- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

丁酉倫理会

2014年05月31日 | 断想および雑談
丁酉倫理会(以下全文引用)
◆概要
□「日本で最初の倫理学研究会。1897(明治30)年に姉崎正治・大西祝・横井時雄・浮田和民・岸本能武太らが設立した丁酉懇話会を母体として、1900年に発足した。「保守的国家主義に対して人格主義を主張し、宗派争いや神学や教理論争以外に人間の道を求める」(姉崎)★をモットーとした。月1回の研究会や講演会を開催し、さらに全部で535集にも及ぶ講演集を発行した。02年の哲学館事件では罷免された中島徳蔵の弁護をするなど、穏健な立場を維持していた。47年(昭和22)に解散したが、会員の多くは50年設立の日本倫理学会に引き継がれた」(日本思想史辞典[2009:674])
 ★姉崎正治「思想家としての大西博士の人格」『丁酉倫理会倫理講演集』340集、1931.

▼参考文献
■宮川透、1980『日本精神の課題 〔新装版〕』紀伊國屋書店.
▼参考文献引用
□「その「趣意書」には(丁酉倫理会「趣意書」:引用者補足)つぎのように謳われた。「道徳の大本は人格の修養にあり。忠君愛国は国民道徳の要素なりと雖も、而かも人生の本然に稽へて其自覚心を覚醒し其衷心に訴ふるに非ざれば、恐らくは生命ある活動を庶幾すべからざむ。」この文章は《修養》思想台頭の背景とその思想のあり方を考察する上できわめて示唆に富む」(宮川[1980:135])

□「それ(丁酉倫理会「趣意書」:引用者補足)はイデオロギー的には国家権力による忠君愛国思想の国民への注入に呼応する姿勢をしめしながら、しかしそれを単に受注するだけではなく、「人生の本然に稽へて」国民個々の《自然支配》の自律的要求へと切り換えていこうとする日本の知識階層の姿勢を示しているという点である」(宮川[1980:137])
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高島平三郎講述「犯罪人の心理」、海軍省教育局 昭和9年

2014年05月31日 | 教養(Culture)
丸山鶴吉を刊行責任者として出版された『高島平三郎教育報国60年』には福山市神村町民(教え子など)が多数登場する。高島は小学校教師の出発点となった神村町12区須江漢詩では陶を常用)時代の思い出によく言及している。
本冊子(講演録)でも「高島先生景慕之碑」の建碑式出席のため52年ぶりに訪れたこの地区の話題(村内には盗難事件など見られず、通常民家では施錠しないことに関して、自分がカギを掛けないと危険ではといった話を口にすると村民から笑われたといったエピソード)を持ち出している。







第三 罪の原因 生活状態(地域性のこと)に関連して犯罪と土地の風土=自然環境の関わりに言及している。地理学でいうところの環境決定論的な説明:土地の形状は文化の発達を制限し、犯罪発生に影響する/ヨーロッパの南北間の国柄の違いが犯罪の形態にも影響する/日本のような中帯にある国は夏は人身に関する事件が冬は財産に関する犯罪が目立つといった内容だが、山間住民は素朴で剛健だが、残忍な事件を招きやすいのに対して
平野・平原の民は闊達敏捷でよいのだが、軽佻浮薄な面があって詐欺窃盗のごとき狡猾な事件を起こしやすい、と。こういった部分は疑義が出やすいかもしれないが、全体としては非常に平明でかつ理路整然としたもので、井上哲次郎が高島を評したように”常識(中庸)”をわきまえた、現在読んでも、高島の見識の高さ、人間性の豊かさを感じられる水準の高い優れた内容の講述本となっている。


高島の心境は「罪の人世に多からばせめて唯、おのれ一人は正からなむ」という言葉に集約できるとして、自らはこれを座右の銘として子供や学生たちにも教訓として伝えているとか。また、かかる自分のささやかな思いを共有してくれる人が聴衆の中から一人でも現れてくれたらありがたいと結んでいる。
どうも高島は”心的革命”(たとえば善への覚醒といった一種の道徳哲学的命題)を生涯にわたって訴え続けてきたようだ。

