- 松永史談会 -

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松永史談会7月例会のご案内

2024年06月29日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会7月例会のご案内

開催日時 7月26日 金曜日 午前10-12時
場所    蔵2階

話題  宮内庁書陵部蔵『備後郡村誌→国文研の国書データベースへ』について



松永史談会では令和6年度は2月・3月例会において野外調査の鬼ともいうべき備中・古川古松軒、虚実混淆居士だった備後・馬屋原重帯を、5月例会では14世紀紀行文学の名作今川了俊(文武両道だった室町幕府の武将による南朝方勢力拠点九州太宰府への行軍途次記:)「道行きぶり」、6月例会は編集作業のまずさから結局、帯に短し襷に長しに終わった『芸藩通志』の頼杏坪を取り上げてきたので、今回はその続編としての話題の提供となる。
参考文献
『府中市史・史料編Ⅳ地誌編』(宮内庁書陵部蔵版『備後郡村誌』に関する有元正雄による解説・解題、2-6頁)、昭和61。なお、本史料および関連地方史料についてはこれまでにも部分的には何度か言及するところがあったが、②今回は江戸中期における長州藩・藝州藩の村明細帳類(『呉市史資料編近世Ⅱ』1-56頁に中山富広氏の解説・解題あり→学風の違いかとは思うが中身的には村明細帳を手掛かりに地域史の(本質主義者好みの)具体的諸相をうきぼりにしたもの。中山氏の場合は村明細帳が藩政村を(否、中山氏自身が指摘した朱子学者頼杏坪の政治思想が色濃く反映されているという『芸藩通志』は対象=藩領を)どういう切り口で構築(再構成)するツールだったのかといった構築主義的な側面からの掘り下げ(=切り返し)、最後の一踏み込みが不足)の在り方や菅茶山『福山志料』(藩主用政治書)を視野におきながらの検討となる。これまで参照してきた『水野記』や宮原直倁[ゆき](1702~1776年)『備陽六郡志』、『防長風土注進案』及び『防長地下上申』などについても既往の古地誌研究の成果を踏まえながら、今後あらためて(今日とは異なった形で)、神話(虚)と歴史(実)とが地続きであった時代の社会的論理を考慮しながら、これまで通り、淡々と内容分析を試みる予定。
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松永史談会6月例会のご案内

2024年05月31日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会6月例会のご案内

開催日時6月28日 午前10-12時
場所 蔵

話題:『国立公文書蔵版芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンスについて


なお、先月予告の通り、松永史談会の活動報告をかねて引き続き①令和6年度市民雑誌『文化財ふくやま』第59号投稿論攷(無査読)ついては雑誌本体を6月例会時に配布、②『福山城博物館友の会だより』№54(無査読)分については抜刷形式で7月例会時に配付予定。

関連記事
➊(亀山士綱)➋(古川古松軒、馬屋原重帯)
参考資料及び文献:
広島藩の地方(ぢかた、=地域)情報及び地方支配に関する諸規則を集めた役用マニュアル本=『吹寄青枯集』(広島県立文書館資料集 1、1991 地域情報なし)・『芸備郡要集』や国郡志編纂用佐伯郡辻書出帳など(『廿日市町史』資料編2/付図付き,1975.に所収)。勝矢倫生「享和期における広島藩諸郡の経済状況-『芸備郡要集』の分析を中心として-」、尾道短期大学研究紀要 32 (1), 1-40, 1983(「広島藩における農政に関する基礎的研究-2『芸備郡要集』にみる享和期農政の動向-」,尾道短期大学『研究紀要』第30集の1の続編とある)。勝矢は地方書研究の専門家だが、『芸備郡要集』自体の理解に関していえば本史料を直接参照することで事足りよう。



『芸藩通志』・『防長注進案』に関しては羽賀祥二「記録の意図と方法-19世紀日本地誌と民俗記述-」(若尾祐司・羽賀祥二『記録と記憶の比較文化史』、名古屋大学出版、2005、57-88頁)・・・ユニークな問題意識に動機づけられた論攷
西村晃「世羅郡の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の編集について」、広島県立文書館紀要13号、2015、p193-217・・・【「国郡志御編集」の中身をチェックするために宇津戸で行った作業を世羅郡全体でも行う予定同様に『尾道志』と33/34巻との比較も】。
広島県内の自治体史には域内の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の紹介やその郡単位での編纂過程について説明したものが各種存在する。例えば『東城町史・古代中世・近世資料編』、1994.『呉市史』近世Ⅱ、1999など。
最近では広島県立文書館が西向宏介「近世芸備地方の地誌」で史料紹介など、ほか多数。


