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       - 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

広島県内務部学務兵事課 編「広島県青年団体状況取調書」 T2、広島県内務部学務兵事課

2013年09月30日 | 教養(Culture)
広島県内務部学務兵事課 編「広島県青年団体状況取調書」 T2、広島県内務部学務兵事課





青年団結成に関する文部省の説明
「青年集団として古くからあった若連中や若者組の組織に代わって、明治十年代ごろから、各地に新しい青年組織としての青年会、夜学会などが生まれてきていた。これらのうち、特に農村における青年会組織は、古い若者組の組織を再編しながら発展し、知識の習得、風紀の改善、農事の改良等に活躍する青年の集団としてしだいに注目を浴びてきていた。特に日露戦争を期として、これら青年会組織は、著しい躍進をみせた。これは、戦役中における青年会の銃後活動に注目した政府の勧奨によるものであった。」


青年及青年団 6巻10号附録付(大正4年)

天野藤男「地方青年団に対する訓令を読む」高橋淡水「広人国記・秋田県地人論」田中義一「将来青年団体の採るべき道」


鳥取県の行政組織の変遷:学務ー社寺兵事


地方改良運動と青年政策@東京大学

引用される場合は、掲載サイトと執筆者をよく吟味するとよい。論文の中身は千差万別
大正期の青年団体

山形県青年団

広島県の青年団結成運動





「広島県沼隈郡青年会」明治42年 (国会図書館デジタル化資料)




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国府犀東と天野藤男

2013年09月28日 | 教養(Culture)
いわゆる雑本に分類される書籍だが笹山登生「田園環境創造論 グリーン・ルネサンスの時代」(日本クラインガルテン研究会:協力 地域交流出版 1993)→171ページを読むと・・・・・・
明治20年(1887)、静岡県の富士川の西、庵原に生まれた天野藤男という人がいます。天野家は村の中央を流れる庵原川とその支流山切川に囲まれた小高い丘の上にあり、そこからは海を隔てて三保の松原が見えるという理想的な田園環境で天野は育ちました。旧制中学卒業後、庵原小学校の代用教員在職中に、庵原郡の青年大会に「文章暦」という当地の季節ごとの各種行事を一枚の掛け軸にしたものを出品したところ、それが偶然大会の講師に招かれていた国府犀東(漢詩の大家、評論家でもあり、当時内務省の嘱託をしていた)の目にとまり、天野は清見寺で国府と運命的な出会いをすることになったのでした。
 天野は国府犀東の紹介により内務省の地方局に勤務し、国府犀東の勧めにより、田園の魅力を題材とした本を次々と出版し始めます。その本のいずれもが、農民の愛郷、土着心を養うとともに、都会人の田園憧憬心・・・・(後略)


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天野藤男「故郷」、大正3、洛陽堂

2013年09月27日 | 教養(Culture)
天野藤男 著「故郷」大正3年、洛陽堂


[目次]
標題
目次
第一章 月之卷
一 あつち側の七軒目 / 1
二 ふた昔 / 2
三 然し濟まなかつた / 4
四 叮嚀にお辭義するよ / 6
五 雛子の飛び / 7
六 南京蟲に螯されて / 11
七 蚊帳の代りに風呂敷包み / 13

袖珍本だ。


八 寒中の洗濯 / 15
九 お茶の代金二錢也 / 16
十 ああ母樣よ / 18
十一 栗飯の旨さ / 21
十二 あの蜜柑 / 25
十三 雁を見て燕を見て / 27
十四 儂の親爺 / 31

十五 東京の表と裏 / 35
十六 待つてお出でよ故里よ / 38
十七 田園振興太鼓 / 42
十八 少年の頃 / 46
十九 馬車の喇叭 / 49
二十 やがて自働車 / 52
二十一 歸省の至樂 / 53
二十二 小工學士 / 56
二十三 電燈で繩を綯ふ / 58
二十四 儂の老婆心 / 60
二十五 變らぬは儂ばかり / 62
二十六 過去帳の人々 / 66
二十七 媼さん達かね / 68
第二章 雪之卷
一 生活難 / 73
二 ああこの青年 / 74
三 不安 / 76
四 眼ざめよ進め / 78
五 世智辛い世の中 / 79
六 誘惑されたし / 83
七 儂が親なら / 86
八 自覺せよ / 88
九 倫理の女先生が / 97
十 賣り物に碌なものなし / 100
十一 三百萬本の芽生え / 103
十二 先づ巢をつくれ / 106
十三 自働車眞理 / 109
十四 ダンスといふものは / 112
十五 電車に乘る時 / 114
十六 理論と實際 / 116
十七 職業と氣質 / 119
十八 氣質の特長 / 121
十九 美しい農民魂 / 124
二十 家を持つの誇 / 128
二十一 是がお勤め人 / 135
二十二 その成分は何 / 138
二十三 天候時間表 / 140
二十四 學問よりも德 / 143
二十五 どつちがえらい / 148
二十六 人が惡るくなるよ / 151
二十七 犬まで伴れて / 153
二十八 愛國心は愛心 / 157
二十九 理想の自治 / 164
三十 今夜も夢を睹やうよ / 167
第三章 花之卷
一 思ひ出は詩である / 171
二 お祖母さん / 178
三 お孝 / 180
四 思ひ出づくし / 184
五 雪ちやん / 193
第四章 星之卷
一 故之日 / 199
二 夏の卷より / 209
三 仲秋の卷より / 219
四 冬の卷より / 231
第五章 雲之卷
一 お國自慢 / 241
二 淸見寺 / 242
三 三保岬 / 258
四 平民浴場は江尻海濱 / 271
五 龍華寺 / 275
六 久能山 / 282
附錄
文學の統一 / 291









