- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

背景から主題へー今津山の風景ー

2016年11月30日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
現象学では図(主題、Figure)と地(背景,Ground)との入れ替えを問題とする。例えば・・・

モノクロ画像だが白を背景とするか、黒を背景とするかといった観点(Viewpoint)の差異が図の見え方を180度変えてしまうという訳だ。黒に注目すると白部分は背景化され、対面する二人の顔を描いたイメージということになるが、逆に白に注目すれば黒部分は背景化されお洒落な壺にしか見えないイメージになってしまう。現象学は真理を棚上げにして事象とか事物の、したがって事実それ自体の相対性ー対象は観察対象と観察者の観点如何によって如何様にでも変わってくる式の優柔不断な論を強調するきらいがあり、こまった思考モードではあるのだ。やはり物事には正誤・真偽・虚実の間に明確な境はあるし、またそれが必要だ。


ただボーっと眺めるだけの風景は全体が生活空間の中の背景(意識されない、ふつう見過ごされる対象)にしかすぎないのだが、風景の中に名前・呼称が付与されるとたちまち自覚的に意識の中に立ちあらわれてくる意味を持った対象へと変身するのである。このように今回例示したような名称・呼称の内容はそうした意識の在り方に一定の方向性を与えてしまう。

こちらの写真は松永・上之町から北方を見た、何でもない何処にでもあるような風景だが、わたしが注記を加えたことによって、これからはその風景(あとで紹介する風景図屏風との関係でいえばわたしが文字注記をいれた次の風景写真はもう一つの「風景図屏風」といえるもの)が生活空間の中の「地」から「図」へと転換され同一風景に対して見る目が(個人差はあるかもしれないが)これまでとは大きく異なってくるはずだ。この変化は先述した背景から主題への変化と論理的には同じことなのだ。

グレー色の点滅する山地部分は今津町の翠峯会が管理する町有林(数年前に山火事で大半を焼失。現在は植林中)


本郷森林公園の山上駐車場(松永・上之町から見えた山の山上駐車場)から第八鉄塔へ徒歩15分の地点(Y)から見た松永湾の風景。
その美しさは瀬戸内海という多島海と松永湾という封鎖性海域が紡ぎ出したまさに奇跡の風景なのだ。


屏風絵の注文主の意図を反映した形で絵師によって美的に再構成された松永湾の風景
美的に再構成する方法は①当時の絵画の伝習的方法に即した形で、②漢詩の中で詠まれた遺芳湾を10or12(「遺芳湾十勝詩」「遺芳湾十二勝詩」)に分節しそのシーンを名勝・名所という詩的カテゴリーに合致(多くの場合不完全な形で合致)する形で形象化するというものだった。
看過してはいけない点は作品化されたこの種の漢詩や名所絵は一旦公開されると、こんどは逆に現実の風景(例えば松永湾岸の風景)を見るときのフィルター(あるいは準拠枠)のようなもの、前に使った言い方をすれば意識の在り方に一定の方向性を与えるものとして多かれ少なかれ作用するようになっていった(or いく)という部分だ。
松永稲荷神社から高須・山波方面

潮崎神社から藤江・浦崎方面・・・・浦崎半島の突端・戸崎のシーンは梅()が満開、高須沖の松永湾には水鳥(渡り鳥)が飛翔する季節としては初秋以後の風景を感じさせるという風に(春夏秋冬を描き分けたり、特定の季節を念頭に描き切ってるというよりも気ままに)雑多な季節性を混在させている。
この風景画研究を通じて松永湾岸がこのように描かれたその時代的・社会的特質といったものやこの絵の中に投影された屏風絵の注文主を含む作成主体の在り様が透かし見えてくるように思われる。
屏風絵の注文主を含む作成主体という事でいえば、例えば藤江・山路氏や浦崎在住の笠井氏など松永湾をこのような構図で、しかも松永村の鎮守さんである松永・潮崎神社にスポットを当てるような屏風絵は間違っても注文しないだろう。
ありのままの風景というのは背景→主題(背景の主題化)という過程の中で無意識の政治性というか自己中心的な意識(たとえば屏風絵の注文主の有する自分勝手さ)が投影されるものなのである。その辺の見極めが歴史研究(史料批判段階)においては必要となってくる。

