- 松永史談会 -

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史伝作家渡辺修二郎考-国会図書館デジタルコレクション中の「寸鐵」を足がかりとして-

2022年12月24日 | 断想および雑談

国会図書館デジタルコレクションが新装されてかなり使い勝手が良くなった。
いろいろ「渡辺修二郎(明治20年官報では渡辺修次郎)」のテクスト類が見つかる。各家庭のPCから自由に閲覧可能なテクスト数が863、中央図書館に出向いて閲覧可能なもの1149,国会図書館に複写請求が必要なもの539,Σ2551点に達するものがこちらに所蔵されているようだ。この人については誠之館人物誌には未掲載で(、阿部家家司として明治期の旧藩主家支えた人物の伝記『岡田吉顕之伝』にも未寄稿、ただし山岡八十郎次之に関する渡辺『阿部正弘事蹟』二の記事を本書12頁に転載、思想は佐幕派「江湖」新聞系)、私自身も後述する丸山真男『福澤諭吉の哲学』の中でほんの一週間前に知った次第。渡辺修二郎は官立東京英語学校(東京大学の前身)及び築地にあった外国人経営の立教学校(現在の立教大学)出身者(妹尾 啓司「備後国福山藩の英学」、日本英学史研究会研究報告/1967 巻 (1967) 74 号が簡単に紹介程度)で、外相陸奥宗光、英国公使アーネスト・サトウとも懇意だったということで人物評伝以外にも外交史関係とか日欧文化交流史関係の書籍類を数多く残していた。
渡辺が最晩年に上梓した好著『近世叢談』(の奥書、緒言の日付は昭和18年12月、本文中の記事投稿日付に昭和18年ものあり)に彼の消息の一端が記述されている。安政2(1855)年生まれで、かりに昭和19年まで健在だったとすれば89歳ということになるが,歴史家の間では江戸から明治・大正、昭和を生きた近現代史の生き証人のように例えられた貴重な存在だっだそうで、代表作は『阿部正弘事蹟』明治43(1978年に 続日本史籍協会叢書の中の上下2冊本の形で東京大学出版より復刻)年だ。
「寸鐵」(ユーモア交えたり交えなかったりするが、要するに極めつきの文芸的な辛口(=用例「寸鐵殺人的ノ短評」)あるいはその類いの批評もののこと)に関しては高橋淡水の著作物の中に「寸鐵録」というのがあっていろいろ、調べてみて明治・大正期には一つの文学的書法として存在していたかなりポピュラーな存在のものであることは理解していたが、このジャンルの極めつけ作品群を(顰蹙を買いながらも)後述するように渡辺修二郎がたくさん執筆していたのだ。
そこで・・・・
寸鐵-国会図書館デジタルコレクション
例えば半仙子(半分仙人気分の北沢良助)『寸鐵』,明治22。これらの小話集。例えば勝海舟は寸鉄鋭いアフォリズムや皮肉をこめて「さぞ本望菊と葵の共栄え」と詠われている。作品としては今一歩といったところだが、勝海舟に対しては福澤諭吉が『痩我慢の説』に記した内容(徳川幕府の幹部[若年寄格]
として戦った相手である現政府に現在大いに参加協力をしているが、あなたには三河武士としての誇りはないのかといった問いかけをした)とは負けず劣らずの皮肉っぽさである。
韓国にも一年の世相を四字熟語(例えば「君舟民水」)で風刺する遊戯を楽しむ風習があるらしい。「君舟民水」とは「民は水、国王は船。川の水は船を浮かせているが腹を立てれば転覆させることもできる」という意味らしい。清水寺が年末近くになって行う今年を漢字一文字で表すって奴も、辛口さは少なめだが風刺する遊戯の一種と言えようか。
このような書法の作品が当時、英国でも流行していたようで、そういうこともあって陸奥宗光は明治24、5年頃、第一次松方内閣時代に薩摩派と衝突して閣外へ去り,直ちに後藤象二郎や大江卓、岡崎邦輔の協力を得て日刊新聞『寸鉄』を発刊し、ここを舞台に盛んに松方内閣批判を展開。
この書法としての寸鐵を常用した作家の一人に1855年に福山藩(江戸詰藩士渡辺三太平の息子)に生まれた著述家渡辺修二郎(修次郎)がいて、その作品として例えば『評伝井上馨』(、明治30年、同文館発行//忠国伐閥の立場から辛辣に批判、てか、ほぼ誹謗中傷本)があったのだ。日比嘉高氏(現在名古屋大学)が2000年に筑波大学に提出した学位論文:『<自己表象>誕生の文化史的研究』本編一七ページ目に新声社(新潮社の前身:編集者佐藤儀助、発行所東京市牛込区左内坂町二十八番地、明治29年に雑誌「新声」を創刊)刊『新声』第二巻第二号(明甲2)の「文壇の消息」からの引用した「◎評伝の流行・・・例の民友社如何でか黙し居る可き、渡辺修二郎氏を傭うて「人物評伝」を発行し、其他百頁内外の小冊子出ること頻々たり。尚ほ他に同文館よりも同種のもの出づ」という下りのあることを発見し、もっかこちらの方面の情報収集を始めたところだ。この程度の断片的情報はいろいろかき集められそうだが・・・・。
ところで、丸山真男『福澤諭吉の哲学』に登場する渡辺(ペンネームで焉用氏/えんようし)の『学商福澤諭吉でも福澤を「拝金主義の宣教師」と決めつけ、皮肉を込めてこの人は学問を商売する「学商」だと評定していた。
日本の知性を代表した丸山真男はその辺は角が立たないように渡辺の真意は「(福澤)氏の時代は既に去れり。今に置いてこれを咎むるは抑も酷なり。予等唯後進の為に一言加ふるのみ」という部分にあるのだと少し、渡辺に助け船を出している。
私などは儒者貧乏が普通だった江戸時代の漢学者たちのケースを念頭に私学経営者いやそれ以上に日本国の近代化に大きく貢献する人材育成者として大成功しつつあった(、西洋文明に触発された)福澤諭吉の新しい生き方を渡辺はよく理解出来なかったのだろうという気がしてならない。

