- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

「秀吉一行は鞆に・・・・」

2019年02月23日 | repostシリーズ
木下勝俊が著した文禄元(1592)年文禄の役時に京都から肥前名護屋までの紀行文『九州の道の記』(長崎健ほか校注・訳『中世日記紀行集』、小学館 日本古典文学全集48)にある鞆・神島の記述:鞆の浦近くに10日余り滞在し、泊りがけで宿陣先から名所歌枕の地:鞆の浦に出かけたとある。また旧知の人物と出会い、神島では蹴鞠をして友情を温めあったのだろ。緊張を強いられがちな行軍中のひと時の息抜きの感じられる一文だ。てか吉備津宮~厳島間の木下の記述は、(現実には多忙を極める中にもわずかな暇を見つけたといったところなんだろうが)この人物(備中足守藩藩主木下氏のご先祖)の人間性の反映か武人というよりは行軍の疲れを吐露し(=弱音をはき)つつ、現実逃避を繰り返す豊臣政権内の教養ある”お坊ちゃま”武将のそれそのもの



稲田のいう「鞆」は山陽道上の宿営地に訂正した方がよい。この人のイメージした「鞆」と「鞆の浦」とは実際の地理的実体としては同じものだ。


木下勝俊の行軍ルートについて稲田利徳は上図のように明石~鞆間を海上ルートだったとして理解し、途中龍野(二十日ほど滞在ヵ・・・・稲田利徳注)・吉備津神社には軍務を離れる形で途中下車しわざわざ出向いたとみている。その点の妥当性についてはここではあえて論じないことにするが、神島ー鞆の浦間もその延長線上でとらえ、船旅を続けて来た勝俊は「鞆」に到着し、そこから名所歌枕の地:「鞆の浦」を訪れ、そこからの帰途に就く途中の事柄として、旧知の人物と出会った「神島」を前掲図のごとく位置づけたわけだ。
これがまったくの間違いだったのだ。

図中のKが神島。黒が九州道上の宿営地(神島近辺の宿陣地・・・福山市の山手~赤坂辺りか)。

木下勝俊としては「鞆の浦」からの帰り、「神島」という場所に立ち寄ったもので、かれが引き返そうとした場所は山陽道上にあった山手~赤坂あたりの宿陣地に他ならなかった。宿の近くには辻堂があったようだ。勝俊はその宿陣地から陸路尾道に向かった模様。そういう意味では稲田の文学作品の地理的舞台に関するフィールドワーク不足は明白で、それが災いし、稲田の提示した木下勝俊の行軍経路図は信ぴょう性の低いものとなっている。というか稲田の場合はこの木下勝俊『九州の道の記』研究を全面的にやり直した方がよい。こういうのはダメ!






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松永史談会2019-2及び2019-3例会のご案内

2019年02月17日 | 松永史談会関係 告知板
2月例会のご案内

話題「近代松永における地主的土地所有と都市の形成」

開催日時 2月22日 金曜日 午前10-12
開催場所  「蔵」


3月例会のご案内

話題のタイトルは「弘化2年「漂流御用」について」
開催日時3月22日 13時半~  
場所    満井石井氏のお宅 


併せて石井家蔵地図史料(備後国名勝巡覧大絵図など多数)の紹介と東村地区の文化財探訪を行った。
BGM:Alban Berg - Nine Short Pieces (1905-1908)
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The children of Oberammergau 2010

2019年02月11日 | repostシリーズ
ドイツ・バイエルン地方で10年毎に開催される村民総出で行われるキリスト教受難劇。最近は日本人観光客が増加中らしい。その村とはOberammergau だ。少年少女合唱団が歌う典型的なコラールだが、心に残る旋律だ。


EU諸国では歩いたり、自転車を使ったグリーン・ツーリズムが盛んだが、日本でははやくも京都の美山町内でかやぶきの里あたりで中国人による観光公害も・・・・
2020年は祭典の開催年だ。

南バイエルン地方にあるアマルガウアルプス山麓にあるOberammergauとはこんな村


〇バッハの「マタイ受難曲・第一部
同上楽曲の第二部
音源はカール・リヒター指揮 / ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団、1958年盤
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伊勢宮さんの神主名方潔比古のもう一つの顔

