- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

福山出身の森下博の寄進物

2019年06月02日 | 教養(Culture)
The iconography of Japanese paternity in the 17th century(17世紀における日本的父性の図像学)
京都の嵐山にある大悲閣千光寺といえば・・・・。<リンク:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/senkou-ji.htm>大悲閣は、慶長19年(1614)、保津峡を開削した角倉了以が、清涼寺(嵯峨釈迦堂)近くにあった千光寺を現在地に移し、保津川の開削工事で亡くなった人とその関係者の菩提を弔うために二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に講じて建立したもの。</リンク></大>



大悲閣からの眺望;Aは比叡山、Bは大文字山、Cは音羽山(滋賀県境)、A-Bの下にある丘陵:双ヶ丘

<大>角倉了以(1554~1614)といえば・・・・・・・・・・・・・・、安土桃山時代から江戸時代にかけて豪商。わが国の民間貿易の創始者として、南方諸国と交易や海外文化の功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天竜川、高瀬川などの大小河川を開削し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し余生を過ごしたという。嵐山の亀山公園内に角倉了以の偉業を称えて建立された銅像が、また嵯峨二尊院には墓がある。角倉家の本姓は吉田氏。ご先祖さんは室町時代には臨川寺(かつての河端御所)の東隣に居宅を構えた地元(大井郷)の豪族(下司)であった。了以の父吉田宗桂は漢方医。親族には土倉(金融・商社経営)が・・・・・・・・・・・。現在の角倉町に角倉神社(長慶天皇陵の南隣に清明墓と並置)が残る。<色:#3366cc>大悲閣千光寺の入り口に立つ石造物(大正14年森下博の寄贈とある。森下仁丹の創業者)。大阪商人たちの中には財力の一部を郷土の社会事業や京都の社寺など多方面に寄進(社会還元)したようだ</色>。勧修寺(かじゅうじ)の塔頭仏光寺にも森下仁丹の寄進物が・・・・。



洛東の勧修寺の大悲閣を寄進したのは尾道出身の山口玄洞だった。山口は京都高尾の名刹・神護寺の金堂、洛東醍醐寺伝法院大講堂、比叡山延暦寺阿弥陀堂なども寄進していた。



エキゾチックな観音さんだ。


大悲閣の観音さんといえば山口玄洞の故郷・尾道の千光寺のそれを想起するが・・・・・。山口の頌徳碑はたしか尾道の西国寺にあったとおもうが、山口家は代々この寺の門前(ニシテラ小路)に居宅を構え、醤油販売も手がけた医者の家系だった。

岡村敬二「山口玄洞の軌跡を辿る」
岡村敬二氏は三原市出身の書誌学者で論攷「山口玄洞の軌跡をたどる」は蒔苗暢夫, 長沼光彦 編(2013)『京のキリスト教 : 聖トマス学院とノートルダム教育修道女会を訪ねて』に所収。山口氏の寄進物に関しては『仰景帖』1938に詳しい。
信仰心旺盛な社会奉仕家⇔功名心旺盛な浪費家
仰景帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

 

 



わたしは勧修寺の近所に永く居住していたが、ここを初めて訪れたのは歴史研究の一環であった。その中で山口玄洞のことを知り、幼少期よく口にしていた大石順教尼のことで松永・福山に来訪の時には地元婦人会のメンバーと講演会に出かけていた。この尼さんの弟子が福山市東村町の大塚全教さんであったことを知ったのは福山に帰省後のことであった。門跡さんにいろいろインタビューしたが、歴史のことはこちらは情報提供する感じで、大西順教さんの弟子が養護老人ホーム入所の2人がいて一人は一年前に亡くなったという話を伺ったことが思い出される。その人が大塚全教(1920-2007)尼だった訳だ。門跡さんは筑波さんという元皇族山科家出身の方で、山口のことを聞いたら「そのものは・・・」という感じの言葉づかいで元皇族時代の口ぶりが残っていた。1935年生まれの方なので現在89歳。わたしがお会いしたのは71歳の時だったことになる。この人の兄貴がNHKラジオ放送でおなじみの農学者筑波常治さん。 関連記事
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西川國臣編『芦田鶴の聲』明治26

