- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

今は無き裏御池(うらおいけ)ー一枚の古写真を巡る断想ー

2018年04月30日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
前稿に引き続き、裏御池の話題パート2だ。



裏御池が造成された場所は慶応期以前は海だったことが判る。中新涯の一部として埋め立てられ、その後掘りこまれて溜池に。


昭和8年に寺岡為次郎(神村出身の製塩業者で、一時期、今津の柳町に居住)が寄進した亀園橋が写っている。池畔の石の配列から作庭された跡が伺える。つまり裏御池は境内が公園(「今津公園」)化されその整備の過程で池として作られたのだ。近所の子供たちがよくフナ釣りをやった。わたしの記憶の中ではこの裏御池の池水を 脚が悪くヒョコタンヒョコタン歩く感じの柿渋屋三島(英夫)さんが足踏み水車で池の南隣の水田(Y)棒を支えにとても上手に水車を漕いでいた様子が遠い昔のこととしてとても印象に残っている。それと当該水車を置いた田んぼ側の直径6,70センチ程度の水たまりが出来そこに長さの割に異常に太ったジャンボウナギがややぐったりした感じで入っていて気持ち悪く驚いたことがあった
池の東側には池側に傾いた松の大木があった。これは近世に天然痘が収まったことに感謝して氏子が寄進した千本松並木の中のもっとも神社側の1本。戦時中、この1本だけ境内にあるということで祟りを畏れて伐採されなかった。 池のほとりの石の上に袴姿で立つのが明治5年生まれの平櫛又策、石に腰掛ているのが途中採用で役場勤めを始めた矢野天哉(明治27年生まれ)。

この写真が加わることによって今は無き裏御池は格段にイメージ(脳裏に像として思い浮かべたり)しやすくなろう。下駄を履いた平櫛さんが立つ巨岩の表面に水平の筋が入っているがこれは池の水の水位が増水(30センチ程度上昇)したとき(梅雨時など)のものだ。かつて裏御池から引水していた柿渋屋三島さんの田んぼの場所だが、そこはホームセンターユーホー松永店の、国道を隔てた向かい側、国道脇に埋め立てられた三角形の地所(延命地蔵の東)がそうだ。昔の水田面は現地表面の1.5メートル下。そこは結構、湿田だった。

老神主(婿養子)の嫁さんが御池を”みいけ”と呼んだので、裏御池のことも念頭に京都御所(御池庭)の例を引きながらこれは”おいけ”というものですよと話しておいた。東御池・西御池までは”みいけ”でよいかもしれないが、裏御池ではちょっとこまったことにもなりかねない。

京都御所・御池庭(おいけにわ)

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丸山鶴吉『50年ところどころ』、昭和9 掲載写真の原版を発見!

2018年04月28日 | 断想および雑談

これが焼き廻しされた原版写真(はがきサイズ,個人蔵)、撮影された部屋(奥座敷)も現存するようだ。

明治―大正期のアルバム2冊のうち一冊を見たが、アルバム内の写真には説明がなく、現在のご当主には撮影年次はもとより直系家族以外は人名などまったく判らないとのことだった。




玄関右側の半ば洋館風白壁の建物は明治30年代の一時期、沼隈郡役所仮庁舎として利用されたもの、内部は8畳間ぐらいで結構狭い。応接間として利用されている。当時の郡役所の吏員数は20名程度だったので当時はかなりのスペースが確保されていたのだろう。話は変わるが、このお宅の場合、塩分で湿気るせいか室内に置かれた古い蔵書が必要以上に退色。


本郷屋山本家は丸山町の北側、駅前北側(壇上)などにかなりの借家をもっていたようだ。


本日の収穫


すこし手の込んだ写真修整(レタッチ)をしておいた。資料性が大きく向上した。

河本英太家の写真帖には「大正.12.清明.俊二」という注記があった。大正12年だとすれば椅子に座った洋装の田頭玉治(明治10年生まれ)は当時47歳、その隣に同じく椅子に座った洋装・ちょび髭の橘高銀三郎(医師、明治9年生まれ、当時48歳)、石井友三郎(1865-1938)は58歳、松永町長時代ってことになる。なお、丸山鶴吉の幼友達本郷屋山本国次郎は最後列、眼鏡の人物。田頭玉治の向って右2人目の老人は丸山茂助(丸山鶴吉の親父)ヵ(要確認)。清明は新暦1923年4月6日。俊二は身内の人名だろう。