この本の中で白樺派は批判の対象になってると思われるが、武者小路実篤がその後に作った「新しき村」の現在
天野が描いた「故郷」(大正3年)はどんなものだったのか、後日中身をよく検討してみたい。
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天野藤男「鎮守の森と盆踊」

2013年09月27日 | 教養(Culture)
鎮守の森と盆踊

天野藤男



[目次]
標題
目次
鎮守の巻
第一章 鎮守の森と故郷 / 1
第二章 鎮守の森と愛卿心 / 9
第三章 鎮守の森と年中行事 / 28
第四章 鎮守の森と若衆 / 39
第五章 鎮守の森と娯楽 / 63
第六章 鎮守の森と豊年祭 / 81
盆踊の巻
第一章 寺院と愛郷心 / 103
第二章 寺院を中心とする行事及娯楽 / 117
第三章 盂蘭盆会の由来及精神 / 132
第四章 趣味津津たる盆踊 / 142
第五章 理想の自治卿 / 183
第六章 盆踊唱歌及口説集 / 190
小説の巻
一 氏神境内の楽しき団居 / 231
二 寺院と床しき敬老会 / 252
三 幼き思ひ出より / 274
四 鎮守の森の送別会 / 287






社叢と類義語との比較による神社の屋外空間に対する緑地空間概念に関する研究

藤田 直子[東京大学大学院農学生命科学研究科],熊谷 洋一[東京農業大学地域環境科学部造園科学科],下村 彰男[東京大学大学院農学生命科学研究科]


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蛇足ながら、夏目漱石夫人は・・・・

2013年09月25日 | 教養(Culture)
夏目鏡子は父の中根重一(福山藩士の子)が、柳田國男の二代前の貴族院書記官長(柳田国男の2代前)等の要職を務め、中根家が隆盛中に漱石と結婚(親父は退官後、投資に失敗し中根家は経済的には辛酸をなめた)。
「漱石の3番目の兄 夏目和三郎(直矩)が鏡子の祖父の囲碁仲間の小宮山次郎八と牛込郵便局の同僚であったらしい」とか。
蛇足ついでに
夏目漱石(1867-1916)と高島平三郎(1865-1946)は2歳違い。夏目は河本亀之助(1867-1920)より一学年上。漱石夫人と高島夫人寿子とは明治10年生まれの同い年。漱石は丸山鶴吉が第一高等学校時代の英語教師だが、丸山は漱石に対しては授業中に質問されて答えられないことがあったらしくそれ(コンプレックス)がためにあまり好感を抱いていなかった。明治40年当時漱石の居宅は勤務先とは目と鼻の先で、しかも妻境子の生まれ故郷ということで福山藩の江戸屋敷のあった西片町(本郷西片町十ロノ七)にあった。そこはながらく誠之舎の舎長を務めた高島平三郎にとっても生まれ故郷だった。
漱石の主治医尼子四郎も広島県人、医学史研究の大家富士川游が中心となって高島らと郷友雑誌「飽薇」を刊行
新婚時代の漱石夫人鏡子




74歳前後の鏡子と孫娘(松岡陽子) in front of 漱石の御墓




医学史といえば広島県出身の呉秀三(東京帝大・近代神経医学の推進者)のシーボルト研究が想起されるが、富士川や呉は明治期の広島県人会のまとめ役を担った人たちだった。

参考サイト:中根重一 以下全文引用。
中根 重一(なかね しげかず、1851年11月18日(嘉永4年10月25日[1][2])- 1906年(明治39年)9月16日[1][2])は、明治時代の医師・官僚。貴族院書記官長などを務めた。夏目漱石の義父(妻・鏡子の父)[1][2]、『道草』御住の父のモデル[2]。
勲章は勲四等旭日賞 勅任官大礼服着用
経歴
備後福山藩士・中根忠治の長男として江戸藩邸で生まれる[1][2]。明治4年(1871年)貢進生として上京し大学東校(のちの東京帝国大学医学部)に入学し、ドイツ語を学んで卒業前に退学した[2]。