賴杏坪論関係では
頼 祺一「朱子学者の政治思想とその実践-賴杏坪の場合-」(上・下)、芸備地方史研究64(1-14頁)、および65/66合併号(20-29頁)、1967参照のこと(近世後期朱子学派の研究 、渓水社 1986年に転載・・・基本文献)。
頼 祺一や重田定一(『賴杏坪先生伝』、明治四一年の著者)らによると、賴杏坪の場合は29才時に藩儒(朱子学、陽明学を否定)として登用され、70才過ぎには三次町奉行になった人物で、いわゆる朱子学の教説を信奉した教養ある吏員ではあった。『芸藩通志』編纂を見る限り『防長風土注進案』(時局的に実現を見なかった『防長国郡志』の現存する草案)(→研究書:『防長風土注進案別冊付録』)を編纂する長州藩の長州藩家老村田清風や国学者近藤芳樹ららに比べ、逼迫した財政状況下での広島藩の取り組みはどの程度のものだったかはちょっと気になるところ(。。。。論理化中)。なお福山藩の場合は『備後郡村誌国文研の国書データベースへ』と菅茶山ら編纂の藩主用政治書・教養書『福山志料』。
【メモ】貝原益軒『筑前国続風土記
巻2ー河内地名(山間一谷内にある村々、例えば筑前国那珂郡岩戸河内 12ヶ村構成)、世羅郡宇津戸村や沼隈郡山南村ー谷中
貝原益軒はGeosophie(生活環境をデザインしたり、生活世界の在り方を特徴付けている時代的知や社会的知)研究の対象者として把握予定。


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松永史談会5月例会のご案内

2024年04月26日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会5月例会のご案内

開催日時と場所
5月31日(金曜日)午前10-12時、『蔵』
話題 今川了俊『道ゆきぶり』の内容分析。


先月予告の話題[佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)]は6/7月例会に順延。
テキストとして稲田利徳執筆の『中世日記紀行集』小学館、1994、389-425頁に所収版を使用予定。この詳述版が後掲の基本文献①/稲田利徳論文1~5。

松永史談会の活動報告を兼ねた市民雑誌(中近世移行期に於ける松永湾北岸域の風景点描②を扱った『文化財ふくやま・59号』と幕末期沼隈郡内豪農層の思想傾向と関連付けながら行った安政4年「松永湾岸風景図屛風」の絵画史料分析物を『福山城博物館友の会だより・54号』)掲載論攷(学会誌では「短報」)の抜刷2冊(『文化財ふくやま・59号』は抜刷及び雑誌本体)は6月例会時に配付。

紀行文研究に関する松永史談会の関連記事①松永史談会2024年2月例会:賴山陽の修史事業に影響を与えた、史志(or 地誌)編纂家古川古松軒(1726~1807)の行動と精神(=学的方法論)について
関連記事②松永史談会2017年5月例会:賴山陽『東遊漫録』に言及した「湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―」

参考記事
基本文献)
ネット上に公開されたテクストとしては国文学者稲田利徳「今川了俊『道行きぶり』注釈1-5」、岡山大学教育学部研究集録、1992。
この小学館版には稲田利徳校注・木下勝俊(長嘯子/ちょうしょうし)『九州の道の記』、571-586頁もある。4月例会では広島県立博物館のメイン展示物草戸千軒遺跡と福山城下の中に再編された「神島 上中下市」に言及したが、実は後者のみが『九州の道の記』には登場し、ここに居住した人物と木下は暫し蹴鞠を楽しんだ場所として登場(珍しい蹴鞠に付近の住民が多数参集し見物・・・出兵時の武将:木下勝俊がどういう精神状況だったかは不明だが、現在の神島橋付近のしかるべき場所で、ここ住まいの都会育ちの人物某(足利義昭の近習)らと長時間蹴鞠を楽しんだ)。なお、4月例会では広島県歷博発「神島(地字「古市」あり)不在の草戸千軒論」には不自然さがあることを指摘。5月例会では今川了俊『道ゆきぶり』には無記載だが、この朝鮮出兵(1585年)当時の旧沼隈郡域の記述に関しては『中世日記紀行集』小学館版細川幽斎『九州道の記』(伊藤敬校注に言う、秀吉の滞在先=備後津郷にあった公儀御座所、郷土史家の間では足利義昭がらみの言説として流布する場所)など他の古記録についても紹介予定。
単行本)中世史家川添昭二『今川了俊』、人物叢書、吉川弘文館、2023(初版は1964)。

雑誌論文)地名考証関係では渡邊世祐「足利時代の山陽道」1-3、歴史地理4-8/9/10、1902.


角重始「道行きぶり」の世界、広島文教女子大・文教國文學25,2023、10-27頁。....既往の研究を川添(歴史)>稲田(文学史)に(九州地方平定作戦を推進させる中での紀行文制作という文脈に焦点=)比重を置きながら今川了俊の九州行を要領よく再整理したもの(謂わば、国文学者による歴史学的研究もの)。
小沢富夫『家訓』、講談社学術文庫683 今川了俊の「今川状」(弟仲秋に残した人生訓・・・江戸時代の庶民道徳にも影響を与えたもので、利欲を廃し公正を尊び、神仏を敬うと言った道徳観に支えられた武家道徳を説いたもの)
今川了俊『難太平記』