安政4年 松永湾風景図屏風(福山城博物館蔵)

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野ざらしのガラクタたちー通りすがり民具館ー

2016年11月30日 | 断想および雑談
珍しい民具類を見かけた。農林水産・運輸交通関係、生活雑器類などいろいろバラエティーに富んでいた。

ジャンボな甕(かめ)・壺類は圧巻だ。











見て呼称・名称の判るものもあれば解らないものもある。


龍吐水(江戸末から明治期の消火業務用水鉄砲)














今津吾妻橋西詰めにあった粟村七兵衛さん経営の醤油醸造「粟村本店(カネダイ)」の壺があった。ここは昭和20年代の終り頃、連帯保証人になっていて倒産した。七兵衛さんが倉庫入り口のコンクリの上に座って泣いていた姿は私の目に焼き付いていてその光景は今でも脳裏に浮かぶ。
【メモ】柿渋屋三島(儀):屋号「カネギ」ら数名の若連中が戦前雨乞い神事で県北の三井野が原の例の場所に<聖水>
を取りに行ったらしい。戸田憲慶先生の話では一行は振り返ることをタブーとし、急いで今津に帰る途中、幸い降雨があったとか。カネはカネ尺のカネで、カネ+屋号に頻出。



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社会史の史料としての墓石たち

2016年11月29日 | 断想および雑談




松永を代表する製塩業者の一つだった浜・大木屋岡本家(岡本総本家)の墓地。明和期の大きな墓石を一基残し、あとはすべて撤去されている印象だ。この寺の墓地ではこういう墓石の整理方法が進められている感じ。

系図(典型的な偽文書・・・大職冠中臣鎌足を祖する)には先祖は山南庄荘官とあったが、岡本さんだという80歳くらいの男性から聞いた話では沼隈町出身だということだった。ついでにご先祖のことを質問したら過去帳を見ないと解らないという話で、最近墓地の整理が終了し胸のつかえが取れたといった雰囲気だった。大木屋の御当主(若い塾経営、ご先祖が松永を代表する製塩業者だったという話は親からほとんど聞かされなかったとのこと)の方にあったが、分家には松浜屋(自動車学校南)、松島屋(エブリの隣)、大松屋(旧中外となり)、松井屋など色々あるようだ。大正町歯科医院岡本も一族。


同上、大松(おおまつ)屋岡本家の墓地・・・・・山陽鉄道の建設により、塩田経営が困難となり製塩過程での不要物を原料とした新規事業に着手し岡本一族が中核となって松永製薬所(のちの中外製薬松永工場)を創業。判るのは第五代に当たる同志社英学校卒の岡本織之助以後。




大松屋→松浜屋に分出。岡本一族の中では岡本織之助(大松屋)・岡本脩吉(大松屋の次男で松浜屋を起こす)・岡本勝(屋号は調査中)ら


村上亀吉家の家族の死亡状況

亀吉は奥さんが大正3年旧暦6月、子供たちが大正8-9年に3人も亡くなっている。旧暦6-9月なのでインフルエンザではないかもしれない。結核かコレラやチフスか・・・・死因は不明だが、家族が感染症を発症し相次いで亡くなるということがわたしの知る限りでも、当時はよくあったようだ。


家族全員が死亡した佐藤茂吉一家の悲劇。

身寄りのない静代は上下町の角倉家に奉公に出され、そこで亡くなったようだ。上下角倉家の出身者に我が国における代表的な音楽学者(東京芸術大学、バッハ研究)の一人角倉一朗がいるが、この一朗の父親(内務警察官僚・在家禅の師家角倉蘿窓)は静代のために立派な供養塔を寄進している。