2019年05月27日 | 教養(Culture)
西川國臣編『芦田鶴の聲』明治26


February 27 [Fri], 2015, 11:53


西川國臣(蕉月)の母親:玉琴77歳(喜寿)祝いの句集『芦田鶴の聲』を名古屋の古書店で入手した。






備後とある福田桃洲・石井竹風・井出松塘・井出松烟.らは松永在住者、立神多樹麿は西村(尾道市西藤町の神官)、阿部正学は福山藩主阿部家の親族で江戸屋敷を中心に勢いを持た佐幕派が藩主・阿部正方の後継者として推した人物。

「(前略)猶関藤藤陰が喜多村安正と同時に類中風を発した事が言つてある。又塩田良三、矢島玄碩の仕宦を評した一句がある。良三、後の真と云ひ、渋江優善、当時の矢島と云ひ、並に皆枳園の平素甚だ敬重せざる所であつた。それゆゑに枳園は劇を評する語を藉り来つて、「官員様大出来也」と云つたのである。 書中には又阿部正学の東京に来た事がある。正学、通称は直之丞、これと日夕往来した棠軒は、其日記 ...(後略) 」(森鴎外『 伊沢蘭軒』)






明治26年と言えばその年の暮れ12月に穀蕃合資會社が松永で創業開始した年に当たるが、我国の文学・文芸史的には正岡子規が「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の

革新運動を開始した年に当たる。西川のこの句集から当時俳句が全国的に流行していたことの一端は伝わってくる。











「広島藩では,侍士でも100石以上と以下とでは格式が大きく異なる。100石以上の侍士は,知行取りといい,知行地(給知)を指定され,年貢を直接知行地から徴収する。100石以下は切米取りといい,藩の米倉から米を支給される。 侍士はさらに細かく,長柄(ながえ)以上(行装に長柄傘の使用を許された者),布衣(ほい)以上(礼式に布衣の着用を許された者),馬持(うまもち)以上(知行高300石以上),御直支配(御側詰以上),御序(おついで)の御前御用(御直支配に準する格式),それ以下(知行高100石以上)に分かれる。20石が侍士の最低である。」西川(●五郎)さんの話では表向き300石でも三原藩での実際の手取りは28石程度だったとか。(Q041 : 広島藩士の階級と俸禄



こういうものは玉琴女史の知人友人が自発的に喜寿記念歌(句)集刊行会を立ち上げ、玉琴ゆかりの人たちに声をかけて作品を提供してもらい、句集をだすという性格のものだと思うが、西川國臣の場合は今回も、その辺が違っていたな~「非売品」?・・・・まあどうでもいっか 松上鶴はコウノトリのこと。当時は今津河原辺りでは普通にコウノトリが飛来していたらしく、我が家の倉庫には最近まで紐に釣るされたコウノトリの脚部があった。今津村の古記録『村史』(天明~寛政期)には付近の剣脇新涯への鶴(葦田鶴:あしたづ)の飛来が(やや珍しい事柄として)記載されている。







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関衛(せきまもる、1889-1939)

2015年05月14日 | 教養(Culture)
向野 康江「関衛(せきまもる1889-1939)の児童画研究にみられる高島平三郎(1865-1946)の影響」茨城大学教育学部教育研究所紀要(29): 23-32,1998という論攷のある向野からの引用だ。
「心理学者であり、かつ児童研究に造旨の深かった関寛之(せきかんし*)と、児童文学者で、民俗学者でもある関敬吾(せきけいご)は彼の弟です。関衛の業績について精査した結果、生涯のうちに、32冊の著書と93編の論文をのこしました。これらは、大正年間に執筆されたにもかかわらず、現代にも通ずるような、新鮮な理論を我々に提示してくれます。 (*関寛之は正しくは、せきひろゆきではなく、せきかんしです)」