渡辺修二郎の登場する博士論文・・・15件。参考までに高橋淡水の場合は2件。そのうち筑波大学のもの(西邑,雅未「筑波山における風景の変容」2018)は審査結果の公表だけで、本文非公開。李さんの「東海散士「佳人之奇遇」とその時代 : 歴史と文学の接点をもとめて」神戸大学(学術博士)、2010は閲覧は出来ないが、目次のみ限定公開されている。

【メモ】福沢諭吉の場当たり主義・得手勝手さ
痩我慢の説」(明治24年脱稿、1901年/明治34年1月1日の『時事新報』紙上に掲載)では三河武士の風上にも置けぬ奴だという形で勝海舟を批判。明治6-8年頃に書かれた『学問ノススメ』では赤穂不義士論(仇討ちを蛮族陋習と批判)・楠公権助論(後醍醐天皇に対する忠誠心が旺盛であった楠木正成の自殺は権助=下男の自殺同様、徒死だと非難。こういう形で頼山陽らが称揚した儒教的な名分論のばかばかしさを笑う)。明らかに三河武士のプライドと君主を殺められた臣下たちのプライドといった武士道の精神の中核部分を巡る福沢の考え方は自分の都合によって得手勝手に使い分けられるという面では一貫性がない。こういう矛盾点に関しては丸山眞男(松沢弘陽編『福澤諭吉の哲学』岩波文庫、2008)も指摘しているが、丸山の場合はそういう面を印象としては人間福沢諭吉という縛りの中で許容している。わたし?丸山の立場が度量があって正しいと思う。わたしなどは冒頭に紹介した「痩せ我慢説」などは生活に困窮する失業士族(とくに旧幕臣)たちの我慢の限界を超えた現状打開を考えさせる福沢諭吉からの一種の陳情書として読む。

【参考資料】横浜開港資料館 渡辺修二関係データ(佐藤孝氏執筆)

「渡辺のその後
  退官後の著述業という以外、渡辺の動向は余り明らかでないが、昭和7年(1932)8月から17年5月官制廃止までの約10年間、維新史料編纂会委員を務めた。この間、『歴史学研究』15年11月号に「鹿児島の対外戦闘並に償金交付の始末」を寄稿、文中サトウの直話を披露している。編集後記に「渡辺翁は明治維新の生きた体験者であり、実に生きた明治史ともよぶべき方である」、論文掲載には原平三・石井孝両氏から協力を得たとある。石井は、戦後『横浜市史』常任編集委員として港都横浜の歴史を叙述する。
 成稿にあたり、横浜市中央図書館の久野淳一氏から多大なご協力、ご教示を賜りました。(佐藤 孝)」

私の関心事?
叙上の話題と関連して次の検討課題としては「渡辺修二郎『阿部正弘事蹟』明治43年刊(続日本史籍協会叢書、東京大学出版会、1978年として復刻版)濱野章吉編『懐舊紀事-阿部伊勢守事蹟-』明治32刊の言述編制法の比較」を試みざるを得まい(。すでに古地図類を含め関藤籐陰『観国録』・『備後郡村誌』・『福山志料』については検討済みだが、この方面も引き続き探究を進める予定)。 藩政村レベルでは『村史』、『当村風俗御問状答書