[福岡県・みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」]よりとりあえず参考までと言うことで、全文引用
「今川了俊は、九州進発にあたって、前の大将軍渋川義行の失敗にかんがみて慎重に作戦計画を立てた。すなわち、一族の者を豊後と肥前に上陸させ、その地の武士を糾合(きゅうごう)して太宰府へ向かい、了俊自らは少し遅れて正面から門司へ渡り、豊前・筑前を経て、太宰府で一族の者たちと合流し、懐良親王方を壊滅させるというものであった。
 了俊は京都出発にあたって、備後・安芸の守護職を兼任して、両国の軍勢を動員し、更に、周防・長門の守護大内弘世と婚姻関係を結んでその協力を得て、その強大な軍事力に頼るところ大なるものがあった。
 応安四年(一三七一)六月、了俊は子息義範(よしのり)を備後尾道から、船で豊後高崎城に向かわせた。
 豊後では、このころ大友氏継(うじつぐ)から親世(ちかよ)へ家督が移り、氏継が南朝方へ走るという事件があった。足利義満―細川頼之ラインが守護クラスの大名家の家督問題に介入したらしい。今川了俊は「京都の御さたのおもむきをしり候ハぬ人々」が、これを不満に思って、氏継とともに南朝側へ走ったと述べている(『入江文書』卯月十五日付)。
 菊池武光は、高崎城の今川義範軍を包囲して、翌応安五年(一三七二)正月までの半年間に、一〇〇余度も合戦を繰り返した。
 今川義範が豊後へ向かった翌月、了俊の弟仲秋(国泰・頼泰・入道仲高)も尾道を船出し、十一月、肥前松浦に上陸し、松浦党の支援を得て、肥前の各地で戦い、応安五年二月、烏帽子(えぼし)岳で戦って、菊池次郎武政を破り、軍を筑前に進めた。
 今川了俊は、応安四年十月に入って長門国に到着し、十二月、門司へ渡海した。これを聞いた菊池武光は高崎城の包囲を解いて、軍を太宰府へ返し、肥後との連絡路を確保して、太宰府の維持に努めた。
 応安五年二月、今川了俊の軍は、筑前麻生山の多良倉・鷹見岳(八幡西区カ)攻めにかかり、少弐冬資や大内弘世の奮戦によって、両城を抜き、太宰府に近い高宮に陣をしき、肥前長島庄から蜷(にな)打へ進出してきた弟仲秋の来陣を待った。同年八月、菊池肥前守武安を筑後酒見城で退けた仲秋軍は、菊池武安を追って筑前に入り、了俊の軍と合流して、両者は一挙に太宰府攻撃に移った。
 応安五年八月十二日、太宰府は陥落し、懐良親王・菊池武光らは、筑後高良山へ移った。このあと、大内弘世ら中国勢は帰国した。」

ネット上で見つけた参考文献
川添昭二・朱雀信城共編「九州探題関係文献目録-今川了俊-」、年報太宰府学第五号、74-60頁→今川了俊の研究文献リスト
太宰府市史・中世資料編(未見)

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松永史談会2024年4月例会のご案内

2024年04月16日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2024年4月例会のご案内

日時 4月26日 金曜日 午前10-12時
場所 蔵
話題 松永史談会2023-12月例会提供話題の続編として今回は青木茂「中世港町における航運活動-高野山領備後尾道を中心にして-」(『魚澄先生古希記念論集-国史学論叢』、1959)及び柴垣勇夫編『中世瀬戸内海の流通と交流』、2005、塙書房所収(兵庫・岡山・広島の県立博物館・考古学主導)の矢田俊文・藤田裕嗣(ここでは掲載論文ではなく、同氏の「安芸国沼田庄の市場と瀬戸内流通網」、歴史地理学136,1987を取り上げる)・松井輝昭氏らの論攷を検討しながら、中世瀬戸内海における経済(物流/交通)圏域論の現状とその問題点(具体的には史料の歪みや研究者自身の抱える歪みの所産、及び歴史研究者が陥りやすいパレイドリア現象の兆候)を洗い出しながら、松永史談会が実践してきた環境-歴史-文化という<思考の三角形>(⇒博物誌的)側面から中世備南地方に於ける新たな地域史研究の在り方を探って行く。

パレイドリア( Pareidolia)現象:視覚刺激や聴覚刺激を受けとり、普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにもかかわらず心に思い浮かべる現象、こうした現象はThomas Gilovich流に言えば「わずかなこと(=史料断片)から肯定的な(=自分の仮説に合致する)情報を探し求めたり、信じている(=自分の立てた仮説が動機付けとなって)と、そのように物事は(=なんでもない史料なのに当該仮説に合致した証拠資料のように)見えてくる。そして自分が信じたいもの(例えば自分が取り組んできた尾道・厳島)(=それらの港が瀬戸内交通の要衝であったと思えてくるといった風に)信じようとする」傾向とでも言い換えることが出来よう。
従って今回は網野善彦・宮本常一氏や予てより注目の中世瀬戸内海域史研究の第一人者山内譲氏にはちょっと失礼という感じの話題提供となる。なお、4月例会の話題は5月例会予定の佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)の紹介のつなぎとして提供するものである。

これまで関連記事
①歌西金寺境内の伝「和泉式部供養塔」から見た松永湾
②続「中世歌島荘研究の成果と課題」
③松永史談会2023年11月例会のご案内-第一報-  杉原保
④2023-6例会「庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-」
⑤2022-11例会: 毛利氏の「海の御用商人」尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つる木浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(1)-
⑥2022-5 「中世沼隈郡新庄今津における『弁財天女の霊廟』-薬師寺蔵今津金剛寺本尊如意輪観音像の拝観に事寄せて-」