1875年3月、東京書籍館並博物館雇となる[1]。1877年6月、新潟県雇に転じ、新潟医学所のドイツ語通訳兼助教を務めた[1][2]。1881年7月、新潟県を辞して上京し医師から官吏へ転じた[1][2]。1882年3月、太政官御用掛に任じられ、外務省御用掛、同翻訳官、法制局参事官、兼臨時帝国議会事務局書記官、法制局書記官、貴族院書記官長、行政裁判所評定官などを歴任[1]。1900年10月、内務大臣となる元上司の末松謙澄からの要請で地方局長に就任したが、1901年6月、末松の内相辞任に伴い休職し、同年12月、依願免本官となり退官した[1][2]。

退官後は無職となり、相場で失敗するなど経済的に困窮したため、娘婿である夏目漱石が資金の援助を行っている[2]。

著作
『鉄道問題』八尾書店、1892年。
述『戦後ノ処分ニ関スル外国ノ事例』貴族院事務局、1895年。
共著
山脇玄との共著『府県制郡制釈義』八尾新助、1890年。
訳書
訳編『虎列剌病論』佐藤敬三郎、1880年。
ブルンチェリー著『政治学』1-5巻、近藤幸正、1882-1883年。
マックス・フェスカ著『日本農業及北海道殖民論』外務省、1888年。
ルードルフ・グナィスト著『歳計予算論』博聞社、1888年。
ラートゲン著『地方財政学』2版、日本書籍会社、1889年。
ヒュー・デ・グレー著、平田東助閲『独孛政典』1-5巻、日本書籍会社、1890年。
共訳
保阿倔(フォック)著、竹山屯との共訳『眼科提要』1-3巻、山中市兵衛、1879年。
親族
中根重一
  豁子(重一妻)
中根時子
鈴木禎次(時子夫) 
中根鏡子
夏目漱石(鏡子夫)
夏目純一
三田嘉米子(純一妻)
夏目房之介
夏目伸六
  信子(伸六妻)
夏目沙代子(伸六長女)
夏目一人
夏目哲郎
夏目筆子
松岡譲(筆子夫)
松岡陽子マックレイン
ジョージ・ロバート・マックレイン(陽子夫)
松岡末利子
半藤一利(末利子夫)
夏目恒子
夏目栄子
夏目愛子
夏目ひな子
脚注
^ a b c d e f g h i 『日本近現代人物履歴事典』372頁。
^ a b c d e f g h i j 『夏目漱石周辺人物事典』132-137頁。
参考文献
原武哲、石田忠彦、海老井英次編『夏目漱石周辺人物事典』笠間書院、2014年。
秦郁彦編『日本近現代人物履歴事典』東京大学出版会、2002年。
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一橋大学社会学部博士論文要旨(1999)・・・丸山鶴吉関係

2013年09月22日 | 教養(Culture)
博士論文要旨

論文題目:「新官僚」の研究:内務省を中心に
著者:元 智妍 (WON, Ji Yeon)
博士号取得年月日:1999年7月27日


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高島平三郎編『精神修養逸話の泉』

2013年09月20日 | 教養(Culture)
高島平三郎編『精神修養逸話の泉』であり、甲子出版社から刊行されている


そのひとつは高島平三郎編『精神修養逸話の泉』であり、甲子出版社から刊行されている。私が購入したのはその第一、二編だが、『全集叢書総覧新訂版』(八木書店)によれば、これは大正十二年に各定価二円、二十二編が出されたとある。実はこの発行者が他ならぬ近田澄で、甲子出版社の住所は神田区表神保町一番地となっている。この住所は三星社、三陽堂、東光社と同じであるので、甲子出版社もまたこれらの出版社の別名と見なせるだろう。

全集叢書総覧新訂版

また奥付には近田と甲子出版社に加えて、大正十二年八月「版権譲渡」、同十三年五月発行、定価一円八十銭と記され、B6判の判型は同じだとしても、前述の発行年と定価とは異なっている。とすれば、これらは大正十三年版と見なすべきなのだろうか。

編者の高島平三郎は明治、大正期の児童心理学者で、学習院や日本女子大などの教授を歴任しているが、田中英夫が『洛陽堂雑記』で詳細に追跡しているように、洛陽堂の河本亀之助の恩師であり、洛陽堂が明治四十三年創刊の『白樺』の発行所となったのは、学習院に在職し、洛陽堂の顧問的立場にあった高島との関係からだとされている。しかし大正文学史において、著名な出版社の洛陽堂にしても、その隆盛は長く続かず、大正六年に『白樺』の発行から手を引いた頃から苦境に陥り、『白樺』を含めた在庫を古本屋に放出する事態に追いこまれ、同九年に河本は亡くなっている。その後しばらく河本の弟が古本屋を営みながら、洛陽堂を継続させたという。これらのことについては私も「洛陽堂河本亀之助」(「古本屋散策」95、『日本古書通信』)10年2月号所収)で既述している。