お墓のおひっこし・・・・首都圏にいる子孫のもとへ骨壺を移動させる工事中。墓じまいが急速に拡大するご時勢だ。お墓の主・大村軍太は静代の後見人的な役割を果たした人物だった。


今回紹介した「岡本織之助」は松永塩業史の中に製塩から製薬というアイディアを持ち込んだ人物として重要である。岡本織之助は高島平三郎とは共に長谷川櫻南の浚明館で学んだ仲だったようで、高島の顕彰碑が神村須江に建立されたときは松永町の住人では唯一お祝いに出向き大東坊の那須師・得能正通共々記念写真に納まっていた。
製薬と言う面で言えば松永湾一帯では備中売薬などの置き薬の売人たちが出入りしていた。沼隈郡今津村の長波屋三藤氏(傳助、現在子孫たちは大阪在住)は丸薬の製造、丸薬製造機械の発明を行っていた。三藤六平の時代には明治25年段階に長信稲荷(備中最上稲荷神を勧請)の社を造営し、その神官に収まっていた。この神社の氏子には今津村の長波地区の住民が多かった。かれらは三藤氏が製造した薬の、薬売りの行商人を兼ねていたのだろうか。わたしの時代は富山の薬屋の置き薬、いまの我が家には常盤製薬の置き薬が・・・・

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石井四郎三郎と石井保次郎の屋敷地番

2016年11月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報


台帳(明治26年の墓籍簿)に記載された事項を墓石で確認して見た。
石井四郎三郎の次男台造と友三郎長女秀子のお墓


塩浜稼(人)粟村仁助、浜旦那=製塩業石井保次郎(通称「下の浜」)




客船業者平櫛吉太郎墓

松永銀行・松永製薬所・松永賃貸株式会社など取締役を務めるなど地方の実業家として活躍した石井保次郎の墓。字柳ノ内の南端部の宅地・農地を一円的に保有した家主・地主だった。長和島北端部の松永高女(その前は松永高等小学校)敷地も石井猪之助(東村の「大石井」)・保次郎(その分家の益田屋)の塩田のあったところ。


明治15年当時の囲碁愛好家たちの中に、石井グループ以外で、今津の平櫛吉太郎・三島治平の名前も。

三島は〇官吏(嘱託)として明治19年に田畑地積の丈量作業や田野取帳の整理業務を行っていたようだ。住所は今津村189番屋敷だが、河本英三郎作成今津村住宅図によると薬師寺山門直前に三島治平屋敷(1319番地)が図示され、いまも子孫が住む。




やや小ぶりな墓石を2基見つけた。夫婦墓(大正9年6月に妻シカが、その半年後に孫娘澄江が死亡、自らはその2年後に71歳で殁)とその横に子供墓が。


過去に関する説明変数を一つ追加・・・・この史料中に治平の妻と孫娘の名前を見つけた。三島家の墓石を見ると基壇は「大島石」、戒名を入れる柱石には上質の「庵治石」。この墓地ではこういう形で異なった材質の石を使った墓石をよく見かける。

墓籍簿分析を進めるうえで今回の発見は一つ入り口にはなろうが、最近は墓じまいは進み、三島治平家の墓地の隣にある三成屋山本家分家(=義人家)の墓石は2022年11月にすべて東京へ。治平家の子孫の墓石はここにはなく、社会的流動性が激しくこの方面からの社会史研究は困難に直面している。

 

 

 

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酒・醤油壺たちの一人語り

2016年11月22日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
明治・大正期には禁酒運動が盛んに展開されたが、松永地方の富裕層たちは製塩業・高利貸し・酒・醤油の製造業に乗り出していた。木履業の発展は塩田の沖合域や海水を引き込む入川一帯での貯木場の拡大を惹起したし、製塩業は近世末以後、石炭火力を利用し、石炭滓捨て場を塩田の沖合・天保山を中心に利用しつつ、かつ松永地区の(田畑・塩田と宅地転用するときの)埋め立て用土として活用された。石炭滓捨て場の拡大と貯木場の拡大とはかねてからの懸案事項であった悪水の流入問題ともども良質の海水を必要としていた松永塩生産にとってはマイナス要因として作用していたはずである。 参考画像)濃縮鹹水を煎熬(せんごう)する施設:松永塩田の”炊塩場”=塩屋

