- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

河本亀之助死後の洛陽堂

2018年12月30日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
国井通太郎『救いを要する人々』、洛陽堂、大正10年  


国井通太郎は新渡戸稲造 『人生雑感』 国井通太郎 編、講談社〈講談社学術文庫 611〉、1983年8月。ISBN 4-06-158611-4。 - 新渡戸&國井編(1915)の再刊。に関わった人物だが、戦時中は地元で地域社会のために働いた人らしい。若いころは新渡戸稲造の感化を受け、クウェカー教に傾倒したこともあったようだ。その辺りがキリスト教との関係を深めつつあった当時の洛陽堂との接点を作り出す契機となったのだろう。
洛陽堂から上梓された国井通太郎『救いを要する人々』は博愛主義乃至はキリスト教社会主義系のものだ。この路線は早稲田大学の帆足理一郎と昵懇だった河本哲夫経営の新生堂に引き継がれていく。

参考までに、当時洛陽堂が手掛けた国家主義者の出版物:
上杉慎吉『暴風来』洛陽堂、大正8
右を向いたり、左を見たり・・・。国井通太郎の本書などは、早稲田史学の津田左右吉『文学に現われたる我が国民思想の研究』 洛陽堂、1917-21 /を出版した後、出版社としての洛陽堂のおやおやぶりを象徴するような出版物だという気がする。




大正10年当時の洛陽堂刊の修養・キリスト教関係図書


国井通太郎に関しては年譜が
町政雑記 : 抄 3 (1946年-1947年1月)
国井通太郎 著

発売: 茨城図書;国井通太郎略年譜: p316~320

[目次]

町政雑記 抄三
昭和二十一年(承前) / 221
第四輯(昭和二十一年七月) / 247
国井通太郎略年譜 / 316
解説 国井信義 / 321
にあるようだ。

新渡戸稲造の『人生雑感』は新渡戸著『自警録』、『武士道(Bushido The Soul of Japan)』と共に当時の修養関係の思想書として読むに値する作品だろ。そういう意味では高島平三郎とか西川光二郎などは歴史的使命を終えた人たちだ。
むろん新渡戸『武士道』については問題がないわけではない。
ただ本書執筆の時代背景:日清戦役後の日本に対する欧米の関心の高まりの中で、西欧人の疑問(日本人の倫理観のベースにあるもの)対する、新渡戸の構築主義的(日本人の道徳意識が実際にどうであるかという本質主義な立場ではなく、日本人の道徳意識のベースに新渡戸流の武士道観を持って来るべきだといった立場:構築主義的)考え方を、西洋人に理解可能な形で論理化したという性格を有する書籍だという面は押さえておく必要があろう。



『武士道』オリジナル版の目次


昭和13年 新渡戸の高弟:矢内原忠雄訳の日本語版『武士道』











新渡戸稲造全集 教文館
全25巻

第1巻  武士道 東西相触れて

第2巻  農業本論 農業発達史

第3巻  米国建国史要 建国美談 ウイルリアム・ペン伝

第4巻  植民政策講義 論文 時評 そのほか

第5巻  随想録 随感録 偉人群像

第6巻  帰雁の蘆 内観外望 西洋の事情と思想

第7巻  修養 自警

第8巻  世渡りの道 一日一言

第9巻  ファウスト物語 衣服哲学講義

第10巻 人生雑感 人生読本

第11巻 婦人に勧めて 一人の女 読書と人生

第12巻 「Bushido, the Soul of Japan」 「Thoughts and Essays」

第13巻 「The Japanese Nation」 「The intercourse between U.S. and Japan」

第14巻 「Japan:Phases of Her Problems and Her Development」 「The Japanese Traits Foreign Influences」

第15巻 「Lectures on Japan」 「Reminiscences of Childhood」 「What the League of Nations Has Done and Is Doing」 「The Use and Study of Foreign Languages in Japan」 「Two Exotic Currents in Japanese Civilization」 「Lao-Tzu and Kojiki」

第16巻 「Editorial Jottings」

第17巻 日本国民 日米関係史

第18巻 日本―その問題と発展の諸局面 日本人の特質と外国の影響

第19巻 日本文化の講義 国際連盟の業績と現状 日本における外国語の効用とその研究 幼き日の思い出 日本文明における外来の二潮流

第20巻 編集余録

第21巻 日本土地制度論 随想録補遺 札幌農学校 泰西思想の影響 日本の農民解放 中国は共和国になれるか 日本の植民 日本における国際連盟運動 日本の経済と財政

第22巻 「フレンズ・レビュー」寄稿文 「インターチェンジ」寄稿文 英文大阪毎日寄稿文 宮部金吾宛書簡 エルキントン家宛書簡 H.B.アダムズ、W.E.グリフィス、A.C.ハーツホーン、R.S.モリス、W.H.フォーンス、N.M.バトラー、M.E.ドイッチュ宛書簡

第23巻 第21巻、第22巻の英語原文 編集余録の未収録原文 宮部金吾宛書簡の新資料「6通の原文と翻訳」

別巻1  新渡戸博士追憶集

別巻2  月報・新資料



明治32年刊行の横山源之助の名著『日本の下層社会』 は当時の東京在住者を捉え、華やかに栄える東京だが、生活に苦しんでいない人は少なく、貧民が多数派だとしてその具体相をルポしたもので国井通太郎の本書に先立つこと20数年だ。帝都のもつ社会的病理については雑誌『都会と農村』洛陽堂刊で丸山鶴吉らも指摘していた

