- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

松永史談会会報2019-1・2合併号

2019年01月27日 | 松永史談会関係 資料配布
松永史談会1月例会は休会。その代わりに松永西町を取り上げた「入江屋石井家の人々の近代」を配布します。

2頁(差し替え版)






石井得雄の弟石井賚三(1886-1932)は朝日新聞記者(名古屋支局長)を辞して実業家へと転身を計るが、大成はしなかった。福山学生会雑誌は石井賚三の追悼記事を掲載していた。この中に賚三(通称”らい”ちゃん)の手記も掲載。
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高祖母伊志(1820-1893)の実家跡と墓地探訪

2019年01月06日 | 断想および雑談
中世地名に「風呂ノ本」があったが、向かって左側の建物が風呂基薬師で共同井戸を挟んで右側が中組会館。 鞆往還よりここまではかなりの急坂(車道)。その谷筋に共同井戸が立地。共同井戸及び薬師堂・集会場が核となって柳津町中組が形成されているのだろ。家屋敷や山畑のいたるところに天水を貯留する水槽などの施設が目に付く。


屋敷跡・・・・平成3年に長市夫人が90歳近い高齢で亡くなるが、長市の息子たちは福山駅近くに居住していたのでこの屋敷地(7,8年前に訪れたときは門構えが残存)は他人Sさんに売却され、現在はこんな感じでSさんの住宅が立っている。となり(山側)は空き家。写真撮影のため、その家に近づくと一匹の痩せた野良犬が藁山の中から気まずそうに飛び出してきた。そしてその家の石崖下を見るとアオダイショウが・・・・。


路上で見かけた。むかし、水たまりに氷の張る10月下旬に岐阜県の石徹白(白山中居神社・・・何回か使ったことのある旅館名が富屋からいとしろ旅館に変わっていたの北方1キロの林道上)で冬眠遅れの蛇を見かけていらいのことだ。わたしの子供のころからの習性で、動物愛護の精神を忘れこの痩せた蛇をちょっといじめておいた。


慎ましい小ざっぱりとした墓地の全景  前列左端が山本勘一道詮(1882-1973)、隣の戦死者墓は長市の長男のもの。右端が長市の跡継ぎ(■1928-2011,夫人は健在)夫婦墓、その左側が長市夫婦墓、その後列向かって右端から2つ目で猫足がついたのが傳松(1847-1914)夫婦の墓。こじんまりとまとまっており驚き。寛政年間のものが最古(傳松の親が熊吉、その親が伝吉?。そうだったと仮定して伝吉の次女が高祖母伊志ヵ その場合は伊志は『過去帳』の記載通り、正しく傳松の伯母)。嘉永2年(1849)/享和元年(1801)/寛政?など江戸中期のものが山本家最古の墓石。


高祖母の甥傳松とその孫娘夫婦の墓。長市は教育長から市長になり、その在任中に死去。当時は福山市との合併問題があり、その過労死(市長のリコール問題が惹起、そのときの過労と心痛が影響)か。高祖母伊志の父親の墓を探したが見つからなかった。

この山本家は大正・昭和になってから徳島に塩田を2浜(肥浜・柳屋・番田・・・現在ハローズ、ブックオフ。福大通りを挟んで松永小学校校庭南端・Tsutayaの駐車場西隣)保有したり塩業組合専務理事や村長そして市長になる人物がご当主となるなどしているが、傳松の親の時代まではごくありふれた零細農家だったのだろうか。墓石から判断して社会的発出への分岐点は藤井与一右衛門(明治24年以前は岡本山路家)所有塩田に関わる傳松時代に訪れていたようだ。
長市の息子■の嫁の話では、昔のことはよくわからないと断ったうえで「山本長市家は昔から代々塩田関係の家だった」とか。昭和3年12月12日だから勘一の代に藤井与一右衛門から塩田(肥浜~番田)を買収していたことになる。塩田所有者は山本ツネ(勘一夫人)&山本アヤノ(長市夫人)名義。
典型的な新興製塩業者山本家の次女がわたしの高祖母だった訳だ。ただし明治26年没の高祖母が甥の傳松時代(傳松48歳時に高祖母伊志は没)に富裕化していく実家山本家のことをある程度見届けていたのではないかと思われる。戸籍上は「伝吉(=傳松の祖父)の次女」となっているが前掲のごとく我が家の過去帳に「傳松伯母」とあり、そう表現した祖父の気持が何となく分かるような気がする。なお丸山鶴吉やこの勘一は松永高等小学校時代の祖父の一学年先輩だった。

正面中央の道路が福大通り(県道)…徳島地区における1986年以前の塩田跡地の利用方法は分譲型宅地開発中心だった。山本家が所有する旧肥浜~番田浜は小学校用地として一部提供されたが、そういう意味では後発的(2000年以後)だった。その後福大通りの建設によって大規模用地に目を付けた郊外型量販店等が進出。塩田の跡地利用法として土地を細分するか、細分せず大型区画のままにしていたかによってその後の都市化の在り方に大きな差が出来た感じだ。