我が家にある橘高の写った写真。これは橘高が明治30年12月に第五師団砲兵第五連隊を退営し、31年8月に見習士官として同連隊で3か月間訓練をうけているので、このことから松永高等小学校卒業生を撮った明治31年3月撮影のモノだと判明
丸山万吉は丸山鶴吉の一つ下の弟、金原俊郎は沼隈郡本郷八幡の社家の息子で後年神主。大正15年まで沼隈郡役所書記だった高田守一が後2列目に。
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αを追え!

2018年04月27日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



現在αには松はない。小さな石の標柱に「〇▽」と名称が記されている。

蓋された共同井戸の石井(井筒)の向こう側の建物あたりが近世の高札場


点滅する矢印の先に【α(削り残しの基盤岩の一部)】



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石井謙治『図説 和船史話』 日本海事史話叢書一

2018年04月26日 | ローカルな歴史(郷土史)情報



図中の伝馬船を引いた和船は船首部の反り具合から北前船それとも・・・・?



これからはちと神社に奉納された寄進物:帆船にも注目かな?!
矢野天哉(昭和15)の調査によれば高諸神社には粟村力蔵が寄進したクジラ髭に交じって塚本嘉一(大正元年)、矢野利助(昭和3)寄進の帆船模型というのがあった。古いものは大三島の大山祇神社や宮島、近くは鞆の祇園さんや尾道の●▽神社等、まあ結局はどこかの博物館でということになろう。。

これはなんという船なんだろう。神社境内の隣接地に碇泊する2隻の帆船と素人目には何となく形似

西町の老人にこの写真を見せたらの印象として東町の船着き場の写真だと・・・・。わたしはまだ確認中。一番手前の帆船が弁才船or 北前船(北前船型弁才船)?



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史実と伝承

2018年04月24日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
『村史』に寛政期の事として東川地蔵堂内で非人風の変死者発見の記事があったが・・・・ 。荒川神社脇の本郷川の堤防上とか今津沖の浜(火の見櫓脇の小さな辻堂:多分地蔵堂自体)には浮浪者が一時滞在できるような小屋(今は町内会集会所)・辻堂風の建物(現在はその場所に町内会の集会所、お堂は規模が縮小され、末広大橋の西詰に移動)があった。

こちらは


いわゆる通称「末広町(内小代の上)」のことだろう。元禄水帖(1700年)では五郎三郎の受地(石橋脇にあった屋舗+農地の面積はΣ5反3畝28歩)。ここは変死者云々という笑い話(要するに変死者が発見された村は経費面でも結構難儀を強いられることが多かったことから、その負担(責任)を近隣の村々が転嫁しあったことに尾鰭がついた形の笑い話)のような話ではなく、西町における簡易水道の取水口(古絵図中の「新井戸」)、千間悪水及び水道(荒川井)との関係で松永分になっていると考えるべきだ。

五郎三郎屋舗にあった場所の現住者(精米業→風呂屋+中学教師)は明治維新後、備中方面から来住。


松永村古図の字「内小代の上」を明治期今津村柳町・三藤町一帯の地籍図に力技ではめ込むとこんな感じになる。




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幕末期今津宿研究のrewite版を作成した。

2018年04月24日 | 断想および雑談
『松永市本郷町誌』の記載事項(「今津村往還御用人馬差の與左衛門」関連)とのすり合わせを行い、旧稿に若干の手を加えた。






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才能全開というか、やりたい放題というか

2018年04月20日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
大正3年に出された雑誌「白樺」第五年4月号(岩波書店による復刻版)、総ページ576頁。巻末部には自社の出版物の宣伝を含む広告ページ。勇み足を含め未来を先取りするような前衛的というか先端的な雑誌だった。雑誌「白樺」紙上を舞台に文学・音楽・美術を網羅した一大芸術運動のうねりが感じられる。洛陽堂は赤字を出しながらも7,8年間も必死でその舞台を提供し続けた。
参考までに、正月号が352頁+第4巻総目次16頁+広告、2月号が174頁+広告、3月号は118頁+広告、5月号は192頁と広告、6月号は142頁と広告、7月号は126頁と広告、8月は108頁+広告、9月号190頁と広告、10月号が222頁と広告、11月号は274頁と広告、12月号が138頁+広告、100年後の現在わたしが驚異に感じるのは年間2612頁というやるきと意気込みに溢れたボリューム