大正11年当時の洛陽堂の出版目録

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洛陽堂刊行の雑誌『都会及農村』

2018年09月03日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
大正4年11月15日、洛陽堂は編集主幹に天野藤男を据え、雑誌「都会及農村」を御大典記念発行という形で創刊(1巻1号)した。翌月12月28日印刷納め、大正5年1月1日に刊行されたのが正月号(2巻1号)。わたしの所蔵本で見ると、4月号までの表紙挿絵は平福百穂筆。3巻1-3号は恩地孝四郎筆。3巻5-6号の表紙挿絵は橋口五葉(1881-1921、「」のサインあり)。いずれも複数号に亘って表紙のデザインを使いまわしている。3巻には中国新聞藤井氏より贈呈の書き込みがあり「乞高評」の印。創刊号には「贈呈」の印。

「地方改良」という国策に沿った雑誌「都会及農村」だった。天野藤男の編集者としての能力不足が影響したのか3巻を見ると創刊時の勢いは失せていた感じ。天野自身も、刊行しなくてよい雑誌だとか「3号雑誌」だとか、いろいろ周囲からチャチャを入れられていたようだ。当時洛陽堂が発行していた雑誌『白樺』と比較すると、やはり内容面での知的喚起力、企画の斬新さなど何処を切り取っても雲泥の差。編集後記で「加藤一夫」が書いたものを掲載するとの予告をしていたが、実現はみなかったらしい。永井潜の弟子医学者で推理小説家小酒井 不木(ペンネーム)が3巻5号に一文を寄せていた。広島県人の心理学者下田次郎も寄稿(3巻8号)。「壺網」というタイトルの一文(「都会及農村」3-5、46-51頁、大正6」)を寄せた寺岡千代蔵は広島県沼隈郡の人(大正6年当時、沼隈郡走島村立燧洋尋常小学校長)。ザーッと文章に目を通してみたが文芸的センスのある人だったようだ。
武者小路実篤が2巻1号に「ある読者に」という一文を寄せている。執筆者(日本における近代農学の祖・横井時敬ら・・・むろん高島平三郎も)の顔ぶれから見て2巻一号(つまり創刊時)が雑誌『都会及農村』のピークだったかな~
岡山県井原出身で東京市長経験者阪谷芳郎は都市計画や都市基盤整備の必要を、また郷党の丸山鶴吉は都会の持つ光と影のうち、後者(社会問題の温床になりやすい貧民窟など)に目を向けた都市研究の必要性を指摘している点が目を引いた。


大正7年1月刊 167頁+洛陽堂図書目録、B6判(NHKブックスサイズ)、ソフトカバー
前掲した寺岡千代蔵「壺網」の骨子は『漁村教育』151-153頁に転載


3巻9号の挿画は恩地孝四郎、3巻10号は原勇・恩地孝(孝四郎)が担当。なお、原勇は「月映」同人以外の人物(詳細不詳)。


河本哲夫が神田北神保町2番地に開業したことを告げる「新生堂」の広告を掲載(3巻6号、大正5年6月1日刊行)。


中身の分析は他日を期す。私の印象では後年の有名画家の駆け出し時代の作品がこの雑誌には多々見られ、そちらの研究の方が意義がありそう。

なお、わたしが所有しない雑誌『都会及農村』の1巻2号、4,5巻

洛陽堂刊雑誌の仰天古書市場価格・・・これは雑誌「白樺」復刻版・全巻5セット入手できる価格に相当する。

10月9日現在売り切れ。収集家にとっては垂涎の的になるんだろうか


これまでの関連記事
関連論文


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才能全開というか、やりたい放題というか

2018年04月20日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
大正3年に出された雑誌「白樺」第五年4月号(岩波書店による復刻版)、総ページ576頁。巻末部には自社の出版物の宣伝を含む広告ページ。勇み足を含め未来を先取りするような前衛的というか先端的な雑誌だった。雑誌「白樺」紙上を舞台に文学・音楽・美術を網羅した一大芸術運動のうねりが感じられる。洛陽堂は赤字を出しながらも7,8年間も必死でその舞台を提供し続けた。
参考までに、正月号が352頁+第4巻総目次16頁+広告、2月号が174頁+広告、3月号は118頁+広告、5月号は192頁と広告、6月号は142頁と広告、7月号は126頁と広告、8月は108頁+広告、9月号190頁と広告、10月号が222頁と広告、11月号は274頁と広告、12月号が138頁+広告、100年後の現在わたしが驚異に感じるのは年間2612頁というやるきと意気込みに溢れたボリューム

白樺5-11には洛陽堂刊予定の柳宗悦『ヰリアム・ブレーク』(大正3年12月)の広告があり、その宣伝文句に内容と外装において本邦唯一の出版物だと。このあたりの胸の張り方は河本亀之助のもので、この洛陽堂には書籍の装丁なども含めた「もの(書物)」としての出来栄えの良しあしに関心が大きかったことが判る。



雑誌「白樺」は1巻1号~9号、2巻1号~8巻10号まで洛陽堂刊、それ以後は白樺社刊。作家として駆け出しの白樺同人たちが世に出るおぜん立てをし、側面からかれらの面倒を見たのが河本亀之助・東京洛陽堂だった。