以上全文引用

わたしの関連記事・・・・ゴーストライターとして生活費稼ぎに明け暮れた高橋淡水。有名人だった高島平三郎には、『精神修養逸話の泉』シリーズを40歳過ぎですでに沢山の修養書(修養史伝)関係の著書のあった高橋淡水との共著形式にするくらいの度量が欲しかった。高橋淡水1872-1922に関してはこれまで折に触れ紹介してきた通り、沼隈郡松永村出身の史伝小説家(調査中)。


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大正8年における印刷工たちのストライキ

2013年09月15日 | 教養(Culture)

第一次世界大戦の始まる頃は物価高騰、特に紙価の高騰がひびき、雑誌の販売価格の値上げなど出版活動の休止を余儀なくされる事態となった。たとえば富士川游主幹の雑誌「人性」などがそうである。職工たちのストライキや河本亀之助の白樺雑誌からの撤退もそういった外因が影響していたかもしれない。
なお、白樺の販売価格の推移については深萱和男編「『白樺』総目次」がデータを示す。これによると白樺8-9巻限定での販売価格をざっと見たところ、35-70銭、35-85銭なのでそれほど大きな変化は看取できない。
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河本亀之助の雑誌「白樺」からの撤退挨拶

2013年09月14日 | 教養(Culture)
運よく「白樺8-10(大正6)」を入手した。






柳宗悦「神秘道への弁明ー2」が巻頭を飾る洛陽堂版「白樺」最終の雑誌。編集(編輯)人・発行人=河本亀之助、白樺編集(編輯)所=小泉鐡方  


雑誌白樺の復刻版には河本亀之助の雑誌「白樺」からの撤退挨拶が8巻10号の別刷(差し込み式チラシ広告様の、字数にして原稿用紙2枚程度の社告)という形で出されている。

それによると、白樺同人が文壇に新風を吹き込むとの期待から、7年間雑誌白樺の発行を引き受けてきたが、近頃になって白樺同人も独り立ちできるくらいに育ち、また雑誌経営も軌道に乗ってきたので、白樺同人の要望に沿って、今回自分は白樺の経営者を辞することにしたというものだ。
・・・・現実はどうであったか。
いろいろあったようだ。
白樺同人側の言い分を参考にしていえば、3,4年前(大正2,3年は洛陽堂の絶頂期)まで「白樺」を発行していることを自慢していた亀之助が大正5,6年段階に至って白樺同人に対して冷淡を装うようになったらしい。




白樺同人執筆の記事「編輯室」では「無者」(ペンネーム)の執筆で少し事情が読めてくる。

それによると「ウイリアム・ブレイク」という大著を出してもらった柳宗悦が河本俊三(無者というペンネームの人物いわく「亀之助弟」)に雑誌「都会と農村」の売れ行きを聞いたら、俊三が答えて曰く「景気が悪くて困る」。それに続けて「売れ行きは白樺ほど悪くはない」とちょっと角の立つ返答をしたらしい。
亀之助が勢いで引き受けた事とはいえ、夢二の場合と異なり、予想以上に売れ行きが悪く、(第一次世界大戦当時の物価高騰なども加わって)経営を圧迫するようになった。そういう状況が長く続いていたので柳の質問に対し亀之助弟がああいう風に答えたのだろう。

その話を同人に持ち帰り話したところ、親分の武者小路はちょっと感情を害した。同人らの印象では洛陽堂は今年(大正6年)になって反感を露骨に表すようになっていたらしい。大正6年と言えば、富士川游主幹の雑誌「人性」が(第一次世界大戦による)紙価高騰により休刊公告を出す頃。

河本亀之助曰く「今白樺と別れることは実際愛児と別れるような気がしますが、白樺同人が自分たちで経営されると言うことには別に何等の異議も持ちません。ただ益々発展をして末長かれと願うばかりです。」
「白樺同人が自分たちで経営されると言うことには別に何等の異議も持ちません」という書き方からはやはり白樺同人と洛陽堂とが相当険悪な関係にあったのかな~という気がしている。

そういうことが背景にあり、3か月前に刊行予定の大正6年の8月号が発売禁止(原因は長与の小説「誰でもしっている」の内容が検閲に引っ掛かったため)になった。志賀・柳・園池のところには催促してやっとその雑誌が届けられたり、洛陽堂側から長輿・有島武郎の本は刊行を断るという話が持ち込まれたりした。