白樺5-11には洛陽堂刊予定の柳宗悦『ヰリアム・ブレーク』(大正3年12月)の広告があり、その宣伝文句に内容と外装において本邦唯一の出版物だと。このあたりの胸の張り方は河本亀之助のもので、この洛陽堂には書籍の装丁なども含めた「もの(書物)」としての出来栄えの良しあしに関心が大きかったことが判る。



雑誌「白樺」は1巻1号~9号、2巻1号~8巻10号まで洛陽堂刊、それ以後は白樺社刊。作家として駆け出しの白樺同人たちが世に出るおぜん立てをし、側面からかれらの面倒を見たのが河本亀之助・東京洛陽堂だった。



巻頭論文は長大な柳宗悦「ウイリアム・ブレーク」

大正3年頃と言えば洛陽堂の編集部で天野藤男が「都会及農村」が発行開始する時期だが、彼の著書『故郷』ではどさくさにまぎれた感じで暗に白樺同人の文学を不良なものとして批判している。赤木桁平「芸術上の理想主義」洛陽堂、大正5年では白樺派の文学を水準は低いと書いている。天野・赤木らは武者小路らの文学を異文化としてとらえ、その新しさにはついていけなかったようだ。それはそうと第一印象として白樺派の作家の中では志賀直哉は文章のうまさが光ってるかな~。
ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757年11月28日 - 1827年8月12日)の後時代的受容

奥田駒蔵が明治末期に開業した日本橋のメイゾン鴻乃巣。1910年に帰国後東京日本橋小網町の鎧橋の側に開店した「メイゾン鴻之巣」は日本におけるカフェ=レストランの草分けとして知られる。この店には早くから西洋志向を抱く文人たちが集い、飲食のみならず藝術談義を愉しんだ。パリやベルリンやブダペストなどで花開いたカフェ文化はささやかながら極東の首都にも伝播したようだ。


最後に雑誌『白樺』の紙上広告を見ておこう。
「メイゾン鴻之巣」の常客として、北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、谷崎潤一郎、高村光太郎、伊上凡骨、志賀直哉、郡虎彦、芥川龍之介、菊池寛、和辻哲郎、内田魯庵、岩野泡鳴、島村抱月、小山内薫、平出修、大杉栄、荒畑寒村、片山潜の名を挙げている。
青鞜社の「新しい女」尾竹紅吉がこの店に何度か通い、名物の「五色の酒」(一種のカクテル)を嗜んだために世間の袋叩きに遭った事件は遍く知られていよう。1912(明治四十五)年のことである、と(前掲リンクよりの引用)。





岩波書店の「我等」


「伊庭孝氏の誤訳を嗤(わら)ふ」?  同志社中退の伊庭の語学力に疑問符をつけた東京帝大独文卒の三井光弥

東雲堂書店の「番紅花(サフラン)」。大正3年3月創刊。


これは・・・・・大杉栄・加藤一夫・堺利彦。丸山鶴吉の『50年ところどころ』にも登場する大杉と境。転向組の加藤は洛陽堂からいろいろ本を出している。洛陽堂は雑誌「白樺」から手を引いた直後に加藤の雑誌「科学と文芸」の発行を一時期」(1918年1月号~6月号)引き受けている。科学(機械論)と文芸(生気論)といった対極にあるものを並列したまことに大風呂敷な名称の雑誌だが、当時河本亀之助は慢性腎炎を患い、その兄貴に代わって弟俊三・哲夫たちが経営の重要部分を担うようになっていた時期だと思われるが、私にはプロテスタントとしての河本兄弟の生き方から見てかれらの信仰告白の発露=「神から授かった使命」という意識が(最終的には共に西川光二郎同様、天皇信仰の唱道者へと変節した)民衆派詩人で評論家の加藤一夫(明治学院出の元牧師,無政府主義者)支援に向かわせたとしか思えない。
ちなみに雑誌「科学と文芸」4-2(1918)の科学集萃(再録)には福来友吉「観念不変の連続」、永井潜「主観的客観的痛覚」を、また「実用科学」(再録)には高島平三郎「児童教育の注意」を入れているので、もしかすると・・・・・。
河本の頭の中に損をしてでも良書を出版するという発想があったのかどうか判らないが、プロテスタント関係の出版物を多く手掛けた河本亀之助たちの気分としては自らの社会的使命を果たす方法として、高い志をもった無名の新人(例えば月刊 自刻木版画集「月映」の同人:恩地孝四郎・田中恭吉・藤森静雄)を出版面で支援をするところがあったのではなかろうか。


