその最大の仕掛け人は高島だっただろ。
高島らがいなければ宮沢賢治の童話の世界もなかったはずだ。

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復刻された高島平三郎の著書:『家庭・婦人・児童』

2014年07月14日 | 教養(Culture)
優れた教育者だった平三郎が72歳の時の著書。内容は松平直亮(国民道徳の振興を掲げる団体・日本弘道会会長歴任者)の令嬢や後の高松宮喜久子妃(将軍徳川慶喜の孫娘)の花嫁教育用に講義された内容をベースにしたもの。喜久子の父親(徳川慶喜の七男=)德川 慶久(とくがわ よしひさ、1884年(明治17年)9月2日 - 1922年(大正11年)1月22日)1922年(大正11年)1月22日10時35分、東京府東京市小石川区第六天町54番地(現・東京都文京区小日向)の本邸で急死だが、幼少期に父親を失った喜久子妃殿下の人間教育のために望まれたのが高島だった訳だ。高島は明治21-29年まで学習院に勤務しており、明治15年生まれの武者小路公共の場合から推量しておそらく喜久子の父親慶久が学習院幼年舎取締時代の高島の教え子だった?(要確認)
周知のごとく娘時代の喜久子妃にかんしては「女子学習院時代は、おしゃまなお姫様として有名であったらしく、生前の彼女を知る者の多くが”粋な方であった”との印象を語っている」し 妃殿下は自らの意思を明確に示す性格であったようだ。



昭和5年2月4日賢所での婚儀時の写真の一部、喜久子妃18歳。



後日、本書を精読して見たい。
本書に関しては元版より、林千代の文献解題のついた近代女性問題名著選集第五巻(復刻版)のもの方が研究書としてはお奨め。

岩崎藤子『96年なんてあっというまでございますー高松宮宣仁親王妃喜久子殿下との思い出ー』、雄山閣、平成20年
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ある講演集と講演要旨から見た高島平三郎の話法

2014年07月09日 | 教養(Culture)
明治45年京都の仏教系女学校での講演要旨:「青年の修養」・・・・
学生として青年として日本人としての心構えを説いたもの。
青年の修養と青年団

(A)話法:逸話を多用し、聞き手に興味を抱かせつつ、当該エピソードの中に含意された深い教え(社会法則・教訓)の提示

①中島清五郎(松陰門下)
②西郷南洲・・・・・学園紛争を起こした学生:師範学校を卒業し、今は立派な人間に
③御釈迦さん
④侠客神門辰五郎
⑤高島平三郎の従兄弟@備後福山
⑥名僧武田黙雷師×青年:いまは法学士
⑦体操学校校長時代の高島平三郎の体験談
⑧陸軍中将安藤安正(シベリア探検談)→安藤安正(誤)は福島安正(正)

『逸話の泉』」は手本にすべき人物に関する逸話集。『修養20講義』中、第十五講(300-314頁)「自治体と小学校」は平三郎が17歳の時(明治14年9月-15年3月)の神村小学校須江分校(現福山市)時代のエピソード集だが、小学校を地区の核にして地域社会の社会統合・地方改良に取り組むべしという政策提言に溢れた開明的というか先進的な内容だ。本書には須江分校時代の経験談が幾つか収録されており、高島を知る上で貴重。


