- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

備中国賀夜郡服織(服部)郷図写

2017年07月25日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
稲吉は在庁官人系の名主の仮名(けみょう)だ。福富・稲吉いずれも五穀豊穣をイメージさせる縁起のよい呼称(佳名・瑞称)。多分この稲吉は窪木在住の祢屋氏のご先祖だろう。


岡山県立大学キャンパスおよび長良山一帯に服部(織)郷の故地がある。備中国府の膝下にある関係で、稲吉は在庁官人であっただろうと考えられている。

この図面をみると国衙の支配する公田(くでん)が、鎌倉・室町時代に服織郷という備中国衙の御膝元に当たる場所に立地する律令時代以来の行政単位内において、如何に名田または名(みょう)と呼ばれる中世的な支配・収取単位に再編成され、その名田を基礎とする支配・収取体制=名体制が当該中世郷において成立していたかを知る手掛かりが得られるのだが、稲吉というのはその名体制を支えた服織郷内最有力の名主の仮名(けみょう)という訳だ。稲吉名は名田の多さから考えて国衙の役人(在庁官人)を兼ねるような、あるいはそれを出自とした服織郷の在地領主の名(領主名)といえる特別な存在だった。名田は一定の行政単位内において一定箇所にまとまった形で存在したり、逆に散在するケースなど様々だ。

【余談】この辺りは備中足守(陣屋町)・・・・旧藩主の息子で詩人木下利玄(旧陣屋は足守小学校)とか大坂に適塾を開いた緒方洪庵の生地、鬼ノ城(未探訪)などあるようだが、神護寺領足守庄やこの服部郷、平安貴族たちの配流地とされた備中中山一帯を中心にむかし京都から日帰りでよく調査に来ていたものだ。
足守八幡にジャンボな板絵荘園図が奉納されている。
こんなところ(岡山市足守)・・・・服部の隣町だ


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またまたお墓巡りー近代松永村発展に寄与した3人の人物といえばー

2017年07月12日 | 断想および雑談


炎天下、石段の途中でお勉強中(漢字書き取りとか計算問題)かと思いきや、ノートの余白に漫画の絵を描いている風だった それも大切な「お勉強」の一つなんだろうか。
普通はモノクロにすると雰囲気が出せるのだが少子化の時代を感じさせる写真が撮れたかなぁ。  


今回紹介する3人は『松永町誌』では政治行政家として取り上げられている。

村上兵五郎、専三の息子で第二代松永村村長。得能正通の親友の一人。当時は得能も村上もそしてこの後紹介する本多も二十歳代の青年だった。性剛毅だったと。いずれも慶応元年~明治元年頃生まれた人たちで、高島平三郎・河本亀之助世代だ。



壇上(1858-1910)は慶応2年18歳時に松永住吉屋壇上保次郎の養子となった人物で、生まれは芦品郡宜山村日野綱三郎の三男。三代目保次郎を襲名し、30歳代だった明治22-24、山陽鉄道の線路建設で神村・鏡山~高須・藤井川間の工事を請け負った。『松永町誌』によれば当初線路敷地の埋め立て用に羽原川河口部の浚渫作業によって得られた廃土の利用を考えたが計画通りにはことは運ばず、線路建設には多額の借金を重ねるはめになったようだが工事を完遂させた。壇上家墓地付近で石炭ガラを見かけた。保次郎は性は謙譲で公共工事=鉄道線路建設に尽力したと。


後ろ側の墓石がご当人。前側のものはその父親の墓石。


本多藤橘家の墓地。本多は機織新涯の埋め立て工事を行った人だが知的な親分肌の地方政治家(長年村会・郡会議員)だった。ちなみに息子著一郎は丸山鶴吉『五十年ところどころ』七 昇仙峽の一夜/75で紹介された当時誠之舎に入寮する旧制第一高等学校生で病弱のため東京帝大入学前後になくなっている。
村上兵五郎家と壇上保次郎家は絶家。



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松永史談会8月例会のご案内

2017年07月11日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会8月例会のご案内(第一報)

幕末~明治期の松永経済を牽引した入江屋石井家にスポットを当て,旧旦那(浜地主)層の屋敷の佇まいを残す割烹「大吉」を会場にして研究会を行いたいと思っています。
石井竹荘が元三原藩藩儒長谷川櫻南を招聘し明治16年に開校させた「浚明館」跡、山陽鉄道の停車場建設後発展をとげる「鞆往還」、「石井町」、「古小路」(元禄検地帳に「道東」と記載された「道」に該当)、「船町」「小代島(元禄期の「西島」)」竪入川跡、入江屋石井家経営の同族会社穀蕃舎(金融機関)など「大吉」周辺の現在ではすっかり市街地再開発/urban regeneration, urban revitalizationが必要な街並みを併せて巡検予定。

日時:8月20日(日) 11.30~14.30
場所:割烹「大吉」(電話 933-3164)
参加費5000円(ミニ懐石+キリンorアサヒ醸造のビール中ビン×4程度,ノンアルコールビール注文可)・・・予約済み


石井忠家家相図(明治25)を建築指図としての側面に焦点を絞って熟覧予定

貴重な文化財(軸装された史料)が痛まないように、マスク(唾・汗とび対策)と手袋をご持参ください。





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エコツーリズム:瀬戸内の島の中世を尋ねて(Medieval rice fields in Yuge island)

2017年07月10日 | repostシリーズ
エコツーリズム:瀬戸内の島の中世を尋ねて(Medieval rice fields in Yuge island)
















東寺百合文書WEB


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上土居・麻生栄墓探し

2017年07月09日 | 断想および雑談
普門寺





檀家が少なく管理が大変らしいがこざっぱりと清掃されていた。


幕末期の納骨塔を挟んで、西(むかって左)側に中土居麻生家墓地、東側に墓じまいをした感じの上土居麻生家。この一族と松永村の高須屋麻生氏との関係は不詳。家紋は異なる。こちらは卍紋。高須屋は八角に剣片喰紋





墓誌は興譲館第三代館長山下崇(1864-1944、秋堂と号す)


上土居墓の現在  自然石墓はジャンボで寛文期のもの。中央の白装束の石塔は66ヶ国回国記念塔
その向かって左側にある戒名「釈 雪山院・・・」が上土居麻生家12代麻生栄(1865-1923,享年59歳、現在の明治大学卆)の墓

松永銀行常務、松永塩商社や松永製薬所の社長を歴任した。村長・県会議員も務めたようだ。ご子孫は他所に転居し、墓じまいをしてしまった。




沼隈郡高須村の麻生氏については①近世初期に沼隈郡の松永湾岸干潟干拓事業を企図した頃、本荘重政がこの麻生氏のもとに身を寄せたこと、②江戸後半のことだが、森田節齊が幕府の追跡を避けるためにツテを頼って恩師賴山陽の生まれた山陽路の旅に出、とりあえず世話になった先がこの高須麻生氏の元だった。

今回話題にした尾道市高須町の普門寺(〒729-0141広島県尾道市高須町3798-1)は中世高須荘の北堺に立地した古刹。現在も境内が福山市高西町と尾道市高須町の境界部に当たる。
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