そんな無茶なと思えるほど超ハイカラというか前衛的な雑誌「白樺」5-4だった。水準の高さに驚かされる。こんな売れもしない高級雑誌の編輯・発行人を永くつとめた河本亀之助はまさに近代文芸史上における陰の功労者であった。
追記)1988年に岩波ブックセンターは雑誌「白樺」の復刻版を出したが、まさに大正期の「岩波書店」ともいえる存在だったのが、東京洛陽堂だったわけだ。洛陽堂は企業として生き残れなかった訳だが、弟の哲夫は大震災直後の大正13年にはそれまで洛陽堂に大きな影響力を及ぼしてきた高島平三郎らを切り捨てる形でキリスト教関係の書物を出版する新生堂を創業している。


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松永史談会4月例会のご案内

2018年04月15日 | 松永史談会関係 告知板
4月例会のご案内(第二報)

開催日時と場所
4月16日(月曜日) 午前10-12時
喫茶店「蔵」

文化15年「今津村風俗問状答書」の全般的特徴を説明し、あとは問題点をその史料がもつ文化政治論問題(剣大明神の俗人神主が祖先として虚構した田盛庄司の神格化と、それを祭神とした剣大明神境内摂社:田盛大明神に於ける村行事)を「田盛大明神祭礼」)に絞って論評したい。残りの時間は、沼隈郡今津村研究を次のステップに移行させることを念頭に、話題提供者が去る3月29日に史料調査を行った福山城博物館蔵「松永村古図(地引絵図)」についての話題提供を行いたい。



4月例会のご案内(第一報)

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沼隈郡今津村野取帳にみる土地丈量法

2018年04月12日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
野取帳に記載された一里塚を含んだ土地の図面だ。所有者は小川松蔵。小川恒松の親父の名前だ。赤点は測量箇所を表示。甲乙丙は面積の計算単位とした区画を示す。土地を直角三角形と長方形の集合体に還元をしつつ地積を求めたことが判る。


一里塚のサイズは長さ-幅共に「1〇5△」。図面から直径1〇5△の円形だったことが判る。1/2×{16〇2△×(3〇9△+2〇5△5タ(類似記号)}≑52坪2分(甲部分の面積)。ということから〇は間、△は尺、タ(類似記号)は寸という長さの単位名の略号だったことも判る。

甲乙丙の小計=91坪9合、279番地の田地の総面積260坪7合、内2坪3合。この2坪3合は一里塚部分の地積(正方形:1.5間×1.5間として計算)を指す。円周率の知識を持ち合わせなかったと見え、一里塚敷地面積をこのように計算する結果になったのだろう。

1228番→1230番地(場所的には字東坂の東村境)のいわゆる山畑。油屋(屋号)川本源五郎の所有だが,注記として荒左衛門とある。荒左衛門という名称は今津村野取帳では元禄検地帳に無記載の無主地をその所在地と共に架空の所有者名で登録するときに慣用したものだが、このケースの場合は所在地名は苗字としては無記載だ。不整形の土地だったのだろう。山畑内を直角三角形と長方形に区画した訳だが、イロハニホ・・・ヨタレソツまでの16に区分して地積計算をしている。こういう作業は村内の特定の住民の手で行われたもようだ。台帳上判明しているのは大久保平櫛氏とか三島治平らが村内に居住したそういう測量作業の専門家だった。


