- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

資料「竹原市歴史的風致向上計画」

2017年03月31日 | 断想および雑談
建築史的な報告書:港町竹原を理解するには便利。

竹原市歴史的風致向上計画




歴史的風致とは

 地域固有の歴史や伝統を反映した人々の活動と、その活動が行われる歴史上価値の高い建造物やその周辺の市街地とが一体となって形成してきた良好な市街地の環境のことで、建造物(ハード)と人々の活動(ソフト)をあわせた概念です

と説明されている。
コメント

2017年度松永史談会例会日程 第一報&4月例会のご案内

2017年03月12日 | 松永史談会関係 告知板
a)例会開催要領(第一報)

①開催日
喫茶店「蔵」の定休日(日・木・祝日)でない、毎月・第2週の月曜日か金曜日(逐次、開催決定曜日を本掲示板等にて事前連絡予定)

②開催時刻
午前9:30~12:00。

③開催場所
喫茶店「蔵」(ケーズデンキ・南隣)

b)史料調査(随時日程・場所をご案内予定)

4月例会のご案内
日時 4月10日 月曜日 、 午前9:30-12:00
テーマ 石井亮吉・村上正名・村田露月氏らの地域史研究の方法とその問題点


コメント

『農村青年 夜学読本』、洛陽堂

2017年03月10日 | 河本亀之助と東京洛陽堂




兵庫県揖保町在住の真殿清という青年の所有物だったようだ。


真殿清の居住地
寺子屋の教科書だった庭訓往来に毛を生やしたようなしろもの。忠孝思想、故郷観念の覚醒、入営(or 軍人・兵士として)の心得などもちりばめられている。山本瀧之助が深くかかわった大正3年以後段階の農村青年教育の方向性は一目瞭然。大正3年と言えば田中義一『社会的国民教育 一名青年義勇団』、博文館、大正4が出される前の年、これらの書は明治30年代以後読み続けられてきた青年向けの人生論書:大町桂月の『学生訓』などとは明らかに異質の方向性を持っていた。








村田露月のおひざ元にある沼隈郡熊野尋常小学校長高山編の教科書(夜学読本)だ。洛陽堂刊となったのは山本瀧之助からの口利きが効いた結果だろ。版を重ねているのでかなりの部数全国販売されたようだ。


コメント

河本俊三時代の洛陽堂出版物『リップス美学汎論』と『リップス美学各論』

2017年03月09日 | repostシリーズ

洛陽堂刊として汎論(大正10年刊)と各論(大正11年刊)の2冊ある。「美学汎論」は原書の第一巻(第3 空間美学、第4編 韻律、第5編 色と音と語を割愛)を、また「美学各論」は第二巻を全訳したものだ。洛陽堂版→字句の訂正→同文館版(大正15,1608頁)


Y.Onishiは美学者大西克禮(東京帝大)。私の手元にある本書は大西自身が持っていたリップス美学の原書だ。
リップスの本を見ていると心理主義と現象学の影響下で執筆された『善の研究』で知られる哲学者西田幾多郎ですら世界的視野から見れば如何によちよち歩き状態だったかが理解できよう。



それはともかく大正10年ころと言えば、精神主義(哲学)がもてはやされるようになり、自然と人間といった枠組みの中で何かを説明する自然主義的思考は流行遅れ、したがって心理主義とか心理学的解釈の時代は終焉を迎えつつあった。(翻訳作業の関係で出版が遅れた可能性は否定できないが、)そういうご時世にこんな売れないことが明白な翻訳書(大著/学術書)を出版した洛陽堂。

テオドール・リップス(Lipps, Theodor)の美学
コメント

岸浩編著『資料 毛利氏八箇国御時代分限帳』まつの書店、1987

2017年03月06日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
岸浩編著『資料 毛利氏八箇国御時代分限帳』まつの書店、1987の編著者岸は獣医さんだった人らしい。まことにユニークな御仁だ。見た目大著だが、内容的には数十ページの小冊子級。



徳山のマツノ書店は学生時代に『
防長地下上申』全巻を購入する友人に連れられていったことがある。こういう資料を制作してしまう長州藩と『備後郡村誌』や『福山志料』程度しか出せなかった福山藩との差はどうしようもなく大きい


延享期に山田五左衛門家に伝わってきた毛利氏の『八ヶ国御配地絵図』に記載された天正惣国検地の結果(文字注記)だけを抜き出して簿冊化し藩に提出したものらしい。まだ『八ヶ国御配地絵図』の現物には当たっていないのだが、とりあえずということで、今回は岸の編著書を図書館から借り出し、備後国(沼隈郡:毛利氏が支配下においた石高は8369石、御調郡:8704石、女房衆分の配地だけで沼隈郡は1300石余とダントツに多い)関係のデータを調べることにした訳だ。ここで紹介するのはその一部だ。興味のある人は標記の書籍を直接紐解いて見てほしい。なお蛇足ながら、女房衆分の多さは毛利一族に娘を差し出した人物(未特定)が沼隈郡にいたことを示唆するものだろう。

岸浩は『八ヶ国御配地絵図』に記載された天正惣国検地の結果(文字注記)が正しくテータ化されているかという問題を絵図にあたって逐一調べ直すという作業は不十分、この辺が一番よくない・・・・要するに結構ずぼらな史料集なのだ





