- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

武井節庵(1821-1859)ゆかりの人探し

2019年06月08日 | 断想および雑談

武井節庵 のゆかりの人さがしは 『諏訪八勝図詩』[むかしの版木が、昭和4年当時は実在。山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』によると「天保7(1836)年に50歳で亡くなった吉田霊鳳」に対する(、以下はわたしの見解だが)、おそらくは挿絵入り追悼漢詩集で、末尾に天保9年の年紀のある霊鳳の八勝詩に加える形で、霊鳳と交流のあった人々が吉田霊鳳の故郷:信州諏訪の名勝地関係の漢詩や絵(山水画)を提供している。 諏訪八勝詩 吉田清編 東條畊序(天保九年一二月) 菊池桐孫序(天保八年八月) 武井恭跋(天保八年一〇月) 天保九年歳次戊戌肇秋七日 信陽 吉田清(不求堂蔵板) 文末に当時15歳だった息子・武井恭(雪庵印)が跋文を添えている・・・この件に関しては研究中]を復刻した在野の考古学者であった 武居幸重さん(1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞)のところでストップ状態になってから2015年5月以後、私的には中断していた。最近になってふと諏訪市の郷土史本の中に武井節庵に言及したものがあることをGoogleBook上で発見。 これがそのとき見かけた文面のコピー。 それからこの文面を有する書籍探しが始まった。幸い、ほどなくそれが昭和4年に当時の郷土研究ブームの中で出されたガリ版刷り・山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』(校長だった筆者が昭和4年から8年にかけ行った、職員向け講義のガリ版刷りテキストを印刷したもの)であることが判明。検索開始より5分後のことだった。 幸い、その活字版が昭和54年にご子息の山田敦夫さんによって復刻されていることわかり、その3日後(6月18日)に当該書籍を入手。6月22日土曜日午前中に、前日に電話連絡した地元自治体の文化財関係の部署へ情報提供(『諏訪八勝図詩』元版を古書市で販売した茅野市内の古書店主はもちろんのこと、その復刻版を出した武井幸重さんですら武井節庵については全く不知だった)。 山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』、岡谷書店版(1979)の再発見が起点となって武井節庵のゆかりの人さがしがもっか再始動中って訳だ。明治23年に武井見竜 (寛) 著 『田疇斎遺稿』の再刊者にして、大正5年刊『天龍道人事迹考』(渋川氏系図など掲載)の著者武井一郎さん(長野県諏訪郡豊田村小川⇒大正5年段階には長野市西後町72番地)あたりは同族だろか。 諏訪市の小川(こがわ)といえば学生時代に諏訪大社春宮とか諏訪湖のほとりにある高島城跡を訪れ、その近くをぶらついたことがあるところだった。不思議なものだ。城の湖側の一角に永田中将の銅像があった。わたしが訪れた頃地元諏訪では野尻湖の湖底よりナウマン象の骨が出てきた話題でもちりきだった。 武井節庵の伯父武井見龍[肥前出身の「天龍道人」こと渋川虚庵 (1718~1810)という、後半生を信州諏訪に居を定め、高島藩主の支援を受けながら、多くの書画を制作した江戸中期の勤王の志士/絵師より、天龍道人碑碣銘(てんりゅうどうじんひけつめい)と言う形で撰文を依頼された人物]の居宅が現在の諏訪市の小川にあったことを突き止めた訳だが、なぜかわたしは不思議な縁をこの武井節庵に対して感じる。 