華頂女学院の学生に修養の基本は理想的人物を念頭に置きつつ、時々自分の現状に関して反省することだと。
師範学校の教師時代に頭は良いが学校・教師を批判してストライキを起こす学生がいた。こういう学生は頭の中に理想がないからだ。もし悪いところがあるならば自分が立派になってそれらの悪いところを自ら改善すればよい。学校や教師関して些細なことで、心を動かすのはよくない。
西郷南洲と弟従道のエピソード(南洲は醤油のかからない豆腐を黙って食べたが、弟は食べる前からそれを食わぬ先から下男を叱りつけたという話)を持ち出し、南洲先生は人間としてのスケールが大きく、偉いとその学生に話すと学生は大いに感心してその帰りに直ぐ南洲像を買ってその前で木刀などを振って力んでいた。なにも南洲像を拝むことはいらないが、そこが青年の意気だ。その学生は成人して今日では立派な人になっている。
華頂女学院の学生には直ちに釈尊やその他の英雄豪傑のことを頭に入れて手本とするようなことは難しいかもしれないが、身の回りにはたくさんの小さな釈尊、小さな南洲がいるもの。電車の中で老人に席を譲るがごときは、この心がすなわち釈迦であり、小南洲である。
現代社会(明治末当時の世相)は堕落しているといわれるが、これを、聞くと日本人は皆大馬鹿で皆大悪人のように見えるたり、新聞の挿し絵を見ていると総理大臣の顔が馬の顔より長く見えたりする。しかし、世の中はそれほど捨てたものではない。


自分の身の回りには自分より優れたところを持つ人がいるもの。下男や下女の中にもそういう類の優れた人間が・・・。そういう人を終始目前の目当てとして自分流にそういう人間に一歩でも近づけるように磨いていく。あまり頑張りすぎると神経衰弱になるので、明鏡のうちに楽地ありで心に余裕をもたせながら自分を磨いていく。このことが釈尊への道、南洲先生への道にもつながる。
侠客神門辰五郎と自分の従兄弟の逸話を引き合いに「深く信じれはなにごとも通じる」と説く。
一日一日その時取り組んでいる問題に全力で取り組み、ほかのことはその時になって考えるというやり方、心頭を滅却すれば火もまた涼しということが言われるが、火事場のうすで、心の持ちようで人間はものすごい力を発揮できる。
神様・仏様を深く信じるように自分の学校を信じ、先生を信じ、そして自分自身を深く信じられるようにならなければならないと説く。

(B)外来語の使用し、欧米思想を参照している雰囲気を演出
(学校内での)ストライキ
良い意味でのモーメンタリズム(刹那主義)
ウイリアム・ジェームズ(William James)
一如(Oneness)・・・「一如になって勉強すれば諸君の身にはいつの間にか立派な羽が生え蝶となり(人間として)成功する」
Twoness/Threeness・・・・体操をやるときは体操、幾何を勉強するときは幾何でなければならず、集中力を失ない神経を散漫にして二兎を追ったり(Twoness)、多兎を追ったり(Treeness)していると身にはつかない。またできるだろうか、出来ないだろうかという迷いばかりでもだめで、できると決めて目標に向かって全力傾注が必要で。これは成功・成就の秘訣だ。
いったんやると決めたら、一心不乱、福島大将がシベリア探索を行った時も行程の途中では日々の任務に忙殺され、家族のことなどほかのことはあまり考えなかったが、一心不乱にそれに打ち込むこと、つまり一如の精神が肝要。ただ、探索を完遂した時は海を見て遥か遠くにある祖国の事が脳裏に去来して大泣きしたとのこと。やはり何かに言っても心の底にその拠り所となるものを持つことは大切なことだと。高島にとっては一つにはそれが父母の眠るお墓・・・・・だったとか、そんな講演だった。


高島は女子教育の権威だったが、華頂女学院で行われたこの講演は明らかに男性向きの語法に依拠していた。
高島の偉いところは自分の女性論は男性の立場からのそれだと認識していたところ。



まだ読んでいない。高島平三郎「常識について」(昭和12年)・・・・むかし研究していたアメリカの社会人類学者Geertz ,C.の同タイトルの論文をふと思い出した。

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石井亮吉「石井竹荘と浚明館」(昭和10年)

2014年07月07日 | 教養(Culture)
石井亮吉(大成館三吉傾山の門弟で、製塩業者にして倒産後は町長・蓮華寺住職をした俳人:瓢水石井友三郎の子)曰く「高島平三郎は長谷川櫻南の知遇激励に奮起したと・・・・」(高島自身は当時すでに儒学と儒学者の旧態依然とした前科学的内容と教授法には失望していた→『現代の傾向と心的革命』)。
この石井34歳時の論文は短いものだが、長谷川櫻南・浚明館のこと、そして高島が松永小学校勤務時代のエピソードなど手際良くまとめられており大変に貴重なものだ。