毛利氏八箇国支配時代の領域支配のあり方の一端がうかがえ、興味深い内容だ。
以下では一例として備後国分


高須荘内に拠点を置いた高須三郎左衛門(杉原氏)の名前がある。

高須(洲)氏といえば日明貿易に深くかかわった家筋。福建省の港町普江(アモイの近く)から明船が赤間ヶ関か備後・尾道(尾路)港には来ていたようだ。



1450)尾道に拠点を置いて新庄に支配地を有した毛利氏の海の御用商人;渋谷与右衛門尉の名前もある。
沼隈郡に180石の給地を与えられていた。これは古志氏からの押収分のことだろう.渋谷は沼隈郡新庄にも領地を有したがこれは含まれていないのだろうか。


268)新座 今伊勢は神村の伊勢宮さんのこと。新座という語に誤りがなければこの神社は山陽道筋の要地に新らたに造営されたのだろう。今伊勢、今津(浦)そして今宮(大元神社境内の一角に高須八幡を新造営)。これらの地名に付与された接頭辞=今(New)は何か意味ありそうだが、いまのところ不明。

御調郡「うか島」は尾道水道に立地する「宇賀島(小歌島 おかじま)」(近世史料では「をか島」を通称)。

1864‐1866)白木は旧沼隈郡山南村の白木(新良貴)かな~(要確認)。



コメント

3月2日 史料(「六曲漢詩屏風」) 緊急調査

2017年03月03日 | 松永史談会関係 告知板
幕末~明治初年の漢詩屏風(六曲一隻)
何人かの人に声をかけ運搬作業に付き合っていただいた。
全体はこんな感じ

高さは6尺、横幅は12尺以上(画像上の屏風の縦横サイズは幾分横広がりになっている)、「瑞夢石」という「お題」に対する5人の人物の漢詩。記載された年号から判断すると一番古いところでは嘉永7年(1854)、新しいところでは明治9(1876)年。三藤町の家主三藤(小兵衛)家に伝わってきたものだ。
三藤嘉兵衛の所有地(場所はちょうど今津本陣前)にあった仕出し屋兼料理旅館「菅野屋」(経営者菅野鉄蔵)の庭石が三藤町の一角(歩道側の車止め)に残っている。「達磨石」(見た目、ただのお結び形の大きめの石)という名前の付けられたものだったらしい。[イメージ写真]・・・今回再発見した六曲漢詩屏風。昔はこんな感じで置かれたのかな?!

「未開牡丹」(山路機谷の『未開牡丹詩』)に比べ、「瑞夢石」というのはいかにもLucien Lévy-Bruhl風の言い方をすれば新しい時代の胎動を感じつつあった当時の文化人たちの意識を再び原始的心性の水準にまで後退させかねない前近代的なお題だ。以下はわたしの憶測の息を出ない話だが、三藤がこのようなハイカラ(共通課題の設定)のことをした背後には、もしかすると『未開牡丹詩』の編集実務者で、晩年今津宿(三藤小兵衛の居宅とは目と鼻の先)で寛塾を経営した武井節庵(1821‐1859)の影響があったかもしれない。ちなみにこの漢詩屏風の中に武井の漢詩はない。後述する『江木鰐水日記』には山路機谷の世話になった坂谷朗蘆・河野鉄兜・森田節斎らの名前はしばしば登場するがそこにも長期滞在した武井に関する言及なし。話は変わるが『江木鰐水日記』万延2年の記事としてゲベール銃代金献納者中に浜野徳蔵(1000両、銃200挺分の代金)が(そのゲベール銃は会津戊辰戦争では会津側の主力兵器だったが、新政府軍の新型兵器には太刀打ち出来なかった)。浜野は明治4年の騒乱で焼き討ちをされたが、見方を変えるとささやかな私的な利益誘導をしながら、藩政に寄与した大変な敏腕代官だったわけだ。中新開に浜野儀八名義の土地があったが、儀八は自分の親父(阿部家中・小川氏)の名前だった。


たまたま三藤町を臨地調査する過程で出会った史料だ。タイミング的には80年前に建てられた借家群を取り壊し、マンションが建設される直前のことで三藤さん自身もわたしの突然の訪問を大変驚いて(正確に言うと不思議がって)おられた。

本資料に関する詳細な内容はネット上にはUPしない。
坂谷朗蘆(1822-1881)の漢詩もある。
1870年の夏に今津駅を通った時に、前年に亡くなっていた友人の故山路機谷のもと(墓)を訪れた後で、おそらく宿の主人(or 坂谷の接待をした人物)でもあった三藤さんのご先祖さんの所望するところにこたえて制作されたものだろ。朗蘆は翌年には東京に移住するので、1870年夏という時期は、1870年に廃藩置県により廃校となった広島藩藩校での職を辞して帰省する途中立ち寄ったここ今津で書かれた作品ということになるのだろか。大変に貴重なものだ。

この程度のものなら町内の旧家には他にも残っているのだろと思う。幕末期の今津宿の住人たち(富裕層)の懐具合と文化水準(プチブルジョア的道楽意識のあり方)を知る一つの手がかりが得られた感じ。
江木鰐水(1810-1881)の漢詩については『江木鰐水日記・上下』(大日本古記録)があるが、ザーッと見、文久元年5月17日頃今津に関する記事はあるが、今のところ確たる手掛かり得られず。

関連記事:近世地誌類に記載された今津村の名石

コレクターたちが出品した先哲遺墨の中に・・・・。
今津・武井節庵の遺墨は石井英雄蔵とある。今津大成館は誤り→今津寛塾。

コメント