2019年02月08日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
ゼンリンの「ブルーマップ 芦田川より西」の内容にあやまりが散見され使い物にならないので明治の和紙公図に当たってみた。第一印象としては角筆を上手に使った地籍図だ。製図者は名方潔比古(1847-1925、行年89歳,本名は名方唯能)だった。今津村の「野取帳」では村長の河本幹之丞(筆跡から判明)や嘱託で従事した平櫛又四郎(署名)・三島治平らの名前を一度見かけたが・・・・・。こういうmapmaking(測量・和算)の能力が村落社会の内部に蓄積されてきたことが素晴らしい。地図好きだった河本英三郎(1850-1925)の場合もおそらくそういう村のmapmakerの一人だったのだろ。この家には英三郎の三角関数表があった。
ただ、かれらは補助的に関わったかもしれないが『明治26年10月沼隈郡今津村測量図』及び同字切図を実際に制作したのは『沼隈郡西村切図(和紙公図)』(明治27年月)や『明治26年3月尾道町全図』(尾道市立中央図書館蔵本については調査済み)などを作成した松下勘造だった。今津村測量図に関しては明治26年度歳入出予算表等の断片的資料が若干残存(2021年1月27日確認)。松永村については明治27年三角測量図が残っており、岡山市の瀧音吉により見晴らしの良い高台にある承天寺を基点に複数の計測点を決め村内測量を行っていた。同村の字限図の製図者は不明だったが、瀧音吉自身であった可能性が高い(要確認)。
奈良県の事例では「1887(明治20)年の奈良県再設置後に県令税所篤のもとで奈良県独自の地籍編製事業が改めてスタートし,1891(明治24)年に『奈良県大和国地籍一覧表』が,1892(明治25)年に『奈良県大和国実測全図』が完成し」ている。『明治26年10月沼隈郡今津村測量図』及び同字切図はこの時代の産物だった訳だ。

名方は神村伊勢宮さんの神主、河本英三郎は村役場職員だった。


山林⇒保安林(大成館中学の立地する低山の山林、八幡さんの境外所有地)と訂正があるので明治30年の旧森林法制定を挟んで作成されたかと思いきや「松永町」とあるので明治33年3月以後のモノらしい。いうまでもなく松永町分は字「長和島岡-東島北端部」字「トンタ」の語源は不明だが、類似地名としては 川の堰(せき)から水が流れ落ちる所。落水の音から出た語(ドンドン)。どんど。面白い名称だ。


西国街道を挟んでこの一帯(現在の福山市宮前町)は幕末期以来、石井四郎三郎家所有の土地で占められていた。
下図中の❶は大正4年11月5日に渡辺巻助(柳津村)が買得し、経営権を石井より譲り受けた形で赤壁酒場という清酒工場が、そして昭和5年10月以後近藤勇一(製麺所)となっていたところ。また❷は現在は国道2号線を挟んで南側ということになるが、同じく石井四郎三郎の土地だったところだが、松永高等小学校長の福原甚之助が大正4年12月24日に買得し、昭和32年に息子の福原麟太郎が相続している。
この区域の土地はほぼ石井四郎三郎・石井猪之助、石井良之助、石井忠の所有地だった。



製図者名の入った公図は珍しい。機会があればこの町全体の和紙公図(明治の地籍図)について史料調査してみたい。滋賀県志賀町で野外調査している時も感じた事だが、神社境内に和算家の額が奉納されたり、彼らが地図の作成に関わっていた事実に度々気づかされたものだ。近江は京都・大坂に近い関係でそういう人物(農民)が多かった。

名方家墓地の全景。現在は親戚の人が墓守をしている。寺岡氏は江戸時代以前までさかのぼれるこの地方ではとても長い歴史を刻む古い家系だ。現在この一族の分家筋には、ロイヤル自動車学校・寺岡有機など各種の企業体(ロイヤル・コーポレーション)を経営する寺岡氏がいる。