石井亮吉「石井竹荘と俊明館」(昭和10年)

松永町の井出さん経営の三木醤油(通称「三木屋」)の旧所在地.三木醤油の前身は明治14年11月創業の佐藤元吉(本郷・佐藤氏)醤油醸造。

ベースマップは昭和37年国土地理院撮影の航空写真


道路に面した一角に「浚明館」があった。


3,4年前に立入川という水路を埋め立て現在は道路。割烹「大吉」は立入川に面していた。


「大吉」の前身は吉井石井家屋屋敷(福山法務局分室の土地台帳及び和紙公図で確認済み)。現在駐車場となっているところが松井石井家の石井竹荘ー石井四郎三郎(入江屋)の屋敷跡。なお、『松永町誌』は割烹大吉を旧安井石井家屋敷の転用としているが、安井・松井・吉井はいずれも「大吉」一帯にあった入江屋石井氏一族。
石井竹荘は塩田地主層に属する人間で山路機谷同様、趣味道楽系文人(=ディレッタント)であった訳だが明治政府による諸学校令が出される前後の時期に当たる明治16年に漢学塾=浚明館を開校するという時代の読み違えを犯しており、やはり文明開花に乗り遅れ、時代の大きなうねりの中で消えていく運命の人たちの一人ではあったのだろ。
「大吉」は中外製薬松永工場の正門横にあった料亭だ。樹齢200年ほどの大きな楡科の大木のある家は嘗ての井出家(昭和30,40年代に倒産した三木屋醤油の創業家一族)、山陽本線の線路敷の向こう側(南)に立つ創価学会会館の旧立入川を挟んでその向かいには塩田地主石井(兼三、東京帝大文科卒、旧制中学校長をへて旧松永市長歴任)家住宅があった。
1944年9月☆ - 中外製薬は株式会社松永製薬所を吸収合併し、広島県に松永工場を開設(2003年12月に閉鎖)。松永製薬所は塩田地主一族の岡本織之助が経営。



西町の本通りを一筋入った裏通りに入ったところ。場所的には、いまは無いがかつて西町踏切があったところの近所だ。


むかしの記憶を頼りに石井亮吉宅(丸井第二世石井瓢水の終焉地)を探訪・・・・現在は別人が新居を構え、昔の狭い路地裏住居の面影はなし。亮吉が収集した史料の所在確認の問題として未確認情報だが石井には娘(藤江町の方に婚出、亮吉の子供は2人で一人は死亡のため)が一人いた(娘さんは丸井石井家墓地に藤原□として合葬。令和4年7月93歳で没)。この辺り、半世紀近く前からの住人は少ない。

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明治34年段階における児童研究者高島平三郎の世評

2014年07月06日 | 教養(Culture)
加川という人物による記事「おもちゃ」(上中下)で語られた明治34年段階における高島平三郎は・・・・・有名人というか研究者として当時№1の注目株だった。高島の名前の前には「有名な」という形容詞がつくような存在だったわけだ。
婦女新聞は福島四郎が発行した週刊誌だが東京帝大教授元良勇次郎(心理学)は発刊当初からの新聞社の賛助会員(=組合員)
「婦女新聞」は「児童研究」をかなり模倣している。






この記事を読むと第一子であった文雄の為に研究と育児の便を兼ねて高島が玩具収集を行っていたことが判る。
高島の性格というか人柄というか・・・・そんな部分も何となく透かし見えてくる。
執筆者加川は高島平三郎のホットな人柄と高島編集の「児童研究」の素晴らしさにはかなり心酔するところがあったようだ。
わたしの見るところでは高島は明治の男らしく社会的には良妻賢母を説いた。他方、児童研究においては高島自身が良夫賢父よろしく、育児(高島は性格的に子供好き・子煩悩・教育パパ)と児童研究とを同時並行的に実践していく様が投影されていた。

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