当時高島は我が国最高の説教家の一人であった訳だが、ざっと通読してみて私自身本冊子から大いに感銘を受けた。高島は犯罪者の社会復帰に関して生涯をささげたある日本人(原胤昭)のエピソードを比較的詳細に紹介しているが、高島の社会的弱者に対して向けられた情け深さは高島の薫陶を受けた丸山鶴吉の生き方にも受け継がれていたように思われる。

沼隈郡神村(福山市神村町)の陶という場所は明治14年9月-16年3月(平三郎14-16歳)までのわずか2年間の滞在ではあったが青年教師高島を大きく育てたところだったんだな~。


犯罪心理学
古川, 彩二「デュルケムの犯罪論と刑罰論 : 社会的世界のドラマトゥルギー」同志社法学46
pp.345 - 376 , 1994-11-30

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「松永塩業史・文化史の研究」(昭和48)の著者石井亮吉の思い出

2014年05月26日 | 教養(Culture)
石井亮吉は新制中学校の教師だった。退職後松永図書館館長をしていた。わたしが石井にあったのはその館長時代(昭和45年8月松永へ帰省した期間)で、ここにはこんな巨大な塩田地域の近世図面があるといって折りたたまれたその図面を見せられた(『沼隈郡松永村古図』福山城博物館、藤井高一郎寄贈という古地図だった)。大学生のころの話だ。その時、自分は松永塩田の本を書いているといって自宅に来るように言われ、ぶ厚い原稿用紙の束を見せられた。厚さ6,7センチ位はあっただろうか。そこは西町の踏切近くの小路を少し入ったところ(@字地蔵畑、237-18番地の現在は上田某さんの住宅が立地)にあった。
そして見せられたものが『松永塩業史文化史の研究』の原稿であったことは随分後に知った。かれは図書館長を昭和46年にはやめ、翌年には没している。石井亮吉墓のある入江屋石井一族墓
我が家の墓地の近くなので時々亮吉先生の墓地にもお参りしている。娘さんは藤江の藤原家に嫁いだという話だが、そこから先は不知。



肖像写真の通りの気難しそうな印象の人物だったが、実はとても親切な御仁でわたしの忘れえぬ人物の一人だ。奥付の沼隈郡西村は現尾道市西町ではなく尾道市西藤町が正しい。


石井は高島平三郎と長谷川櫻南との関係を具体的に記述している。高島の漢詩は櫻南仕込みだった。高島子信は平三郎のことだ。ここに掲載された櫻南の漢詩について石井亮吉は高島が長野師範学校の教師に転勤したのを祝って送ったものと解説しているが、これは誤り。
高島が長野師範に行くのは明治29年の話であって、櫻南の死後10年以上も後のことだ。この漢詩は櫻南の存命中の事だから、多分、明治17年9月1日付けで金見小学校の訓導兼校長(平三郎18-20歳)に栄転した時にそれを祝って作られたものだろ。神村須江分校勤務時代以来発揮された20歳に満たない青年教師高島の才能、人柄の素晴らしさに櫻南がいかに大きな敬愛の念を抱いていたかが伝わってこよう。櫻南は平三郎の父親賢斎に対してもその教養の高さを賞賛していた節がある。河本亀之助青年は須江分校経営で見せた平三郎の手腕に魅せられて高島のもとを訪れることになったようだ。明治18年に撮影した西川國臣家所蔵の、高島ら当時の青年教師たちの写った銀板写真を見たことがある(その複写版は誠之館高校同窓会資料館にわたしの方から寄贈済み)。

