- 松永史談会 -

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松永史談会6月例会のご案内

2024年05月31日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会6月例会のご案内

開催日時6月28日 午前10-12時
場所 蔵

話題:『国立公文書蔵版芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンスについて


なお、先月予告の通り、松永史談会の活動報告をかねて引き続き令和6年度市民雑誌投稿論攷(無査読)の抜刷・雑誌本体を配布予定

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➊(亀山士綱)➋(古川古松軒、馬屋原重帯)
参考資料及び文献:
広島藩の地方(ぢかた、=地域)情報及び地方支配に関する諸規則を集めた役用マニュアル本=『芸備郡要集』や国郡志編纂用佐伯郡辻書出帳など(『廿日市町史』資料編2/付図付き,1975.に所収)。



『芸藩通志』・『防長注進案』に関しては羽賀祥二「記録の意図と方法-19世紀日本地誌と民俗記述-」(若尾祐司・羽賀祥二『記録と記憶の比較文化史』、名古屋大学出版、2005、57-88頁)・・・ダメ論文
西村晃「世羅郡の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の編集について」、広島県立文書館紀要13号、2015、p193-217
広島県内の自治体史には域内の『国郡志御編集ニ付下調べ書出し帳』の紹介やその郡単位での編纂過程について説明したものが各種存在する。例えば『東城町史・古代中世・近世資料編』、1994.『呉市史』近世Ⅱ、1999など。
最近では広島県立文書館が西向宏介「近世芸備地方の地誌」で史料紹介など、ほか多数。


賴杏坪論関係では
頼 祺一「朱子学者の政治思想とその実践-賴杏坪の場合-」(上・下)、芸備地方史研究64(1-14頁)、および65/66合併号(20-29頁)、1967参照のこと。
頼 祺一や重田定一(『賴杏坪先生伝』、明治四一年の著者)らによると、賴杏坪の場合は29才時に藩儒(朱子学、陽明学を否定)として登用され、70才過ぎには三次町奉行になった人物で、いわゆる朱子学の教説を信奉した教養ある吏員ではあった。『芸藩通志』編纂を見る限り『防長風土注進案』を編纂する長州藩の長州藩家老村田清風や国学者近藤芳樹ららに比べ広島藩の取り組みはどの程度のものだったかはちょっと気になるところ。なお福山藩の場合は『備後郡村誌』と菅茶山ら編纂の藩主用政治書・教養書『福山志料』どまり。
【メモ】貝原益軒『筑前国続風土記
巻2ー河内地名(山間一谷内にある村々、例えば筑前国那珂郡岩戸河内 12ヶ村構成)、世羅郡宇津戸村や沼隈郡山南村ー谷中
貝原益軒はGeosophie(生活環境をデザインする時代的知や社会的知の在り方)研究の対象者として把握予定。


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説明板に見る郷土史愛好熱

2024年05月05日 | 断想および雑談
みどりの日はカメラをもって旧沼隈郡内をエクスカーションした(9時過ぎ出発で15時過ぎに帰宅、全行程30㌔)。
エリアは福山市津之郷・山手・佐波(神島)・草戸
神島・草戸については、いまだに人生の過半(40年間)を京都で過ごした状態にある私にとっては、今回が人生初めての探訪であった。

元禄13年検地帳記載の地字「御てん(御殿)」の惣堂明神社。地字「森脇」・「御天
高校生時代に経験した私の記憶ではこの礎石は、寺の一、二十㍍南にある田辺寺前の農道脇にポツン置かれていた。引用した昭和40年代の国土地理院・空中写真で農道脇に便宜的にマークをつけたが、自信なし。この辺りは水田地帯だったが、昭和50年代以後都市化の影響で景観が激変






本谷川を挟んで向って右側の丘陵上に惣堂明神社、左側に田辺(でんべい)寺。水田面と本谷川河床面との比高に注目。河床は1㍍程度低位。新幹線高架橋以南は後述するように付近の住宅の一階床上~天井下あたりが河床面)


現在は旧山陽道(県道378号線)脇に移設「大師講中が建立した石仏」




本谷川は条里制遺構の残る新幹線高架橋下以南の平野部分では左岸=向って左側の住宅に対しては天井川化
津ノ郷村内の字「九ノ坪
一昔前の歴史地理学の話にはなるが、これを手掛かりになんとか条里坪付の復原の第一歩が踏み出せるかも。