❽松永史談会11月例会のご案内-第一報-網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。
❾伊予-備後の田頭氏と「因島中庄田頭氏家伝」(全面的にrewrite予定)、松永史談会会報2021-1/2(号外)//非表示
❿松永史談会2023-12例会:網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく
など多数。
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松永史談会 2月/3月例会のご案内

2024年02月05日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2月例会のご案内
2月例会(2月の最終金曜日が天皇誕生日のため、開催日を一週間後ろへずらす
3月1日 午前10-12時 蔵2階
話題:賴山陽の修史事業に影響を与えた、史志(or 地誌)編纂家古川古松軒(1726~1807)の行動と精神(=学的方法論)について

その他、例えば古川古松軒『東遊雑記』平凡社・東洋文庫版、「四国道之記」翻刻版 岡山県立博物館研究報告10…国会図書館は利用登録をすれば簡単にデジタルコレクション内の書籍閲覧が可能。古松軒の年譜は岡山県立博物館研究紀要1(古川古松軒史料--日記・雑記 / 竹林栄一/p23~46)、1978が掲載。

関連記事➊「湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―」松永史談会2017年5月例会
関連記事➋「偽史言説(0r fakelore)としての「高諸神社」@福山市今津町」(論文化予定のため非公開)
これまでの古松軒に関する研究上の論点を抑えたうえで、本年度公開の市民雑誌投稿論攷に続編という位置づけでの話題提供となる。古松軒を京都帝国大学の経済学者黒正巌(1922年)は江戸時代の「地理学者(geographer/geographical-lorist)」だとしたが、正確にいえば当時としてはgeographical-loristとしての傑出した「地理学者」だった。学術的には地理学者野間三郎辻田左右男の業績等も一応頭の片隅には置いたものとはなるが、ここで今回注目するのは新井白石/貝原益軒-長久保赤水/林子平/古川古松軒→・→(我が国の読史地図研究=今日の読史地図派歴史地理学や地名考証学に道筋をつけた)吉田東伍・河田 羆(高橋淡水の地理学の先生)へと繋がる(和漢混淆/和洋折衷ということにはなるが)我が国に根付いていた、一昔前の”Historiography”の水脈にも光を当ててみる。

3月例会
開催日時 3月29日 午前10-12 開催場所 蔵 
話題:『西備名区』(西備図絵を含む、文化元年~5年、1804~1808)に見る馬屋原重帯の地理事蹟研究及び古学研究の在り方(学知的傾向とその水準)について(菅茶山『福山志料』・弁説の中身に関しても必要に応じて言及)
<要旨は2025年度の市民雑誌(無査読)投稿予定>
西備名区』@国会図書館(簡単な利用者登録が必要)。
岩橋清美『近世日本の歴史意識と情報空間』、名著出版、2010。佐竹昭「地誌編さんと民衆の歴史意識」、広島大学・地誌研年報5,1996、59-76頁など一応視野に入れておくが「空間認識」「歴史意識」ではなくknowledge(知→geosophy:前近代的地理思想)上の問題として定式化していく。なお、副次的な問題に過ぎないのだが、佐竹論文はlocal historyがnational historyに包摂される過程を構想した論攷だが、わたしの理解では事柄の本質は佐竹論文の真逆、すなわちnationalなもの(例えば尊王思想、瀟湘八景といった類の「思考の鋳型」)がどのような形で「地元化」=regional/localなもの中に拡散/浸透(=定着)して行っていたのかという側面の見極めにあると考えており、その方面からの言及予定。

参考文献:西向宏介「近世芸備地方の地誌」広島県文書館収蔵文書の紹介
国土地理院・地形陰影起伏図
等高線図(一〇メートル~一〇〇メートル間隔)
色別標高図
表層地質図@国土地理院
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松永史談会12月例会/次年度1月例会の予定

2023年12月01日 | 松永史談会関係 告知板

令和6年1月例会予定(第一報)

開催日時:1月26日午前10-12時

開催場所:蔵2階

話題:続編執筆を念頭に入れた令和6度版市民雑誌投稿済み原稿の一つ(Microstoria/ミクロストリア・・単なるケーススタディーではなく、史料的細部の精緻な分析を通じて、「小さな場所で大きな問い」を立てようとする類のイタリアのカルロ・ギンズブルクらが提起した歴史研究における一つの野心的試み)について補足的・発展的に解説

 