1352-1353番地の測量は測定箇所が多く結構手間のかかるものだったようだ。




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オープン・アクセスー引野亨輔さんの論文たちー

2018年04月11日 | 断想および雑談
宗教史が専門らしい引野亨輔さん(広島大学大学院出身、1974~)の研究論文

横田冬彦さんらの研究グループの人らしい。あたらしい感性を持った人だと感じたが、どことなくのんびりした内容の論文が多い。
広島県関係では福山大学人間文化学部紀要 10, 61-81, 2010-03-01に掲載されたものがあった。
ここの大学の学部紀要論文はオープンアクセスなので簡単にDLし読める。この論文はほんわか温(ぬるめ)めだが、近世地誌(民衆的知の発露だと捉える)を手掛かりとして暴君の福島正則(和田石井又兵衛家の「おややの鬼火伝承」などは福島丹波がらみのその派生形ではないかとわたしなどは考えている)と名君の水野勝成という後世に作られたイメージの独り歩きを考えている。
引野の論文を読むと暴君福島・名君水野はfakeな言説だとしても、それではどこに真実があったのかは語られておらず、そういう面では言葉足らずの面が感じられた。
引野「鎮守のご本尊ー江戸時代における神仏習合の一事例ー」は沼隈分郡山手村の話題。鎮守管理を巡る山手村の俗人神主と京都吉田家から免許状を交付された禰宜との二人体制と真言宗寺院所属の社僧とのささやかな"勢力争いor競争"関係など興味深い問題に言及している。
安芸門徒を特殊ー普遍という基軸の中で整理するなど、引野の分析は視点が高い、割とフワーッとした俯瞰的な解釈の出来る人だ。この単著(200頁未満)は千葉大・文学部への就職を有利にするために出版されたものだろ。

"暴君"と"名君"のあいだ-民間地誌にみる近世民衆の政治意識-

福山藩の近世地誌類に言及した論考もある。
「江戸時代の地誌編纂と地域意識」だ。これもちょっと温(ぬる)めの内容だ。雑誌の性格も関係するのか40歳代の引野先生だがシャープさはちょっと少な目かな~。ただ私的には興味のある論考だった。
「堀新によれば江戸時代の初めに領主が荒れ地を切り開いたという伝承は、近世城下町の開創をめぐる定番の語り口であり、福山城築城伝説もその一変種であろう」という。ってことはこの辺の話題は史実を反映したものではなく、作られたイメージだということらしい


論文リスト

学会の中では旗手の一人なのかどうか知らないが、引野氏の場合「歴史研究」820(2006年10月)掲載論文「近世後期の地域社会における藩主信仰と民衆意識」76-86頁と歴史評論790(2016年2月)掲載の「江戸時代の地誌編纂と地域意識」、5-18頁だが、10年間の隔たりの中で不勉強というか、論考にピカッと光るものとかシャープさとかがまるでない代わり映えのしない内容。この学会での評価は恐らく期待外れ、ちょっとがっかりといったところではなかっただろうか。
このような領域では『備後叢書』をまとめ上げた得能の地誌研究の再チェックや『備陽六郡誌』・『福山志料』、『水野記』を本文研究を含めてもっと深く徹底して研究するといった部分が一番大切。
雑誌「備後史談」に猪原薫一のエッセイ(”筆のまにまに”)を掲載。その中で猪原は福山志料とか備後郡村誌のことに言及(昭和5年5月30日)。

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松永史談会のパネル展示終了

2018年04月01日 | 松永史談会関係 告知板
3月23日~4月1日 福山市西部市民センター一階フロアで松永史談会などの郷土史趣味の人たちの活動の一端が紹介されました。

あまり閲覧者を見かけなかったが、これは在る程度予想していたこと。興味のある人がいればみればよいだけのこと。

地域史研究ではまったくこれまで行われてこなかった問題の解明をおこなってきたが、それらの個々の研究をパーツとして位置付けながら全体としては一枚のパッチワークのようなものとして再構成しつつ、最終的には引野亨輔さん風に言えばこの地域の民衆的知のレベル、たとえば地域認識・政治意識あるいはGeosophie(生活環境をデザインする時代的知や社会的知の在り方)に光を当てるくらいのところまで持っていけたらと思う。

なお、松永史談会ではこれまでに蓄積されてきた活動成果を、いまのところ過去の活動内容に遡った形ではあるが、順次、市民雑誌(2021年度以後『尾道文化』、2022年度以後『文化財ふくやま』、2023年以後『福山博物館友の会だより』誌)上に小論攷という形式で公表中。
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