巻頭論文は長大な柳宗悦「ウイリアム・ブレーク」

大正3年頃と言えば洛陽堂の編集部で天野藤男が「都会及農村」が発行開始する時期だが、彼の著書『故郷』ではどさくさにまぎれた感じで暗に白樺同人の文学を不良なものとして批判している。赤木桁平「芸術上の理想主義」洛陽堂、大正5年では白樺派の文学を水準は低いと書いている。天野・赤木らは武者小路らの文学を異文化としてとらえ、その新しさにはついていけなかったようだ。それはそうと第一印象として白樺派の作家の中では志賀直哉は文章のうまさが光ってるかな~。
ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)の後時代的受容

奥田駒蔵が明治末期に開業した日本橋のメイゾン鴻乃巣。1910年に帰国後東京日本橋小網町の鎧橋の側に開店した「メイゾン鴻之巣」は日本におけるカフェ=レストランの草分けとして知られる。この店には早くから西洋志向を抱く文人たちが集い、飲食のみならず藝術談義を愉しんだ。パリやベルリンやブダペストなどで花開いたカフェ文化はささやかながら極東の首都にも伝播したようだ。


最後に雑誌『白樺』の紙上広告を見ておこう。
「メイゾン鴻之巣」の常客として、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、谷崎潤一郎、高村光太郎、伊上凡骨、志賀直哉、郡虎彦、芥川龍之介、菊池寛、和辻哲郎、内田魯庵、岩野泡鳴、島村抱月、小山内薫、平出修、大杉栄、荒畑寒村、片山潜の名を挙げている。
青鞜社の「新しい女」尾竹紅吉がこの店に何度か通い、名物の「五色の酒」(一種のカクテル)を嗜んだために世間の袋叩きに遭った事件は遍く知られていよう。1912(明治四十五)年のことである、と(前掲リンクよりの引用)。





岩波書店の「我等」


「伊庭孝氏の誤訳を嗤(わら)ふ」?  同志社中退の伊庭の語学力に疑問符をつけた東京帝大独文卒の三井光弥

東雲堂書店の「番紅花(サフラン)」。大正3年3月創刊。


これは・・・・・大杉栄・加藤一夫・堺利彦。丸山鶴吉の『50年ところどころ』にも登場する大杉と境。転向組の加藤は洛陽堂からいろいろ本を出している。洛陽堂は雑誌「白樺」から手を引いた直後に加藤の雑誌「科学と文芸」の発行を一時期」(1918年1月号~6月号)引き受けている。科学(機械論)と文芸(生気論)といった対極にあるものを並列したまことに大風呂敷な名称の雑誌だが、当時河本亀之助は慢性腎炎を患い、その兄貴に代わって弟俊三・哲夫たちが経営の重要部分を担うようになっていた時期だと思われるが、私にはプロテスタントとしての河本兄弟の生き方から見てかれらの信仰告白の発露=「神から授かった使命」という意識が(最終的には共に西川光二郎同様、天皇信仰の唱道者へと変節した)民衆派詩人で評論家の加藤一夫(明治学院出の元牧師,無政府主義者)支援に向かわせたとしか思えない。
ちなみに雑誌「科学と文芸」4-2(1918)の科学集萃(再録)には福来友吉「観念不変の連続」、永井潜「主観的客観的痛覚」を、また「実用科学」(再録)には高島平三郎「児童教育の注意」を入れているので、もしかすると・・・・・。
河本の頭の中に損をしてでも良書を出版するという発想があったのかどうか判らないが、プロテスタント関係の出版物を多く手掛けた河本亀之助たちの気分としては自らの社会的使命を果たす方法として、高い志をもった無名の新人(例えば月刊 自刻木版画集「月映」の同人:恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄)を出版面で支援をするところがあったのではなかろうか。


そんな無茶なと思えるほど超ハイカラというか前衛的な雑誌「白樺」5-4だった。水準の高さに驚かされる。こんな売れもしない高級雑誌の編輯・発行人を永くつとめた河本亀之助はまさに近代文芸史上における陰の功労者であった。
追記)1988年に岩波ブックセンターは雑誌「白樺」の復刻版を出したが、まさに大正期の「岩波書店」ともいえる存在だったのが、東京洛陽堂だったわけだ。洛陽堂は企業として生き残れなかった訳だが、弟の哲夫は大震災直後の大正13年にはそれまで洛陽堂に大きな影響力を及ぼしてきた高島平三郎らを切り捨てる形でキリスト教関係の書物を出版する新生堂を創業している。


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大正3,4年ころの洛陽堂の出版物

2018年03月28日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
木下利玄の処女作『銀』(短歌集)、東京洛陽堂に一番元気があった大正3年刊。







大正4年刊。  大正七年までに版を重ねなんと11版。著者は旧熊本藩士の孫娘:嘉悦孝子(1867-1949)。
津田梅子・下田歌子から広島県人だった大妻コタカまで明治大正期猛烈女子の話題山積。




河本亀之助経営の洛陽堂は高島平三郎・永井潜といった著名人(郷党)に支えられつつ、国策(内務省の地方改良運動)に沿った出版物(山崎延吉・山本瀧之助・天野藤男・中川望ら)が目に付く。



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洛陽堂が育てた少年少女読物作家吉屋信子(2)

2018年03月13日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
永井多寿子 著 ; 永井潜 編『女の幸をしみじみと思ふ』、昭和23bに掲載された永井多寿子の作品も多感な処女の心情(古屋流に言えば”赤い夢”)をつづったものだったが・・・・


袖珍本




関連記事:洛陽堂が育てた少年少女読物作家吉屋信子
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雑誌「都会及農村」3-7、大正6年7月刊