気候と人生

児童図画心理学



児童図画心理学

関衛 著



[目次]
標題
目次
第一章 兒童圖畫學習心理槪論 / 1
第二章 圖畫敎育の建設と兒童硏究 / 33
第三章 美的鑑賞能力の審査法 / 50
第四章 兒童の知覺及び觀察 / 84
第五章 兒童の形態識得に就いて / 100
第六章 兒童の色彩識別に就いて / 110
第七章 兒童の觀察力發達の階段 / 136
第八章 觀察力初發の時代 / 147
第九章 主觀的觀察の時代 / 155
第十章 分析的觀察の時代 / 180
第十一章 綜合的觀察の時代 / 202
第十二章 兒童の美的鑑賞の心理 / 218
第十三章 美的鑑賞力の發達硏究 / 229
第十四章 美的鑑賞力の發達階段 / 254
第十五章 兒童の圖畫描現の心理 / 266
第十六章 兒童畫發達の諸階段 / 275
第十七章 兒童の始源描畫時代 / 283
第十八章 兒童の觀念描畫時代 / 296
第十九章 兒童の自覺描畫時代 / 309
第二十章 兒童の再生描畫時代 / 317
第二十一章 兒童の描畫題材に就いて / 323
第二十二章 描畫題材の年齡的變化 / 339
第二十三章 人物畫に關する硏究 / 345
第二十四章 動物畫に關する硏究 / 358
第二十五章 植物畫に關する硏究 / 366
第二十六章 建築畫と器物畫の硏究 / 375
第二十七章 兒童畫の構成に就いて / 384
第二十八章 兒童畫の根本的型式 / 398
第二十九章 橫向型の描寫と人物畫 / 406
第三十章 造形藝術史上の描寫型 / 415
第三十一章 兒童畫の形象と誤寫 / 424
第三十二章 兒童の圖畫禀賦の分析 / 434

「(向野は)
美術教育史研究においては主に関衛(せきまもる、1889-1939)を研究してきました。
 関衛は、日本の図画教育界で初めて児童画という言葉を用いた人です。日本児童の絵画を1万点以上収集して、日本児童の描画発達段階区分を明確にした人です。明治22年(1889)長崎県南高来郡小浜町富津で生まれ、明治45年(1921)長崎師範学校(現長崎大学教育学部)を本科第1部4回生として卒業しました。その後、島原半島の小学校を中心に10年間ほど教鞭を取り、大正13年(1924)より活水女子専門学校・活水女学校高等女学部(現活水学院)に勤務しました。昭和4年(1929)には東京へ出て著作活動に専念し、その間、制作活動も続け、中国旅行に出かけたりもしました。そして、昭和14年(1939)、図画教育に情熱を注ぎ続けたその生涯を49歳で終えました。心理学者であり、かつ児童研究に造旨の深かった関寛之(せきかんし*)と、児童文学者で、民俗学者でもある関敬吾(せきけいご)は彼の弟です。関衛の業績について精査した結果、生涯のうちに、32冊の著書と93編の論文をのこしました。これらは、大正年間に執筆されたにもかかわらず、現代にも通ずるような、新鮮な理論を我々に提示してくれます。 (*関寛之は正しくは、せきひろゆきではなく、せきかんしです)」(リンク切れ)

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横井時敬校閲・高島平三郎編『国語漢文・農業読本3訂第一版』、明治44年

2015年04月06日 | 教養(Culture)
高島平三郎編纂、横井時敬(東京帝大・農科大学教授)校閲。東京春秋堂書店刊 3巻本、初版は高島平三郎、井上正賀共編、普及舎刊(明治35)、4巻本。


巻の1は146頁、巻の2は150頁、巻の3は172頁・・・・非常に状態の良いものが入手できた。


向かって右が明治35年普及舎版(全190頁。以下旧版と略称)、左は今回入手した明治44年東京春秋堂書店版(以下新版と略称)


旧版巻一の目次。1873年(明治6年)に、福澤諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之らと明六社を結成した西村茂樹「国民第一の心得」で始まった。


新版巻一の目次。新訂中等国語読本から引用された「富士山」で始まった。


農学校、国語漢文用教科書として編纂されたようだ。毎年一巻づつ学習した。全1-3巻でも全1-4巻でも内容的には共に完結性があるようだ。肩に所蔵印が押されているが、所有者(@東津軽郡)が2人。second hand状態で後輩に譲られたのだろか。