松永を土地柄として理解する場合は町勢要覧の拡大版たる得能正通『松永村誌』明治24年刊や村田露月の『松永町誌』、昭和28では完全に欠落した部分がある。それは古き良き松永がもつ独特のAtomsphere,Feeling and Moodだが、それを理解するには石井亮吉『松永塩業史・文化史の研究』を読むに限る。わたしは最近入手したところだが、内容的には誤解・誤認の類が散見されるも旧松永市域史研究の出発点となる貴重な書物だ。製塩業者ら富裕層が三都や近在近郷の文化人との交流の中で形成した近世近代における地方町松永の文化政治、文化経済的特徴の一端を知ることができる。

本書には塩業者石井四郎三郎のこと、その孫の石井竹荘のこと(昌平黌出の長谷川櫻南を招請し明治16年漢学塾浚明館を建てた、漢学塾は櫻南が門弟の持ち込んだ大鱸:おおすずきの刺身を食べ、それがもとで明治18年初夏にコレラor チフスで病死後閉鎖→漢学塾のあと明治20年にはここへ後の松永尋常小学校が移転してくる)、長谷川と松永小学校の教師:高島平三郎のこと、高島と永井潜とのエピソードなど簡単ながら紹介が行われている。

石井亮吉は姿形が京大文学部の織田武雄先生に似ていた。

石井は大正2年度松永尋常小学校卒業写真に写っていた。入江屋石井家が没落するのが翌年などでその前年の写真だ。
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東京市市議選推薦状

2014年05月25日 | 教養(Culture)
丸山鶴吉関連の一枚の資料。ここでは本資料がいつどのような時代状況の中で出されたものかを調べてみる。


A)何時作成されたものか。

推薦人の井上準之助は昭和7年(1932年)2月9日、選挙への応援演説に向かう途中の道で小沼正により暗殺された(血盟団事件)。
鶴見祐輔は後藤新平の女婿。岡山県出身だが、内閣拓殖局、鉄道省運輸局総務課長を経て、1924年に退官。その後、1928年の第16回衆議院議員総選挙に旧岡山1区から無所属で立候補して衆議院議員に当選。小山邦太郎らとともに明正会結成に参画。1930年の第17回衆議院議員総選挙に落選したが、1936年に選挙区を旧岩手2区に移して立憲民政党公認で第19回衆議院議員総選挙に立候補して当選し、政界に返り咲く。

丸山鶴吉は大正15年に東京市第一助役。朝鮮総督府勤務時代は斉藤実に仕え、内地に帰ってからは後藤新平の世話になった。昭和4年浜口政権(1929年(昭和4年)7月2日から1931年(昭和6年)4月14日まで続いた日本の内閣である。)下で警視総監。
後藤文夫は内務官僚だが、1928年(昭和3年)6月 台中不敬事件で台湾総督府総務長官を引責辞任。
鈴木喜三郎(政友会総裁)は前内務大臣とある。大正13年(1924年)、清浦内閣の司法大臣として入閣したが、これは関係なくむしろ昭和2年(1927年)、田中義一内閣が成立すると内務大臣として入閣した。ただし、1928年5月4日より田中義一が内閣総理大臣兼任で内務大臣を務めた。
あたりが本推薦状の作成時期を考えるうえで決め手になる。つまり、鈴木の肩書きから1928年5月4日以後の「2月22日」だ。鶴見の肩書きが衆議院議員なので、 1930年の第17回衆議院議員総選挙以前。
以上のことから「1929年2月22日」と推定できるだろう。
正しく、市議選の選挙結果は
1929年3月市議選結果のとおりだった。



2)どのような時代状況の中で作成されたのか(予察)。


帝都東京の近代政治史 : 市政運営と地域政治

櫻井良樹 著


1889年の東京市成立から1943年の東京都誕生までの市政運営の変化を、各種選挙に現れた議員と地域との関係、市政執行機関と議員との関係を中心に、国政史の展開も交えて分析する。

