- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

大谷光瑞関係

2013年10月27日 | 教養(Culture)
大谷光瑞年譜(1876-1948)

この男は大日本「帝国を一大要塞に」せよと論じた極めつけの軍国主義者、国家主義者だが「大谷光瑞興亜計畫」 全10巻、昭和14-15を刊行し、大東亜共栄圏の実現を目指そうとしていたのだろうか。戦場に従軍僧を派遣し、本願寺別院のような布教拠点を構築していった。大東亜を本願寺主導の楽土にすることを夢想していたのだろ。
西本願寺の財政を破たん寸前においやった名代の浪費家だったが、我々のような凡人の尺度では推し量れないようなスケールの大きさな行動力を発揮した国会図書館の「近代日本の肖像」で紹介された偉人の一人。

研究者:白須浄真
オオタニタンケンタイケンキュウノアラタナチヘイ

大谷探検隊研究の新たな地平

アジア広域調査活動と外務省外交記録

ほか、白須は大谷探検隊に関する優れた著者をいくつも上梓。

柴田幹夫編「大谷光瑞とアジアー知られざるアジア主義者の軌跡」、勉誠社、2010

目次

はじめに/柴田幹夫

第一部 大谷光瑞研究の実情と課題/柴田幹夫

第二部 大谷光瑞小伝/柴田幹夫

第三部 大谷光瑞とアジア
 第一章 「大谷光瑞と朝鮮―光瑞にとっての朝鮮、朝鮮にとっての光瑞―」/山本邦彦
 第二章 「大谷光瑞とロシア」/三谷真澄
 第三章 「大谷光瑞と樺太」/麓慎一
 第四章 「大谷光瑞と中国」
   第一節 「大谷光瑞と大連」/柴田幹夫
   第二節 「大谷光瑞と西本願寺および青島との関係について」/修斌(柴田幹夫訳)
   第三節 「上海西本願寺と上海日本人居留民」/陳祖恩(加藤斗規訳)
   第四節 「大谷光瑞と漢口」/野世英水
 第五章 「大谷光瑞とチベット」/高本康子
 第六章 「大谷光瑞と南洋」/加藤斗規
 第七章 「建国の父ケマルパシャのパートナーであった大谷光瑞と土耳古国」/エルダル

第四部 大谷光瑞とその時代
 第一章 「本願寺の海外開教」/高山秀嗣
 第二章 「大谷光瑞と本願寺六五〇年遠忌」/潮留哲真
 第三章 「上原芳太郎と大谷光瑞」/和田秀寿
 第四章 「大谷光瑞と本多恵隆らの時代と「坂の上の雲」/本多得爾
 第五章 「二楽荘の建築に影響した英国の邸宅文化とインドの僧院の景観」/服部等作
 第六章 「大谷光瑞と香・薬物」/猪飼祥夫
 第七章 「大谷学生と瑞門会」/小出享一
 第八章 「言論人 大谷光瑞の誕生-中国認識をめぐって-」/小野泰
 第九章 「日本国外務省外交記録と大谷探検隊の研究―近8年の回顧と新たなフィールドの設定―」/白須淨眞
第十章  「大谷光瑞と別府」/掬月誓成
おわりに/白須淨眞
索引
大谷光瑞年譜/柴田幹夫


書評情報

「近代仏教」(第19号(2012年5月))にて、本書の書評が掲載されました。(評者:安藤礼二)


大谷光瑞と現代日本
大谷光瑞 「蘭領東印度地誌」、1940、有光社

[目次]
標題
目次
一、疆域 / 1
大小島嶼其數幾千 / 1
蘭印は我帝國の事實上の隣國なり / 7
蘭印と英領諸地其他との關係 / 10
二、地形及地質 / 13
全般的地形 / 13
錯綜せる火山脈 / 16
火山系と諸高峯 / 27
平原、河川湖沼及高原 / 37
海洋 / 65
地質 / 72
三、氣象 / 89
大別せば乾濕兩季 / 89
氣壓は槪ね低し / 91
氣溫は全般的に好適 / 93
降雨狀況 / 104
綜合觀察 / 128
四、物產 / 130
農產を第一とす / 130
ジヤバ特有の大產物、砂糖 / 163
畜產 / 165
林產 / 176
水產 / 187
礦產 / 194
工業 / 206
五、交通 / 217
交通至便の蘭印 / 217
海運 / 219
陸運 / 224
空運 / 236
六、住民 / 242
所謂インドネシア民族 / 242
人口統計 / 243
都邑 / 258
宗敎 / 266
敎育 / 267
行刑 / 269
一般住民最近の景況 / 269
七、歷史 / 272
一千餘歲のジヤバ史 / 272
印度移民の渡航以來 / 274
ワルマン王朝よりムプシント王朝まで / 282
ケン・アロ以後の歷史 / 296
和蘭人の渡來 / 316
一六四六年以後最近まで / 327
八、結論 / 334

「国立国会図書館のデジタル化資料」より



中国を題材とした文芸集「濯足堂漫筆

「印度地誌」や「台湾島之現在」の著書もある。いずれも大航海時代以来の特産物を取り上げた物産誌の書法を踏襲した作品だが、明治~昭和前期を通じて彼をしのぐスケールの「地理学徒」はいないだろ。
わたしが大谷光瑞に近しい物を感じるのは私にとっては馴染みのインドネシアのセレベス(Sulawesi)島北端の中心都市メナド郊外にオランダ領東印度での活動拠点(栽培植物研究)を作っていたことと神戸のある大学キャンパスの上方、六甲山中腹に別荘「二楽荘」を構え日常的に大学関係者がその施設が山崩れの原因になるかもと心配していたことの2点からだ。

