- 松永史談会 -

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『安部野童子問』/『自白法鑑』再検討のため、敢えて道草を食うの巻

2020年11月28日 | 断想および雑談

国語史・国文学関係の文献はかなり前からときどき紐解くようにはしてきたが今回は浪華城南隠士著『安部野童子問(あべのどうじもん)』つながりで話題にした記事;”一揆物語と太平記読み”を一歩前進させるために今井の大著「『太平記秘伝理尽鈔』研究」にズームインしてみようと言うわけだ。
取りあえずは加美宏提示の先行学説
を押さえておこう。それでは
目次
 序章 『太平記秘伝理尽鈔』の登場
  第一部 『理尽鈔』の世界     
   第一章 「伝」の世界
   第二章 「評」の世界――正成の討死をめぐって――
   第三章 兵学――『甲陽軍鑑』との対比から――
  第二部 『理尽鈔』以前
   第一章 『天文雑説』『塵塚物語』と『理尽鈔』
   第二章 『吉野拾遺』と『理尽鈔』
    付論 『塵塚物語』考――『吉野拾遺』との関係――
   第三章 『軍法侍用集』と『理尽鈔』――小笠原昨雲著作の成立時期――
      付.『軍法侍用集』版本考

第三部 『理尽鈔』の伝本と口伝聞書
   第一章 加賀藩伝来の『理尽鈔』
   第二章 『理尽鈔』の補筆改訂と伝本の派生
   第三章 『理尽鈔』伝本系統論
   第四章 『恩地左近太郎聞書』と『理尽鈔』
   第五章 『陰符抄』考――『理尽鈔』の口伝聞書――
   第六章 『陰符抄』続考――『理尽鈔』口伝史における位置――
   第七章 『理尽鈔』伝授考
  第四部 『理尽鈔』の類縁書――太平記評判書の類――
   第一章 「太平記評判書」の転成――『理尽鈔』から『太平記綱目』まで――
   第二章 『理尽鈔』と『無極鈔』――正成関係記事の比較から――
   第三章 『無極鈔』と『義貞軍記』
   第四章 『無極鈔』と林羅山――七書の訳解をめぐって――
      付.甲斐武田氏の『孫子』受容
  第五部 太平記評判書からの派生書
   第一章 『楠正成一巻書』・『桜井書』の生成
   第二章 『恩地左近太郎聞書』『楠正成一巻書』『桜井書』と『理尽鈔』
   第三章 『楠判官兵庫記』と『無極鈔』
  第六部 太平記評判書とは別系統の編著
   第一章 南木流兵書版本考――類縁兵書写本群の整序を兼ねて――
      付.南木流覚書――『理尽鈔』との関わり――
   第二章 肥後の楠流
      補.誠極流と『太平記理尽図経』/付.『軍秘之鈔』覚書
  第七部 『理尽鈔』の変容・拡散・・・「理尽鈔」は「太平記」の記述に対する異伝/真相(と称するもの)を語り、その立場から登場人物の言動を論評するもの(本書636頁)
   第一章 『太平記秘鑑』伝本論
   第二章 『太平記秘鑑』考――『理尽鈔』の末裔――
   第三章 「正成もの」刊本の生成――『楠氏二先生全書』から『絵本楠公記』まで――
      付.『楠正行戦功図会』覚書
   第四章 明治期の楠公ものの消長――『絵本楠公記』を中心に――
   第五章 「楠壁書」の生成
      付.正成関係教訓書分類目録
  終章 「正成神」の誕生と『理尽鈔』の終焉
  付録.太平記評判書および関連図書分類目録稿
   Ⅰ.太平記評判書および関連書
Ⅱ.太平記評判書を用いた編著 付.楠関係の謡曲
   Ⅲ. 正成関係伝記
Ⅳ.楠兵書 付.『秘伝一統之巻』覚書
    所蔵者略称一覧
    あとがき・索引(人名・書名〈資料〉・『理尽鈔』〈版本〉引用箇所・事項)