問題が表面化する前年にあたる大正5年には赤木桁平「芸術上の理想主義」といった白樺派の作家たちをやや小馬鹿にしたような文芸評論(放蕩文学の追放論など)書を洛陽堂は出したりしている。また、河本の周辺には天野藤男(1887-1921)のように現今の日本文学が「よく申せば貴族的、悪く申せば高等書生的」、同世代の作家連中を捉え、かれらは実業家でもなければ、教育家でもなし、軍人でもなければ宗教家でもない、単なる書生さんたち。したがって露骨に申せば彼らの文学は「倅の文学」だと。かなり冷笑的というか侮辱的な見方である。そう主張する天野の著書を大正2-5年にかけて河本は相当数出版していた。

考えてみれば赤木の評論集(放蕩文学だとは決めつけていないが、書法的に稚拙だと批判)を出すといった洛陽堂側のアテツケガマシイやり口も中々のもの・・・・。
亀之助の弟の嫌味な言動やこうしたことが白樺同人および天下に対する不快や不満のもとになっているという確かな認識を亀之助は持っていただろ。
大正5年には「縮刷夢二画集」の版権を他社に譲渡しており、自転車操業状態の洛陽堂が相当資金繰りに困っていた時期の話だ。
それもこれも、亀之助としては,経営上のお荷物をなんとか切り捨てたいという必死な思いだけでなく,よちよち歩きだった白樺派の人たちの面倒を永年見てきたが、自らの衰えに比して旺盛な活動を展開し続ける彼らを見ながら、そろそろ独り立ちしてほしいという気分も手伝ってのことだろう。

白樺8-11/記事「編集室」での無者の書きぶりでは亀之助の真意は武者小路によってほぼ理解されていない。
ある程度採算を度外視した形で白樺同人たちの著書を刊行してきた亀之助の心意気などいろんな意味で若い彼らには想像することなどできなかっただろ。

まあ、白樺同人にとってあれほど白樺雑誌の発行を自慢していた河本亀之助が、最近は手のうらを返すように冷淡になった、その豹変ぶりに坊ちゃん育ちの武者小路らは時に不信感を募らせながら、洛陽堂と決別することになった次第である。

高楠順次郎(沢井洵)の起こした「反省会雑誌」は名編集者を得て、後の流行作家(芥川龍之介や菊池寛)をいち早く起用するなど大いに飛躍するが、こういう面で亀之助およびその弟らは残念な結果に終わった。




経営がやや下降線をたどり始めたころ(大正4年当時)の洛陽堂の出版図書目録。
A面は高島(平三郎)・永井(潜)・山本(瀧之助)・西川光二郎や竹久夢二のもの、武者小路ら白樺派の面々のものはB面。
夢二画集の読者層に背を向け、高島平三郎・永井潜・山本瀧之助を前面に打ち立てた経営路線が何となく見え隠れする?!(わたしの単なる思い過ごしかもしれないが・・・)、阿武信一「親と月夜」だが、阿武は河本の出身地沼隈郡の郡長。「親と月夜」は雑多な出典からかき集められた道話集だが、同じ表題の書籍は沼隈郡青年会、山本瀧之助編でも出されている。これらはふるさと思いの河本が情に任せ出版を引き受けたものだろ。

雑誌白樺だが、中には美術展などの展示目録などのいろんな付録があり、その種の付録の中に洛陽堂主人河本亀之助「白樺の経営者たることを辞するに就いて」のパンフがあった。





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郷友雑誌「飽薇(ほうび)」

2013年09月13日 | 教養(Culture)
郷友雑誌「飽薇」の表紙


裏表紙は郷土の名所の風景美を紋切り型の修飾句で愛でる内容


郷友雑誌「飽薇」。飽薇同好社というのは東京在住の広島県出身の学者・法律家などのエスタブリッシュメントたちの親睦組織。設立目的は富士川の作文でまことしやかな内容のことが記載されている。本部は本郷西片町9番地。旧阿部藩邸辺りだ。


赤丸が9番地


昭和5年段階で、広島県出身者で本雑誌に出入りする人物は旧阿部藩屋敷のあった本郷西片町に偏っている?!一帯は阿部家の借地地区だが、東京帝大の目の前に当たる。やはり同郷者を頼って東京に上京するというパターンの名残だろうか。
委員は同好者のメンバー。常務委員が編集委員。まことに小世帯だ。

雑誌広告を出している公証人岡田純次郎(裁判官→弁護士)とは阿部家家令岡田吉顕の息子。

富士川游が深くかかわった雑誌「飽薇」は同好会が関東大震災後の大正13年に設立され、翌14年1月に機関雑誌として発行されたもの。飽は飽国(安芸の国の古字)からとったものであり、薇は同じく吉備の古字(黄薇)に由来する。命名は富士川自身らしい。いわゆる県人会誌だ。設立当初の常務委員は花井卓蔵秋山雅之助下田次郎(最高裁判事下田武三の実父)・高島平三郎・尼子四郎松井茂浜野知三郎・和田英松・真田鶴松・富士川游、主事が常光浩然・清寺漸。
広島県出身で東京に出て各界で活躍する人たちを中心に地元のインテリたちと連帯しつつ結成された社交クラブだったようで、この雑誌には仕事上の余談とか随想などが寄稿されている。