富士川游は晩年真宗研究を行うが、これはあるいは大谷光瑞の影響かも?
確証がないが、仮説検証という感じで調べてみいたら面白そうだ。

参考までに三原市出身の渡辺哲信は大谷光瑞(のちの浄土真宗本願寺派西本願寺第 22 世宗主)が率いる第一次大谷探検隊 の隊員として、堀賢雄とともに、ユーラシア大陸を西から東へと横断し、 パミール高原を越え、タクラマカン砂漠を横断した最初の日本人。
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松村介石「日本改造論」大正12

2013年10月27日 | 教養(Culture)


松村介石の大正文芸批判、ここでいう放縦・汚下・醜劣・懦弱の頽俗を神聖視する文芸が白樺派の作家の作品を指すとは限らないが、彼らの作品が発禁処分を受けていたことを勘案すると、松村のいう文芸の中に、それも含まれていたろうか。

関東大震災後の世相を捉えた松村の世直し論に耳をちょっと傾けてみよう。







松村介石「日本改造論」大正12


道(どう)会とは何だったんだろ。

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徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』、民友社、大正5年

2013年10月24日 | 教養(Culture)




















徳富蘇峰『大正の青年と帝国の前途』、民友社、大正5年、 506ページに対する『中央公論』 1917年1月掲載の吉野作造の評論文だが、
以下の文章は青空文庫からの転載だ。

「尤も此書を明治の初年より大正の初めに至る青年の思想の変遷史として見れば非常に面白い。第二章以下第八章に至る約四百頁、即ち本書の三分の二は、此史的記述に捧げられたものであつて、中に固より著者の考も多く説かれてあるけれども、大体に於て事実の記述である。第九章の英・独・米・露の説明も亦有益なる記述である。第一章と第十章とは相照応するもので、大正時代の記述であるが、著者の大正の青年に関する観察も大正時代に関する観察も大体に於て我々に教ゆる所少くない。斯う云つて見れば全部悉く我々の読んで益を得るもの多い訳であるが、然し著者の期するが如き、今日の青年を啓導して新日本の真個忠良なる臣民たらしむるの経典たるを得るや否やは大に疑なきを得ない。何故かの説明は予輩にも十分に分らない。唯何となく斯く感ずる。何故かく感ずるかを実はいろいろ自分で考へて見た。十分なる答案はまだ得てゐないが、事によつたら老年の人に多く見る、所謂現代の社会並びに現代の青年に関する適当なる理解の欠如といふ事が其主なる原因をなして居るのではあるまいか。

蘇峰先生に限つた事ではない、明治以前の教育に育つた多くの尊敬すべき我々の先輩は、動(やや)もすれば今日の青年に忠君愛国の念が薄らぎつゝあると云ふ。又国家について遠大なる志望が欠けて居ると云ふ。又は国家
の強盛に直接の関係ある問題――例へば軍備問題の如き――に興味を感ずる事極めて薄いと云ふ。之は如何にも其通りで、此等の批難は今日の多数の青年に当嵌る。故に我々は今日の青年に忠君愛国の念を鼓吹し、其志望を遠大ならしむべきを勧め、殊に軍備上の義務の如きは之を光栄ある義務として尊重し、且つ進んで之に当らしめんとする先輩の苦衷を諒とする。此等の点を盛んに鼓吹し主張し論明するのは、今日の青年を啓導する一つの手段には相違ない。然しながら問題は然う云ふ事を説いて果して啓導の目的が達せらるゝか否かといふにある。少くとも弥次馬が運動会でチヤンピオンを後援するが如く、無責任にヤレ/\と騒ぐといふ事が適当な方法かどうか。少くとも最良の方法かどうかと云ふ事は問題である。今日の時代は明治初年の時代ではない。況んや明治以前の時代では断じてない。遠大の志望を持ての、国家的理想を体認して志を立てろのと抽象的の議論を吹かけてそれで青年が振ひ起つた時代もあれば、そんな事を聞いて之を鼻であしらう時代もある。斯う云ふ重大な問題を鼻であしらふのが即ち今日の青年の堕落であるといへばそれ迄であるけれども、兎に角時代の相違は之を認めなければならない。此時代の相違を認識することなくして、昔流の嗾(け)しかけ方針では今日の青年は恐らく断じて動くまい。」

底本:「日本の名随筆 別巻96・大正」作品社
   1999(平成11)年2月25日発行
底本の親本:「吉野作造選集3」岩波書店
   1995(平成7)年7月

大谷光瑞(こうすい)「慨世余言」、民友社、大正6


大谷光瑞年譜

大谷光瑞全集のコンテンツ(抜粋)
•第9巻: 放浪漫記
•避暑漫筆
•閑餘随録
•濯足堂漫筆
•鵬遊記
•地中海遊記
•第10巻: 支那の將來
•滿洲国の將來
•海外投資に就て
•帝國の前途
•支那の國民性
第12巻: 続濯足堂漫筆,随想,研究,論叢,旅記所感
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内務省地方局編「地方自治要鑑」明治40年

2013年10月23日 | 教養(Culture)
内務省地方局編「地方自治要鑑」明治40年

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青年団体に対する内務・文部両省訓令とそれに関する天野藤男の見解

2013年10月23日 | 教養(Culture)










大正四年秋に文部省が発した「全国青年団改善訓令」には内務省も名を連ねていた。この訓令には陸軍大臣田中義一の意向を受け、青年団を在郷軍人会の下請け組織にしようとする意図があった。前年七月にヨーロッパで勃発した第一次世界大戦は総力戦であり、田中義一は青年団活動をとおして体力増進と天皇制国家観念の注入をねらっていた。