「BOOKデータベース」より

[目次]
第1部 明治・大正期の市政構造(戦前期東京市における市政執行部と市会-一八九〇〜一九二〇年代
明治後期・大正期における東京の政治状況と公民団体-市内における選挙状況の変化を中心に
公民団体に関する二、三の史料-規則と区史類の記述
公民会の誕生と一八九〇年代における東京の選挙-公民団体と地域政治秩序 ほか)
第2部 普選期の市政構造(伊沢多喜男と東京市政-「政党市政」の誕生
一九二〇年代東京市における地域政治構造の変容-議員の地盤変化を中心にして
一九三〇年代の東京市政と地域政治-政党対立の激化と市政刷新運動
選挙粛正運動と東京市における町内会-地域政治秩序は変容したのか ほか)




この1929年の市議選では、市政への政党勢力の関与が批判され、「市政刷新」がさまざまな勢力や団体によって叫ばれたうち、「最も注目される」ものとして、「かつての東京市長経験者である阪谷芳郎や後藤新平などを代表として、市政調査会が中心になって呼びかけ組織された市政問題対策協議会」を取り上げている。
 この市政問題対策協議会の運動は、「のちの内務省主導の選挙粛清運動に繋がっていくものであり、この点で1930年代における政党勢力と官僚勢力との対立を先取りしたものであったと位置づけることもできる」が、この時点では「まだ政党勢力を凌駕するまでの力」は有していなかったようだ(桜井 良樹「帝都東京の近代政治史―市政運営と地域政治」、2003、日本経済評論社)

月刊誌『都市問題』
1928.11  第 7 巻  第 5 号
論文
東京市会解散是非-市政問題対策協議会委員会に於ける討議/市政問題対策と市会解散問題
著者
阪谷 芳郎/ほか出席・サカタニ ヨシオ

1928.11  第 7 巻  第 5 号
論文
東京市政の粛正/市政問題対策と市会解散問題
著者
阪谷 芳郎・サカタニ ヨシオ

推薦を受けた塩月(麻布区)はこの選挙では1700票を集めトップ当選した。 修養全集などの中で立志奮闘物語が愛読された時代を感じさせる”青少年時代より苦学力行し、今日を築いた意志堅固の志”というアピールが、やはり功を奏したか。
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「俳人一茶の眼に映じたる児童」ー高島平三郎の一茶俳句考ー

2014年05月20日 | 断想および雑談
高島は長野師範の教員時代に小林一茶の旧宅を訪れたことがあるようだ。
「児童研究」一巻3号(34-39頁、明治32年)の中で一茶の俳句の中に読まれた「児童」を高島は丹念に拾い集め一茶の子供に向けられたユニークな眼差しを浮き彫りにしてみせる。正岡子規は一茶俳句に関して「滑稽、諷刺、慈愛」の3語でその作風を評している(明治30年「俳人一茶」)のだが、高島の感性の豊かさ,センスの良さにも拍手

この論文を読んで、後年文学作品を通じて児童を研究する高島の出発点と巡り合えた感じがする。






これは教科書・教育現場サイドからの一茶受容の最初期のあり方を示すものではないのか。
高島は一茶が子供らに向けた美的眼光の素晴らしさと同時に、一茶を引き合いに出しながら教師や父兄たちに求められる子供に対する模範的な一つの接し方・眼差しのあり方を示唆していた。

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風景と肖像ー高島平三郎を捉える一つの視角ー

2014年05月17日 | 教養(Culture)
たまたま見つけた高島平三郎の「幼児の早熟と神経過敏症とに就いて」、児童研究20巻3号。
高島の児童観・人間観は「強健な人体があって初めて、知識がそれに伴う」という古典的なしかしまっとうなものだ。したがって物理学者ホーキンスや画家のダリなどは高島の基準に照らし合わせていけば大逸脱の人物たちだが、平均的に高水準の秀才より一芸にひいでた人物をという向きには高島の見解は優等生すぎると感じるかもしれない。
私自身は?