参考図(白〇は下駄工場などの木材加工関係の事業所を単に例示しただけのもので、もとより正確な分布図ではない) 

埋め立て用土として利用された石炭の燃焼かす(採取地点:大松屋岡本宅の北隣・・・・・一帯は明治維新前段階から宅地化されていた処であり、その埋め立て土としてこの種の石炭の燃焼滓が使われたことを示す


木履業は明治ー昭和初期にかけて問屋制手工業から機械工業への移行形態を呈しつつ、多くの都市下層民(借家)を誕生させた。これは製塩業における「浜子(塩田労働者)」たちの問題ともども看過すべきではないこの地方における19世紀ー20世紀前半(社会)史の現実だった。
労働者たちにつかのまの慰労と快楽を提供したのが一つには飲酒だったわけで、その楽しみを提供したのが以下で紹介する骨董品(むろん当時の酒造メーカー)だったわけだ。

「大王」は長波の麻生七右衛門次男・麻生唯右衛門経営麻生酒場(山北に工場)の清酒銘柄。麻生は石井憲吉と組んで花筵製造から仲買に転じ、廃業後は大阪にて株取引を。大正期には一儲けして、帰省し、醸造業を開始、昭和17年には戦時中の企業整理などにより廃業。以後は酒類販売業に。九十九酒場は松永中之町九十九巳之吉経営(明治33-昭和13、銘酒:さつき心)、「幸鶴」(大正8年創業、松永酒造、昭和15年広島市の富士谷盛夫に経営権を譲渡)は丸山茂助ら経営の酒造メーカーで、ここの監査役に岩淵万吉ら。川本酒店(販売、のちに転業し松永貨物)は昭和初期に今津・油屋川本家(昭一)経営。「今津中郷」銘は坂本屋醤油。「赤壁酒場」は石井四郎三郎経営の酒造メーカー(銘酒:菊水)。大正3年穀蕃社倒産後は経営者は明治11年より「遺芳正宗」という名前で清酒を醸造していた柳津の渡辺巻助に交代(大正13年廃業、赤壁酒場一帯の地下水自体はカナケ水。石井はコスト計算抜きに醸造用に灘の宮水を移入していたもの)。なお、最下段の醤油壺は松永駅前・三島商店のもの。酒造業としては比較的最近まで神村町宮前(西福山病院北側・・・この一帯の井戸水はカナ気水で飲料用には不適)に北村氏経営の「菊大王」があった。


石井四郎三郎経営の浚明館跡一帯に本郷・佐藤武助が開業した醤油屋。


吾妻橋の西詰に昭和20年代末まであった粟村本店(粟村七兵衛経営の「カネダイ」醤油)の壺。







松永西町出身の企業家たち。
入江屋は石井四郎三郎、吉井は石井憲吉、菰会社は松永菰合資会社(明治39~、岡本織之助)のことか。「下の浜」は石井保次郎(益田屋)・・・・・今津・柳ノ内に1町歩超の不動産をもち、鞆往還筋には商業を営む借家、それらの背後には多くの裏長屋を保有した製塩業・金融業など手広く事業展開(東村・「大石井」の分家筋)、森下商店(酒類販売)は森下民助、胡屋は岩淵好兵衛・万吉父子。ともに元来は石井保次郎の借地(後には宅地を買収)で商売を開始した。「中浜」は製塩業者の井手。「本多」は本多藤橘(本多徳兵衛との関連性についてはもっか確認中)、「内海」は末広町(字小代の上)の旧家(旧末広座敷地の持ち主。ただし、元禄検地帳中の「五郎三郎」の子孫にあらず)。同じく末広町・森谷は米穀販売(明治以後、備中・井原より転入)。


