- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

基盤が砂岩だったとは・・・・・

2016年10月31日 | ローカルな歴史(郷土史)情報




この地域では新第三紀の砂岩地帯に多い地すべりが頻発した。砂岩が風化し、砂層が地滑りの原因になっているのだ。国土地理院の表層地質図では、この付近の丘陵は洪積世(の地層)として分類されている。





長者ヶ原-芳井起震断層の記載もなく、表層地質図(国土地理院)としてはかなり杜撰な内容とというか、すでに賞味期限切れ。



沖田の旧山陽道ー国道2号線の間が砂堆(砂洲とか浜堤)?!。まあ、じっくり松永湾岸を見ていると図幅によって分類基準が異なるなど国土地理院の地形分類図って相当にいい加減な代物だということが判る。

コメント

井土経重 等編『征清戦死者列伝』、明治29年

2016年10月29日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
河本亀之助は、経営者西澤之助の信頼を得たのであろう、30歳前に当たる明治27年には小さな町工場であったとはいえ国光社の印刷部門を任されていた。識字能力が高く印刷工としての上達も早かったようだ。明治27年といえば旧廣島藩士玉置源太郎が東京国文社を創業する6年前の事だった。









コメント

「忠死列伝」に取り上げられた三吉傾山・大成館出身の三井勝治郎

2016年10月26日 | 断想および雑談


この戦いでは安城の渡しの戦いで歩兵第21連隊の木口小平二等卒は死んでもラッパを離さずに吹き続けたという逸話が残る。戦死者88名中の1名が三井勝治郎だったわけだ。木口(最初は白神源次郎、その後木口に変更)の話は死しても尚ラッパを口から離さなかったラッパ手の噂話として明治35-昭和20年まで小学校修身の教材に使われた。
白神源次郎と三井とは同じ7月29日の戦死だった。
朝鮮国成歓駅(大韓民国忠清南道天安市西北区成歓邑)において忠死とある。渡韓直後の最初の激戦で戦死した模様。





三井勝治郎の生家のいま@高須町上浜

関連記事


コメント

宮本・高室・艮神社由緒書(偽文書)

2016年10月25日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


山南庄49邑のうちから10邑を割って新庄(神村ー山波)を立荘したという。高室宮に神階で5位上を贈られたと。
これって高諸社の話と酷似。「たかむろ」と「たかもろ」・・・・悩ましい発音上の類似性。
以下はかもしれないといった程度の話だが、これまで式内社高諸社の話題は高須村と今津村とでその所在地論争が繰り広げられてきたが、そのいずれでもなくこの「高室宮」辺りが意外と式内社高諸社の故地であったかも知れいないのだ。
そういえば郷土史家の村上正名は『備後松永湾岸』芦田川文庫、H1において高諸社高須説を匂わせた思わせぶりな高須・大元神社の祭神の中に高渚神(渚と諸とは漢字の形状面で類似)があるとの示唆をしている(村上の記述は「高須町大元山に所在する高渚神社(高須八幡=今宮に合祀)の祭神の中に神武天皇が祀られていて、高須はもと高島(吉備高島宮を念頭においた「高島」)で・・・(後略)」、前掲書26-27頁。高渚神=現存する大元神社の旧祭神で、これが今宮に合祀されたことを村上は示唆。なお、地形的にはやや疑問だが、伝承通り今宮は広大な旧大元神社(大元山自体をご神体とするように拝殿は当該山脚部に立地)境内の一角に新造ヵ・・要確認)が、先般今宮さんの老神主にその点を聞いてみたが確認はとれなかった。
高須→高諸というのは呼称の漢字の形状の違い(この場合は類似性)か、今回話題にした山南・高室宮(艮神社)のような表音面での転訛(たかもろ→たかむろ)に注目するかというあたりのことになるのだが・・・・・、どれもこれも決め手に欠けるかもしれいないといった程度の話。しかし、かもしれないといった水準の話(クリフォード・ギアツ風に言えば事実というのは所詮思い描かれたものに過ぎないといった水準での史実の制作)で今津剣大明神が高諸神社に社名変更されそれが現実を形成しているわけだから、式内高諸社=山南・高室宮だった蓋然性もありなのだ。