2018年03月08日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
この雑誌は天野藤男を編集人として大正4年11月創刊された雑誌だ。本号は「盆踊研究号」とある。大正期における代表的農村研究者としては農学者横井時敬や農村の再建運動に取り組んだ山崎延吉らの名前がまず挙げられるが、在野の農村問題研究者として天野は洛陽堂などを舞台として貴重な何冊かの著書を刊行している。洛陽堂の経営者河本亀之助らは原稿の内容には口出ししなかったようで、そういう面では編集者としては凡庸だった天野らがやりたい放題(いな、悪戦苦闘、試行錯誤)といった内容の、完成度の低い書籍が洛陽堂から一時量産された。内務省嘱託時代が彼の全盛期であったが、その農村社会学風ないし民俗学風の農村研究を推進したという点でその方面の我が国におけるパイオニアの一人といってもいい位の人物ではあった。
佐藤 精作「天野藤男--社会教育の源流をさぐる 」社会教育20-7、1965、pp.58-65という小論考があるようだ。

天野藤男、新渡戸稲造、本多静六、高島平三郎、鎌田栄吉、三輪田元道、田中穂積、小酒井光次(永井潜の弟子:東北帝大医学)らの論考を所収し、橋口五葉表紙。 創刊号には元警視庁特高課長だった丸山鶴吉が執筆、洛陽堂と丸山鶴吉とは郷党意識の共有を通じて繋がっていた感じだ。

亀之助の原稿依頼方法
静岡市清水区草ヶ谷の大乗寺にある天野家墓地

天野家墓地の背後に「草ケ谷家」の墓石。草ケ谷という珍しい苗字は清水区庵原町 に多い。天野家はこの地区の旧家。天野家墓地内には武田信玄かだれかの供養塔もあるらしいのでそういう方面にこだわる家筋なのだろうか。


洛陽堂・河本亀之助にかんしては以下の本が参考になる
田中英夫『洛陽堂河本亀之助小伝―損をしてでも良書を出す・ある出版人の生涯』、燃焼社、2015
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洛陽堂刊の美術全集といえば・・・・

2017年06月30日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
雑誌「白樺」は高級雑誌の典型だが、この洛陽堂刊の美術全集「泰西の絵画及び彫刻」全9巻も当時としてはとてもハイセンスなものだったはず。サイズこそ菊版だが、体裁的にはいまでいう画集。


絵画編4の函の絵はフォゲラー「夏の夕べ」


大正5年刊の本としては珍しくカラー図版。『沼隈郡誌』が刊行されるだいぶ前に出された本だが、最先端の印刷技術をこの全集にいちはやく取り入れた感じ。



有名なクリムト(1862-1918)「ユーディト」(1901)


「前川蔵書之印」

1918年だからクリムトの方は大正8年没ではなかった。

現在入手しようとするとこんな保存状態のものになる。小泉鐡(まがね)が図版提供などに大きく寄与していた。


このシリーズの由来については田中英夫『河本亀之助小伝』417-421㌻が詳しい。田中氏の説明によれば、売れ残った雑誌「白樺」から図版だけを外し、武者小路たちには無断で再編集し、それを河本亀之助編と言う形で刊行したものだったらしい。
先ほどまで雑誌「白樺」は良書だと思ってきたが・・・・・・。
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『農村青年 夜学読本』、洛陽堂

2017年03月10日 | 河本亀之助と東京洛陽堂




兵庫県揖保町在住の真殿清という青年の所有物だったようだ。


真殿清の居住地
寺子屋の教科書だった庭訓往来に毛を生やしたようなしろもの。忠孝思想、故郷観念の覚醒、入営(or 軍人・兵士として)の心得などもちりばめられている。山本瀧之助が深くかかわった大正3年以後段階の農村青年教育の方向性は一目瞭然。大正3年と言えば田中義一『社会的国民教育 一名青年義勇団』、博文館、大正4が出される前の年、これらの書は明治30年代以後読み続けられてきた青年向けの人生論書:大町桂月の『学生訓』などとは明らかに異質の方向性を持っていた。








村田露月のおひざ元にある沼隈郡熊野尋常小学校長高山編の教科書(夜学読本)だ。洛陽堂刊となったのは山本瀧之助からの口利きが効いた結果だろ。版を重ねているのでかなりの部数全国販売されたようだ。


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福鎌恒子『奥様とお女中』洛陽堂、大正4

2017年02月23日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
どうしてこんな本をといった感じの書籍を出版した洛陽堂。経営者の嫁:河本テルが日本赤十字の看護婦時代に新聞記者の作り話よりも、現実を体験したその人の原稿を活字化したもののほうがよいといった意味のことを語っているが、この本もそういう当時の洛陽堂の方針とは矛盾をしないものだ。
序文は当時家庭教育問題について積極的に発言をしていた高島平三郎。高島は序文の中でよりよい子弟教育には子供のベビーシッターとか家族の一員でもある女中さんたち(教育機会に恵まれなかった女たちor無学な女たち)の修養/教育が欠かせないと述べている。
著者福鎌恒子と高島との関係は日本女子大での師弟関係か否か・・・・いまのところ未確認だ。

内務官僚岡村の『児童保護の新研究』は当時としては画期的内容(西欧列強のあり方を取り入れた兵力と労働力確保という視点からの児童問題把握)を含んだ書籍。高島の『教育に応用したる児童研究』、元良・高島・永井『児童学要綱』は当時の児童学研究の完成形を示すもので、元良ー高島がその中心にあり、彼らによる児童研究が心理学と医学との共同作業を志向していたことを示す。医学関係者には広島県出身者が多かった。
山本の『一日一善』はベストセラー本。
当時の洛陽堂は雑誌「白樺」の刊行など大正デモクラシーの時代を担う出版社へと驀進をし始めた時期に当たるが、玩具・子供服・遊園地・童謡など子供を取り巻く商業文化の興隆の中心の一角を高島児童学は占めていたし、洛陽堂は時流をうまくとらえ、なおかつ内務官僚をライターに起用するなど国策に沿った書籍を刊行していた。