松永地方における明治初期のジェントリー(gentry:郷伸)たちを含む囲碁愛好家たち


【メモ】
酒販売店の酒壺(今津柳町・佐野酒店、今津・町の市川店・川本酒舗)






柳町とは鞆往還の吾妻橋東詰めの出発点辺りに形成された、字・柳ノ内の町場化した部分の呼称。その続きが末広町(松永町分に末広座が立地)。
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岩淵好兵衛

2016年11月18日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

矢野天哉の注解が参考になる。俳人であり郷土史家(元村長)経験者という情報提供者の書き残したメモ。勘違いとか思い違いが混入している可能性もあるので真偽・正誤のチェック(史料批判)は欠かせない。

さっそくの史料批判:矢野天哉の注記だが、「嘉永以前」ではなく、典型的な、明治の地図史料だ。何となれば筆跡・図法(角筆の入れかた)、図中の登場人物(たとえば政右衛門は明治の人、石井保次郎もしかり)、記載内容は明治の野取帳のそれとほぼ同じもの。
その他、気づいた点。楮の薄紙にかかれたもので松永分の町家なども書かれている(正式な行政史料であれば松永村分の町家とその所有者名を記載するはずがない。その点では本図の場合はその両方がある不思議な地図史料だ。)。別史料(たぶん台帳)との記載事項の照合確認印が押されている。




多数の借家をもち、かつこの地方の代表的な中小地主だった重右衛門の地租が好兵衛より少額だったとは


胡屋とあるのが岩淵好兵衛ー岩淵万吉の家(家紋入りの塀をもつ岩淵家墓地)。明治初期の居宅は「まねき」の隣、現在矢曽さんの居宅となっている場所にあたる。昭和25年岩淵智子が松永南駅前に潮香園開業(結婚式場として利用された料理旅館、現在マンション)。

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史料調査  安毛編

2016年11月18日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
分析をしながら史料撮影だったが、1600カット程度撮影した。朝10時過ぎから開始し、13時頃には概ね完了。すこし、遊び(若木屋文書の一部の撮影作業)をいれて4時ごろ帰路に。

阿弥陀堂と矢捨会館の前の溜池に注目してみたい。


野取図では金堀堂下池と呼ばれているもののようだ。阿弥陀堂下池でないところがポイント。この辺の疑問点を解決していくところから研究というものは始まる訳だ。


野取帳では2359番地。北側に寺池という注記がある。場所を定位するためのものではなく、溜池の呼称のようだ。この溜池の南~西側には土揚場。土揚場に注目すると野取図のいう金堀堂下池=寺池のことのようだ。



南・・・「池」とある注記の「池」とはここでいう金堀堂下池のこと


簡単な史蹟図(非公開)を制作しておいた。


バイパス工事によって旧安毛荒神の境内境外は消滅。現在は2399番地喜右衛門屋敷(屋号「おどりば」)の北隣に神祠が建てられている。


安手四ツ堂跡(消防団倉庫)


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汐廻し

2016年11月15日 | ローカルな歴史(郷土史)情報






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武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41

2016年11月07日 | 高島平三郎研究
尊敬する人々の中に、高島平三郎・徳富蘆花・三宅雪嶺が挙げられている。
武者小路は高島には興味はなかったが、兄貴の影響で強制的に高島邸で開催された「楽之会」に15,6歳ごろから作家としての駆け出し時代を通じ10年程度毎回出席していたようだ。
実篤の兄貴公共は終生、学習院初等科一年のクラス担任だった高島の、高弟であることを名誉に感じていたと述懐している。それは公共の弟である武者小路実篤にとってもそうであったはずだ。多少、つむじ曲がりのところがあった弟武者小路実篤は兄貴公共に関して自分との違いをいろいろ挙げているが、東大中退の時もそうだが、兄貴の了解を取り付けるなど母子家庭で6つ年上の姉も3歳の時に失うといった身の上の置かれた実篤は、若いころ、いろんな意味で兄貴の影響下にあった。