名方平二さんの兄弟のお墓。担一は潔比古の長男。庸は潔比古の5男。担一兄弟の時代に墓地をテラス状に整備したようだ。担一のお墓のすぐ上の段に弟庸夫婦墓がある。親類の人が常時清掃している感じで小ぎれいだ。


名方平二さんの父祖たちの墓石(神官墓)

潔比古墓には「名方唯能夫婦墓」とある。


名方潔比古に言及した別稿


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松永史談会会報2019-2臨時   わが町山陽道小考

2019年02月07日 | 松永史談会関係 資料配布







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尾道・旧荒神堂(住吉)浜界隈

2019年02月05日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


今朝市史編纂室の方から富吉屋関係の情報をもらい、その確認を兼ねてしばらくぶりに尾道行



写真中央、赤ワイン色日よけのある一階が若い女性のたまり場cafe「やまねこ」(広島県尾道市土堂2-9-33)になっている豊田ビルが旧富吉屋跡(むかって右側の横断歩道奥の三階建ての建物一帯)。その右方に尾道ロイヤルホテル、その辺りは旧油屋分。右端(海べり)に尾道住吉神社 『葛原勾当日記』では出稽古時の尾道での稽古場はほぼ富吉屋、松永では高須屋麻生家だった。


しまずい」は住屋島居氏ゆかりの名称


一昨日はカープチケット購入に半日待ち。
ここでも・・・・


住吉神社境内にあるジャンボ常夜灯を寄進した富吉屋嘉助&小林宣雄」(あるいは富吉屋嘉助こと小林宣雄かもしれないし最初の石灯籠は富吉屋だが、これがある時期壊れ、その後小林宜雄が再建したのかもしれない)。
【メモ】その後の調査で吉富屋=山田氏が判明。
『第20回・日本全国諸会社役員録、明治45』に記載された尾道商業会議所役員で、土堂の小林・島居。小林良人は広島県議会議員経験者だ。

常夜灯基礎部分の文字、海側の「常夜灯」と富吉屋のロゴマーク「L+富」の彫刻部分の異なる字体、しかも彫刻が異質、かつ風化度合がかなりことなり後者は寛政9年以後の再建時に彫り加えられた可能性もある。やはり全体は過去に倒壊し、落下して壊れた中台・基壇部分の石材は新しいか・・・・検討中


梁川 星巌の弟子が今津宿で寛塾を営んだ武井節庵。荒神堂(住吉)浜には雁木が復元されてる。




石工は川崎清吉と藤原貞之。藤原貞之は川﨑清三郎貞之・貞皆 と同一人物だろ。


荒神堂浜の一角には現在尾道ロイヤルホテルや商工会議所の建物が立っている。

この丸山茂助は浜口雄幸内閣時代の警視総監:丸山鶴吉の親父。茂助は北海道の木材を移入していた木履業者。






岩子島の「三坂幸助」(婿養子は沼隈郡神村の小林松太郎、菅原守編纂『備後向島岩子島史』にご本人は岩子島出身で、家業は瀬戸物屋とある)は大正3年10月22日に沼隈郡神村字「宮ノ下」にあった石井四郎三郎の田畑をかなり買得した土堂居住の尾道商人。明治10年(紀元2537年)尾道・住吉神社に石塀を奉納した有志の中に加わっていた。





この富吉屋は寛延期には松永に塩田を5浜所有していた。



観光客をときどき見かける。客入りがよいのはクレープ屋とかラーメン店。貸店舗を利用した町おこしショップが散見されるがどこも顧客を引き付けているようには見えない。〇〇フェスタ風のストリートパフォーマンスの要素を取り入れた町の賑わい感不在で旧市街は店主の老齢化で一段と閉店数増えた感じ。
2月10日連休最初の日曜日の来街者・・・・尾道駅プラットホームは終日かなり賑わっていた。


いささかインパクトに欠ける文化観光資源頼みの尾道市の地域振興策はやはり考え直すべきだ。しかし、それにすがり続けようとするのなら市民参加型のイベントや日替わり観光大使(有名人)を大動員しながらでも徹底的に都市全体を劇場化していくべきだ。

広島県に於ける政界の分野(大正8年)・・・・県会議員選挙関連  小林良人

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