- 松永史談会 -

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2024年3月3日のExcursion trails

2024年03月03日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
『西備名区』の編纂者である向永谷(むかいながたに、向長谷とも)の馬屋原重帯(しげよ)のゆかりの地探訪が目的でサイクリングコースはおよそこのようなものだった。神辺での迂回は持参のUSBメモリーから地図をプリント出来るコンビニを探したため(中津原には気づかず)。芦品郡ではアップダウンの多い芦品広域農道に入り込み宣山(むべやま)辺りで大きくコース変更余儀なくされた。
帰途は子供時代の記憶・思い出の地を経由し、次のようなポイントを通過した。この中の馬屋原家が「永世賜」ったところの高増山(馬屋原『西備名区』巻之13、454頁に言う品治郡向永谷村武倍山だとさ。もともとは「古へ日本武尊西征の後、穴の湾にて悪神を誅し給ふに、武倍山(ムベサン)の御陣にて」に登場する自分が創作した「武倍山」に付会した山名(精神構造を含め馬屋原理解には「武倍山陣蹟雑記」「長井斎藤別当実盛墓」「馬屋原包重百回祭記」を読めば事足りる)。近所(駅家町今岡)に「宜山」=むべやま)(399㍍、高増山頂→山麓に高倉/高御蔵社→新庄本郷村の八大竜王/竜王を遷宮したものという説話:『西備名区』巻38,922頁ありが鎮座)は本郷川橋梁からも一部(α)が見え、予てよりマークしていた山だったので感慨もひとしお
  
 嘯雲嶋業『万延元年備後国名勝巡覧大絵図』は一種の読史地図だが、そのベースになっているものは先哲の説:馬屋原『西備名区』によるもの。例えば中津原のところには「日本武尊悪人を退治したる処」と注記。嘯雲嶋業の狙いは(現実には果たせなかったようだが、中国を真似した)こちらの完成だった。

『沼隈郡誌』評議員だった神原敬太郎氏(『沼隈郡誌』口絵写真参照、昭和42年刊『赤坂村史』編纂常任委員の一人として口絵写真)は村田静太郎氏(の場合は雑誌「まこと」の配達で毎月来訪)と共に我が家を訪ねてこられた、わたしの幼少期の記憶にある人物の一人で広島県に帰省後は予てより一度お宅訪問をしてみたいと思っていた。其れが叶って本日は誠に充実した一日だった。
神村町須恵の「高島平三郎先生景慕(敬慕)碑」に立ち寄り、たまたま出会った地元のKさんに以前奥田のSさんに額入り写真を送った時にこちらにもそうしたと思っていたが、そういうものは倶楽部にはないということで、明治18年撮影の「高島先生」肖像写真を倶楽部用にと言うことで寄贈する約束をして帰宅した(17時過ぎの帰宅だったので本日は7時間ばかりのExcursion Trailsだった)。高島先生の顕彰碑は綺麗に管理され、わたしとしては一安心だった。
いやはや本日は県道上ではどのルートでも数は多くなかったがサイクリング愛好者とすれ違った。松永史談会3月例会にむけて本日からぼちぼち『西備名区』のテクスト分析に入るが、こちらはこれまでやってきた延長線上で比較的簡単に処理できそうだ(当面、『備後叢書』版を使っていくが、今後に向けては福山城博物館蔵の自筆本なども当然のこととして調査予定・・3月8日に馬屋原重帯調製『文化5年2月・西備図絵』など自筆本数冊を含め閲覧済)。
向永谷の県道157号松永新市線沿線(バイパスが整備され海ヶ峠付近など一部は中国自然歩道化)。馬屋原/光の丘病院(精神科)の背後の丘陵上に(学識不足に由来する虚実混淆居士だった)馬屋原重帯家のお墓(元禄期のものが最古、参考までに馬屋原『西備名区』は馬屋原氏のルーツについて鎌倉期に「神石郡志麻利荘」[神石郡三和町一帯に立地]に地頭として入部した東国武士なのだと)はある。福山藩の豪農文化人の墓石(顕彰碑)は、岡本山路機谷浦崎笠井治右衛門もそうだったが、異様に感じられるほどジャンボ。
撮影時刻は13時54分、赤坂町に出る峠(標高差160㍍、水平距離3㌔)越えに徒歩で1時間を要した。健脚の人なら on a bicycleで20分程度のコースだろうか。
【後日談】『宜山村誌』昭和29、88頁、巻末に「宜山郷土史(むべやまきょうどし)」として「現在の史跡コース地図」を掲載。この図面を頭に入れておいて向永谷公民館辺りから県道157号線を南下すると兜山・実盛塚を見落とすこともないだろう。
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