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天野藤男の主著

2013年10月19日 | 教養(Culture)
農村処女会の組織及指導 大正5年



字体の特徴より恩地幸四郎の装丁だ。


農村処女会の組織及指導

天野藤男 著



[目次]
標題
目次
第一章 緒論 / 1
第二章 処女会並青年団沿革 / 10
第三章 処女会の組織 / 25
第四章 処女会の会則綱領 / 55
第五章 処女会の事業(其一) / 59
第六章 処女会の事業(其二) / 100
第七章 青年団処女会合同の事業 / 128
第八章 農村処女と都市憧憬集注 / 150
第九章 愛郷心より植民まで / 188
第十章 農村処女及処女会十題 / 222
第十一章 農村の婦人と都会の婦人 / 255
第十二章 農村処女会の組織及指導に関する注意 / 286

「国立国会図書館のデジタル化資料」より



天野藤男はライターとしては問題点の掘り下げに欠け、論理展開も割りと凡庸だが、洛陽堂から10冊ちかく著書を出している。天野は「都会及農村」編集部を受け持っていたので、このようなことになったのだろうか。まあ地方改良運動期における農村研究者として中身は無いが、(天野の)熱い思いはそれらのあまりにも多数の著書を通じて否が応でも感じ取ることができる。

地方青年団の現在及将来、大正4年
地方青年団の現在及将来

天野藤男 著



[目次]
標題
目次
第一章 地方青年団の沿革 / 1
第二章 青年会の設置区域 / 33
第三章 青年会の本旨綱領 / 54
第四章 青年団の現状並振興策 / 93
第五章 青年会と年齢問題 / 139
第六章 青年団と農業補習学校 / 163
第七章 青年団体の指導者 / 219
第八章 青年指導者心得 / 235
第九章 青年団と智能啓発 / 255
第一〇章 青年団と風教振興 / 281
第一一章 青年団と娯楽的体育振興策 / 319
第一二章 青年団と兵役問題 / 367
第一三章 青年団と在郷軍人団 / 385
第一四章 青年団の事業 / 396
第一五章 年中行事と俚謡 / 446
第一六章 青年団と青少年義勇団 / 467
第一七章 中央青年団の設立 / 481
第一八章 結論 / 492
附録 農村処女会 / 507

「国立国会図書館のデジタル化資料」より


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山本瀧之助遺稿集「青年団物語」、昭和11年

2013年10月18日 | 教養(Culture)
山本瀧之助の自伝だ。



ここで紹介する遺稿集中には河本亀之助のことは郷土の先輩・出版社の経営者を仄めかす「下り」がある程度で、ほとんど=まったく言及されない。郷土の後輩丸山鶴吉のことも同様だ。この遺稿集での山本の関心は中央官庁への陳情の成果とか中央官庁の高官たちとのコネクションとかといった人生の晴れがましい部分の記録保存だけだったのかもしれない。
それにしても軍医総監石黒と山本との関係を取り持ったのは誰だったのだろ?

多仁照広は山本と石黒との関係は明治34年に編集者五百木良三(「医海時報」)の招きを受け入れる形で眼病治療と雑誌編集の手伝いを行った中に出会いがあったように示唆している(本書77ページ)。
五百木はといえば正岡子規の知人だが、極めつけの大アジア主義者で、日露戦争後の我が国の朝鮮半島および満州政策面でミスリードした右翼の黒幕だった。あこがれの東京行きで山本が最初に頼った人物とはそのような御仁だった。


日本赤十字社は社長佐野常民の時代(1894)に西澤之助経営の国光社から雑誌「日本赤十字」を発行。国光社の印刷部門のトップは河本亀之助だったので軍医総監石黒(日本赤十字社社長、1917-1920)の日本赤十字社つながりで?
ちなみに河本と花房義質子爵(日本赤十字社長、1912-1917)の亡父瑞蓮@岡山とは遠縁にあたり、河本はむかし花房の父親を頼って故郷を後にしたことがあった。
山本が活躍できた時代状況に関してはたとえば金宗植「地方改良運動と青年政策」、東大日本史研究室紀要6(2002)、PP.23-43の説明が参考になる。日露戦後の日本の農村の疲弊とその再建策として民力としての青年團の活用が注目されたが、そういう時代の要請が山本らの活動の追い風になった訳だ。
青年団の軍事的転用を考案するのは田中義一(青年及青年団、第六巻第十号、大正4年に田中義一「田中義一「将来青年団体の採るべき道」」)だが、それは一田舎教師の山本の多分思いもつかないことだったろ。
山本もやがては軍の意向を受けた青年団組織化に加担させられていく。
執筆者には天野藤男もいるが、ほとんどは軍人。青年団運動が大正4年段階の軍部の思惑と合致したことをうかがわせる。明治維新後の新生日本に求心力を与えるために「忠君愛国」というイデオロギーを持ち込み、国防力の観点から青年層の組織化と教化が緊急課題だとドイツ留学を経験した田中は考えた。画像をクリックすると「青年及青年団、第六巻第十号」の目次を表示


しかし、大正4年2月中央報徳会主催の補習教育及び青年団体に関する協議会@文部大臣官邸に出席するなど、この大正4年段階には田中義一らと山本瀧之助とは一衣帯水の関係を構築していたようだ(本書130-132頁)。
この協議会には柳田國男も出席。
山本瀧之助遺稿集「青年団物語」、昭和8年