松永史談会12月例会のご案内

開催日時:12月22日 金曜日 午前10-12時

開催場所:蔵2階

提供話題:網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの第二回目として、

12月例会では 西田正憲氏論攷の内容紹介/(批判的吟味)検討を含めて、次年度市民雑誌投稿済み原稿の一つを取り上げ、その内容を補足的・拡張的な方向で解説する[原稿の中では「遺芳湾(茶山が松永湾に与えた風雅な呼称)」との記述に留めたが、より正確に言えば、菅茶山自身は藤江・奇好亭から望む松永湾岸の風景を中国の代表的景勝地の一つである杭州「西湖」に準(なぞら)え称賛(明言はしていないが、感覚としては松永湾岸の風景を”小「西湖」”に見立てる・・・漢詩人:梁川星厳は上野不忍池や東金八鶴池を漢詩の中で風雅な”小西湖”と呼んでいる)。従って、茶山が松永湾を捉え「遺芳湾」と命名したのは、当該湾一帯における諸利権を福山藩から独占的に付与され、藤江山路氏が栄華を誇っていた当時(1826年当時)の時代状況を文芸的に表現したもので、それは漢詩「遺芳湾十二詠」の台詞中の文言(「予因名其湾曰遺芳以祖先為南朝遺民而不受足利氏汚穢也」)にある通り、山路氏の先祖が後醍醐天皇に忠誠を尽くした南朝方の遺民・北畠氏(あるいは別の言い伝え/実はわたしの直観によれば、橘姓楠木氏流・讃岐白方の山路氏)で、今日の繁栄は儒教的名分論の精神にも合致した素晴らしい遺徳(遺芳とほぼ同義)の表れであるという意味でこの名称を使ったものだ」と指摘し、それに関連した諸解説を行った]。

参考文献

  • 西田正憲『瀬戸内海の発見』中公新書1466、1999。
  • 西田正憲『自然の風景論』AsahiEcoBooks33,2011年。
  • 白幡洋三郎『瀬戸内海の文化と環境』(新・瀬戸内海文化シリーズ2)、1999.西田正憲「瀬戸内海の風景と異文化のまなざし」、246-267頁(中公新書版の論旨をまとめ直したもの)。
  • 瀬戸内海の環境情報@環境省
  • 野間晴雄編著『風景表象の比較史』、関西大学東西学術研究所、2023。林倫子「山紫水明と東山鴨水」111-140頁と西田正憲「自然の風景表象と風景の政治学」141-164頁を所収。
  • 松永湾(@備後灘・燧灘)の水環境・・・干潟・藻場に注目

 

 

 

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松永史談会11月例会のご案内-第一報-

2023年11月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会11月例会のご案内-第一報-

開催の日時と場所
11月24日 喫茶「蔵」2階
話題 網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。

○渡邊 誠 「胎蔵寺本尊胎内施入の元版本『大乗妙法蓮華教』について」芸備地方史研究303 2016の吟味を兼ねて、瀬戸内地方でのInter-regional( 相互地域的)な視角のあり方について考えていく。渡辺には本論攷の続編:渡邊 誠  「備後国の臨済宗法燈派(安国寺・常興寺・善昌寺)についての補訂」芸備地方史研究309,2018、1-16頁がある。ここでは宗派図を増補し、招来した経典類を一般輸入品としてではなく留学僧の持ち帰りもの(一種の土産物)と言いたげである。なお、山手三宝寺(伝杉原一族の墓が少々)の話題は登場するが、大檀那杉原氏(坊さんたちのスポンサー達)自体の動向に関しては沈黙。

参考事項)福山市北吉津町・胎蔵寺胎内施入物 

真言宗大覚寺派胎蔵寺(地図)について(全文引用↓

「胎蔵寺は、正式には「松熊山(しょうゆうざん) 阿釈迦院(あしゃかいん) 胎蔵寺(たいぞうじ)」と称し、京都・嵯峨野の 大本山大覚寺を本山とする、真言宗大覚寺派の寺院です。現在の広島県庄原市西城町に創建された寺で、中世には七坊を数える大寺院であったとされています。現在その地は「胎蔵寺跡」として庄原市の史跡となっています。胎蔵寺山門の屋根を支える蛙股の中に刻まれている紋は、西城に居城した宮氏のもので、胎蔵寺が西城より移建されたことがうかがえます。江戸時代初頭の慶長年間(1596~1615)、福島正則の時代に西城町から福山市神辺町へ寺地を移転し、福島丹波の祈願寺とされました。」『水野記』(寛永期社寺温改めの結果)には吉津に移転し、そこでは一向宗・成興寺、本尊は釈迦三尊と記載、その後寺の名称が胎蔵寺に変更され現在に至るようだ。本堂にまつられる本尊は、胎蔵寺の本尊ではなく、福山城地に築城以前にあった「常興寺」の本尊を胎蔵寺の本尊として移されたもの。毛利氏以後の大名たちによる寺院つぶしの強引なやり方が痛感されよう。つまり、現在の胎蔵寺の本尊は今はなき常興寺のご本尊という謎(転用・廃物利用)を秘めた代物だ。なお、鞆安国寺のご本尊(善光寺式阿弥陀三尊)は1273年に造られた元金宝寺のご本尊。ここでは胎蔵寺のケースと異なり、足利尊氏の時代(1339年)に寺の名前だけを安国寺に変更したらしい。松永史談会の関連記事、例えば「新庄つる木浦新考」(2022年11月例会)
中世塩浜考-「文安3(1446)年備後国藁江庄社家分塩浜帳」を巡る比較文化論-(2020年1月例会)
(「法人類学視点から見たオランダ領インドネシアの中国銭についてーインドネシアの慣習法典(Buku awig awig subak)を読むー」2023年2月例会)

続「中世歌島荘研究の成果と課題」(2023年5月例会)庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-(2023年6月例会)
古くは「『戊子入明記(ぼしにゅうみんき)』を読む”」(2018年8月例会)