袖珍本だ。


福鎌恒子が今日注目されるのは関東大震災の時に朝鮮人暴徒のうわさが広がり、横浜において地域住民らによって朝鮮人虐殺が行われた、その目撃談を以下のような形で『横浜地方裁判所震災略記』、112‐125頁に記述した点においてだ。





「(横浜)駅の右方がガードを越えし処にて黒山の如き群集あり何ときけば××××を銃剣にて刺殺しつつあるなり頭部と云はず、滅多切にして溝中になげこむ惨虐目もあてられず、殺気満々たる気分の中にありておそろしきとも覚えず二人まで見たれ共おもひ返して神奈川へいそぐ」(故横浜地裁福鎌文也検事正代理夫人・福鎌恒子・・・・福鎌は横浜地裁の「検事」であった夫君を関東大震災で失っている)。
横浜市震災誌

当時、素人ライターの原稿をずるずると出版した洛陽堂。こうした二匹目のドジョウ狙いは洛陽堂の経営状態にあまりプラスには作用しなかっただろ。気のせいか、わたしには当時の有名学者高島の著書や高島の息のかかった人物たちの書籍がやや目立ち過ぎかなぁと思える。
一度パチンコに勝つと味をしめて、次も勝てる、連敗しても、また勝てると思う種類(認識の違いに由来するタイプ)の誤解のことを認知論的誤謬というが、ある新人画家(竹久夢二)の画集で大もうけしたが河本亀之助の頭から離れなかったことが素人ライターの原稿をずるずると出版した背景にはあったのかなぁ~
下澤瑞世『都会における美的児童研究』、洛陽堂、明治45

福鎌恒子『奥様とお女中』洛陽堂、大正4の読解は後日機会を見ておこなう。

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井土経重 等編『征清戦死者列伝』、明治29年

2016年10月29日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
河本亀之助は、経営者西澤之助の信頼を得たのであろう、30歳前に当たる明治27年には小さな町工場であったとはいえ国光社の印刷部門を任されていた。識字能力が高く印刷工としての上達も早かったようだ。明治27年といえば旧廣島藩士玉置源太郎が東京国文社を創業する6年前の事だった。









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東京国文社と玉置源太郎

2016年10月20日 | 河本亀之助と東京洛陽堂




明治33年に東京国文社を創業する玉置源太郎は官軍に加わった芸備旧藩士




玉藻集〔国文社社主玉置源太郎の古希記念誌、芸備譜代家臣で官軍に加わり羽越に転戦、明治維新後印刷業に〕 
著者名 大滝由次郎・高木恒吉他編 序:梅原卓三郎 跋:鈴木善建 口絵揮毫:浅野長勲・末松謙澄・島田三郎・井上角五郎
出版社 大滝由次郎 ★玉置源太郎詠歌・小照(肖像写真)・小伝含★
発行年 大正6
詳細 非売品 初版 和装 原題箋 表紙少経年ヤケ 本文袋綴経年ヤケ 題字4+4+2+口絵16+132+口絵1+7頁



東京国文社刊の書籍・・・社主玉置源太郎の嗜好そのままに一昔前の国風・国学信奉を貫き、大正期にあってなお、和綴じ本を各種出版している。


印刷並に製本

印刷製本界の現状

印刷業は文明の先駆として国民教育の普及言論の発達に連れ益々発展し一面美術思想の発達と共に技術も精巧に且優美に進み活版より銅版更に石版に移り而して邦文より欧文に移る物漸次増加し技術の困難なる外印刷料金の競争日々激甚を極め日露戦役前後の幼稚なる時代は各印刷業者の得る利益多かりしも昨今は同業者の競争地方同業の発達東京大阪の対抗的競争激烈なる為め当業者の得る利益愈減退し当業者の新陳代謝亦頻々を極む然れどの需要の激増と競争の激烈なるとにて其発達実に著大なるものあり今昨年末現在における市内同業の現状を調査するに石版並に活版印刷に従事せる当業者二百八十九その中会社組織のもの二十八個人組織のもの二百七十一亦工場組織の下に動力を使用せる工場二百二十二無動力工場六十七而してこれ等工場に据付居れる器機は輪転機二台ハンド百七十九台四十二頁ロールの一台を始め以下二頁ロールを合算し千四百八十七台手摺三台カステング五十一台製本器四台罫線器七台亦これに従事せる職工は男工千八百二十五名女工百七十五名合計二千名を算す而して亦製本に従事せるもの百五六十戸この職工五百人を下らず以上工場の一ケ年生産活版印刷約十億枚この金額三百五十五万円石版其他の印刷百二十万円製本活字製造二百五六十万円合計七百二三十万円に達すべし

生産力発達著大

大阪の印刷並に製本業は地方同業の発達に連れ漸次勢力範囲を発展さるる如きも決して然らず新聞雑誌書籍を始め各種日用の諸印刷類の増加は実に驚くべき勢いを以て進み従来幼稚なる当時は市内及び近府県の注文に過ぎざりしもの一般需要増加し技術乃至印刷費競争の激甚なるに連れ却って大口物は大阪東京に吸収され現に大阪の印刷は市内六歩地方四歩と言う標準にて関西各地は勿論台湾朝鮮満州方面よりの注文日に増加をなしつつある状態なるより当地の斯業は日露戦役後非常に発達を遂げたり左に過去十年間の生産趨勢を示さん