境内の栃の実


立地場所

コメント

昭和19年7月23日付 丸山鶴吉毛筆書簡

2016年10月23日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

東北地方行政協議会の会長を兼ねていた宮城県知事丸山鶴吉が米内内閣の内務大臣に就任する児玉秀雄に対して送った大臣就任祝いの挨拶状がこれだ。

コメント

第20回・日本全国諸会社役員録、明治45

2016年10月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

明治27~36、明治40~44、大正~2,5・7、昭和2など資料的にはかなり欠落がある。



広島県分は983-1008。




穀蕃合資の業務担当社員に井上角五郎の子分でもあった、慶應義塾中退・東京専門学校出の石井得雄。同族会社といえば聞こえはよいが、 クローニー資本主義( 縁故や家族関係が大きな意味を持つ 経済体制)の中で高利貸しをしていた。巷間ではその破たんの原因を石井得雄のような投機家の下で投資に失敗したと信じられている。薬師寺にある石井家墓地を見ているといろんなことがわかってくる。得雄の子孫は新潟にいるという話だ(確認作業は敢てしない)
丸山鶴吉の4学年下の石井賚三(東京帝大法科卒)の晩年


石井得雄(亜鉛精錬技術開発のための投資家)-大阪新報 1913.8.19-1913.10.11(大正2)

亜鉛需給の現状

軍事用の砲弾、真鍮、亜鉛メツキ、ペイント等の工業は孰れも亜鉛を原料として加工さるべきものにして一ケ年七百五六十万円の多きを示し更に亜鉛引鉄板として輸入されつつあるもの約一千万円合計一千七八百万円の巨額に達すべく而してこれが供給は我が内地に亜鉛鉱石の産出豊富なるも亜鉛精錬業の未だ殆ど見るべきものなく僅かに大阪亜鉛会社が一ケ年百五六十万円を産出せる位にて他は我が産出の亜鉛鉱石を輸出し精錬をして再び輸入しつつある有様にて亜鉛塊、錠、板其他各種原料として輸入すべきもの一ケ年六百万円それに亜鉛引鉄板一千万円合計一千六百万円を海外市場に仰ぎつつあり然るにペイントを始め各種塗料其他亜鉛を原料とする工業の勃興に連れ近時需要著しく増加しつつあれば亜鉛の需要はココ数年ならずして一ケ年一千万円の巨額に達するならむ

過渡時代の亜鉛精錬

藤田組を中心とせる我が亜鉛精錬工場として唯一の彼の大阪亜鉛会社は創立以来既に四ケ年の星霜を経てこれに投ぜる資本亦百万円に達するも元来が同会社の事業は現任専務取締役とし経営の任に当れる塩見氏がシユナーベル氏の著メタラシーと言う書物に拠りて油井某と共に亜鉛精錬を計画し小規模工場を起せしを現在の会社が十四万円を以て買収の上拡張せし事業なれば技術の研究不充分なる上に同精錬業として最も困難を極むるレトウイト即ち壺が土質不良の為め亜鉛を溶解せしむる百六十度の熱に耐ゆる適当の土なく不完全の土をもってレトウイトを造れる関係上独逸の工場が使用せるレトウイトが平均五六ケ月の耐久力あるに比し僅々一ケ月内外の耐久力あるくらいなれば勢い生産嵩み輸入品に対抗するには鉱石運賃のみにて亜鉛一噸に付四十五円の競争力を有しながら尚輸入品に及ばざる有様なれば同会社は創業以来今尚欠損を継続しつつありたるも塩見専務は揚言して曰く我社の事業は将来多大の抱負を有し国家的事業を成功せしむるには目前の利潤を目的にするものにあらず現に一ケ年百四五十万円の生産を為しつつあれば仮に会社に損失するも国家はそれ丈輸入を防遏し居れりと極めて楽観を装いつついるも元来が技術の拙劣なる為め年々の損失に絶えず会社を尼崎工場に移転し一面備中皇の島工場をも一時閉鎖せんとの議あるやに伝う要するに我が亜鉛精錬業は未だ過渡時代にあるを免れず

精錬術の新発見

右の如く亜鉛精錬は非常に困難なる事業にて大阪亜鉛が四ケ年の星霜を経て今尚成功の緒に就かざる程なるが□に堺亜鉛精錬業の出資者とし失敗せし彼の石井得雄氏は現に石井亜鉛精錬所の支配人たる日枝久雄氏と共に精錬術に就て非常に苦心種々研究の結果彼の我が精錬業の欠点なるレトウイトの耐久方法として溶解せしむる前に鉱石の分解精選を加えレトウイトを腐色せしむる分子を除去する方法を発見したる結果レトウイトの耐久力を三四ケ月まで延長せしむることを得随って生産費非常に低廉なるを期し輸入品市価を標準とせば裕に競争し得る利益を計上することを実験し現に府下豊崎町に石井亜鉛精練所を設け一日二三噸宛の産出を為しつつあり近く五十万円の資本を投じ大規模の工場を設置すべく着々工事中なれば愈拡張工場の完成後は我亜鉛界に一大革命を与うべく原料たる鉱石は殆んど無限にして現に四万噸の鉱石を輸出しつつあれば此の鉱石全部を内地に於て精錬するを得ば約一万噸即ち三千万円の国家的事業を発見したるものとして更に亜鉛を原料とする各種化学工業の発達を見るならんと
明治34年 松永銀行と穀蕃社