ノーベル賞受賞者山中伸弥氏は学生時代はラグビーをやり、いまは趣味でマラソンというから、やはり文武両道に優れた人がいいと思う。しかし、「不具な天才より健全な常識人」だけを目標に子弟教育するというのは高島の人柄のしのばれる高島らしい見解だとも思う。
高島平三郎の直系卑属を調べてみたが、平三郎の長男文雄ー文雄の長男信之はいずれも東京帝大・東大卒の弁護士だが、二人ともアマチュア・スポーツ界の重鎮となった人たちであった。平三郎が提唱した「健全な常識人」というか文武両道の精神は高島家の人々(子や孫)にしっかりと受け継がれていたことがわかるのだ。

日本児童学会主幹であった高島は「児童研究」20-10(大正6年)の巻頭論文で幼稚園から大学までの教育に「忠君愛国の精神」を徹底させよと大号令。当時の我が国に求心力をという高島の熱い思いが込められた内容だ。
高島がこういうありさまだったし、富士川游ー永井潜は雑誌「人性」を通じて優生思想を蔓延させるし、なぜか大正期に活躍する広島県出身者のエスタブリシュメントたちは、時代の趨勢だったと言えばそのとおりだったのだろが、国家主義や軍国主義に大きく加担し始める。高島の薫陶をうけた丸山鶴吉などは第二次世界大戦の終結期に大政翼賛会事務総長を押しつけられている始末


併せて、児童研究20-11で高島は「貴族富豪の庭園開放」を提案している。東京では貴族富豪が広大な庭園を構えている。これは東京の空気浄化には寄与しているだろが、遊び場を失った子供たちに何らかの形で開放すべきだ。私人が大庭園を独占していると将来大きな子供たちによってそれが蹂躙されかねないとも。
大きな子供たちというのは反体制派、社会主義者を指し、そして貴族富豪とは旧藩主や天保生まれの薩長出身の元勲(高島らの父親世代)と彼らにすり寄り富を蓄えた政商らをさすのだろう。
高島は『現代の傾向と心的革命』でも強者を堂々と説教する中々気骨のあるところを見せたが、ここでも彼らに対してチクリと一言・・・・だ。
高島の生き方を見ていると「弱き(例えば出獄直後の西川光二郎に対する著述活動面を通じた生活支援)を助け、強きをくじく」・・・・・・精神が横溢している。
「貴族富豪の庭園開放」の一件も高島の気質が伺えそうなエピソードといえようか。

大正5,6年ごろになると東北での児童学会大会に第二師団の軍医らも参加している。このころになると山本瀧之助の青年団運動も田中義一(軍部)によって取り込まれていく。


高島平三郎の風景と肖像という場合、このスレッドでの赤字部分は風景、その他は肖像。つまり高島の内面(人間性)を浮き彫りにする局面を肖像編、そして高島の社会的身体性を当時の日本社会のあり様とダブらせて記述する局面を風景編とする。
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高島平三郎が活躍した時代の「児童研究」(復刻版)

2014年05月10日 | 教養(Culture)

第一巻は明治32年。第二十巻は大正5年。ちょっと角のたった言い方をするようだが、雑誌「児童研究」編集面での主導権をこの時代は高島ー富士川を軸に森田生馬(呉秀三の弟子)と下田次郎・永井潜ら「郷友(広島県人)」が持っていたらしい。
高島は海外留学組を多く抱える東京帝大系(いなアカデミズムの中)の心理学者からは無視されることが多かったようだが、それは当時の官尊民卑の風潮とか、高島流の児童研究の方向性と世界の心理学の潮流とのずれなど様々な問題が複雑に絡み合ってそういうことになったのだろうか。まあ、それはともかく、この雑誌の分析を通じて高島の学術面での足跡がある程度辿れそうだ。


日本児童学会の地方支部(大正5年)
広島県は児童教育の先進県であった。それは高島らのお陰かな
児童研究(復刻版)全56巻だが、高島平三郎の学術的足跡だけでなく、我が国の近現代を対象とした社会史研究の史料として使えそうだ。
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天晴会と法華会 

