寛永10年の幕府による巡見使派遣の意味については表向きは道筋と国界の確認とされたが、本当の狙いは諸国の治政の監察であった(川村博忠「寛永10年巡見使国絵図 日本60余州図」解説、1-23ページ)。土佐藩主山内忠義の忠義公紀には幕府派遣の18名の上司に国々の道筋・城郭の状況・山海の難所など説明したとある。寛永の備後国絵図だ
図面の左下に「節用集」記載の郡名・14郡を並記する形で、巡見結果判明した郡名・15郡と備後国高の注記。
地図記号では太い朱線=郡境線、細い朱線=道筋、地名+俵印=村の名称、地名+赤い■・・・郡名か航路上の難所(阿伏兎)。桝形+文字注記「古城」・・・・古城、桝形+地名+城主名・・・・城下町。国界の道筋に関しては接続先の地名や峠名など記載。なお村の名前:萱村は神村のこと。地名の内、鞆と神辺は町の呼称がつく。すなわち鞆町、神辺町。
尾道ー高須の間の「古城」は御調郡内に図示されているので阿草地区にあった松尾城ではないということなのだろか。
山田ー田尻付近を通過する河川(「山南川」?)が芦田川の分流となっているのは明らかな誤記。沼田川と芦田川とが同一水系と言うに至っては最悪だ
一般的に見ても寛永10(1633)年巡見使国絵図のむらの配置もそうだが、水系表現にはかなり問題がありそうだ。
【お話/お話】
最近(昨日)目にした記事だが、まず、九州往還の神辺ー三原間のルートに関して万治2年高須新涯が造成され今津ー高須ー坊寺口ー尾道ルートが開通し、その後糸崎経由で三原城下に抜ける道が出来たことで、神辺から今津・尾道・三原に至る現在のルートが完成した、と。この点は今回紹介した寛永10年巡見使備後国絵図をみても明らかなように誤り。参考までに、古志清左衛門豊長公の供養塔について付言しておくと、それ自体は後世の建立だったとしても、それが糸崎あたり(沼田―尾道間)に布置されたのは当然古志清左衛門が利用した街道がすでにそこを通過していたからに他なるまい。
『中書家久公御上京日記』には
三原城→高森という城→高丸城(鬼など住みそうな怖い場所)→今津の町・四郎左衛門宅に一宿となっている訳だが、高丸城の語を見て、すぐに尾道市山波町の高丸山とか城址を残す尾道市向東町の高丸山城を想起したが・・・まあ、この辺の記述は少し時間をかけて慎重な分析が必要だ。
『沼隈郡誌』(郷土史家浜本鶴賓が中心)のどこかにどこからそんな話が飛び出してきたのか定かではないが、確か秀吉の九州行き時に
今津―三成ルートが使われたと記述をしていたように思う(亀山士綱『尾道志稿』が言及)が、試みに天正15(1587)年島津征伐時における赤坂-三原間の里程6里(31㎞、但し1里=48町、『九州御動座記』に記載)と(朝鮮征伐時の肥前名護屋への下向記:『豊臣秀吉九州下向記(新城による仮題)』(文禄元年、1592)、備中・備後国境の川辺川(高梁川)より名護屋まで36町=1里とする一里塚の構築などに言及した道程記録)の方も山手の三宝寺から小早川の居城まで8里〈31㎞、但し1里=36町〉共に里程を268町としていたが、この数値が尾道経由と三成経由のいずれに合致するか、
GoogleEarthを使った簡易実験してみよう。うん?・・・・・◎▽。やや三成経由のルートを想定した方が近道となり誤差が大きくなるようだが、大差はなさそう。
・・・・なるほどなぁ
ただ、秀吉の島津征伐に参加した天正15年「楠長諳(ちょうあん、楠木 正虎:1520年 - 1596年)下向記」によると小早川の居城下の「
ぬた(沼田)」から
尾道経由で
備中井原に至っており。当時すでに寛永10年巡見使備後国絵図記載の西国街道は秀吉らが島津征伐からの帰還時に使っていたルートと同じものであったことが判る(九州史料刊行会編『近世初頭九州紀行記集』、九州史料叢書、昭和42、105頁)。
文政期の尾道宿本陣笠岡屋小川家屋敷の場所
所詮は日本地図を虫眼鏡でのぞかなければわからないような備後地方の小さな村でのお話、お話でした
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