[図表あり 省略]

右は純粋の営業者が生産せるものなれば市内十数社の発行せる日刊新聞の生産額を加算せば或は八百万円以上を算すべく兎に角過去十年間に七倍という激増を示せる工業は他に殆ど類例なかるべし而して印刷物の割合は新聞雑誌書籍三普通印刷物七と言う標準なりと

大阪印刷業の特長

大阪の印刷は年々長足の進歩を為し活版は素より石版におていも殆んど東京に譲らずとは各当業者の自負する所なるも技術の優美精巧ちょう点に於ては未だ及ばず又印刷費用の点においても精巧且つ大口の出版物類に至っては到底東京と競争の余地なく唯だ新聞雑誌と言う粗雑の印刷においては東京よりは遙かに低廉且つ便宜の組織となり居れる為めに国定教科書類の如きは東京七部大阪三歩と言う割当なるもその実大概東京に委しその代り粗雑なる印刷物の吸収に全力を傾注し東西相応じ各々特長を以て発達し居るも技術進歩と共に将来は両地の対抗競争を免れざるべしと


坂正臣と鈴木善建についてはB級本だが・・・・・
タイトル
東京名古屋現代人物誌
著者
長江銈太郎 著
出版者
柳城書院
出版年月日
大正5


わたしには高島が鈴木テル(高島の子供を出産、その子供は高島の母方親族の養子とされた)との結婚を取りやめ、テルより2歳若い黒田壽子を妻として迎え入れた背景には高島のなにがしかの打算もそこに働いていたのかなと思われるのだ。

一番の理由は西澤之助が創業した国光社が国学・国風を重んじる指向性が強く、爲に高島はそれからある程度、距離置こうとの考えがあったのだと思う。黒田壽子の兄太久馬著書「書斎の述懐」、明治23)は明治政府によって招聘されたフランス人法律家ボアソナードの薫陶をうけた言語研究者。黒田太久馬の妹を妻に迎えることは当時の高島の活躍ぶりとそれによって勝ち取った名声、そして高島の一番の弱点=語学力の不足を克服し、さらなる西欧的な教養の摂取面でそうすることが高島平三郎にとって得策だと自らもそして周囲の人々も判断したのだろうか。
その点旧広島藩士玉置源太郎は今回紹介した『玉藻集』を見れば解るように国学、国風嗜好ー旧態依然のままだったようだ。『玉藻集』において詠揮会(和歌)の先生として登場する鈴木善建は『高島壽子追悼録』,大正11年にも挽歌を寄せていた目次参照
村上純祥(尾道で開業した生名島出身の医師、東京帝大医科卒、森鴎外の2年後輩、年齢は6歳上)も和歌8首を寄せていた。

【後日談】後年河本亀之助の夫人となった鈴木テルは高島夫婦と連れだって功成り名遂げた高島念願の伊勢参りを果たしている。河本亀之助・テル夫婦は実子には恵まれず亀之助の妹婿の紅露長三の三女の房江を9歳の時に養女に迎えているが、その彼女は高島と鈴木テルとの間に出来た子・謙一(猪瀬謙一=顔立ちは高島そっくりだった)の後妻として結婚させられていた(猪瀬謙一には3人の子があったが、後妻房江との間には子供はなかった)。なお、謙一の縁談話を進めたのは高島寿子だったようだが、寿子自身は謙一の結婚式と相前後する時期に病没している。高島は養子に出した謙一少年とは子供時代から作文を自分の関わる「雑誌」に掲載したりしており、特別に可愛がっていた。謙一の子供3人は自分たちのお祖父さんとお祖母さんが高島と河本テルだということを弁えていた。
荒井
。この辺で銀座の話に移りましょう
あの頃、今の銀座はレジャーや服飾の町となってしまいましたが
。の銀座は文明開化のお先棒でした

、(活版(当時でいう銀座には福音印刷、年の銀座を見ると 6 大正活(集栄堂)、銅版・石版(栗山堂)、写凸(美山堂)、石版(大塚印刷現在の銀座の範。工場がありました 6 の)石版(三間印刷所)、版活(当時の西紺屋町には大日本印刷の前身である秀英舎、囲で見ると弓町には三、軒 2 の)石版(と右田印刷所)オフセット・石版・版(活版(文玉舎)、活版(金芳舎)、活版(千代田印刷)、活版(協印刷所と東京造画)彫刻・石版・活版(宗十郎町には東京国文社、軒 4 の滝山町には東京製、軒 1 鎗屋町には細川活版所、軒 2 の)石版(館コ(審美書院)、活版(新肴町には集栄堂、軒 2 の)活字(中心堂、本八官町に、軒 3 の)写真製版(明治製版所)、木版、石版、ロタイプ日吉町、軒 2 の)活字鋳造(民友社活版製造所)、活字(は忠愛社、軒で 1)石版(山城町にも彩雲堂、軒 1 が)活版(に民友社印刷所。工場がありました 31 結局現在でいう銀座にはそれでも京橋に、強制加入でしたが、当時の東京印刷同業組合は下谷、29 本所、41 芝、50 浅草、57 日本橋、116 神田に、社 147、6 麻布、8 深川、9 四谷、12 小石川、15 牛込、22 本郷、23 麹町、28・・・・」