[目次]
標題  
目次

初めて見た雜誌 / 1
一生の踏み出し / 2
日記の中から / 3
好友會を企つ / 5
靑年會を目ざして / 5
靑年黨の計劃 / 8
少年會の設立趣旨 / 9
日淸戰爭と少年會 / 12
眼を病む / 13
『田舍靑年』の著述 / 16
慈母の死 / 22
最初の先輩五百木良三氏 / 23
『日本』靑年會設立の議 / 24
『日本靑年』の發刊 / 28
いよ[イヨ]上京 / 30
初めて石黑子爵に御面會 / 31
國許の老父を東京に招く / 32
歸國 / 33
『地方靑年』を著す / 34
逆境靑年 / 36
『吉備時報』 / 38
地方靑年團體の第一義 / 40
靑年會役員講習會 / 42
千年村靑年會の創立 / 44
校長兼靑年會長となる / 47
廣島に赴き知事に面會 / 48
竹岡氏を偲ぶ / 50
初めて井上書記官芳川內相に面接 / 52
靑年會の發達 / 54
第五囘全國聯合敎育會に出席 / 58
一生一代の大演說 / 64
會議後 / 70
文部省へ資料提出 / 72
地方靑年團體概況 / 75
靑年團中央機關設置の議 / 82
町村記念壇の案 / 83
中央機關組織の運動 / 86
『良民』の發刊 / 87
靑年團に對する當局の方針 / 88
實業補習巡囘講師となる / 90
德富氏の賛辭 / 91
第一囘全國靑年大會の開催 / 93
文部省靑年團體調査委員を命ぜらる / 97
貴族院豫算委員會議事錄 / 98

第一囘靑年團調査委員會 / 107
初めて田中少將にお目にかゝる / 109
通俗敎育講習會 / 110
關西敎育博覽會に出品 / 111
關西敎育博覽會便り / 113
床次地方局長に知らる / 118
靑年團と師範敎育 / 120
奔走と訪問 / 121
當時の田澤靑年館理事 / 128
兩大臣連署の訓令の出る前 / 129
田中少將の歸朝 / 130
少年團と乃木大將 / 132
兩大臣連署の訓令出づ / 133
今昔の感 / 138
大正4年9月の青年団体に関する文部省・内務省の訓令と次官通達


大正七年五月、地方青年団の全国的な提携を実現した全国青年団連合大会が東大法学部講堂で開かれている。文部省・内務省は訓令を出し、青年団を国家主義的な修養組織とする露骨な干渉を加えてきた。これに対して大正デモクラシーのオピニオンリーダー吉野作造は、国家による青年団の統制と軍国主義道徳注入に痛烈な批判をおこなっている(『中央公論』大正七年六月号)。

なお、時代は下るが・・・・・
丸山鶴吉は昭和12年頃の壮年団を捉え「子の壮年団を基盤としてわが国家改造の希望を強く抱いていたが、大東亜戦争突入前、軍部がこの壮年団の実力を認め、無理に大政翼賛会の一翼に納めて「翼賛壮年団」に改編したために、私どもの提唱した私どもの提唱した壮年団の本旨を遠ざかり、政府の手先機関」、「軍部の手先となって団体に変貌したことは、今でも惜しいことと考えている」(丸山「70年ところどころ」、267ページ)と語っている。
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天野藤男「四季の田園 : 趣味教訓」、大正5

2013年10月15日 | 教養(Culture)
宮沢賢治は郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴあるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた。
生前は無名に近い状態であったが、没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家とされていった

大正期の農村研究者としての天野藤男だが、その作品は農村文学という面では叙述が平板で、失礼ながら、B級の人だと思うが、大正期を通じてみせた彼のひた向きな田園賛美の姿勢はもっと注目されるべきであり、現状では誠に気の毒な状況にあるように感じる。
宮沢賢治が謳った「雨にも負けず、風にも・・・」の精神は宮沢は、例えば山本瀧之助のような人物を見て、そのような不撓不屈の精神をもった人物たちに一歩でも近づいてみたいものだという心境を吐露したものではなかったろうか。生前の宮沢がそこまでの人物であったかどうかは大いに疑問だ。

天野藤男「四季の田園 : 趣味教訓」、大正5

目次
第一章 田園趣味論 / 1
一 田園生活の表裏 / 1
二 月夜の田植 / 3
三 何故の都市美観ぞ / 6
四 寧ろ光栄ならずや / 11
五 田園の風光を誇張せん / 16
六 天下何人か労働者ならざる / 18
七 農村娯楽問題 / 20
八 道徳も一の趣味 / 23