◎宮本常一「瀬戸内海文化の基盤」、民族学研究26-4、1962、237-257頁(→貴重な成果だが、かなり陳腐化)。

草戸千軒遺跡から出土した舶来陶磁器事例と胎蔵寺(旧深津郡椙原保・常興禅寺本尊)仏像胎内施入経典の印刷先(浙江省杭州)、寧波は尾道発の日明貿易船(15世紀)の中国側入港先。

杭州龍興寺の刊経活動

杭州@googlemap、天台山国清寺
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松永史談会10月例会のご案内

2023年10月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会10月例会のご案内

開催日時 10月27日(金曜日)、午前10-12時
  場所 蔵2階
「尾道・艮神社旧蔵『建治元年貢之郡尾道畧圖』考」(市民雑誌次年度号に投稿済み)
10月例会では赤松俊秀の提起した証験類を巡る「権力と権威」という側面と共に松永史談会7月及び9月例会の話題(folk-lore、就中Geographical-lore(例えば小早川秀雄/1802-1853は備中足守藩士出身の処士で徂徠系の儒学を修め、史伝を好み若い頃は諸州の旧跡遺跡の歴遊や古瓦遺物の収集、晩年は倉敷の書林林家に寄食しそれらの探究結果等を風土地理書:『吉備国史』稿と言う形で一部整理、内容的には古典的だが、『建治元年貢之郡尾道畧圖』理解には役立つ))繋がりで「知(ナレッジ=Knowledge)」に関わる問題にスポットを当てる形での話題の提供を心掛けたい。

吉田東伍 著 [他]『大日本読史地図』、昭和10 ●頼又二郎標註図記『校正標註日本外史』13、明治17年 に多数の考証地図

賴又次郎(士剛)は賴山陽の二男、賴三樹三郎の兄。広島賴家・賴春水の後継者となる賴餘一(聿庵)・・・賴山陽の長男ヵとは異母兄弟(要確認)。

小早川秀雄が『吉備之志多道』の著者・古川古松軒(古川平次兵衛)と「吉備中国上古南方図」(鬼の身/キノミの城主上田家伝来にして、総社市山田村在住の三村某が所持したもの)を巡ってどのような関係を有していたのかという点については大いに検討の余地あり。この図面に関して古松軒は「海は地となれど共、山も形は動くべき理なし、是を以て、見るに齟齬多し。然れ共私意を加えず、旧図のままに図せり。見る人考えらるべし」(396頁)と。この人物の特徴は僻説を排する姿勢を貫徹しているところ。

吉備郡史・下巻(出版者名著出版、出版年月日1971、元版は昭和12年)によると小早川秀雄は足守藩士吉田源五兵衛方行の次男。秀雄の母親は古川平次兵衛の妹と三宅甚庵との間に出来た娘・八重。つまり古松軒から言えばその姪の子供に当たった(3522頁)。吉備郡史の中で編纂者永山氏は小早川秀雄と古川古松軒とを史志編纂家として分類。足守からは蘭学者の緒方洪庵を輩出。古松軒自身は独学の人だったらしい。