例えば尾道商工会議所







明治26年  松永銀行役員


明治30年 福山銀行 松永銀行


明治34年 穀蕃社の代表社員:石井友三郎



大正5年版
第66銀行・・・野取り帳に今津沖浜にこの銀行の土地があった。


松永実業銀行


大正年に倒産(休業)した穀蕃合資会社はこのころ金江在住の砂原が管理をしていたようだ。


おや、石井四郎三郎の名前が松永塩商社に。


松永賃貸・・・・・高利貸しから不動産業・レンタル業
入江屋石井系と岡本一族を中心に本多藤橘、小川喜三次の息子:英太郎が役員名に名を連ねている。松永町の旧松永高等女学校の線路南側の一角(はきもの博物館の北隣)に松永賃貸の管理地があった。


大正7年版 上下町の角倉銀行


昭和7年版
三木醤油・・・・監査役の粟村七兵衛という人はわたしにかすかに心当たりがある。幼稚園児のころ高須屋に駄菓子を買いに行く途中で醸造所の一口の坂の上で塀に腰を掛けて泣いていた老人が確かこの人だったと記憶する。そのころは七兵衛さん経営の醤油屋も左前状態で、それに追い打ちをかけるように連帯保証人になったばかりにこの老人一家は全財産(例えば高諸神社馬場前の旧山陽道沿いにあった映画館:吾妻館の地所は昭和35年2月19日に競売にかけられ人手に渡っている)を失う羽目になった。




松永酒造


タイトル
商業興信所事業案内
出版者
商業興信所
出版年月日
明32.7

コメント

東京国文社と玉置源太郎

2016年10月20日 | 河本亀之助と東京洛陽堂




明治33年に東京国文社を創業する玉置源太郎は官軍に加わった芸備旧藩士




玉藻集〔国文社社主玉置源太郎の古希記念誌、芸備譜代家臣で官軍に加わり羽越に転戦、明治維新後印刷業に〕 
著者名 大滝由次郎・高木恒吉他編 序:梅原卓三郎 跋:鈴木善建 口絵揮毫:浅野長勲・末松謙澄・島田三郎・井上角五郎
出版社 大滝由次郎 ★玉置源太郎詠歌・小照(肖像写真)・小伝含★
発行年 大正6
詳細 非売品 初版 和装 原題箋 表紙少経年ヤケ 本文袋綴経年ヤケ 題字4+4+2+口絵16+132+口絵1+7頁



東京国文社刊の書籍・・・社主玉置源太郎の嗜好そのままに一昔前の国風・国学信奉を貫き、大正期にあってなお、和綴じ本を各種出版している。


印刷並に製本

印刷製本界の現状

印刷業は文明の先駆として国民教育の普及言論の発達に連れ益々発展し一面美術思想の発達と共に技術も精巧に且優美に進み活版より銅版更に石版に移り而して邦文より欧文に移る物漸次増加し技術の困難なる外印刷料金の競争日々激甚を極め日露戦役前後の幼稚なる時代は各印刷業者の得る利益多かりしも昨今は同業者の競争地方同業の発達東京大阪の対抗的競争激烈なる為め当業者の得る利益愈減退し当業者の新陳代謝亦頻々を極む然れどの需要の激増と競争の激烈なるとにて其発達実に著大なるものあり今昨年末現在における市内同業の現状を調査するに石版並に活版印刷に従事せる当業者二百八十九その中会社組織のもの二十八個人組織のもの二百七十一亦工場組織の下に動力を使用せる工場二百二十二無動力工場六十七而してこれ等工場に据付居れる器機は輪転機二台ハンド百七十九台四十二頁ロールの一台を始め以下二頁ロールを合算し千四百八十七台手摺三台カステング五十一台製本器四台罫線器七台亦これに従事せる職工は男工千八百二十五名女工百七十五名合計二千名を算す而して亦製本に従事せるもの百五六十戸この職工五百人を下らず以上工場の一ケ年生産活版印刷約十億枚この金額三百五十五万円石版其他の印刷百二十万円製本活字製造二百五六十万円合計七百二三十万円に達すべし