猪瀬房枝が最晩年に河本千代子に送った一通の手紙を千代子の娘婿:医者村上某が1990年頃の松永沼隈医師会機関誌「松韻」1990年を掲載していた。
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転向後の西川光次郎(光二郎)の生き方

2016年09月19日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
平民新聞は印刷屋に原稿が回った段階でいち早く発行禁止処分を受けた。この離れ業をうっかり活字にしてしまったのが、第二代特高課長の丸山鶴吉だった。
かれは社会主義者の才能を認め、彼らの能力を反社会的な方向にではなく、もっと社会的意義の大きな別の方向にむけさせようと思っていた。
その網に引っかかった最初の魚が西川光次郎(光二郎)だったようにわたしには思われる。西川文子は当時を振り返って恩師新渡戸稲造、松村介石そして高島平三郎の世話になったと述懐しているのできっとそうだろう。
この辺の問題は西川光次郎に関する詳細な評伝を書いた田中英夫は見落としている。見落としているといえば高島平三郎と鈴木テル(河本テルの旧姓)との間に生まれた猪瀬謙一の存在についても田中は沈黙している。田中さんは学習院時代からの高島の教え子で、学生時代は小杉の父親の希望で永らく(てか人生の大半を)高島家に下宿していた人物小杉吉也の記述(「高島壽子追悼録」)に注目しており、猪瀬謙一の存在には気づかなかったようだ。この辺はルポライター田中の残念な部分というほかない。
こういう決定的な失点を重ねる田中英夫だが、やはり彼自身のルポルタージュ文学的手法の手ぬるさと洞察力不足(膨大な事実を列挙しつつも真実に辿り着く一歩手前で記述が終わること)に起因していると思う。
高島平三郎は明治32年暮れに夫人の西川(旧姓志知)文子が女学生時代の京都府立高女に講演で訪れている。

洛陽堂は後年、夫光次郎の著書と共に文子らの書籍も出版をしている。文才のなさから平塚雷鳥ほど、西川文子が世間的な注目を受けることはなかった。

西川は釈放後、高島主催の楽之会での講演依頼を受けている。当時西川には警察による尾行がついていたりしていたはずだが、すこしも世間体をきにせず生活支援を兼ねて洛陽堂は何冊かの書籍を出版している。この辺は丸山鶴吉ー高島平三郎ー河本亀之助(洛陽堂主人)がしっかりとタッグを組んでいたので洛陽堂としても躊躇はなかっただろ。
西川光二郎のケースと加藤一夫のケースとは若干違いが感じられるがイノシシが牙をむかれ豚になった連中だが、山口孤剣 を含め両者のために出版活動を通じて苦境に置かれた彼らに対して手を差し伸べたのが洛陽堂だった。

西川文子らの著書に高島は序文を寄せたりしている。大正10年当時西川は修養団の蓮沼門三らと同様に雑誌「まこと」の定期購読者だった。


昭和に入るとかつての社会主義者の中には国家社会主義者になり下がる連中も出現。そうした中の一人が西川で、彼は儒教道徳をベースとした国民意識の変革を体制変革に優先すべきという信念を実践していく修養運動家として大正末には内務警察官僚で元警視庁特高課長だった丸山鶴吉と行動を共にした。
すなわち社会主義運動から離脱した西川は大正15年の建国祭(赤尾敏提案、丸山が準備委員会を立ち上げ、その委員の中に西川光二郎)には準備委員会のメンバーとして参加。西川の性格上思いっきり右旋回して疑似右翼の丸山と行動を共にするまでになっていた次第である。

西川は転向(意地悪く、変節と揶揄した荒畑寒村のような御仁もいたが、正確にいえば西川の場合収入源としての著述能力面での「挫折」)前後のことは人にはあまり語らなかった。
息子の西川満は実践道徳の考え方を行商(全国遊説)した西川は基本的に殉教者だったと。生涯、列車の三等車に揺られながら全国を講演旅行等で回り、自宅には書斎も持たなかったという。正義と愛に貫かれた人生だったらしい(297-299頁)
西川は獄舎につながれていた2年間の間に、人間一人ひとりのこころが汚れているうちは社会制度を変えても社会はよくならないと考えるようになった訳だ(297頁、西川光二郎遺著『入神第一』、昭和16、子供の道話社)。
昭和16年段階には原重治は西川先生追悼の辞の中で「先生の御最期は明らかに孔子学会否日本青年に向って決死殉道報国の教訓を垂れ実践の命令を発せられた」と結んでいる。国家社会主義者、皇道主義者そのものだった訳だ。
愛と正義の終着点が皇道主義とは・・・・・  西川光二郎という方はその程度の人間だったということだ。

西川には尾道通過時にうたった短歌がある。
紺碧の海を隔てて向島、櫻は白く棚引きにけり(『入神第一』、153頁)

大林の尾道三部作のロケ地となった向島・龍王山(地王山)の桜。千光寺山側のことも念頭に入れてるかも知れないが、直接的にはこの風景を詠んだものだ。
西川が監獄につながれている頃、同じ囚人生活をおくっていたのが倉敷出身の山川均だった。出獄後10歳年下の青山菊栄と結婚、かれらは信念を持って社会主義思想を持ち続け戦前の疾風怒濤時代を乗り切っている。
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松本恒吉日記@明治37年8月広島病院

2016年08月31日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
明治37年8月22日日記にある松本と河本テルとの会話