【メモ】 森鴎外の『渋江抽斎』
その四十四

 日本の古医書は『続群書類従ぞくぐんしょるいじゅう』に収めてある和気広世わけひろよの『薬経太素やくけいたいそ』、丹波康頼たんばのやすよりの『康頼本草やすよりほんぞう』、釈蓮基しゃくれんきの『長生ちょうせい療養方』、次に多紀家で校刻した深根輔仁ふかねすけひとの『本草和名ほんぞうわみょう』、丹波雅忠まさただの『医略抄』、宝永中に印行いんこうせられた具平親王ともひらしんのうの『弘決外典抄ぐけつげてんしょう』の数種を存するに過ぎない。具平親王の書は本もと字類に属して、此ここに算すべきではないが、医事に関する記載が多いから列記した。これに反して、彼かの出雲広貞いずもひろさだらの上たてまつった『大同類聚方だいどうるいじゅほう』の如きは、散佚さんいつして世に伝わらない。
 それゆえ天元五年に成って、永観えいかん二年に上たてまつられた『医心方』が、殆ほとんど九百年の後の世に出いでたのを見て、学者が血を涌わき立たせたのも怪あやしむに足らない。
『医心方』は禁闕きんけつの秘本であった。それを正親町おおぎまち天皇が出いだして典薬頭てんやくのかみ半井なからい通仙院つうせんいん瑞策ずいさくに賜わった。それからは世よよ半井氏が護持していた。徳川幕府では、寛政の初はじめに、仁和寺にんなじ文庫本を謄写せしめて、これを躋寿館に蔵せしめたが、この本は脱簡が極きわめて多かった。そこで半井氏の本を獲ようとしてしばしば命を伝えたらしい。然るに当時半井大和守成美やまとのかみせいびは献ずることを肯がえんぜず、その子修理大夫しゅりのだいぶ清雅せいがもまた献ぜず、遂ついに清雅の子出雲守広明ひろあきに至った。
 半井氏が初め何なにの辞ことばを以て命を拒んだかは、これを詳つまびらかにすることが出来ない。しかし後には天明八年の火事に、京都において焼失したといった。天明八年の火事とは、正月晦みそかに洛東団栗辻らくとうどんぐりつじから起って、全都を灰燼かいじんに化せしめたものをいうのである。幕府はこの答に満足せずに、似寄によりの品でも好よいから出せと誅求ちゅうきゅうした。恐おそらくは情を知って強要したのであろう。
 半井広明はやむことをえず、こういう口上こうじょうを以て『医心方』を出した。外題げだいは同じであるが、筆者区々まちまちになっていて、誤脱多く、甚はなはだ疑わしき※(「鹿/(鹿+鹿)」、第3水準1-94-76)巻そかんである。とても御用には立つまいが、所望に任せて内覧に供するというのである。書籍は広明の手から六郷ろくごう筑前守政殷まさただの手にわたって、政殷はこれを老中阿部伊勢守正弘の役宅に持って往った。正弘は公用人(こうようにん)渡辺三太平(わたなべさんたへい)を以てこれを幕府に呈した。十月十三日の事である。
 越えて十月十五日に、『医心方』は若年寄遠藤但馬守胤統たねのりを以て躋寿館に交付せられた。この書が御用に立つものならば、書写彫刻を命ぜられるであろう。もし彫刻を命ぜられることになったら、費用は金蔵かねぐらから渡されるであろう。書籍は篤とくと取調べ、かつ刻本売下うりさげ代金を以て費用を返納すべき積年賦せきねんぷをも取調べるようにということであった。
 半井なからい広明の呈した本は三十巻三十一冊で、巻けんの二十五に上下がある。細こまかに検するに期待に負そむかぬ善本であった。素もと『医心方』は巣元方そうげんぼうの『病源候論びょうげんこうろん』を経けいとし、隋唐ずいとうの方書百余家を緯いとして作ったもので、その引用する所にして、支那において佚亡いつぼうしたものが少くない。躋寿館の人々が驚き喜んだのもことわりである。
 幕府は館員の進言に従って、直ちに校刻を命じた。そしてこれと同時に、総裁二人ににん、校正十三人、監理四人、写生十六人が任命せられた。総裁は多紀楽真院法印、多紀安良あんりょう法眼ほうげんである。楽真院は※(「くさかんむり/頤のへん」、第4水準2-86-13)庭さいてい、安良は暁湖ぎょうこで、並ならびに二百俵の奥医師であるが、彼は法印、此これは法眼になっていて、当時矢やの倉くらの分家が向柳原むこうやなぎはらの宗家の右におったのである。校正十三人の中には伊沢柏軒、森枳園、堀川舟庵と抽斎とが加わっていた。
 躋寿館では『医心方』影写程式えいしゃていしきというものが出来た。写生は毎朝辰刻まいちょうたつのこくに登館して、一人一日いちにんいちじつ三頁けつを影模する。三頁を模し畢おわれば、任意に退出することを許す。三頁を模すること能あたわざるものは、二頁を模し畢って退出しても好い。六頁を模したるものは翌日休むことを許す。影写は十一月朔さくに起って、二十日に終る。日に二頁を模するものは晦みそかに至る。この間は三八の休課を停止する。これが程式の大要である。

その四十五

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