小鷹狩は旧浅野藩の藩士の出で、明治期に「芸藩通志」の刊行にかかわった人物(老人)。この一族に歌手のペギー葉山がいる。鶴田は海軍の軍人。これと猪原薫一(海軍軍人)は地方誌「備後史談」の常連(悪く言うと”投稿魔”)。猪原はこの雑誌でも郷土史関係(菅茶山など)の記事を盛んに投稿しだす、いやはや・・・


 花井は東京で活躍した有名な弁護士・政治家、高島平三郎が登場。のちの号には呉秀三・大楠順次郎・永井潜らも寄稿を始める。備後史談の会長職にあった和田英松は我が国における有職故実・帝室制度研究の権威者(東京帝大の史料編纂官)で、沼隈郡鞆津出身。
内務官僚丸山鶴吉は「郷党の優秀なる児童を大成」させようという巻頭文を1巻8号に書いている。その他は外遊の報告。





























この雑誌は広島県立図書館に創刊号から昭和15年ごろまでの183冊が所蔵されている。

三原市立図書館に所蔵された「飽薇」(187冊)・・・・・広島県立図書館より揃っている


「飽薇」に関しては富士川英郎「富士川游」、小沢書店、平成2年に詳しい。
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富士川 游=主宰 「人性」、1905-1918

2013年09月10日 | 教養(Culture)
富士川 游=主宰

人 性(じんせい)1905年~1918年
全17巻別冊1【復刻版】




本誌は、心理学、生物学、文化人類学、「刑事」人類学、社会衛生学、「人種」衛生学、社会病理学、教育学、犯罪学、法社会学、社会学、統計学、宗教学、哲学など多種多様な分野を網羅した学術雑誌である。
 とくに犯罪者・心身障害者・精神病者、女性などを対象にした研究論考には、当時の知識人の人間観がよく現れている。
 現役のドクターや医学者・文学者・法学者などが多数寄稿すると同時に、国内外での学問の情報に高くアンテナを張り、海外の論説の紹介、医学雑誌や統計雑誌などからの転載も豊富である。
 児童問題・女性問題・性教育・優生問題などにとどまらず、ひろく精神衛生学、心理学等の歴史を研究するために必須の文献である。

富士川 游(ふじかわ ゆう 1865年~1940年)
 医学者・医史学者。
 広島県に出生。広島県立病院附属医学校卒。
 1887年上京、「中外医事新報」の編集に携る。1889~1890年ドイツに留学し学位取得。帰国後日本橋中洲養生院の内科医長となる。東洋大学教授(1906年~)、鎌倉中学校校長(1922年~)、中山文化研究所所長(1924年~)。
 『日本医学史』(1904年刊、1912年学士院恩賜賞受賞)をはじめ、多くの医学、病理、医史に関する著書を著し、関係の学会、研究会において運営指導に奔走した。また児童問題にも学殖が深かった。

*生前コレクションした図書・資料のうち、東京大学教育学部所蔵の江戸後期から明治期の教科書や教育関係資料図書171点は「電子版富士川文庫」として公開されている。
また京都大学図書館へ寄贈されたものの目録大学図書館ホームページで見ることが出来る。



【主要執筆者】
浅田 一 阿部 文夫 阿部余四男 池岡 直孝 池田 隆徳 石川 貞吉 石橋 臥波 石巻 良夫 井上哲太郎 氏原 佐蔵
海野 幸徳 大沢 謙二 大沢岳太郎 丘浅 次郎 緒方 正清 小川剣三郎 小河滋次郎 小田 平義 乙竹 岩造 笠原 道夫
片山 国嘉 加藤 弘之 門脇 真枝 川島金五郎 河本 健助 岸上 謙吉 呉 秀三 呉 文聡 小酒井光次 児玉 昌
榊 保三郎 佐野保太郎 沢田順次郎 三田谷 啓 志賀 潔 下田 次郎 荘司秋次郎 菅沼清次郎 鈴木梅太郎 鈴木券次郎
高島平三郎 高峰 博 竹内 薫兵 竹中 成憲 常光 得然 坪井正五郎 妻木 直良 寺田 四郎 寺田 精一 徳谷豊之助
永井 潜 速水 滉 原 胤昭 福来 友吉 藤井健治郎 富士川 游 松木 五郎 三浦謹之助 三上 義夫 三田 定則
三宅 鉱一 元良勇次郎 森田 正馬 谷津 直秀 山崎 佐 横山 雅男 淀野 耀淳
Asberg,Morits Crile,George Darwin,Mayor Eulenberg,A Forel,August Gaupp, R Haecel,Ernst Hirsch,Max Lapouge,G