旧版には単元の終わりに練習問題が付されている。新版ではこのエクササイズ部分は削除されている。

農業学校用の国語漢文教科書だが、中身は引用文集で、農業に関する話題に引き付ける形で、生徒の興味を引きそうな歴史・文学から外国のことなどバラエティーに富む。


新版は献本されたもので「藤原蔵書」印、目次をみても文字通りの「読本」の体裁。系統だった知識を伝授しようとするものではない。


新版の冒頭は「富士山」


旧版と違い新版では写真入り。美しく雄大な富士山の姿に神国の日本の姿を重ね合わせるという思考様式が登場。旧版→新版とで教科書の編集方針が大きく変化する。


以下の画像はすべて新版での話だが、教育勅語の次は岩倉具視の猪苗代湖通水式祝辞


そして最新の話題としての飛行機の話


おっと、「軍神」として神格化された広瀬中佐銅像

広瀬は本庄重政同様に神社の祭神として祀られる。神社に祭られることは日本人の感情と思考の中では最上級の顕彰方法であったわけだ。しかし、こうした日本人の心性は一歩間違えるとあやまった個人崇拝に堕す危険性をもはらんでいることでもある


皇居外苑の楠公像+元禄5年(1692年)水戸光圀公(みとみつくにこう)(義公)が建てた「嗚呼忠臣楠子之墓」の碑(明治天皇が再興した神戸・湊川神社)の写真も掲載。

日清・日露の2つの戦争後の世相を反映するかのように国家に求心力を与えるために横井時敬の農業と皇室との関係を論じた一文を紹介して巻の3は終わる。当時の時代精神を教科書面で作り出していった書籍群の中の一冊だ。


それに対して旧版の最後を飾る教材は井上円了の随筆中の文章。主旨は日本人の気質に関して性急で一時を争う気質を櫻花にたとえ、こうしたあり方に対してパッと咲いてさっと散る桜より、忍耐辛抱のできる日本人を育てていくには花期がながく、寒い雪の季節に百花に先駆けて咲く梅の花の在り方に感化を受ける方がよいかも、というもの。
新版は富士山に神国日本のイメージをダブらせ、軍神広瀬中佐万歳、つまり桜花をよしとする雰囲気が横溢していたが、旧版の方はそういう面での国家主義的硬直性はまだ控えめだった。

これは当時の文教政策や編纂者高島平三郎自身の思想的立ち位置の変化(右旋回)をある程度反映したものだっただろ。


これまでに集めた高島平三郎の著書(単著・共著を含む)
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弁護士作田高太郎はひょっとすると

2015年04月02日 | 教養(Culture)
木戸幸一日記4冊が昨夜東京から届いた。
作田の『天皇と木戸』の公刊の意味を図りかねている小生の疑問に答えてくれるヒントが見つかるかな~。
研究となるとその問題に関する研究史を整理し、既往の成果を踏まえた議論が不可欠だが、門外漢の私にはいまのところその辺は不知


護送車内での木戸

天皇が戦争責任問題からはずされたのは木戸幸一日記や作田高太郎の『天皇と木戸』のお陰ではなく、戦争責任をすべて被らされた感じの東条英機の供述によるところが大きかったとされる。

作田の前掲書冒頭部の記述内容と一致。


有名な『木戸幸一日記・上下』は昭和5年正月から昭和20年12月15日までの記録。12月10日は昭和天皇とご文庫の執務室で面会。木戸は体に気を付け、自分の心境はすべて木戸に話したと言われる。
アメリカ留学経験者である甥の都留重人(1912-2006,元ハーバード大学講師)から以下のようなアドバイスを受ける。
「木戸が無罪なら天皇は無罪、木戸が有罪なら天皇も有罪」(天皇の戦争責任論)
12月11日 午前9時半、石渡宮内大臣が来宅し、弁護士問題で懇談。
12月12日 午前11時半 木戸の弁護を作田高太郎に依頼する。
12月13日 午後3時 野上事務次官が高柳賢三(1887-1967,東京帝大教授)穂積重威(1893 〜 1959、中央大学教授)を伴って来宅。穂積に東京裁判での弁護の依頼をする。
12月15日 午後1時半ころ 岩田司法大臣が来宅し、弁護の件につき打ち合わせ。
都留重人が来て、東京裁判での主任検察官キーナンらと会食したことなどを木戸に話す。夕方木戸の学習院時代の同級生で東京帝大教授高木八尺(米国政治史)が来訪し、特別弁護人の申し出あり。