社叢林は旧清平大明神(橘神社)。背後の平坦地が字清平。丘陵下鞆往還沿いに字清平町(松永・下ノ町の続きで、かなり賑わいのあった町場)を形成。清平町出身の歴史上の人物といえば 影佐禎昭

風光明媚だ。ただし、集落内を行きかう坂道には往生させられた。


1月7日子孫の方と連絡が出来た。いろいろ話をしたが、転居の際にファミリーヒストリーを再構成するために必要そうな古記録などはすべて処分したとか。現在の松永小学校校庭、福大通りを挟んでハローズ・ブックオフはこの山本勘一家所有塩田(旧黒鉄屋藤井与一右衛門所有)跡地に立地している。
Xは山本勘一家墓地、Yは久井屋柳田(金十郎⇒光蔵、旧神職家系、写真の向かって奥側手前の万延元年墓は柳田家のファミリーヒストリーの見直しを行ったことを明記した先祖供養墓、その他は比較的小さな墓石群)家墓地。久井屋柳田家屋敷は現在畑。山本屋敷は前述した通り。正確に言うと久井屋屋敷跡の100メートルほど竹藪を上ると、そこにポツンと車道脇に山本家墓地がある


山路機谷の拠点を望む。


松永塩業史の研究者は塩田の跡地利用問題を含め、製塩業者(現在は〇〇地所経営)としての山本勘一家の足跡を調べてみるべきだった。相良英輔『近代瀬戸内塩業史研究』(清文堂、1992)に所収された「広島県松永塩田における小作経営の一形態」、212-236頁は岡田虎次郎・石井保次郎にスポットをあてているが、みごとにポイントを外した感じの論考だ。ちなみに大正3年に岡本組塩田組合長になり、昭和3年には藤井与一右衛門所有浜のうち肥浜を含む3つを買収したのは岡田ではなく山本勘一だった。
石井憲吉所有の塩田:三谷屋浜(大正4年寺岡為治郎⇒昭和4年神村から今津へ転居、昭和7年河本猛郎⇒昭和21年河本英太)と大西屋浜(大正4年橘高アヤコ⇒大正11年加藤保次郎⇒加藤シズ⇒昭和5年石井清一昭和7年河本猛郎⇒昭和21年河本英太)・久井屋浜(石井憲吉⇒大正4年寺岡為次郎⇒昭和4年神村から今津の転居)
今津島の北端にある三谷屋浜・大西屋浜は製塩面での立地環境は劣悪で寺岡・河本ら新興の製塩業者は経営面で不振を強いられてきたはずだ(河本英太談、平成29-30年)。

山本長市の息子の嫁の話(20190110)では実家を売却した時、昔の塩田関係の資料なども一切廃棄したとのことだった。村田露月は『柳津村誌』編纂時に山本勘一からいろいろ情報を集めたようだが塩業史研究者が聞き取り調査を開始した時、その相手は明治16年生まれの山本勘一よりも一世代新しい大正2年生まれの心石光雄(元松永塩業組理事長)だった。その点が何としても惜しまれる。

相良によると「瀬戸内塩田全体でも、また一塩田内でも塩業における経営形態は複雑である。しかしながら、今日まで塩業における経営形態の類型化は近世期を含めて試みられてこなかった。そこで本研究では瀬戸内全体を視野に入れ、先学の分析を援用しながら、塩業における経営形態について試論的な類型化を試みてみた。まず第一類型は自作経営である。複数の塩田を所有している地主の場合、たとえ番頭・支配人などが塩田経営を担当し、地主は直接経営に関与していなくても、最終的に利益、損失は地主に付することから、これを自作経営の範疇に入れる。第二類型は小作経営である。小作経営はさらに、経営者的性格の羽織小作と労働者的性格の大工小作に細分類する。第三類型は当作歩方制である、これは岡山県の野崎家塩田における経営方法である。当作歩方制は、労働者的性格を多分に持った小作人の経営であるが、その損益において、地主その他との間に歩合制を導入しており、本研究ではこれを折衷型と称した。以上、近代瀬戸内塩業における経営類型を大きく三つに分けて示した。本研究ではこれら三類型について、それぞれの特徴を詳述している」(相良英輔「近代瀬戸内海地域における塩業構造の研究」科研研究課題/領域番号:03610183、研究種目:一般研究(C))と。