メモ

質問
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回答
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岡山県総合文化センター(現岡山県立図書館)には、例えば「備中国賀夜郡服部郷図」や古川古松軒自筆の「備中国加夜郡高松城水攻地理図」など「塚本家蔵図書」の印が押された資料が収蔵されている。塚本吉彦の名は岡山の郷土資料に接する者にとっては忘れがたい人物の一人である。  塚本吉彦は天保年間(天保10~大正5)の生れ。岡山藩学校に学んだ秀才と伝えられ、郷土の歴史や地理に興味を持って多くの資料を収集し、記録、編纂して、後世の郷土研究の先駈けとなった。号を澹如あるいは好古といった(雑誌『温古』77号 昭和5年6月)。  塚本吉彦は吉備史談会の活動とともに知られる。史談会での講演をまとめた『吉備史談会講演録』(明治37年、以下『講演録』と略す)の緒言によると、吉備史談会は、明治32年第三高等学校医学部(のち岡山医学専門学校)の眼科教授として赴任、東田町に住んだ井上通泰が塚本、岡直廬(なおり)、松本胤恭(たねやす)らに、「時々相会して吉備の歴史を研究しては如何」とはかったのが始まりという。同年11月18日付の「山陽新報」は会長に井上通泰、幹事に塚本・松本・岡のほか、羽生芳太郎(のち永明)の4人が決まったと報じている。  第1回の史談会は明治32年8月13日、井上の家で開催された。会は初め月2回、のちには月1回となったが、会員の増加によって薬師院、国清寺、さらに後楽園栄唱亭などが会場にあてられている。史談会の様子はその都度当時の山陽新報の記事になった。  『講演録』には、塚本のほか、岡直廬、有元稔、正宗敦夫、小野節、羽生芳太郎、井上通泰、武田猛夫などの40の講演が収録されるが、このうちには塚本の、姪八重へ与えた古川古松軒の書状を紹介した「古松軒の消息」のほか、「松平忠継君略伝」、「正木大膳亮時堯の伝」などあわせて16の講演が含まれ、その数は塚本が最も多い。  史談会での講演は生の資料を示しながらの報告であったと思われる。『講演録』の末尾に示される出品目録が物語るところであろう。  塚本は大正5年(1916)東京で客死したという。『温古』77号の記事は、塚本所蔵の吉備文献の多くは東京上野図書館に送ってあったため、不幸にも関東大震災で烏有に帰したと伝えている。『講演録』に紹介された資料はもはや現存しないのであろうか。  当館では『講演録』のほか、その編になる『吉備群書解題』や「類纂虎倉物語」(『吉備郡書集成』第三巻所収)ほかを閲覧できる。
質問
(Question)
羽生永明の生涯について知りたい
回答
(Answer)
塚本吉彦と同じく吉備史談会の主要メンバーの一人で、平賀元義を世に紹介した功績で知られる。  明治元年(1868)に長野県で生まれる。本名は芳太郎、号は東洋。明治42年(1909)に永明と改名した。父は長野県飯田藩堀家家臣。  長野県尋常師範学校、国学院本科、選科を卒業した後、はじめ岩手県尋常師範学校に就職。  岡山との縁は、明治29年(1896)に岡山県岡山尋常中学校(岡山朝日高等学校の前身)の教諭として赴任したときに始まる。3年後の明治32年(1899)、郷土の歴史研究グループ吉備史談会が発足、それに幹事として参加し、岡山県の歌人、平賀元義について研究した。  羽生の研究成果は、明治33年(1900)1月21日より山陽新報上で「恋の平賀元義」と題して発表される。羽生の発表の形では8回だったが、それ以降井上通泰らからの意見・疑問が数多く新聞社に寄せられたため、思いがけず紙上で議論が沸騰し、最終的に26回の連載になった。これにより平賀元義という歌人を知った正岡子規は、明治34年に新聞「日本」での連載「墨汁一滴」で13回にわたって元義を紹介、その作品を絶賛している。  その後、羽生は長野で職を得て帰郷するが、明治39年(1906)には再度来岡する。金川中学校、西大寺高等女学校に教師として勤めながら、現在の久米郡柵原町の矢吹家に伝わる元義の数百部に及ぶ著作を調査した。これは後「平賀元義伝」としてまとめられるが、羽生本人の死去(昭和5年)、太平洋戦争などを経て世に出ることがなかったため、元義研究家の間では「幻の稿本」と呼ばれていた。  その原稿は昭和53年(1978)に東京の羽生家で発見され、昭和61年(1986)に山陽新聞社から「平賀元義」として出版された。元義研究の基本図書として高く評価されている。  なお、矢吹家に伝わる元義の原稿は、写真製本したものを当館で見ることができる。 【参考文献】 羽生永明の著作としては前出『平賀元義』のほか『平賀元義研究資料』羽生永明著文化センター製作がある。正岡子規の「墨汁一滴」は『子規全集第11 巻』/講談社1975 に収録されている。
ここで登場した史志研究家平賀元義は『西備名区』編纂者馬屋原重帯(しげよ)の古学的教養同様に今日的にいえば気の毒なほどお話にならない人ではあったが、この人は古川古松軒を軽く批判するなど結構鼻息の荒い地方文化人(郷学の先生)だった。
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松永史談会9月例会のご案内

2023年09月01日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会9月例会のご案内

開催日時:9月29日(金曜日) 午前10-12時
  場所:喫茶「蔵」2階

メインの話題 「文化15年沼隈郡東村風俗問状答-満居石井家文化文政期新出史料紹介-」
(詳細は『福山城博物館友の会だより』№54、20-27頁に掲載済み)

彼岸花満開のこの季節・おがわ農園産”お彼岸スイカ”(タキイ種苗のべにまくら種)

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松永史談会8月例会のご案内

2023年08月01日 | 松永史談会関係 告知板

松永史談会8月例会のご案内

開催日時及び場所
8月25日 午前10-12時、於『蔵』2階
話題 福山城博物館蔵『松永湾岸風景図屛風』新考
なお、この話題は「福山城博物館蔵『松永湾岸風景図屛風』考」といったタイトルにて市民雑誌・2024年度版(査読なし)に投稿済み

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松永史談会7月例会のご案内・第一報

2023年07月01日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会7月例会のご案内・第一報

開催日時及び場所 7月28日 午前10-12時、喫茶「蔵」2階
話題 文化文政期のいわゆる諸国「風俗問状答(ふうぞくといじょうこたえ)」について


解説:関藤藤陰『観国録』や菅茶山『福山志料』について既に吟味済みだが今回は柳田国男及びその薫陶を受けた中山太郎『校註諸国風俗問状答 』平山敏治郎氏(歴史/民俗学)に学びつつ、菅茶山編著『備後福山領風俗問状答』,馬屋原重帯(うまやはらしげよ)著『備後国品治郡風俗問状答』,河本四郎左衛門眉旨著『沼隈郡今津村風俗風俗問状答書』,笠井治右衛門著『沼隈郡浦崎村風俗問状答』,本庄村庄屋庄次郎著『備後国深津郡本庄村風俗問状答』等の記述内容の吟味とその地域史(というか、むしろ民衆史・社会史)研究への活用法について問題提起していく。

関連記事 松永史談会では『沼隈郡今津村風俗風俗問状答書』(1818年)に関してこれまで何度となく取り上げてきたが、例えば➊(松永史談会2018-3例会「地方史料を通してみた近世中期沼隈郡今津村における”四季の移ろい”」
平田篤胤『仙境異聞・勝五郎再生記聞』岩波文庫を媒介項として設定しながら平田篤胤・屋代弘賢大国隆正グループ(和学)の思考様式→より深いレベルの『備後国名勝巡覧大絵図』読解作業中。

