- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

枡本卯平『自然の人・小村寿太郎』ー洛陽堂刊の一冊ー

2015年01月09日 | 教養(Culture)
桝本は明治20年代に第一高等学校時代に、高商時代の三谷一二(第三代福山市長、前職は三菱鉱業取締役会長)と共に岩崎家から子供さん達の指導的学友を務めた御仁だ。





739頁に及ぶ大著だ。枡本卯平恩人:小村への恩返しのつもりで本書を書いたものだろ。伝記の傑作!洛陽堂刊、大正3年。河本亀之助の心意気の感じられる出版物だと思う。
執筆当時枡本はまだ30歳代後半から40歳だった。




なお本書は自然の人小村寿太郎―伝記・小村寿太郎 (伝記叢書 (172)) 、大空社、1995という形で復刻されている。
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2種類の永井潜『医学と哲学』

2015年01月06日 | 教養(Culture)
永井の哲学志向が永井自身をして戦前期における優生思想イデオローグへと駆り立てたのだろ。大正11年に河本俊三時代に洛陽堂から刊行され、関東大震災後は別の出版社から。大著(559+XX 頁)である。むかって左側が洛陽堂刊本。


大阪の古書店:天牛書店で戦前2円80銭で売られていたものらしい。洛陽堂の新本価格(大正11年段階)は7円・・・かなりお高い本だった。もっともこの当時の洛陽堂は割引販売が常態化していたので・・・・・
文化生活研究会刊本(大正14)は装丁がより上等だが、6円50銭と幾分安価だった。ちなみに大正3年に洛陽堂が刊行した柳宗悦の大著「ヰリアム・ブレーク : 彼の生涯と製作及びその思想」は800頁近い大著だが3円だった。当時はそういう時代だったのだろ。



永井は富士川游の影響を受けたのか医学の科学としての側面と道学的側面(=医道)、そして医学と社会とのかかわりを視野に入れた医学者だった。
永井の弟子に『生命神秘論』を著した推理小説家(東北帝大医学部教授、衛生学)小酒井 不木や『科学者としてのゲーテ』の著書がある九州帝大医学部教授小川政修(細菌学)ら中々の教養人が多い。

文化生活研究会刊本




永井の著書は中国語に翻訳されており、中国医学会に対し大きな影響を与えた。
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「穀蕃銀行(銀行業穀蕃合資会社)整理難」 大阪朝日新聞 1914.11.27(大正3)

2015年01月04日 | 断想および雑談
穀蕃銀行整理難(全文引用)

広島県沼隈郡松永町なる銀行業穀蕃合資会社(明治26年設立、大正3年休業、大正9年高知商業銀行に合併)の整理に就ては既に屡記載したるが同社整理委員等は二十五日午後業務担当社員石井四郎三郎方に於て沼隈、御調、蘆品三郡郡内の関係町村長十九名及び預金者総代等と会見し種々協議を重ねたり、何しろ会社現在の実状は過般整理委員等が発表せる如き気楽なる状態にはあらずして赤裸々に清算すれば二十万乃至三十万の不足を
生ずべく到底弥縫を許さざるが如し、而して同社の整理は福山貯蓄の石井貞之介松永実業銀行専務阿武信一(福山市初代市長、元沼隈郡長、松永西町荒川さん近くの内海さんの家が旧宅)、同行相談役麻生栄(尾道市高須町・普門寺に墓地あり)、両備軽便鉄道株式会社長河相三郎諸氏の手に於て為されつつあるものにて是等委員が過般発表せる対照表左の如し

純資産表
貸付金 三一、一六三、七五〇
当座貸越 七五、七三八、七六五
割引手形 六一、四三九、六〇〇
有価証券 三一、七八四、四六〇
流込物件 一、七八八、〇〇〇
営業用地建造物 三、二八一、二五〇
仕器 六九〇、〇〇〇
石井四郎三郎提供財産 一五七、六一九、〇〇〇
石井憲吉提供財産 七五、八八八、〇〇〇
石井四郎三郎所有酒場財産 五五、〇〇〇、〇〇〇
計 四九四、三九二、八二五

同純負債表
借入金 二二、一五〇、〇〇〇
預有価証券 六五、二三〇、〇〇〇
定期預金 二一七、五〇二、五四三
特別当座預金 三三、六〇〇、一一一
当座預金 七七、八七六、五九五
小口当座 二三、二六六、一七〇
計 四四九、六二五、四一九

差引四万四千七百六十七円四十銭六厘 剰余金
此貸借表は頗る杜撰極まるものにて此貸借表に当然記載すべき重要項目中故らに記載されざるもの仮令えば資産の部に於て金銀有髙、貸金未収利息、積立金、繰越金等又負債の部にありては資本金前記借金の外に実在せる借金即ち西備銀行に対する六万二千余円及石井四郎三郎経営酒造場(前記五万五千円の実価ありと称するもの)に対する二万五千円の債務等当然計上すべきものなるに拘らず之を省略せる如き最も甚たしきものにして、整理委員等が事情に詳かならざる預金者を欺瞞し一時を糊塗せんとする跡歴々たるは同社の整理をして益困難ならしむる所以なりと観測せられつつあり(松永発)

明治39年の預金貸付状況(リンク切れ)
【メモ】矢野天哉さんの日誌に入江屋石井一族の競売のことを簡単記載。
石井四郎三郎、憲吉、一郎さんの墓石は薬師寺の石井家新墓地に3つ仲良く並んで立っている。憲吉の息子は倒産の原因をつくった得雄、東京帝大法科での石井賚三の墓地もここにあるが懲罰的な扱いを受けたのか、いずれも小さな墓石だ。このBLOG内のどこかにその写真を掲載している。

石井得雄さんの子孫が新潟県在住だということを数年前に今津薬師寺の住職さんから聞いた。
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