『木戸幸一日記・東京裁判期』には『穂積陳重・八束進講録』穂積重遠,穂積重威編 岩波書店 1929の編者の一人穂積重威、元ハーバード大学講師の経済学者都留重人の話題は頻出するが、作田高太郎のこととなるとどうも・・・・。木戸は弁護人の穂積を親戚のものと作田に紹介している。木戸担当のアメリカ人弁護士W.ローガンとの日常的な接触は穂積が行っていた(孝彦と作田の接触状況については不明)。

作田弁護士が登場する昭和22年2月の文面。次男坊の孝彦はほぼ毎日面会、しばしば家族(夫人)からの手紙、木戸本人は暇つぶしに読書と拘置所廊下を使った散歩。典型的なインテリで、単行本なら3日程度で読破という感じ。2月6日条:「戦争回避のための努力・・・着手す」(完成は一月後の3月4日で、孝彦に「原稿」を渡している。最終的には孝彦より作田に届けられたはず)とあるのは恐らく作田のアドバイス等もあって行われたものだろ。なお、「穂積君」は穂積重威、「孝彦」は後年弁護士&会社重役となる息子(次男坊)、「弁護士」とは作田のこと。

『木戸幸一日記』原本(『木戸幸一日記ー東京裁判期ーより引用)




作田高太郎の宣誓供述書原稿

宣誓供述者30名のうちの一人となった作田(普通選挙下で国会議員に選出された党人派)と木戸との政治面での交流が密であったこと。陸海軍大臣武官制をよりどころにしながら始まった国政面での軍部(特に陸軍)の横暴、国会軽視を強調する中で、木戸の議会尊重、平和志向、本土決戦を当然とした軍部を抑え、終戦の詔勅を出した天皇に対して木戸は助言をする立場にあったことを述べている。何となく弁解がましい浪花節調だが弁護人の宣誓供述(主旨:木戸は平和主義者&議会尊重主義者)としては10点満点の何点?

まあ、作田あたりも東京裁判でA級戦犯を前に捕虜虐待の件で、オーストラリアの高級将校や看護婦たちが検察側証人として登場して行う証言に付き合わされることに対してはやはり木戸らに対して気の毒に感じた事だろ。





歴史家(人によっては自虐史観の持ち主)・家永三郎著『戦争責任』(岩波書店、1985年7月)ISBN 4-00-001167-7とか井上清の同名書籍は一読の価値がありそう。
目次;
序章 今日なぜ戦争責任を論ずるのか
第一章 戦争責任はどうして生ずるか
第二章 戦争責任にはどのような区分があるか
第三章 日本国家の戦争責任はどのような点にあるか
 序節 日本帝国の権力組織
 第一節 国際的責任
 第二節 国内的責任
 第三節 日本国家の戦争責任は誰が負うべきであるか
第四章 日本国民の戦争責任はどのような点にあるか
 序節 日本国民の置かれた歴史的境位
 第一節 一般国民の戦争責任
 第二節 「戦争を知らない世代」にも責任はあるか
第五章 連合諸国の日本に対する戦争責任はどのような点にあるか
 第一節 米国の戦争責任
 第二節 ソ連の戦争責任
第六章 戦争責任の追及はどのようにしてなされるべきであったか
第七章 戦争責任の追及は、何のために今後どのようにして続けられるべきか

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屋代弘賢(やしろ・ひろかた)

2015年03月09日 | 教養(Culture)
屋代弘賢(やしろ・ひろかた)の博学な知識のほとんどは書物から得たものでしたが、彼自身は文献的知識だけでは不十分であることをよく心得ていたようです。それは、文化年間(1804-18)に「諸国風俗問状」と題する質問状を木版で刷り、日本各地に送って回答を求めるという斬新な調査方法を採用した事実からもうかがえます。

質問は「門松の事」「ひな祭の事」など131項目にわたり、それぞれの地方の年中行事や風習が細かく問われています。弘賢のこの試みは、のちに日本民俗学を確立した柳田國男(やなぎた・くにお)によって、民俗学研究の先駆的業績であると高く評価されました。