2,3年前東京赤十字社看護婦養成所を修了したとある。こまめに日記を書いている松本をみてそれを原稿にまとめ本にしてみないかと。
この中で河本テルは重要なことを書いている。それは新聞雑誌の原稿は聞き書きだが、実地を踏んだ方が筆まめに書いたものは面白いという下りだ。リアリズムを重視する雰囲気が当時国光社内にはあったのだろう。



看護婦は名誉芸妓・娼妓か戦用醜業婦同然だといわれ、それに対する河本テルの反論。



赤十字の看護婦は15年間は、子供や夫など家族を残して義務に服する必要があるという事を口にした後、、河本テルは涙ぐんだ。恒吉は女の涙によれよれになり、一転慰めごとというか同情に転じる、いやはやいやはや





築地の印刷所とは国光社のそれを指すが、松本はテルに言われた通り、ここから著書を出している。
それがこちら
奥付をみると


国会図書館が公開する『征露土産
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洛陽堂は一人の著者の本を複数冊出版するということをよくやっている。松本恒吉の場合もしかりだが、あきれるほどこの出版社が駄作を量産した背景には河本テルが松本に持ち掛けた話からも分る様に印刷工あがりの河本らの営業手法があったのだろか。参考までに河本亀之助は明治末に高島の弟子:下沢瑞世に対してこんな感じの原稿依頼をしている。

その15年後に当たる大正7年の松本恒吉・もと子著『新婚初養蚕記』(養蚕学校出身の妻もと子の書いた農事日記・・・・・中身は河本テルの希望にはそった個別具体的で即物的な内容だが、内容をあまり吟味することなく、こんなものをいとも簡単に公刊してしまう洛陽堂の在り方には聊か首をかしげる・・・案の定、洛陽堂は大正7,8年の不景気に続き河本亀之助の死(大正9年12月)なども災いし創業15年記念セールにこぎ着ける前には倒産)

袖珍本(岩波文庫サイズ)・・・・こんなのが千葉県農村部のあるあるネット古書店で¥5000、2か月前に入手したが、どこにしまったかわからず昨日から探し回っていたが、古書を入れた箱と箱の間の床に落ちていた。




【松本恒吉日記@明治37年8月広島病院】の話題は河本亀之助研究で先鞭をつけた田中英夫「洛陽堂雑記 不定期刊行10号」、2009年11月2日、1-22頁中のある記述(田中恒吉『日露戦役夫人の力』、洛陽堂を引用した河本テル情報)に接したことが契機となっている。
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内務省地方局『地方経営小鑑』、明治45、博文館

2016年08月25日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
小石川区にあった博文館もそうだが、洛陽堂も一時期内務省つながりの出版物をたくさん出した。洛陽堂は拠点を麹町において創業。


模範例・手本を紹介した地方改良関係の刊行物だ。亀鑑と銘打った書物がこの時代はたくさん出版された。


明治45年10月1日 岡山県事務官( 岡山県事務官 従5位勲5等、岡山県内務部長、戦捷記念図書館長)丸山熊男氏経由で内務省から下付されたとある。


官報. 1902年06月03日に東京帝大の事務官として丸山熊男(高等官4等)の名前が・・・・


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若手ライターにチャンスを提供し続けていた当時の洛陽堂

2016年08月23日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
かつて日本新聞に勤めていた時に「美しいこども」に興味を抱き、その方面の記事を書いていた明治43,44年に上梓された中村秋人編著の本だ。このテーマでは高島の弟子の下澤瑞世著『都会における美的児童研究』、洛陽堂、明治45がある。下澤の着眼点は面白いが、分析・解釈・論理化といった面はまことに稚拙でお粗末・・・・・


中村秋人『幼児保育 情と躾』、実業の日本社、明治44には高島平三郎らが特別寄稿している。話題は昭和天皇や秩父宮雍仁親王らの幼少期のエピソードをまとめた「皇太子殿下の御幼時」。高島は直接担当したようではないが、学習院の幼稚舎に勤務していて同僚からいろいろ情報が入っていたようだ。高島と明治天皇の第三皇孫高松宮ご夫妻とは終生交流があったようだ。


児童研究の大家:高島に序文を依頼したようだ。編者中村は当時22歳の若者であった。日本新聞での特集記事をまとめたもので、中村としてはライターとして独立したての頃の作品だ。


洛陽堂から出した『花園生活』は故郷(南国の内海に面した田園地方)に帰り北海道観光をしながらの著書だ。高島に頼んで洛陽堂から出版したもの。石川弘『田園生活』、天野藤男『田園趣味』など草花に関するものを洛陽堂はいくつか出しているが、洛陽堂は地方改良運動つながりで中村のものを出したようだ。洛陽堂は雑誌「白樺」の発行元らしく新人発掘とばかりに若手のライターの本をいくつか出しているが、こちらは下沢の一連の出版物を含め失敗作品の一つ。


草花を題材とした枕草子風の随想録だが、やはり時代を先取りするような文学性は不在。しかし、新聞記者らしくいろんな取材記事はその当時の事実を記録したものであり、資料的な価値はある。例えば名士(東京帝大教授)の居宅訪問で庭に草花を植えてそれを楽しむ当時の都会人の趣味に言及したり、高島平三郎の東京郊外大崎の望岳荘のこと(庭には老梅多く植えられていた)や娘さんの名前が百合子・菫子(すみれこ)・若菜子と高島の田園趣味から優しい名前にしたことなどに言及している。高島を「児童心理学の泰斗」と記し、欧風の書斎、階上の居間には和漢の書が壁をなしていたともルポ。

高島平三郎の息子たちの名前は文雄・武雄・忠雄など文武忠孝を念頭に置いたものだったとか

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