2014年05月09日 | 断想および雑談
 (3)門下統合と日蓮宗  天晴会と法華会  
 本多日生は 『各宗綱要』 編纂における 「四箇格言」 削除 (島地黙雷による) に端を発する、 他宗僧徒との対決のなかで本成寺派・本隆寺派と連携し、 明治二十九年 (一八九六) 十二月十三日に統一団を結成する。 統一団の折伏布教で小笠原長生・佐藤鉄太郎等の著名人を獲得するが、 妙満寺派の統一団ということに本多は限界を感じていくようになる。 そこでセクト意識を払拭し、 村上專精の 『仏教統一論』 を意識し日蓮系教団統一への会派設立へと向かうのである。
 明治四十二年 (一九〇九) 一月十五日、 姉崎正治・高島平三郎・柴田一能・山田一英等とともに天晴会を、 婦人の会として地明会を創立した。 天晴会設立当初の一九一名に及ぶ会員の顔触れは、 日蓮宗僧侶・法華系教団僧侶・政界・財界・軍人・華族・法曹会・作家等、 多岐にわたっている。
 活動は主に講演、 そして文筆によった。 明治四十二・四十三年は、 大規模な講演会が催され、 その内容が 『天晴会講演録』 第一・二輯に収められている。 月刊誌として教誌 『天晴地明』 (編集人小林一郎 発行人吉田珍雄 発行所統一閣 のち 『統一』 に吸収) を刊行し、 会員相互の情報交換の場となっている。 月一回の講演月例会が開かれ、 明治四十五年 (一九一二) 四月以降は竣工した統一閣で催されている。 支部も京都・大阪・神戸・姫路・三河・千葉・金沢等に次々と誕生し、 活動は全国に及んだ。 講演活動は大学にも及び東京帝国大、 一高の(4)洽会、 東洋大の橘香会、 早大・慶大日蓮聖人鑽迎会等の設立を促している。
日蓮鑚仰天晴会講演録 第1輯

日蓮鑚仰天晴会 編
[目次]
標題
目次
月次講演之部
阿含法華に対する日蓮上人の意見・大僧正 本多日生 / 1
情の日蓮上人・日蓮宗大学講師 高島平三郎 / 10
日蓮上人の人格と其教義・東洋大学講師 境野黄洋 / 20
日蓮主義より見たる加藤清正・衆議院議員 鈴木天眼 / 30
我帝国と妙法五字・海軍大佐子爵 小笠原長生 / 38
法華経寿量品に対する台@両祖の異点・唯一仏教@長 清水梁山 / 52
解脱の二方面・東京帝国大学講師文学士 小林一郎 / 59
国力護持・「妙宗」主筆 田中智学 / 71
鎌倉時代の人情・文学士 川上多助 / 115
日蓮上人に対する感想・文学博士 三宅雄二郎 / 142
日蓮上人と深草元政・小笠原毅堂 / 146
暹羅国の仏教観・参謀本部員陸軍歩兵少佐 井上一次 / 174
日蓮上人に対する誤解に就て(其一)・大僧正 本多日生 / 185
日蓮上人に対する誤解に就て(其二)・大僧正 本多日生 / 201
夏期講演之部
日蓮上人の特長・大僧正 本多日生 / 221
海上歴史と日蓮主義・海軍大佐子爵 小笠原長生 / 260
大難に就て・文学博士 三宅雄二郎 / 308
日蓮宗の名称に就@ 聖祖の御遺誨・唯一仏教団長 清水梁山 / 320
祖書に現はれたる日本国及大日本国・@正 脇田尭惇 / 348
日本文明史上に於ける日蓮上人の位置・東京帝国大学講師文学士 小林一郎 / 365
法華経は日本国の予言書・「日宗新報」主筆 加藤文雅 / 448
日蓮上人の文学・日蓮宗大学講師 高島平三郎 / 463
宗史小話・「妙宗」主筆 田中智学 / 478
日蓮上人の女性観・「村雲婦人」主筆 松森霊運 / 529
日蓮宗に対する希望・東京帝国大学教授文学博士 三上参次 / 555
日蓮上人の人格及主義(其一)・顕本法華宗大学林教授 関田養叔 / 584
日蓮上人の人格及主義(其二)・顕本法華宗大学林教授 関田養叔 / 622
国民的性格と日蓮主義・陸軍大学兵学教官陸軍歩兵少佐 細野辰雄 / 659
鎌倉時代と日蓮上人・東洋大学講師 境野黄洋 / 670
偶感一則・顕本法華宗宗教総監 野口日主 / 719
日蓮主義より見たる自殺・日蓮宗大学教授 柴田一能 / 725
阿含と法華(法と如来との意義)・東京帝国大学教授文学博士 姉崎正治 / 744
附録
天晴会記録