寛塾時代の門人だったIさんのご子孫やわたしがときどき墓参をしている。墓誌に安政6(1859)年、38歳で没とある。『諏訪史概説』には文化4(1807)年生まれとあるが、武井が生年月日をごまかしてきた可能性はあるが、まあ、普通に考えれば、これは誤りだろ。ただ、文政4(1821)年生まれだったとすると後述する『節庵初集』はいくら早熟な漢詩人だったとしても彼が21歳の時に刊行されたということになろう。天保13(1842)年には兄貴吉田慎斎のいた〈芝将監橋〉で居候。自らを武井精一郎と称した。菊池五山の序によれば、実父の吉田鵞湖が出資して公刊したもので、親父吉田鵞湖の跋によれば、節庵の年来の詩稿が火事で焼失したため、再び火災に遭っても残るようにと上梓したものだとか。ってことは吉田鵞湖が天保7年に50歳で没した(『諏訪史概説』、206㌻)という話とは矛盾? 『沼隈郡誌』の中に墓誌が収録されただけで歴史の表舞台から完全に消えた御仁のことをどこまでハイライト化させるのがよいのか。とりあえずは武井節庵を西国遊歴に出かけたまま、消息不明となっていると語ったおそらくは武井寅太郎さんの、いまだ私的には未接触の子孫の方(その代替物が地方自治体・文化財部署か郷土史家)くらいか・・・。節庵は門弟たちに対し、自分は寛永寺貫首(輪王寺宮)の故臣だと自己紹介をしていた。それが事実であったとすれば、おそらく当該貫首とは第十三代貫首公紹法親王(1815-1846、有栖川宮韶仁親王の第3王子,1843年に門跡に)だろ。薨去(こうきょ)は節庵25歳の時、かれは26歳の時(1847)に叔父武井見龍(父親吉田霊鳳の実兄)のところに一時滞在の後、『諏訪史概説』(206㌻)の言う尊皇の志を抱きつつ西国遊歴に旅立った。これはわたしの単なる想像だが、諏訪には自分の居場所を見いだし得なかったのだろ。その彼がたどり着いた先が備後国沼隈郡藤江村の豪農山路熊太郎(機谷)の元だった。一時期(1849-1852)は精力的にこちらの漢詩好きの文人たちと交流を重ねていた。1856年段階の節庵は尊皇家森田節斎(武力を使わない社会変革を提唱)を当該山路家に匿う工作をしていた福山藩儒江木鰐水(や備中興譲館の坂谷朗蘆ら)からは冗談抜きに邪魔者扱い(否、笑いもの扱い)をされていた。 参考までに言及しておくと岩瀨文庫の『節庵初集』書誌中では節庵は天保8年12月に致仕。その後西国へ、とある。なお、節庵初集第9/10巻辺りは天保11,12年頃ヵとする。前述した武井節庵の墓誌にある「輪王法親王の故臣」云々に関する言及はなし。 どなたかこの人物に興味のある方は是非とも永井荷風の史伝『下谷叢話』ではないが節庵研究に取り組んでもらいたいものだ。この荷風の名作は鷲津家一族の中の没落=負け組:大沼枕山一族に対する永井荷風自身の共感がベースとなっている味わい深い名作だ。 『節庵初集』など武井の残した文章の研究が進めば、武井節庵の再評価を含め、才能豊かだったこの人物の実像により迫れるはずだ。 いまは90歳近い高齢の山田敦夫家に電話して見たが、そのとき応対に出られた人は敦夫さん50歳頃に当たる昭和54年岡谷書店から復刻した山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』にかんしては、山田茂保さん(昭和21没)の存在を含め、自分はよそからきた人間だということ一点張りで口を閉ざした。