生産力発達著大

大阪の印刷並に製本業は地方同業の発達に連れ漸次勢力範囲を発展さるる如きも決して然らず新聞雑誌書籍を始め各種日用の諸印刷類の増加は実に驚くべき勢いを以て進み従来幼稚なる当時は市内及び近府県の注文に過ぎざりしもの一般需要増加し技術乃至印刷費競争の激甚なるに連れ却って大口物は大阪東京に吸収され現に大阪の印刷は市内六歩地方四歩と言う標準にて関西各地は勿論台湾朝鮮満州方面よりの注文日に増加をなしつつある状態なるより当地の斯業は日露戦役後非常に発達を遂げたり左に過去十年間の生産趨勢を示さん

[図表あり 省略]

右は純粋の営業者が生産せるものなれば市内十数社の発行せる日刊新聞の生産額を加算せば或は八百万円以上を算すべく兎に角過去十年間に七倍という激増を示せる工業は他に殆ど類例なかるべし而して印刷物の割合は新聞雑誌書籍三普通印刷物七と言う標準なりと

大阪印刷業の特長

大阪の印刷は年々長足の進歩を為し活版は素より石版におていも殆んど東京に譲らずとは各当業者の自負する所なるも技術の優美精巧ちょう点に於ては未だ及ばず又印刷費用の点においても精巧且つ大口の出版物類に至っては到底東京と競争の余地なく唯だ新聞雑誌と言う粗雑の印刷においては東京よりは遙かに低廉且つ便宜の組織となり居れる為めに国定教科書類の如きは東京七部大阪三歩と言う割当なるもその実大概東京に委しその代り粗雑なる印刷物の吸収に全力を傾注し東西相応じ各々特長を以て発達し居るも技術進歩と共に将来は両地の対抗競争を免れざるべしと


坂正臣と鈴木善建についてはB級本だが・・・・・
タイトル
東京名古屋現代人物誌
著者
長江銈太郎 著
出版者
柳城書院
出版年月日
大正5


わたしには高島が鈴木テル(高島の子供を出産、その子供は高島の母方親族の養子とされた)との結婚を取りやめ、テルより2歳若い黒田壽子を妻として迎え入れた背景には高島のなにがしかの打算もそこに働いていたのかなと思われるのだ。

一番の理由は西澤之助が創業した国光社が国学・国風を重んじる指向性が強く、爲に高島はそれからある程度、距離置こうとの考えがあったのだと思う。黒田壽子の兄太久馬著書「書斎の述懐」、明治23)は明治政府によって招聘されたフランス人法律家ボアソナードの薫陶をうけた言語研究者。黒田太久馬の妹を妻に迎えることは当時の高島の活躍ぶりとそれによって勝ち取った名声、そして高島の一番の弱点=語学力の不足を克服し、さらなる西欧的な教養の摂取面でそうすることが高島平三郎にとって得策だと自らもそして周囲の人々も判断したのだろうか。
その点旧広島藩士玉置源太郎は今回紹介した『玉藻集』を見れば解るように国学、国風嗜好ー旧態依然のままだったようだ。『玉藻集』において詠揮会(和歌)の先生として登場する鈴木善建は『高島壽子追悼録』,大正11年にも挽歌を寄せていた目次参照
村上純祥(尾道で開業した生名島出身の医師、東京帝大医科卒、森鴎外の2年後輩、年齢は6歳上)も和歌8首を寄せていた。

【後日談】後年河本亀之助の夫人となった鈴木テルは高島夫婦と連れだって功成り名遂げた高島念願の伊勢参りを果たしている。河本亀之助・テル夫婦は実子には恵まれず亀之助の妹婿の紅露長三の三女の房江を9歳の時に養女に迎えているが、その彼女は高島と鈴木テルとの間に出来た子・謙一(猪瀬謙一=顔立ちは高島そっくりだった)の後妻として結婚させられていた(猪瀬謙一には3人の子があったが、後妻房江との間には子供はなかった)。なお、謙一の縁談話を進めたのは高島寿子だったようだが、寿子自身は謙一の結婚式と相前後する時期に病没している。高島は養子に出した謙一少年とは子供時代から作文を自分の関わる「雑誌」に掲載したりしており、特別に可愛がっていた。謙一の子供3人は自分たちのお祖父さんとお祖母さんが高島と河本テルだということを弁えていた。
荒井
。この辺で銀座の話に移りましょう
あの頃、今の銀座はレジャーや服飾の町となってしまいましたが
。の銀座は文明開化のお先棒でした