九 天地の教自ら啓かれん / 25
第二章 春の田園 / 27
一 春雨 / 27
二 鶯 / 34
三 春霞 / 41
四 春の月 / 44
五 春野(摘草) / 49
六 雛祭 / 54
七 曲水宴 / 56
八 蝶 / 61
九 彼岸 / 66
一〇 燕 / 69
一一 陽炎 / 75
一二 汐干狩 / 77
一三 雲雀 / 83
一四 灌仏 / 83
一五 蛙 / 87
一六 茶摘 / 91
一七 端午 / 96
一八 社鵑 / 102
一九 春の花籠 / 114
二〇 徂く春 / 116
第三章 夏の田園 / 122
一 五月雨 / 122
二 水鶏 / 127
三 蛍 / 130
四 夕顔 / 136
五 若竹 / 138
六 田植 / 142
七 七夕 / 151
八 蝉 / 162
九 蟻の話 / 172
一〇 釣 / 178
一一 盂蘭盆会 / 182
一二 蚊遺火 / 199
一三 夕立 / 205
一四 夏の月 / 211
一五 夕涼み / 216
一六 夏の草花 / 224
第四章 秋の田園 / 225
一 秋の野辺 / 225
二 七草の花籠 / 228
三 秋の夜 / 233
四 秋の風 / 237
五 秋雨 / 242
六 秋の虫籠 / 246
七 露 / 258
八 雁 / 265
九 菊 / 270
一〇 稲妻 / 277
一一 案山子 / 280
一二 中秋観月 / 283
一三 落ち葉 / 293
一四 十三夜 / 297
一五 月の歌 / 300
一六 秋の果実 / 307
一七 野分 / 317
一八 豊年祭 / 322
第五章 冬の田園 / 328
一 鄙の新年 / 328
二 書初め左義長 / 338
三 子日遊 / 343
四 七草 / 345
五 初午 / 348
六 節分 / 350
七 冬籠炬燵 / 357
八 冬の月 / 361
九 木枯 / 364
一〇 霜 / 368
一一 小春 / 376
一二 雪 / 377
一三 歳暮 / 385

第六章 年中行事論 / 389
一 年中行事は国民性の表現 / 389
二 年中行事と家郷緝穆 / 390
三 年中行事と潔斉 / 391
四 年中行事と礼譲交情 / 392
五 料理の訓練 / 392
六 婦人の尉藉清娯 / 394
七 年中行事は風俗史 / 395
八 年中行事と文学 / 397
九 農事暦日との関係 / 399
一〇 年中行事と娯楽 / 400
一一 五節句の精神 / 401
一二 七草と円満と団欒 / 403
一三 優美と柔順と育児 / 406
一四 尚武と婦巧と書道 / 406
一五 菊の節句と老人の閑遊 / 408
一六 盆会と十五夜と豊年祭 / 408
一七 行事の頽廃は暦の改変 / 411
一八 神秘国と神秘行事 / 414
一九 誤れる行事の節約 / 415
二〇 結論 / 418

「国立国会図書館のデジタル化資料」より



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大教育者高島平三郎の愚痴

2013年10月14日 | 教養(Culture)
高島平三郎の愚痴を加藤敏之「森田生馬と雑誌『児童研究』」、北海道教育大紀要55-1(平成16年9月)、PP.173-181を高良武久編『森田生馬(東京帝国大学では呉秀三門下)全集第五巻』、1975、白揚社刊から引用した記事で紹介している。


学者というのは公明正大・客観・中立でなければならないはずだが、仲間意識がつよく、素性のよくわからない人物の研究というのは、慎重を期して信用がおけないと考える部分がある。そういう気持ちが健全な形で発揮されればどこにも問題はないが・・・・。度を超すと醜悪な事態を惹起する。

大泉溥が『高島平三郎著作集』解説(57頁)で高島の沢柳政太郎著『実際的児童学(正しくは”実際的教育学”)』に対するコメントを捉え、余りに浅薄で柳沢が何故にこうした思い切った問題提起をせざるをえなかったのかを高島はまるで理解できていないと痛烈に批判している。この沢柳は東京帝国大学哲学科出身の文部官僚で、官尊民卑思想を教育行政に持ち込み、しかもこれまでの高島らが実践してきたことをまったく無視したやや高踏的な論調に対して、やはりその辺が、高島としては学術面でプライドを傷つけられたというのか、あるいは学術面での疎外感として受け止められ、積年の恨みというのか、コンプレックスというのか・・・・同年代の沢柳に対しては従来から高島にとって何かしら癪に障るところがあったのかなかったのかな~(see→高島「沢柳政太郎『従来の教育学の価値を論ず』へのコメント」、教育学術界19-6、33-37頁)。わたしは大泉の「余りにも浅薄」という心ない表現にもちょっと首をかしげたくなる。

高島の苦労は痛いほどよく理解できるが、講演の席上話題にするあたり、よほど癪に障ったのか、彼の性格か・・・・、ある程度、後輩学者たちに対する戒めの言葉となったはずだ。しかし、今もむかしも状況は大して変わらないかな
高島が経歴・業績面で人一倍苦労していたことは、例えば東洋大学に提出した兼任教員調書(昭和6-11年)に記載された「心理学概論、本務校:立正大学、学歴:元良勇次郎につき哲学を修む」[『東洋大学百年史・資料編一、52、69頁』、清水乞「日本児童研究会(日本児童学会)と哲学館(東洋大学)」、井上円了センター年報 = Annual report of the Inoue Enryo Center(19) , pp.101 - 135 , 2010-09-20 , 東洋大学井上円了記念学術センター
ISSN:1342-7628
]からもよく伺える。高島ほどの心理学者にしてそうだったから・・・・・
高島は心理科学研究会歴史研究部会編「日本心理学史の研究」(京都・法政出版、1998)の中で、一章(小児研究、217-247頁)をさいて業績が適切に紹介(執筆者:石井房枝)されており、問題はないだろ。
わたしのような門外漢からみても高島平三郎のたとえば落書き調査とか、詩歌に謳われた小児のあり方そして小児と玩具との関係にする高島の注目点などに見られる発想の斬新さはいまだに陳腐化していないように思われる。

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井上円了「心理摘要」、明治20年(初版)

2013年10月13日 | 教養(Culture)
井上円了「心理摘要」、明治20年(初版)