「問状」がどのくらい発送され「答書」(回答)が何編届いたのか、正確な数はあきらかでありませんが、現在までに展示資料を含め約20編の「答書」が確認されています。


沼隈郡今津村の答書がこちら
実物は京都大学のデジタルアーカイブ上で全文公開中。


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マゼランの航跡ーフィリピン・インドネシア編ー

2015年03月02日 | 教養(Culture)

マゼランの戦死した場所はフィリピン・セブ島の東隣にある小島Maktan(mactan)島だった。図中のマタン島はマクタン島が正しい。





Maluku地方@IndonesiaにみるGlobal jihadismの残酷
ミンダナオ島@フィリピン及びその南方に立地する群島地域におけるJihadism
テルナテ島の今昔

先の見えない中東和平協議だが、インドネシアにおける和平構築は・・・・
Conflict Management in Indonesia –An Analysis of the Conflicts in Maluku, Papua and Poso(2011)



参考資料

テルナテ島の写真
テルナテ島民は基本、パプアニューギニア人と同じ種族だが、ポルトガル人船員(兵士)らとの混血も多い。

マゼランの部下たちはアンボン島には寄港せず、ブル島東岸を通過した後、チモール島沿岸を南下し、インド洋に出てから喜望峰経由で本国に。

Nederlandsch indie 1893・・・・・内航海運の航路図


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『山本瀧之助全集』の元版・復刻版の印刷状態の比較

2015年02月25日 | 教養(Culture)
山本瀧之助(一八七三~一九三一年)を”青年団運動の母”にしたのは内務官僚田澤 義鋪(よしはる)らだった。田澤は内務官僚丸山鶴吉の知己であり、青年団結成の必要性を説いて全国遊説(出前授業or講演活動)していた山本を「青年団運動の母(先覚者)」として敬意を払った人物だった。山本の死後、彼の著作集を熊谷辰治郎編として​​山​本​瀧​之​助​氏​功​労​顕​頌​会より出したのも田澤の助力の賜物だったろ。
山本の顕彰碑が故郷に建立されているが、その建設にも、名義上、田澤と丸山が大きく関与していた(中心的に関わったのは村田露月)
山本瀧之助の著書は十数作品あるが、『山本瀧之助全集』にはそのうち、『田舎青年』『地方青年団体』『模範日』『早起』『尐年団研究』『一日一善』『青年修養着手の個所』『幹部の修養』など11冊を収録。

これら山本の著書の多くを出版面で支援したのは同郷の河本亀之助(東京・洛陽堂経営者)だった。

復刻版が(近代社会教育史料集成, 2)日本青年館, 1985.12として不二出版から刊行されている。この復刻版と昭和6年刊の元版を印刷状態を比較してみると・・・・・





復刻版では掲載写真を元版よりコントラストを大きくし、シャープネスを強調気味。相当に画質が劣化


肝心の活字部分は復刻版では普通にかすれている。国書刊行会はよいが不二出版などはこの程度。状態の良い元版を入手し、経費はかかるが改装(製本しなおす)のがよいかもしれない。元版の古書価格は現在1.5-2.0万、改装には神奈川県の三栄社(技術的にはナイス)の場合2万程度かかる。


山本はライターとしても中々の人だったが、「青年団運動の母」(まともな学校教育が受けられない農村青年たちの啓蒙活動=社会教育活動の先導者)という形で祭り上げられた部分もあり、山本自身が危惧していたように、大正3年段階には国家主義的に再編成されていたプロシアの青年団運動の実情に明るかった田中義一らの路線(青年団・青年教育運動を徴兵制導入に利用する路線)に引き込まれ大正-昭和初年の国策に沿った形で動いている。日露戦争後、地方改良・国民感化事業が開始される訳だが、この時期には山本タイプの”伝道師”(説教師or講演活動家ら)は宗教家・社会主義者・農民啓蒙家など多士済々だった。
長志珠絵「青年団イデオローグ山本瀧之助に関する一考察」、歴史評論494,1991,15-42頁など読んでも、私的には山本に関してなんの感慨も湧かなかった。わたしが山本に興味を覚えるとしたら居村の民俗誌的記述に関する部分限定かな~。

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大串隆吉「農村青年会運動発生に関する一考察ー徳富蘇峰と山本瀧之助を巡ってー