津之郷・惣堂神社から見た南側(河出川→草戸明王院下手で芦田川と合流する河川の形成した流域小平野)の風景


御殿畑・惣堂神社境内から見た神島方面。最高所は通信施設の立地する彦山。草戸ー瀨戸丘陵上に明王台団地。団地の上方(南端)部に立地する明王台高校がかすかに見えるが、春先から初夏にかけては黄砂のため毎年このような状況だ。


杉原氏ゆかりの山手三宝(さんぼう)寺門前。山頂部のこんもりした樹木が茂った山が萱野山。山頂部にはハングライダーなどの野外スポーツの愛好家が屯した時期もあったらしい。





三宝寺山門の100㍍南の参道沿いに「太閤屋敷」の表示板。ここには屋敷神を祀るような堂祠があったと思ったが、現在は玉ねぎを干し納屋のような感じになっていた。郷土史愛好家だった先代が亡くなられ、代替わりでもしたのかなぁ。考古学的な確認作業に関しては不知だが、土地割がどうだの地名がどうだのと言った程度の推論は色々出されているのだろうか。あらためてチェックして見たが終戦直後米軍が撮影した空中写真を見る限り、三宝寺の立地する萱野山山麓の沖積錘上には屋敷地風のブロック状地割が割とまとまった形で分布する。ここが『豊臣秀吉九州下向記』文禄元年4月8日条に記載された秀吉軍が着陣した「備後の杉原の三宝寺」に当たる。秀吉軍は大軍団を編成していたが陣地の規模としては上記のスペースに収まる規模だったのだろうか。


萱野山山麓に立地する山手三宝寺。三宝寺の寺前に朝鮮征伐時の秀吉の宿所。備後国に流離中の将軍足利義昭が秀吉と面会した場所がこの付近(中学時代の社会科の先生だったのが田辺寺住職で、その姉がわたしの家の分家筋に嫁いで来ていたのだが、十数年前にあった時には80才くらいで、すっかり津之郷一の故実仁になっていた)。そういえば馬屋原重帯・菅茶山の編纂物にも『備中府志』からの引用がみられたが、地元の山城研究家が(古川古松軒曰く)辟説まみれの『備中府志』を無批判に引用して津之郷にまつわるhalh-truthな偽史言説を流布させていた。細川幽玄が訪れた足利義昭の公儀御座所は津之郷にあった(津之郷町づくり協議会は前掲の「御殿畑」に公儀御座所の所在地を比定。惣堂明神社は地字「御てん(御殿)」なので、その蓋然性が高いと思われるが、たまたま出会った地主の方の話ではそれらしい遺物などは何も出ていないとのことだった。遺称地名「御殿畑」の件はそれとして、この辺は当然考古学的な発掘調査結果を待つなど慎重に結論を出す必要あり)。
天正15年(1587)島津征伐時作成の『九州御動座記』では吉備中山から8里の距離にある備後赤坂に到着し、その近辺に居留中の足利義昭(公方様)は秀吉を迎えるべく「この所」へ出かけてきて酒を酌み交わしながら秀吉と義昭とが名刀を贈与しあった(=足利義昭が秀吉に対して恭順/臣従の意思を表明した儀礼的交換)。公方様の御座所も赤坂の近所にあったと記述していた。ここに記載された「この所」とは普通に考えれば田辺寺(元禄検地帳上では田辺寺寺中として3畝27歩、5間×13間)のような小さな田舎寺ではなく、天下人と公方様にふさわしい新造の格式ある宿所を指すのだ思われるが、赤坂近辺にあった公方様の御座所の方は上述した細川幽玄が訪れた津之郷の公儀御座所というものに当ろう。


帰途、サイクリングで13時50分頃、今から今治に帰るという人と出会ったが、赤坂バイパスと県道54号線の分岐点のところでしきりに携帯でコース確認していた。ここからでは70㌔、100㍍を越えるアップダウンが何カ所かあるのでしまなみ街道通過は真夜中になってからだろう。どこかで一泊するのが得策。わたしは赤坂・イコーカ山のところで河出川沿いの市道を勝負銅山調査で訪れたことのある赤坂小学校まで行きそこから山陽本線の線路敷を跨いで国道二号線にコース変更し、途中買い物をしたが、60分後の15時過ぎには無事帰宅(30㌔行程)。新緑が美しいシーズンで三宝寺あたりではあちこちでしりきにウグイスがさえずっていた。草刈中の人の話では山手三宝寺辺りでは猪よりも鹿が出没し畑を荒らすという話だった。

個人的なもの、町内会(マチ作り協議会)発のものそして教育委員会発のものと様々な「説明板」を見かけたが真偽/正誤/虚実が入り交じっている感じだった。教育委員会の建てた「説明板」を含め、真偽の見極めが肝要。

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