明治25年の改訂増補・再版である。



高島平三郎「師範学校教科用書・心理綱要」、明治26に比べると相当に井上は心理学に関して門外漢だったことがわかる。


明治25年の改訂増補・再版である。内容は今日的な意味での心理学というよりも専門用語の概念説明に終始した、いまの現象学的哲学に近い。東洋大学の心理学は後年、高島平三郎が受け持つ。

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妖怪学者・井上円了の「南船北馬集」

2013年10月11日 | 教養(Culture)
井上円了は明治大正期に活躍した超有名な宗教哲学者&文筆家だが、迷信打破のために妖怪研究を精力的に行った。
かれは晩年、現在の東洋大学整備資金を売るために全国行脚を行った。さながら明治・大正期の重源さんといった偉人なのだ。
南船北馬集はその行脚の記録集。沢山の巻数があるが、これは明治43年刊の第四巻。NHKブックスサイズの小冊子だ。

出前講義というか出張講義というか、要するに別のスレッドで取り上げた山本瀧之助が行ったことも優良なる尋常小学校卒業者を対象とした、巡回講習会と称する井上円了風の講演活動だったわけだ。


旅先で明治天皇の勅命を夢に見たので、その夢記を漢詩に詠んだりしている。相当の天皇教教徒だったようだ。
井上は高島平三郎の東洋大学における上司・恩師クラスの人物だが、募金活動として全国を巡講して回るということを行ったわけだが、高島も大正・昭和にかけて小学校や女学校などで盛んに講演活動を行った。

「本田教育」第5号 大正11・8月、大阪市本田小学校本田教育会、大11、(高島平三郎講演録含)

彼らは出前講義(授業)の名人だった訳だ。

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山脇一次

2013年10月07日 | 教養(Culture)
大正期に旺盛な農村における啓蒙活動を展開した山崎延吉「農村教育論」、洛陽堂、大3を入手したところ
な、なんと・・・・


山脇一次さん旧蔵本だった。おそらく、当時愛媛県伊予郡郡長の山脇さんだろ。それとも岐阜県海津郡の・・・?
結構、朱線を入れながら熟読した印象がある。こういう人たちが山崎延吉「農村教育論」の購読層だったわけだ。


伊予郡立実業学校の創設(以下全文引用)
 実業教育の発展 
 第一次世界大戦を契機として、我が国の産業特に工業は飛躍的に発展した。このような近代産業の形成の過程に対応して、実業教育もまた急激な発展をみた。

 伊予郡立実業学校の設立 
 伊予郡の中心である郡中町は、松山市との交通が便利なために、進学希望者は松山市の諸学校に通学していて、郡内には中等学校が存在しなかった。伊予郡長山脇一次は、高等小学校生徒を収容する乙種実業学校の設置を計画し、郡会の議決を経て、郡中町に建設の準備を進めた。
 一九一八(大正七)年五月三日伊予郡立実業学校設立の認可を得、翌日公示された。山脇が校長事務取扱に就任し、同月一四日に女子部の開校式を郡役所階上で挙行した。このときの生徒定員は五〇人、修業年限は二か年であった。授業は郡中尋常高等小学校の校舎の一部を使用した。続いて同年一二月一五日に、二年制の男子部が定員五〇人で開校された。郡役所階上を仮教室とした。
 一九一九(大正八)年、郡中村下吾川に女子部校舎が完成し移転した。男子部は翌一九二〇(大正九)年一〇月から本校に移った。
 一九二一(大正一〇)年、郡役所の廃止に伴い、郡立校であったこの学校は廃校か存続かの岐路に立った。結局関係者の努力によって県立に移管することになり、翌年愛媛県立伊予実業学校と改称した。
 一九二二(大正一一)年五月、本館・講堂・寄宿舎の落成に続き、一九二三(大正一二)年には、校舎敷地・運動場・実習地計一万三、二八五平方m(三、八三九坪)を購入、更に実習他八九六平方m(二八〇坪)を買い入れ、実業学校としての体制を整えた(『伊予農業高校創立五十周年記念誌』)。


井上円了の「南船北馬集・12」によると岐阜県内の記事として、「当夕、岩田郡長をはじめとし、課長加藤国松氏 、同高田彦四郎氏等と会食す。 ...... (筆者注・・・・岐阜県海津郡)郡長山脇一次氏病中なれば、郡書記代わりて来訪 せらる」とある。                    
                            