私の心境としては『安部野童子問』/『自白法鑑』再検討のため、敢えて道草を食うという感じ。

まだ図書館より借りだして間がないので前書き程度しか読んでないが、この本は『太平記秘伝理尽鈔』の文芸作品としての成立過程(伝本調査とその系統分類作業)に焦点を当てたもののようだ。
ってことは『太平記秘伝理尽鈔』の、それも講釈にスポットを当てつつ、その中の兵法論・道徳論・政道論を論じたものではない。
この辺りのことは従来(例えば前掲の加美宏「『太平記秘伝理尽鈔』とその意義・影響・研究史」)からもかなり取り上げられ、最近では今井正之助門下の若尾政希が幕藩制国家の現実との関わりの中でそれを精力的に研究しているのだと。


若尾政希自身は著書「近世の政治思想論―『太平記評判秘伝理尽鈔』と安藤昌益,」148頁(注3)において大和和雄のコメント:「著者(若尾)が明らかにした思想史の動きが、なぜ《太平記》との関わりの中で進行したのか、日本人が歴史を先例として読むのではなく、史上の人物に託して、政治の論評を行い、歴史の解釈を通じて政治思想を表現するようになることの、思想史的な意味を考えてみたい」(「デジタル月刊百科」1999年10月)を紹介。史上の人物といえば「行基」「聖徳太子」「小野小町」などもそうだったと思うが、そこまで対象を拡げなければ「嗚呼忠臣楠子之墓」の忠臣楠氏以外では忠臣蔵(大石内蔵助)も同様だ(若尾「近世の政治思想論―『太平記評判秘伝理尽鈔』と安藤昌益」123頁が指摘するような『太平記評判秘伝理尽鈔』に説く、「あるべき治者像」=為政者像のようなものではなくここではむしろ「あるべき臣下(忠臣)像」がハイライト化されている)。こういう部分を含めて私が知りたいのはそれは単なる修辞法上の問題に過ぎなかったのか、それとも『太平記秘伝理尽鈔』やその講釈師たちを支えている(通俗的なものも含めて)思想基盤があったとすればそれはどのようなものだったのかと言う点なんだが・・・・。
いずれにせよ教える側も教えられる側も中国の古典籍類には刃が立たず、為に「倭学」(桑田忠親『大名と御伽衆・増補新版』、1969、264-276頁 桑田は倭学=本朝の古典文学とするが、むしろ『太平記』のような軍記物主体の国書類の評釈/講釈を指すヵ)に傾斜せざるを得なかった事情が、戦乱続きの中世後期の武家社会にはあっただろうことが何となく透かし見えてきそうだ
そんな思いを懐きつつこれからしばらく今井正之助『太平記秘伝理尽鈔』研究を読んでいくことになる。
これまで『自白法鑑』を熊沢蕃山との関わりで考えてきたが、熊沢蕃山の政道論は池田光政時代の岡山藩ではあまり浸透しなかったと言うような意味の話を若尾政希の著書(若尾『「太平記読み」の時代』、平凡社、254-289頁)で学んでから、いまの私は意識としては一旦熊沢を外して『自白法鑑』を見つめ直す必要性をも迫られ始めている次第なのだ。

福沢諭吉は賢く、陰陽五行説や儒教的名分論を盲説として否定。村田露月編著『松永町誌』は本庄重政『自白法鑑』の支離滅裂さを品よく「幽玄」ということばで処理。この辺がこの史料との付き合い方としては正解なのかもしれない。

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失われゆく宿駅景観-福山市今津町字「町」編-

2020年11月20日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
今津宿の旧問屋場跡(與左衞門⇒竹本屋村上重右衛門(松永村及び今津村の元禄検地帳に公儀名「重右衛門」、廻船業・高利貸/不動産賃貸業。野取帳には旧今津湊、番屋隣及びタマ土手沿いにも土地建物を所有)⇒明治25年熊田佐助⇒明治27年尾道町十四日町672番地居住天野又兵衛⇒明治33年角灰屋橋本吉兵衛⇒明治34年沖村喜助⇒大正4年沖村徳三郎)の痕跡も昨年(2019年10月27日)の「沖村家住宅」解体によってかつての面影は失われてしまった。下の写真は2017年に撮ったもので、昔の面影が多少なりとも残っていた。旧問屋場の直上には旧郷蔵(井上家住宅)。向こう隣に当たる東隣に725~726番地は木村駒吉⇒明治41年・木村恒松⇒明治41年木村定吉⇒大正3年木村恒松⇒昭和9年木村理人⇒同年井上義郎(柿渋製造所)