2015年02月18日 | 教養(Culture)
まあたいした論文ではないが、こんなものが見つかった。
山本瀧之助が福沢諭吉と徳富蘇峰の影響の下、青年会運動のイデオローグになったと言う話はアカデミズムの人間を納得させるのに好都合な筋書き。浅知恵だな~と思う。



田舎青年の教育の重要性を指摘した。また「青年会を設くべし」と全国を巡講して実際を指導、各地の青年団の結成及び全国的な組織化に尽力。これらの活動は日本青年館の建設、大日本連合青年団結成を促した。山本の長年の功労に報いるため、財団法人日本青年館に設けられた顕頌会によって死後まもなく『山本滝之助全集』が刊行されている。

日本青年館の設立や山本瀧之助=「青年会運動の生みの親」イメージの醸成はひとえに内務官僚田澤義鋪や丸山鶴吉らの尽力によるところ大。
青年会運動の伝道行商家山本をこの方面でのイデオローグとして偉人化したのはこう言ったら罰が当たるやもしれぬが「担ぎ屋」丸山による演出の見事さの結果という一面を看過すべきではない。

広島県沼隈郡神村栄光誌
この古書はさいきんまで広島の「あき書房」で¥30000で売り出されていた(あき書房の売出し本は現在わたしの手元にある。改装が非必要だ)。あまりの朽ち損じ状況に購入はしなかったが、昨日問い合わせたら売れたとか。多分、神村在住の郷土史家が入手したのだろ。
昨年神村の岡田久司宅で見かけたものも昨日電話したら行方不明のようだ。岡田はこの古書が随分、高額で売り買いされているといった風のことを言ったので、購入した郷土史家(高齢者)はBだと思う。

この本は神村青年団発足の契機と高島平三郎のアドバイスの中身に言及している。
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枡本卯平『自然の人・小村寿太郎』ー洛陽堂刊の一冊ー

2015年01月09日 | 教養(Culture)
桝本は明治20年代に第一高等学校時代に、高商時代の三谷一二(第三代福山市長、前職は三菱鉱業取締役会長)と共に岩崎家から子供さん達の指導的学友を務めた御仁だ。





739頁に及ぶ大著だ。枡本卯平恩人:小村への恩返しのつもりで本書を書いたものだろ。伝記の傑作!洛陽堂刊、大正3年。河本亀之助の心意気の感じられる出版物だと思う。
執筆当時枡本はまだ30歳代後半から40歳だった。




なお本書は自然の人小村寿太郎―伝記・小村寿太郎 (伝記叢書 (172)) 、大空社、1995という形で復刻されている。
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2種類の永井潜『医学と哲学』

2015年01月06日 | 教養(Culture)
永井の哲学志向が永井自身をして戦前期における優生思想イデオローグへと駆り立てたのだろ。大正11年に河本俊三時代に洛陽堂から刊行され、関東大震災後は別の出版社から。大著(559+XX 頁)である。むかって左側が洛陽堂刊本。


大阪の古書店:天牛書店で戦前2円80銭で売られていたものらしい。洛陽堂の新本価格(大正11年段階)は7円・・・かなりお高い本だった。もっともこの当時の洛陽堂は割引販売が常態化していたので・・・・・
文化生活研究会刊本(大正14)は装丁がより上等だが、6円50銭と幾分安価だった。ちなみに大正3年に洛陽堂が刊行した柳宗悦の大著「ヰリアム・ブレーク : 彼の生涯と製作及びその思想」は800頁近い大著だが3円だった。当時はそういう時代だったのだろ。



永井は富士川游の影響を受けたのか医学の科学としての側面と道学的側面(=医道)、そして医学と社会とのかかわりを視野に入れた医学者だった。
永井の弟子に『生命神秘論』を著した推理小説家(東北帝大医学部教授、衛生学)小酒井 不木や『科学者としてのゲーテ』の著書がある九州帝大医学部教授小川政修(細菌学)ら中々の教養人が多い。

文化生活研究会刊本




永井の著書は中国語に翻訳されており、中国医学会に対し大きな影響を与えた。
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ある地方文芸誌にみる郷土ゆかりの偉人(平櫛田中&高島平三郎)紹介記事

2014年12月28日 | 教養(Culture)


