◎村 喜久子「尾張國冨田庄絵図」の主題をめぐって、愛知県史研究5号(平成13)をちょっと読んで見た。
話題①
例えば「近年村岡(幹生)氏は、当絵図研究を総括し航空写真の読解による現地形との対比を踏まえて、この絵図が描かれている内容・主題を再検討し、円覚寺支配説(◎村さんの持論)を補強され、さらに14世紀半ばの土肥氏一族の当地域への進出時期にこの絵図作成年代求める見解を述べられた」のだと。上村さんはその立場に賛意を示しながら、なお「村岡氏は押領を受けている地がことごとく絵図に記載されている事を指摘し」それをヒントに絵図作成年を想定した(村岡 幹生執筆「荘園・公領制下の人々の生活」、所収『新修名古屋市史』 第2巻・第四章,1998)と。8月19日の時点で『新修名古屋市史第二巻』)、207頁をチェック済。
ただ、例えば絵図に関する見解には論旨に矛盾するところ(茶線=「御厨堺」に領域界の意味あり-204頁と指摘しながら、別の個所では萱野相論の詳細が書き込まれているとは期待しがたい性質のもの-224頁という類の矛盾点)が見られ、その点が惜しまれる。
また「航空写真の読解による現地形との対比を踏まえて」と◎村さんが紹介していたので、期待して執筆論攷に目を通してみたが、ご本人は国土地理院4万分の一の空中写真(1968年撮影)の一部をそのまま挿絵風に掲載しただけだった。この辺りの説明に村岡さんは力点を置いているが、和与関係文書(『愛知県史』資料編8,1248号)の解釈(単に、樋口さんの模式図を安田さん推定の旧河道図で修正)を含め苦慮した跡もうかがえ、まあわたしなどは直感的に首を傾げてしまいそうな部分もあるので、いずれ批判/異論が噴出してきそう。
◎村さんは論所の中間部に立地したは村岡論文中の「水落」(語意については村岡・名古屋市史220頁に「川が海に落ち込む地点」と説明、従って明らかに御厨川の当時の河道=水落とは理解していない。村岡さんはそういう理解のまま富田荘・一柳御厨余田萱野相論関係概念図、名古屋市史219頁を作成、それ)を(◎村さんは)さりげなく「水落(現河道)」に変更の上、「村岡氏が正しく読解したように」(◎村 冒頭論文8頁)とやっている。こんな間違った庇(かば)いあいを繰り返していると上村さんは研究者としての良識を疑われかねまい。上記の概念図を見る限り、基本的に村岡さんには相論当事者の地形認識の差異と当時の海浜地形のあり様がよく理解出来なかった感じだ。無論、その「村岡氏が正しく読解したように」という◎村さんの記述は偽り。
話題②
▼貝富士男論文(「円覚寺所蔵尾張国富田荘絵図の成立事情」、大東文化大学紀要. 人文科学 42 A101-A122, 2004-03-31(大東文化大学・機関リポジトリにて論文は公開中・・・内容的には力作)
暦応元年と暦応3年の報告に関して、➊後者は新たに調査を行った結果ではなく、単に暦応元年報告を補足する目的で「詳述」しただけ、➋同年4月16日の御奉書はそのための催促状であった(119頁)。➊➋に関しては疑義が出てきそう。また「全領域図」の「境相論図」への差し替え時期については、絵図が有する主張をまったく脇にやった形で「建武3年末から暦応元年前半期までの間」(120頁)という具合に、(その当否はともかくとして)南北朝期に於ける南朝方と北朝方との勢力基盤の変動と絡めたより広い視野からの理由付けを試みている。そのほか▼貝「円覚寺領尾張国富田荘絵図に見る海水面変動」,大東文化大学紀要. 人文科学 44 A61-A82, 2006-03-31(大東文化大学・機関リポジトリにて論文は公開中・・内容的には読む必要なしの駄作)⇒註1)で後醍醐政権に対して円覚寺が地頭請権の復活申請をした1334年に原図が作成され、その後1336-1338年頃の一楊御厨余田方との萱野境を巡る争論の絵図に記載内容に一部変更を加えつつ転用と説明(なお、▼見が声高に主張する絵図の右下隅の一紙分のズレに関しては一度料紙や顔料の鑑識学的確認作業が必要。その判定結果を待ってから冷静に議論を進めれば済むこと)。
【後日談】
私自身、尾張国富田荘に関しては愛知県海部郡蟹江町・七宝町から名古屋市中川区にかけて1985年ごろから数年間に亘り、何度か隣地調査してみたことがあるが、そこに立地する旧明力坊・前田速念寺(真宗、名古屋市中川区前田西町1丁目904)の前住職は文化功労者(仏教学)の前田恵学氏。その夫人は旧沼隈郡今津村・長波出身の教育学者川上喜市(旧福山市立今津小学学校校歌の歌詞制作者、松永川上薬局の祖父長市の弟)二女龍さん(1932年生まれ、母親<1896-1970、学習院女子教授・化学>の影響でリケ女:薬学部卒。『旧明力坊・、前田速念寺史稿 江戸時代編』、平成3年)。そのことを知ったのは10年程前のこと(龍さんの甥:姉の子で情報通信工学者▼野〇一郎氏からの情報)だが、考えてみたらという感じで、わたしは尾張国富田荘に対して不思議な縁をかんじたものだ。同じような思いを学生時代にたまたま立ち寄った諏訪市小川が後年(てか数年前に)、武井節庵の故郷だったことを知ったときにも懐いた。不思議なことといえばまだある。「尾道文化」42(令和6年)に書いた論攷の中で、備中足守の地歴研究家小早川秀雄という人物のお墓が、足守の守福寺(僧侶が戦前段階に不在、すっかり御堂が朽ちかけた無住寺)で荘園調査の合間に、ふと思いついて墓石を調べたことがあった。地元の人の話では御当家の人は岡山に転居してここにいないということだった。ここは足守藩家老杉原氏の菩提寺(廃墟状態で屋根部分は大きく崩れ、寺門を含めいまにも建物全体が倒れそうだった)だったが、この中に小早川秀雄(日置流弓道家として知られた足守藩吉田家の祖・吉田源五兵衛経方の末裔)のお墓があったのだ。そのときは小早川のことは知らなかったので気づかなかったのだが・・・、それにしても不思議なことがあるものだ。足守調査は京都からの日帰りを含め、10年前までに拾数回程度は行っているだろう。
隣の蟹江は永井潜の弟子:小酒井光次(東北大学医学部教授・推理小説家小酒井不木)の生誕の地だった。この辺りは海抜0メートル地帯で伊勢湾台風の時は大きな被害を受けた。
参考までに、前田速念寺蔵「蓮如上人御絵像」(1637年)の裏書に、寺の在所を「一楊庄前田郷御厨」となっている(『旧明力坊・、前田速念寺史稿 江戸時代編』、17頁)。名古屋市中村区横井町は速念寺蔵古図では「前田横井」となっているらしい。
松永史談会8月例会のご案内
開催日時及び場所
8月25日 午前10-12時、於『蔵』2階
話題 福山城博物館蔵『松永湾岸風景図屛風』新考
なお、この話題は「福山城博物館蔵『松永湾岸風景図屛風』考」といったタイトルにて市民雑誌・2024年度版(査読なし→「福山城博物館友の会だより54号、2024年」)に掲載。