【解説】  
松原洋子(科学史)

富士川游(1865-1940)は呉秀三(1865-1932)とは大変に親しかった。高島平三郎(1865-1946)とは東洋大学(東京哲学館)で接点があり、呉秀三も一時期東洋大学に籍を置いていた。永井潜とはどうだったのだろ。雑誌「人性」にはよく投稿していたようだが・・・・。

中沢務は「近代日本における優生学の形成と雑誌『人性』」では本雑誌を我が国初めての本格的な優生学雑誌だと評価。この雑誌の発行母体:人性学会の発足当時の役員を見ると富士川の郷里の広島県人や医学史関係の学者(たとえば高島平三郎・永井潜・下田次郎ら幹事6名、呉秀三・花井卓三・柴田常恵ら評議員19名)で構成されている。
藤野豊『日本ファシズムと優生思想』(かもがわ出版、1998年4月15日、46版、527頁)の書評を掲載する解放研究126号(岩井健次執筆)には「永井潜は外科手術により犯罪者などの悪質者を生殖不能にすること、性病患者を排除するため、国家の許可に基づく結婚を提唱している。(第1章「第1次世界大戦と優生思想」)また、廃娼運動・婦人運動などの社会運動からも優生思想への共鳴がみられるようになった(補論(3)「近代日本のキリスト教と優生思想」)」とか・・・。
まあ、エイズ患者に対する人権に配慮した形を変えた「断種政策」とか、麻薬常用者などに対する「断酒政策」類似のものまで否定していたら、社会の健全性(公序良俗)は保てまい。
昭和12年ごろから欧米では犯罪者・知能障害者の一部に対しては断種法の励行され、特にドイツでは徹底した施策が施されている。これに対して富士川游らは「遺伝を基盤とした優生学的な考え方を受け入れず、」環境要因や教育効果を重要視すべきだと主張(68ページ)」。
米本昌平ほか編著「優生学と人間社会」、講談社現代文庫、2000参照
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高楠順次郎の・・・・・

2013年09月09日 | 教養(Culture)
昭和19年に文化勲章を受章した高楠順次郎と言えば高名な仏教学者・・・・。
子息の高楠正雄は出版社「大雄閣」を創業し、父の著書をはじめとした仏教関連書などを刊行している。

高楠順次郎(旧姓名:沢井洵)

『高楠順次郎全集』全9巻 教育新潮社 1977-82
第1巻 (アジア民族の中心思想・インド編,東洋文化史における仏教の地位)
第2巻 (アジア民族の中心思想・シナ、日本編,大東亜における仏教文化の全貌)1977
第3巻 (仏教の根本思想.新文化原理としての仏教)1982
第4巻 (仏教の真髄.人文の基調としての仏教)1978
第5巻 (人間学としての仏教.釈尊の生涯)1979
第6巻 (宇宙の声としての仏教.東方の光としての仏教.仏伝考.東西思潮の合流)1977
 第9巻 (インド古聖歌.戯曲龍王の喜び.奈良朝の音楽殊に「林邑八楽」について.梵僧指空禅師と達磨大師の画像.悉曇撰書目録)
この出版社は長谷川櫻南 「櫻南遺稿」、昭和2年に復刻している。
備後浚明館の経営者長谷川櫻南(1829-1885)は高島平三郎や永井潜らの漢文詩の先生だった。東京で活躍した有名弁護士花井卓蔵(第三代検事総長花井忠の岳父)、高楠自身も櫻南の門下生@櫻南舎。

編集・発行人の沢井常四郎は高楠順次郎の弟で、地元の教育者兼郷土史家、いくつか著書もある。御調八幡宮と八幡荘


大正・昭和初年には忘れ去られた功労者たちに対する位階の追贈運動が展開されるが、沢井のことだから、忘れ去られようとしている長谷川に対する抑えがたい追慕の念の発露なのだろ

この高楠(1866-1945)と高島平三郎(1865-1946)とはほぼ同世代だが、前者は世界的な仏教学者・東大名誉教授、東洋大学第八代学長、後者は心理學者・旧福山藩江戸屋敷内に設立された寄宿舎:誠之舎舎長20余年、東洋大学教授(終戦時に一年未満の任期だった東洋大学第十三代学長)でその学的業績では大きな差があった。高楠は仏教経典の研究と根本経典の編纂を通じ、昭和19年に文化勲章を受章、現在彼の思想は彼が開学した武蔵野大学や出身校・龍谷大学など継承されている。しかし、高島は・・・業績は高島平三郎全集などにまとめ上げられているが、かれが教授を務めた東洋大学あたりでも、その足跡を思想として捉えなおし、それを継承発展させている風でもなく、ほぼ歴史上の人物、過去の人となっている。