隣家の井田惣三郎宅裏(郷蔵直下)は旧「馬屋」
今津村野取帳にみる剣大明神鳥居前の旅籠

山内丈助⇒山内享太郎(旅籠:「田新」、剣大明神祭礼時に馬場両側の薬師寺所有夜店敷地の使用権を持っていた)。馬場を挟んで向いの薬師寺所有地に旅籠:前元楼(前新屋三藤氏)があった。


図中のA=旅籠屋「福喜」(福喜屋)の立地した三島徳七屋敷は明治10年代以後分筆が始まり、一部は一時村上重右衛門へ譲渡、その後明治33年に三島喜十郎の手を経て明治42年に三島徳七の相続人三島茂男が買戻すが、同時に茂男は屋敷地の一部を明治43年に芦品郡府中町の稲田徳太郎に譲渡。これらの土地は大正14年粟村七兵衛(カネダイ醤油経営)、大正15年には779-2番地だけは稲田⇒近田須美子の手に渡っている。粟村七兵衛が昭和35年(競売にかけられ所有権移転)まで所有していた土地には映画館「吾妻館」(779-1,779-5/779~6/779-7)が立地。B・Cは薬師寺所有地で、ここには幕末明治期にかけてB=「田新」C=「前元楼」という2軒の旅籠が立地。今津湊の前新新涯側の堤防には松原が続いていたが、1947年10月10日米軍撮影の空中写真には神社境内(裏御池)となった北端の1本だけが戦時中に伐採されず写っている。


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GoogleMap の左肩三本線:「メニュ」欄を開き、「ストリートビュー」へ


歴史小説家森本『福山藩明治維新史』記載の宿屋「田新」に止宿した福山城攻略のための長州藩部隊の話題は非常に具体的で面白いのだが、森本が想像を巡らして制作した作り話だ。
福山藩では文化期ごろから神辺宿以西には御小休所が何カ所か設置され、例えば今津本陣近辺では西町の入江屋石井四郎三郎屋敷(割烹料理の”大吉”一帯)がその機能を果たした。
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松永史談会2018年4月例会配付資料(解説)

2020年11月16日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

【注記】松永史談会2018年4月例会配付資料
本史料内には執筆者河本四郎左衛門によって仕組まれた偽史言説(田盛大明神祭礼)の一端が含まれている。
京都大学図書館デジタルアーカイブ中の「文化15年当村風俗御問状(幕府の右筆であった屋代弘賢が日本各地の風俗,習慣を知るため配付した調査票)御答書」影写版(谷村文庫 「ト」より入る 全文公開


平山敏治郎「備後国今津村風俗問状答書」解説




















歴史民俗学者平山敏治郎氏は『当村風俗御問状御答書』の史料紹介の労をとられた。それを受け、ここでは若干の注記と解説を行ったが、今後必要な作業としては例えば①この種の作業の徹底と史料批判(言説分析)、②周辺地域の諸事例を視野に置きながら西国街道筋の一藩政村沼隈郡今津村の一年(統治/共同体規制と言う側面から見た藩政時代の年中行事)と③『当村風俗御問状御答書』が書かれた当時の時代的、及び社会的背景等について検討を進めていく必要があろう。

平田篤胤門下で、塙保己一『群小類従』の編纂校訂、『寛政重修諸家譜』などの編纂に従事した幕府の右筆屋代弘賢(1758-1841)情報を得て山崎美成のもとにいる(異界からの帰還者少年)寅吉の談話をまとめた篤胤の異界談『仙郷異聞』。平田篤胤や屋代弘賢、その知人で『南総里見八犬伝』を書いた滝沢馬琴らは仙郷(あの世)に関して、今日的に言えばドクサ(魑魅魍魎・妖怪を実在するものと考えるような臆断の世界)を共有していた。江戸中期人たる賴山陽も同じような虚実混淆の知の地平を生きていた。『当村風俗御問状御答書』はそういう人たちの生きた時代の産物。

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松永史談会11月/12月例会のご案内-第二報-

2020年11月14日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会11月/12月月例会中止のご案内

このところ新型コロナウイルス感染症が国の内外で急激に拡大し、広島県内でも連日感染者が確認されています。
こういう状況ですので、人の出入りが激しい西部市民センターを会場とした11月及び12月例会開催はリスクが高いと判断し中止することと致します。
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