実篤はトルストイ一辺倒で高島の思想には興味を感じなかったらしい。とはいえ、「新しき村」運動は楽之会で受けた感化が契機になったと語っている。そういえば洛陽堂はこの当時盛んに「都会と農村」に関して、天野藤男らを動員して田園再生をテーマとした書籍を多数刊行していたなぁ。武者小路自身は「あたらしい村」運動はトルストイや半農生活を送っていた母方の叔父勘解由小路資承(すけこと)の影響から始めたというような印象の文章を『自分の歩いた道』の中に残していたが・・・・。


武者小路実篤『思い出の人々』、講談社現代新書65、昭和41はその後、『作家の自伝7―武者小路実篤―』1994に所収されている。


これらの本(中古品)はアマゾンでも比較的安価に入手できる。武者小路実篤全集・第十五巻を底本とした『作家の自伝7―武者小路実篤―』の方は武者小路の年譜・編集者による解説付で便利。


「楽之会」の言葉の由来は論語の『子曰、知之者不如好之者、好之者不如楽之者』(子曰く、これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず)からきていることに言及にこの年になってその意味が解るようになったと書いている。

意味
あることを理解している人は知識があるけれど、そのことを好きな人にはかなわない。あることを好きな人は、それを楽しんでいる人に及ばないものである。

武者小路の意識の中には高島平三郎からの教えを自らの中では欠落した実の父親に関する記憶&実父からの教えにも匹敵するものとして享受しようとするものがあったのでは・・・・。

高島が信用できる人を呼んで講演させた
②(自分は)高島さんに敬意を感じている。
③好之者不如楽之者の境地に入ることの本当さ(武者小路にとっては本物・本当というのは最大限の賛辞)を老いてますます感じている。
これらの武者小路の言葉からも高島に対する尊敬の念がいかに大きかったが判ろう。武者小路の漱石や露伴に対する感情と高島に対するそれとはまるで質が異なる。武者小路という生命に大きな感化を与えたのは高島だった。
『思い出の人々』は昭和41年、実篤81歳時の作品であり、わたしには人生の晩秋に語られたその述懐には大きな質量(=真実味)が感じられる。

新しい村をはじめ僕の家で「村の会」を開いたのは高島邸で開催された楽之会の影響。そういう意味でも高島さんの僕への影響は無視できないとも書いている。
なお、河本亀之助に関しては楽之会で同席した洛陽堂主人に雑誌白樺の出版を頼んだという下りで触れられるだけだった。河本亀之助に関しては『作家の自伝7 武者小路実篤』所収の「自分の歩んだ道」においては”はげ頭の人の好い洛陽堂の主人はいまも懐かしく思い出す”という形で紹介されている(36-38頁)。雑誌白樺が洛陽堂刊として出版されるようになって予想外に売れたのは河本の営業努力(新聞記者に出版情報を流したこと)の賜物だと武者小路は少しく感じていたか・・・。

武者小路実篤の人柄(心配性タイプの無頼漢)がよくわかる一文。


今回取り上げた話題に関する詳細は他日を期したい。武者小路とか志賀直哉の自伝に興味あるかって?
こういう作家連中の人格・人間性に関してもともと興味がない。
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11月例会

2016年11月03日 | 松永史談会関係 告知板
11月例会は11月21日(月曜日)、朝9時半、黒川さん宅前集合




この文書は巻子本。継紙部分の裏に黒印ありとあるが、なお、神村(神村八幡の氏子圏に対応)分に当該氏子圏外の今津が入っており、要検討。



井手上姓に注目。近世初頭の「いての上」地名ゆかりの呼称だ。


①は2399番地(佐藤宅・・・屋号「踊り場」) 現在の神地(赤→)




現在の安毛(矢捨)荒神、踊り場・佐藤さん管理。文化期制作の常夜灯は高諸神社境内の荒神さん前に移動。


「水野記」の中の川東とは関連記事

山下地区の霞堤



西町回遊
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