反省会雑誌(発行主体の反省社は1914年に中央公論社に発展)は沢井順次郎を中心とした京都西本願寺系の学校の学生有志(禁酒主義者たち)の同人誌


明治20年代には仏教者たちの「征韓論」が俎上に

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松田湛堂 編著「現代名家禅学評論」

2013年09月08日 | 教養(Culture)
禅と言えば鈴木大拙、善といえば西田幾多郎だと思っていたが、明治末~大正期には哲学・宗教・科学を横断的に考える試みが盛んにおこなわれていたようだ。高島平三郎もこのあたりに関説した著書を多く出している。

武者小路実篤・柳宗悦らも頭の中はトルストイ、ウイリアム・ブレイクら経由の、独特の神学(や宗教哲学)というより宗教倫理に影響されていた。

そういえば同時代の英国人文化人類学者Gregory Bateson辺りも、神智学(Theosophy)的とは言わないが、科学的思考と神秘主義思考とが微妙にブレンドされたユニークなものだったなぁ。
共同執筆者の福来友吉は東大助教授時代にオカルト研究に踏み込み、学会を追放され、東京帝大での休職(ゆるやかな免職)を余儀なくされている。催眠研究から訳のわからない心霊現象に興味を持ち始めたのがよくなかった。
福来は学者としては世間からレッドカードを突き付けられてしまった次第である、いやはや、いやはや。

現代名家禅学評論

松田湛堂 著、鴻盟社、明治41、258頁


禅に就いて (高楠順次郎) ほか23篇を収録

「国立国会図書館のデジタル化資料」より

[目次]
標題
目次
一 禅に就て・文学博士 高楠順次郎 / 1
二 禅に就て・渡辺国武 / 13
三 禅に就て・文学博士 村上専精 / 16
四 禅に就て・忽滑谷快天 / 22
五 禅に就て・文学博士 前田慧雲 / 29
六 禅に就て・長谷川泰 / 35
七 門外禅話・戸川残花 / 40
八 長谷川先生の所論を読む・戸川残花 / 47
九 禅に就て・文学博士 松本文三郎 / 50
十 禅に就て・文学博士 姉崎正治 / 55
十一 禅の特質・文学博士 元良勇次郎 / 58
十二 禅と人格・加藤咄堂 / 63
十三 禅の妙用・横尾賢宗 / 74
十四 自然主義と禅・加藤咄堂 / 83
十五 心理学上より見たる禅の修養・高島平三郎 / 88
十六 定に関する心理的所感 文学博士 福来友吉 / 127
十七 禅の日本文明に及ぼせる影響・文学博士 井上哲次郎 / 136
十八 武士道夜話・渡辺国武 / 155
十九 禅宗の古徳と厚生利用・森大狂 / 161
二十 禅と武士道・峯玄光 / 187
二十一 坐禅の必要・釈宗演 / 219
二十二 参禅者の注意・宮地宗海 / 227
二十三 忘機・大内青巒 / 232
二十四 正偏五位説新提唱附四料揀新提唱・渡辺国武 / 252

「国立国会図書館のデジタル化資料」より


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佐久間 操「カーライルの思想及評傳」、 洛陽堂 、 大正10年

2013年09月06日 | 教養(Culture)
いまでは誰も顧みない人物の評伝だが、
佐久間 操「カーライルの思想及評傳」、 洛陽堂 、 大正10年








大正期は英国の神秘主義(近代合理主義が否定しようとする宗教に再スポットライト化)が盛んに紹介され、わが国でも心理学・医学において心霊現象研究を始める御仁が出現する。

洛陽堂の刊行物


モリスとかラスキンは「世界の名著 52 ラスキン」 (中公バックス)に所収されている。
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高島平三郎・宮武外骨「通俗心理ー奇問正答」

2013年09月02日 | 教養(Culture)
様々な趣向を凝らしたパロディや言葉遊びで知られ、一世を風靡した宮武外骨と高島との珍しい誌上問答集だ。

「通俗生理・奇問正答」の共著者の長尾折三の場合は香川県出身。高松藩医長の長尾篤斎(とくさい)の長男。名は折三(せつぞう)。藻城は号。ペンネームは猪台麓人(いのだいろくじん)。その他に煙雨楼主人(えんうろうしゅじん)、長尾肱斎(ながおこうさい)という名も使う。宮武外骨の竹馬の友。1907(M40)から没するまでは京浜にて活動。多磨霊園での埋葬場所: 22区 1種 38側 1番(河本亀之助の墓地の近く)






  
高島平三郎・宮武外骨「通俗心理ー奇問正答」


内容面については後日検討してみたい。

歴史が眠る多磨霊園
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