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今回の高祖母の実家探しで得られた歴史研究上の知見としては❶沼隈郡新庄打渡坪付記載の字「風呂の本」の遺称地が判明したこと。❷久井平・清平といった小地名の中の「ひら」が山腹の小平坦地を指すこと。❸黒金屋藤井家による塩田経営は山本勘一が岡本組(岡本山路氏所有塩田を管理する団体)のトップであったことから勘案して、山路氏から買得後に始まったもので、製塩面・塩業経営面で小作人(現地マネージャー)依存する形で展開したもの。その中で有力小作人層(才覚のある小作人の中)から塩田地主が登場したこと。❹塩田の跡地利用に2パターンがあり、一つは塩田を小区画に分割し宅地分譲、今一つは大区画を温存したケースで、こちらが2000年以後郊外型のロードサイドビジネスを吸引し旧塩田地帯の商業業務地区化をもたらした、という点だ。旧塩田所有者の一部は土地を大規模量販店などに賃貸し、現在は不動産業に転業。
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寛永10(1633)年巡見使国絵図 日本60余州図

2019年01月06日 | 断想および雑談
寛永10年の幕府による巡見使派遣の意味については表向きは道筋と国界の確認とされたが、本当の狙いは諸国の治政の監察であった(川村博忠「寛永10年巡見使国絵図 日本60余州図」解説、1-23ページ)。土佐藩主山内忠義の忠義公紀には幕府派遣の18名の上司に国々の道筋・城郭の状況・山海の難所など説明したとある。寛永の備後国絵図だ
図面の左下に「節用集」記載の郡名・14郡を並記する形で、巡見結果判明した郡名・15郡と備後国高の注記。





地図記号では太い朱線=郡境線、細い朱線=道筋、地名+俵印=村の名称、地名+赤い■・・・郡名か航路上の難所(阿伏兎)。桝形+文字注記「古城」・・・・古城、桝形+地名+城主名・・・・城下町。国界の道筋に関しては接続先の地名や峠名など記載。なお村の名前:萱村は神村のこと。地名の内、鞆と神辺は町の呼称がつく。すなわち鞆町、神辺町。
尾道ー高須の間の「古城」は御調郡内に図示されているので阿草地区にあった松尾城ではないということなのだろか。
山田ー田尻付近を通過する河川(「山南川」?)が芦田川の分流となっているのは明らかな誤記。沼田川と芦田川とが同一水系と言うに至っては最悪だ一般的に見ても寛永10(1633)年巡見使国絵図のむらの配置もそうだが、水系表現にはかなり問題がありそうだ。

【お話/お話】
最近(昨日)目にした記事だが、まず、九州往還の神辺ー三原間のルートに関して万治2年高須新涯が造成され今津ー高須ー坊寺口ー尾道ルートが開通し、その後糸崎経由で三原城下に抜ける道が出来たことで、神辺から今津・尾道・三原に至る現在のルートが完成した、と。この点は今回紹介した寛永10年巡見使備後国絵図をみても明らかなように誤り。参考までに、古志清左衛門豊長公の供養塔について付言しておくと、それ自体は後世の建立だったとしても、それが糸崎あたり(沼田―尾道間)に布置されたのは当然古志清左衛門が利用した街道がすでにそこを通過していたからに他なるまい。

『中書家久公御上京日記』には三原城→高森という城→高丸城(鬼など住みそうな怖い場所)→今津の町・四郎左衛門宅に一宿となっている訳だが、高丸城の語を見て、すぐに尾道市山波町の高丸山とか城址を残す尾道市向東町の高丸山城を想起したが・・・まあ、この辺の記述は少し時間をかけて慎重な分析が必要だ。

『沼隈郡誌』(郷土史家浜本鶴賓が中心)のどこかにどこからそんな話が飛び出してきたのか定かではないが、確か秀吉の九州行き時に今津―三成ルートが使われたと記述をしていたように思う(亀山士綱『尾道志稿』が言及)が、試みに天正15(1587)年島津征伐時における赤坂-三原間の里程6里(31㎞、但し1里=48町、『九州御動座記』に記載)と(朝鮮征伐時の肥前名護屋への下向記:『豊臣秀吉九州下向記(新城による仮題)』(文禄元年、1592)、備中・備後国境の川辺川(高梁川)より名護屋まで36町=1里とする一里塚の構築などに言及した道程記録)の方も山手の三宝寺から小早川の居城まで8里〈31㎞、但し1里=36町〉共に里程を268町としていたが、この数値が尾道経由と三成経由のいずれに合致するか、GoogleEarthを使った簡易実験してみよう。うん?・・・・・◎▽。やや三成経由のルートを想定した方が近道となり誤差が大きくなるようだが、大差はなさそう。
・・・・なるほどなぁ
ただ、秀吉の島津征伐に参加した天正15年「楠長諳(ちょうあん、楠木 正虎:1520年 - 1596年)下向記」によると小早川の居城下の「ぬた(沼田)」から尾道経由で備中井原に至っており。当時すでに寛永10年巡見使備後国絵図記載の西国街道は秀吉らが島津征伐からの帰還時に使っていたルートと同じものであったことが判る(九州史料刊行会編『近世初頭九州紀行記集』、九州史料叢書、昭和42、105頁)。

文政期の尾道宿本陣笠岡屋小川家屋敷の場所


所詮は日本地図を虫眼鏡でのぞかなければわからないような備後地方の小さな村でのお話、お話でした

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