高島平三郎の思想傾向がどのようなものであったか判ろう。
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日本国語会

2014年05月09日 | 断想および雑談
日本国語会の創立発起人には、500余の人が名を連ねていて、この人達のグループ分けをしてみると面白そうである。国語学者、作家、政治家、仏教関係者など。9月27日で挙げた『現代仏教』の編輯同人で日本国語会の発起人と重複するのは、同誌主幹の高楠順次郎のほか、安藤正純、小野清一郎、鈴木大拙、瀧精一、高島米峰、長井真琴、新村出、橋本進吉、山上曹源。安藤は興味深い人物で、哲学館を出て、『明教新誌』、『日本新聞』、『東京朝日新聞』で記者を務め、衆議院議員となる。戦時中、全日本仏教青年会連盟理事長であった。大東亜伝書鳩総聯盟の創立賛成人でもある。


日本国語会には、他にも仏教学者として、江部鴨村、澤木興道の名前も。高島米峰と混同されることが多かったという児童心理学者の高島平三郎の名前もあって、この人は田中智学の日蓮主義に共鳴し、禅宗にも精通したとされるので、仏教関係者に入れてもよいだろうか。



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ジョサイア・ロイス「忠義の哲学」か「道徳哲学」

2014年05月03日 | 断想および雑談
高島平三郎の文献(The philosophy of royalty)紹介だが・・・・・高島がroyalty(高島自身は忠義性と翻訳)という言葉を使うとどうしても「忠君愛国」を連想してしまう。


忠義の哲学
ジョサイア・ロイス著 鈴木半三郎譯、洛陽堂、大正5年


翻訳者は中学教師をやめアメリカに漫遊8年の鈴木半三郎だったが、洛陽堂が大正5年刊行した著書がこれ
鈴木半三郎「米国国民性の新研究


こちらは序文に西田幾太郎登場
道徳哲学
ジヨサイア・ロイス(Josiah Royce) 著 ;
風見謙次郎 訳[目次]
標題
目次
第一講 忠義の本質と、その必要 / 1
第二講 個人主義 / 40
第三講 忠義に對する忠義 / 80
第四講 良心 / 119
第五講 忠義に關する亞米利加問題 / 160
第六講 忠義の訓練 / 201
第七講 忠義と眞理と、實在 / 240
第八講 忠義と宗敎 / 280

風見(東京帝大心理卒、東北帝大教授)は宮城教育会では「忠義の哲学」という形で本書の紹介をしている。したがって岩波書店刊「道徳哲学」のタイトルにはセンスの良さを感じるが、翻訳者自身は納得していなかったことになろう。

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内務官僚丸山鶴吉の郷党意識と教育的機会均等観

2014年05月02日 | 教養(Culture)
疑似右翼の丸山鶴吉だったとぼろくそに叩いてきた小生だが・・・・、飽薇1-11(大正14年)に掲載された論文を見ると・・・・・




立派な人物だったのだ。丸山鶴吉の生家丸山家は最近まで日本はきもの博物館を運営してきたが、それも破たんし博物館は福山市に移管。丸山鶴吉に対する社会的記憶が弱まり消失することが危惧される今日この頃だ。

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