十八日 快晴。日融風和。農家すでに春耕に就く。車行一里にして足近村〈現在岐阜県羽島市〉に至り、小学校にて開演す。校舎は田間にあり。発起は村長岩越金次郎氏、校長花村倭二郎氏、助役馬島小左衛門氏、願教寺住職馬島賢証氏等なり。当夕、収入役近藤昭氏の宅に宿す。春月朦朧、蛙声花影のおのずから吟情を動かすあり。夜に入りて、はじめて蚊影を見る。
 十九日 晴れ。車行一里にして美濃縞織物の中心たる竹ケ鼻町〈現在岐阜県羽島市〉に入る。本郡は全く平坦部にして、ただ堤防の縦横に連亘せるを特色とす。午後および夜分とも大谷派別院にて講話をなす。昼間は町教育会、夜間は婦人法話会の主催にかかる。しかして教育会の方は会頭太田藤十郎氏、副会頭水谷静吉氏、理事坂倉三造氏、婦人会の方は別院輪番春愛義誠氏(哲学館出身)および丹羽博清氏の発起なり。この地方は蓮根の産地なりとて、蓮根羊羮を製す。また、本町は孝順慈善をもってその名ある仏佐吉の郷里なり。
 二十日 晴れ。午前、車行二里、八神村〈現在岐阜県羽島市〉金宝寺において開会。村長井野口金六氏、校長中島喜瀬八氏の発起なり。午後、更に車をめぐらすこと約半里、下中島村〈現在岐阜県羽島市〉小学校において開演す。発起は村教〔育〕会長小川量之助氏(医師)、村長高味友三郎氏、校長林清吉氏等なり。当夕、小川会長の宅に宿す。夜中、蚊声をきく。
 この地方の特色は、明治二十四年度の大地震の結果にかんがみ、学校校舎は必ず前後左右の戸壁外に支柱を有すること、また、大川の間に挟まりてときどき水害にあうために、民家に二階造り多く、多少資産あるものは庭内に一丈ぐらい高き土山を作りおくこと等なり。
 二十一日 曇りのち雨。腕車に駕し再び八神村を経て海津郡海西村〈現在岐阜県海津郡平田町〉に至る。行程一里半の途中、長良川を渡船す。会場は万念寺、主催は軍人会、発起は会長菱田勇逸氏、収入役近藤長氏、軍人宇野八郎氏、住職黒田実慧氏等なり。演説後、菱田会長宅にて午飯を喫す。この辺りはすべて農村なるが、地主と小作との間に融和を欠くの悪風ありという。午後、更に車行一里にして今尾町〈現在岐阜県海津郡平田町・海津町〉に至り、西願寺にて開演す。住職は佐藤豊氏なり。しかして発起は区長田中万三氏、町長馬淵外太郎氏、校長横山八三郎氏、収入役岡本吉勝氏なりとす。
 二十二日 雨。今尾町より長堤を一走すること一里にして高須町〈現在岐阜県海津郡海津町〉に入る。郡内の首府なり。会場は別院、発起かつ尽力者は町長西善太郎氏、校長飯尾英一氏等とす。郡長山脇一次氏病中なれば、郡書記代わりて来訪せらる。郡視学は野田繁三郎氏なり。会場は別院、宿所は旅館福島屋とす。旅宿表には一等一円二十銭、二等一円、三等七十五銭、四等五十銭、五等三十五銭とあり。当地の理髪料は男子は七銭、女子は五、六銭、すこぶる安価なり。本郡の農家は一日四回食事をなす。朝飯は六時、お茶漬けは十時、昼飯は二時、夕飯は七時とす。
 本郡の方言につきて聞きたる二、三を列挙せん。(以上、全文引用)

ここで言及した岐阜県と愛媛県の郡長山脇が同一人物だったが、否か未確認だが、この辺の確認調査に興味のある方は是非トライしてみてほしい。山脇一次氏は郡長さんだったので地元の自治体史などを糸口に結構簡単に追跡はできるだろう。

引用した「南船北馬集」の典拠
備考)この合計表の大正四年度報告の総計表に合せざるは、すべて重複せる市町村を除きて精算せしによる。また、市町村の併合せられしものを大正四年度の職員録に照らし最近の市町村に訂正せしによる。
  前回すなわち哲学館拡張当時は日本固有の神儒仏三道の学を振起する急務を講述するにあり。後回すなわち国民道徳巡講は御詔勅の聖旨を開達するにありて、前後多少の相違あるも、帰着するところは尽忠報国または護国愛理の微衷を実現せるに外ならず。故にこの総計表は余が社会国家に対して尽くすところの事業の進行程度を示すものと自ら信ずるところなり。よって後日のためにこの総計表を作る。
   大正四年十二月三十一日記了


井上円了の全国巡講日誌
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笹山さんありがとう

2013年10月07日 | 教養(Culture)
笹山登生「田園環境創造論ーグリーン・ルネッサンスの時代」、1992が天野藤男を「田園を勇気づけた人々」の一人として紹介している。

天野藤男「都会から田園へ」、大正4
[目次]
標題
目次
序章
第一章 汽車と電車と人生
第二章 田園より都市へ
第三章 地主と小作人と官吏
第四章 貧民窟より下宿生活迄
第五章 生活と自覚
第六章 青年と自覚
第七章 寄席と縁日と浅草
第八章 道路より気質談
第九章 都市対田園実際問題
第十章 都市より田園へ
第十一章 文学対社会対田園
結章


都会人向けに田園への誘いを目的に書かれた、天野曰く「米麦小説」。20世紀初頭の興味深い田園論だ。









そういえばNHK広島は今なお藻谷浩介を登場させて「里山資本主義」などという幻想をふりまいている。
そういう流れは1970年代には存在したが、笹山登生「田園環境創造論ーグリーン・ルネッサンスの時代」、1992はその1990年代版。著者の兄貴は東大名誉教授(古代史)の笹山某。本書からは打つ手もなくすでに見捨てられつつある田園に対する熱いまなざしを熱く語ってはいるが、「野生生物の生息できる田園環境を取り戻そう」(本書18頁)と言われても毎日野生のサルの群れと悪戦苦闘を続ける大津市途中地区の高齢者たちにとっては迷惑なだけだし、イノシシの出没で神経をすり減らしている北海道を除く我が国の山間部の住民たちにとって冗談にしか聞こえまい。
わたしも本書が刊行された1990年代初頭にeco-feminism,deep ecology,geocentricismとかいったカタカナ言語を使ってbio-regionalismの大切さを説いたものだが、今から考えると気恥ずかしい限りだ。
本書の存在は最近静岡県出身のある人物(天野藤男 1887-1921)をgoogleしていてたまたま知ったもので、著者の笹山登生は、案の定、2000年(平成12年)6月25日 - 第42回衆議院議員総選挙において秋田県第3区から自由党公認で出馬し、落選(37,876票)。
本書の趣旨のようなややロマンティックで現実離れした政策提言が命取りにでもなったのだろか。
わたしは明治末期の農村の疲弊を目の当たりにして、その再建のために田園の魅力を思いっきり熱く語り続けた天野と里山資本主義の藻谷浩介の中に同じ類型の人間の哀しい性(さが)が感じられてならないのだが・・・。
天野は、宮沢賢治(1896-1933)より12歳年上だが、賢治同様に若死をした。その35年間の短い生涯の中で実にたくさんの著書(10数冊の単行本)を残している。話がややこしくなってきたが、それらの著書との出合いのきっかけを作ってくれたのが本書だった。笹山さんありがとう。
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天野藤男「田園趣味」、大正3年