、(活版(当時でいう銀座には福音印刷、年の銀座を見ると 6 大正活(集栄堂)、銅版・石版(栗山堂)、写凸(美山堂)、石版(大塚印刷現在の銀座の範。工場がありました 6 の)石版(三間印刷所)、版活(当時の西紺屋町には大日本印刷の前身である秀英舎、囲で見ると弓町には三、軒 2 の)石版(と右田印刷所)オフセット・石版・版(活版(文玉舎)、活版(金芳舎)、活版(千代田印刷)、活版(協印刷所と東京造画)彫刻・石版・活版(宗十郎町には東京国文社、軒 4 の滝山町には東京製、軒 1 鎗屋町には細川活版所、軒 2 の)石版(館コ(審美書院)、活版(新肴町には集栄堂、軒 2 の)活字(中心堂、本八官町に、軒 3 の)写真製版(明治製版所)、木版、石版、ロタイプ日吉町、軒 2 の)活字鋳造(民友社活版製造所)、活字(は忠愛社、軒で 1)石版(山城町にも彩雲堂、軒 1 が)活版(に民友社印刷所。工場がありました 31 結局現在でいう銀座にはそれでも京橋に、強制加入でしたが、当時の東京印刷同業組合は下谷、29 本所、41 芝、50 浅草、57 日本橋、116 神田に、社 147、6 麻布、8 深川、9 四谷、12 小石川、15 牛込、22 本郷、23 麹町、28・・・・」

猪瀬房枝が最晩年に河本千代子に送った一通の手紙を千代子の娘婿:医者村上某が1990年頃の松永沼隈医師会機関誌「松韻」1990年を掲載していた。
コメント

古写真熟覧会

2016年10月18日 | 松永史談会関係 告知板
10月24日 10-12時 於草深・南部生涯教育センター
明治40年代に撮影された古写真を熟覧します。これはこちらの原板写真にあたるものです。





コメント

10月 地質調査参与観察会

2016年10月15日 | 松永史談会関係 告知板
10月17日 午前9時(雨天決行)
寺の坂、旧市川酒店前集合・・・・・
現地を見ながら「元禄検地帳」の読解を試みる(~10時半)。
11時より現地に移動し、ボーリング・コアサンプル観察。

10月31日(月)  11時  二つ池

コメント

高島平三郎先生の苦学に学ぶ

2016年10月02日 | 高島平三郎研究
タイトル
日本が産んだ最初の苦学生
著者
大塚季光 [著]
出版者
医科大学民衆医学社
出版年月日
大正13



駒番号34-38 高島関係・・・・・松永浚明館(長谷川櫻南)での話題が出てくる。石井友三郎とか新良貴徳兵衛は塾生。高島はこの塾の秀才であった。長谷川櫻南は高島の境遇を理解し、激励の漢詩をプレゼントしている。
浚明館時代のもう一つのエピソードといえば、神童永井少年の一件。



コメント

土屋堯編『母を語る』明治書房、昭和13年

2016年10月02日 | 高島平三郎研究
昭和13年刊、二等国民(17-21歳、学徒出陣年齢の若者)向けの修養書として編纂されたものだ。


朝鮮総督時代の書が我が家にあったので、岡山県出身のこの将軍の文章から・・・・・
ちょっと脚色されたような部分もあるが、宇垣大将の人間性の一端はうかがえる。








本書に万年筆でマークが付けられていた唯一の箇所


高島平三郎節全開というか、高島は若いころから自らの極貧・武士の子としての誇りをバネに刻苦勉励したことを口にした。長男文雄への手紙の中でもこの点に触れ、(しっかりと勉強するようにとの)父親からのメッセージとして伝えている。高島はやや自ら頑張りすぎるところが強すぎて、大樹(有名人としての高島平三郎)の陰に若木が育たないという状況を作り出していた。
ワンチャンスを捉え、全面展開。その見事な例が文部省体育遊戯取調委員を委嘱された時の一件だ。
高島の義弟(高島の妻壽子の妹婿)・松本孝次郎(心理学)とも明治30年代には親密な関係を持ったが、後年は没交渉だった。高島平三郎の生涯は「とと姉ちゃん」の主人公以上にドラマ化に向ているかも。





丸山鶴吉の文章は『50年ところどころ』などの自著に掲載のもの。


コメント