雑誌「青むしろ」昭和10年4月の記事。この雑誌は福山城博物館蔵。


広島県沼隈郡神村青年団 編『広島県沼隈郡神村青年団光栄誌』、昭和8

宰相斎藤実の書は小林篤→小林の恩師高島平三郎→内務官僚OBの丸山鶴吉経由で依頼されたもの。斎藤と後藤新平は幼馴染(岩手県水沢出身)だったが、斎藤が朝鮮総督時代に丸山は警務局長を務めている。

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童心今なお存す・・・永井潜56歳時の年頭の書

2014年12月28日 | 教養(Culture)
この掛け軸は昭和6年新春に永井の並々ならぬ決意と心境が書れたものだ。高島平三郎と出会って人生の一大転機を迎える永井の少年時代の心を、第一高等学校同窓会や東京帝国大学の幹部として56歳の新春を迎えた永井が、初心を忘れずの心境として自分自身や自分の知己に対して言い聞かせる意味で書記化したものだろか。書軸の裏に東京帝大教授・生理学・永井潜先生と注記がある。

日本民族衛生学会 (英名 The Japanese Society of Health and Human Ecology、JPN. SOC. HEALTH HUM. ECOL.) が前年に永井を中心に設立されており、公私ともに人生のもっとも充実した超多忙時代の書軸の一つといえよう。
書体に関しては不案内だが、当時東京在住の広島県人の間で大いに話題になっていた頼山陽の影響を受けているかもしれない。高島平三郎は父親賢斎譲りの頼山陽ひいきで、書体は山陽風。


雑誌「民族衛生」は80年間の雑誌を公開中


昭和7年年初の雑誌「民族衛生」第一巻5号の巻頭言(永井潜執筆)
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「武家の家に生まれたらん者は」・・・高島平三郎を鼓舞した母の一言

2014年12月22日 | 教養(Culture)
明治42年に東京洛陽堂を創業した河本亀之助が高島平三郎を頼って東京に出たのが明治24年如月27日だった。本雑誌は高島平三郎が明治25年2月号に投稿した女性論(「婦女子に告ぐ」)。雑誌「女鑑」は広島県出身の西澤之助が明治24年8月に創刊し、その9号に高島が寄稿したのがここで紹介する儒教的倫理をベースとした小論文だ。亀之助は高島の紹介にて西澤之助が創業した国光社に印刷部門の雇として明治25年に就職したので、この論文と亀之助の国光社への入社とは軌を一にするのだ。










明治維新期の社会的混乱の中で舐めた辛酸を「武家の子」、武士の誇りという一点を拠り所として自己を鼓舞した高島にとって武士道精神は終生、彼の行動規範の基底にあり続けた。
参照
高島の人間性がよく表れた著書:『現代の傾向と心的革命
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野村隈畔 著『現代の哲学及哲学者』、京文社、大正10

2014年12月19日 | 教養(Culture)
野村隈畔 著『現代の哲学及哲学者』、京文社、大正10

[目次]
標題
目次
緒論 / 1
第一編 生命派の哲學 / 17
第一章 生命派哲學の特色 / 17
第二章 永井潜氏の哲學 / 21
第三章 福來友吉氏の哲學 / 43




第二編 價値派の哲學 / 73
第一章 價値派哲學の特色 / 73
第二章 田中王堂氏の哲學 / 78
第三章 桑木嚴翼氏の哲學 / 123
第四章 經濟哲學の問題 / 168
第三編 體驗派の哲學 / 217
第一章 體驗派哲學の特色 / 217
第二章 西田幾多郎氏の哲學 / 237
第三章 田邊元氏の哲學 / 331
第四編 文化主義の論爭 / 371
第一章 序論 / 371
第二章 文化主義の起源 / 379
第三章 文化主義發生の理由 / 387
第四章 文化主義の人々と其の思想 / 397
第五章 文化及び文化主義の意義 / 406
第六章 文化主義の内容 / 421
第七章 文化主義の哲學的根據 / 433
第八章 文化主義と他の諸主義との關係 / 444
第九章 文化主義の論爭 / 452
第十二章 民衆文化主義に對する非難 / 465
第十一章 價値と自由の問題 / 479
第十二章 結論 / 506
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