当日『文化財ふくやま』(第58号、2023年5月31日発行)掲載の松永史談会2020年2月例会報告の骨子をまとめた「方法としての作家高橋淡水」(無査読・小論考)・抜刷版をお渡しします。なお、淡水に関しては『日本近代文学大事典』編集用に日本近代文学館に情報提供済みです。



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松永史談会6月例会のご案内-第一報-

2023年05月26日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2023-6月例会のご案内-第一報-

開催日時 6月30日 午前10-12時
会場   喫茶「蔵」2階
話題   庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-


参考史料(松永史談会2022-3例会配布資料を再編集:寛永期尾道町宗門改め帳抜粋)
かつて遊行者たちが一時滞在や寄留した尾道・浮御堂
【メモ】作田高太郎は江戸時代の農民たちの霊場の廻国が生活苦から行われたケースに言及し、それは野垂れ死にを覚悟のことだったと作田は書いていた。四国88か所霊場巡りもそういう側面を持っていたし・・・・・。これらの話題は『世事見聞録』から引用されたことのようだが、おそらく作田自身も幼少期に沼隈郡藤江で見聞したことがあり思い当たるところがあったのだろう(『徳川権力史論』230-252頁)。
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松永史談会5月例会のご案内-第一報-

2023年04月29日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会5月例会のご案内-第一報-

開催日時及び開催場所 5月26日 午前10-12時 「蔵」2階
話題:続「中世歌島荘研究の成果と課題」
松永湾岸の住民と関係の深かった旧御調郡向島町東部の中世(歌島郷土研究会や西条静夫氏(『和泉式部伝説とその古跡』)の研究成果、そしてさらには網野善彦・松井輝昭氏等の論攷を踏まえながら、次のステップに関わる問題圏)をハイライト化させる形での話題提供となる。
テーマ自体は形式的には2021年11月例会(話題:大炊寮領備後国御調郡歌島(荘)の研究ーその成果と課題ー)の続編という形を取ったが、内容的には、これまで行ってきた松永史談会の研究成果の断片化を回避するために、2022年5月例会(中世今津に存在した金剛寺(現在は廃寺)の本尊:如意輪観音像の拝観及び「中世沼隈郡新庄今津における『弁財天女の霊廟』-薬師寺蔵今津金剛寺本尊如意輪観音像の拝観に事寄せて-」)及び2023年4月例会(「つる木大明神が(式内)高諸神社へ-江戸時代に横行した偽文書制作とか偽史言説(or fakelore)の流布について-」)と関連付けながらのものとする。
松井輝昭「厳島神社の弁財天信仰の成立とその性格」、県立広島大学人間文化学部紀要8,2013年、137-148ページ。
11月例会当日参加者には尾道市提供の歌島郷土研究会編『歌島の中世文書』など配布済み。
連絡事項
①2022年12月例会(話題「松永町出身の著述家高橋淡水(1872-1922)を偲んで」)は市民雑誌「文化財ふくやま58号」(2023年6月刊、査読なし)に「方法としての作家高橋淡水」として掲載されます。抜刷版を7月例会(7月28日)時に配付予定。
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松永史談会4月例会第一報

2023年04月03日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会4月例会を下記の日程で実施します。

開催日:4月28日 開催時間帯(午前10-12時)。
開催場所:喫茶「蔵」二階
提供する話題「つる木大明神が(式内)高諸神社へ-江戸時代に横行した偽文書制作とか偽史言説(or fakelore)の流布について-」

4月例会は偽文書の制作や偽史言説の流布に関して善悪/虚実/正誤という(現代人の)価値軸の中での邪悪で負性を帯びた存在として非難や不正行為の暴露に終始するのではなく(、それはそれとして)、次段階の問題でもある、前論理的思考が蔓延していた江戸期に於ける日本人の歴史制作(ここでは寺社縁起・由緒書・事書類)や歴史認識(→生活環境をデザインしたり、生活世界の在り方を特徴付けている時代的知や社会的知の総体=geosophie)の在り方を念頭に置きながらの話題提供となる。
前論理的思考に関する追加資料9(松永史談会2019‐4例会配布資料の一部)10・・・関連記事11(2018年1月例会配布資料の一部)


3月例会の話題は来年度の市民雑誌に投稿(「中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描-2-」)予定です。





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松永史談会3月例会のご案内

2023年02月24日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会3月例会のご案内

開催日時 3月31日 午後1-3時
場所   喫茶「蔵」2階

話題 「中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(2)」
(市民雑誌・2024年度版に投稿済み)
   尾道渋谷家文書の読解を通して中世荘園としての「沼隈郡神村」と「沼隈郡新庄」の一端について最新の知見を踏まえて解説していく
。なお、当日は毛利氏の「海の御用商人」尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つる木浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(1)- 尾道文化41(2023)抜刷をA3サイズ(141%)拡大版ともども配付する。
空中写真上の×印は鍛冶神社or 金山彦神社、なお、旧沼隈郡内には藤江・千年・山南・熊野・水呑・鞆にこの種の神社があった。

 
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