2013年10月06日 | 教養(Culture)
田園趣味、
天野藤男 著






[目次]
標題
目次
第一章 序説 / 1
一 美しき田園 / 1
二 清き農夫の心 / 3
三 農民は自然の寵児 / 4
四 天候と農民 / 8
五 田園趣味 / 12
六 都市と田園 / 17
七 田園趣味の開発 / 24
第二章 田園四季 / 27
一 春より夏へ / 27
二 夏より秋へ / 30
三 秋より冬へ / 36
四 冬より春へ / 41
第三章 田園小品 / 45
春之部 / 45
夏之部 / 57
秋之部 / 71
冬之部 / 79
第四章 少年の日記 / 83
一 永田先生 / 83
二 勿体ない親心 / 86
三 思ひ出多きこの日記 / 93
第五章 田園日記 / 103
一 徂く春の日記 / 103
二 草花日記 / 109
三 田園日記 / 117
第六章 小品四篇 / 130
一 郊外 / 130
二 清見潟の朝釣 / 140
三 午後三時 / 157
四 花ものがたり / 165
第七章 田園小説 / 180
一 旧師 / 180
二 白木蓮 / 206
第八章 説論三章 / 227
一 赤毛布論 / 227
二 小学校と田園趣味 / 236
三 田園都市私論 / 280

天野はジョン・ラスキンの影響を受けている。
天野登場の時代背景
天野の故郷、静岡県庵原村と報徳運動家片平信明
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田澤 義鋪(よしはる1885-1944)

2013年10月06日 | 教養(Culture)
広島県沼隈郡出身の青年団の父:山本瀧之助の影響を受け社会教育運動に生涯をささげた元内務官僚。
山本瀧之助を東京の日本青年館落成時(大正14年)において山本の胸像を飾り、新日本青年運動の先覚者(第一人者)として顕彰したのは田澤か丸山鶴吉だった。当時丸山鶴吉(内務官僚出身、明治42年入省で田澤と同期)は田澤と同様にその理事を務めていたので、山本顕彰の陰では郷友意識旺盛なこの丸山鶴吉の存在が大きく関与したことだろ。丸山は明治神宮外苑に造成されたこの青年館の落成に関しては自叙伝で言及しているが、山本に関しては言及はない。
山本の故郷には彼の顕彰碑が立っているが、顕彰文は田澤のものだが、式典には丸山が立ち会っている。表立たないのが丸山流。
1944年(昭和19年)3月、四国善通寺での講演の際、日、本軍の勝利を信じる聴衆を前に「敗戦はもはや絶対に避けがたい」「この苦難を通らなければ平和は来ない」と言い残し壇上で突如意識不明となり倒れる。そのまま同地で療養するも、11月に59年の生涯を閉じた。そういう昭和の西郷さんだった。
田澤の盟友が下村湖人。ここで紹介する書籍も湖人執筆による田澤に関する伝記文学の名品(昭和29年刊)。「下村湖人全集 第六巻 」の「人生随想 この人を見よ」も田澤の人物伝。



田澤26歳の時(在任期間は長く、明治43年ー大正3年)に静岡県安倍郡郡長として赴任。隣郡に天野藤男(1887-1921)。庵原村には明治初年より片平信明という報徳思想の信奉者の活躍があったので、天野にはその影響の方が大きかったか?

発行者は丸山鶴吉:日本青年館内、財団法人田澤 義鋪記念会の代表。田澤と丸山とは内務省の同期入省(1909年、若干前後するかもしれないが、ほぼ同期入省)。丸山は田中義一内閣当時は野に下り、日本青年館の理事。当時の当館の理事長は井上準之助。田中内閣が総辞職し、浜口雄幸内閣が成立すると井上は大蔵大臣、丸山は警視総監に就任。なお、田中義一は1910年(明治43年)、在郷軍人会を組織し、大正3年ドイツ視察を経て、青年団の結成を痛感。
すなわち、日清戦争、日露戦争を経験することにより、地方部落の若者たちの間に、国家的意識、愛国心がたかまってきた。戦役中に各地の青年会は、出征軍人の歓送迎や餞別の供与、戦地への慰問状の発送、留守家族に対する耕作その他の労働補助や金品の贈与、軍部への献金など注目すべき活動をする。こうした地方の青年会の果たす役割に政府は、地方改良運動の一環としても重要視しはじめる。 こうしたなか、陸軍省軍事課長の田中義一は欧米各国の青年団活動の実情を調査し、それをもとに我が国でも町村の青年会を母体として「少年団」を作る必要があるとのべた。(大正3年10月)

青年団の組織化に関しては軍部と内務省とでは路線対立があったらしく、丸山は軍部中心の青年の組織化運動が力を得ていった事に対し青年教育という面から何とも口惜しい限りだったと著書に於いて述懐している。
地方改良運動と青年政策@東京大学
田澤に関する大学院生の論考
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