武井節庵の郷里:長野県 諏訪市 豊田小川 武井姓の電話番号

武井節庵研究に役立ちそうな基本文献の一つ『日本詩史・五山堂詩話』岩波・新日本古典文学大系28月報(1991)所収の、富士川英郎「詩話」についての雑談、1-4頁。 富士川英郎は広島出身の医学史研究の泰斗富士川游の息子。







武井節庵研究の現在
わたしの研究は①武井の漢詩については検討対象外であること、②武井節庵(お墓は今津町薬師寺本堂裏手に立地)に関する古文書は門弟の家筋に当たる満居石井家蔵もの及び松永竹原屋高橋氏(『西山遺稿』)限定で,新史料の発掘面でまだまだの状態である。

【参考文献】合山林太郎編 大沼枕山と永井荷風『下谷叢話』--新視点・新資料から考える幕末明治期の漢詩と近代-、二松学舎大学アジア学術総合研究所日本漢学研究センター、日本漢学研究叢書3、汲古書院、2023。
合山林太郎:菊池五山の詠物詩の課題と大沼枕山-新出資料「五山堂詩社課題」について-237-254頁。
合山林太郎ほか:天保14/1843年大沼沈山詩稿翻刻、255-292頁。武井節庵が信州へ旅立ちしたのは大沼らが彦根藩家老岡本黄石が湯島の松琴楼で開いた詩宴(天保14年5月8日)に参加した後のことだったらしい。沈山が飯沼の弘経寺(茨城県常総市豊岡町にある浄土宗寺院)滞在中武井もそこにやってきて3日間滞在し、漢詩を作りあっている(288-290頁)
のことだった(262頁)。弘経寺の梅痴上人と大沼枕山は昵懇だったのか『枕山詩抄』下、丙午(弘化3年、1846)の記事にも「五山堂掲題」の記述と共に登場。

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永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)

2019年06月06日 | 断想および雑談

永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)


永井荷風の『下谷叢話』は自分の母方の祖父鷲津毅堂と鷲津家から江戸の大沼家に入った鷲津幽林の長男:鷲津治右衛門(大沼竹渓)、その子の大沼沈山を巡る今日風にいえば繁栄/衰退といういわば真逆のコースを辿った鷲津一族(鷲津毅堂と大沼枕山(力点おいて記述))のファミリーヒストリーをまとめたもの(典型的な「伝記文学」というよりも歴史研究もの)。鴎外の『渋江抽斎』に触発された作品のようで大正13-15年にかけて書かれている。これを読むと歴史小説に力を注いでいた文豪森鴎外が永井を高く評価し慶応大学教授に推薦したことも首肯出来よう。 月報1/2/3


荷風曰く「わたくしは枕山が尊皇攘夷の輿論日に日に熾ならむとするの時、徒に化成極勢の日を追慕して止まざる胸中を想像するにつけて、自ずから大正の今日、わたくしは時代思潮変遷の危機に際しながら、独旧事の文芸にのみ恋々としている自家の傾向を顧みて、更に悵然(筆者注ーがっかりしてうちひしがれるさま)たらざるを得ない」(369㌻)と。 こんな感じの表現でやや自嘲気味に感慨をもらしているので、あるいは、荷風自身としては、大沼枕山の生き方とダブらせながら、こんなご時世に文芸などにうつつを抜かす自分に対する不甲斐なさとか、自分の作風に関しても一風変わった、文章形式の浮世絵の世界を徘徊しているといった風の自覚は大いに持っていたのだろ。彼の場合漢籍を幼少期から先生について学習していた。


後記(『荷風全集15』、岩波、昭和38年より引用)


尾道市立図書館蔵の史料『嘉永五(1852)年対潮楼集 観光会詩』白雪堂主人(山路機谷)の裏表紙に書き込まれた大沼枕山(34歳)の名前と住所(下谷和泉橋通御徒町)この情報の出所は? この『観光会詩』中には"未開牡丹"のお題の漢詩を会に出席した房州人の某が詠んでいた。ただし、この人物の漢詩は安政2年刊白雪樓藏版『未開牡丹詩』には所収されておらず、当然森鴎外『備後人名録』にもその名前は記載されてはいない。房州といえば大沼は房州谷向村在住の親友鈴木松塘( 梁川星巌門下。大沼枕山・小野湖山とともに星巌門下の三高足と称された。なお、永井荷風は大沼と梁川との関係は師弟関係にはなく、枕山は梁川を先輩として尊敬していたのみだと書いている-328㌻)のもとをときどき訪ねていた(375㌻)。そういう点を考えるともしかするとといった程度のことではあるが、これは①房州某発の情報だったか。それとも鈴木の旧友でもあった山路のところに滞在中の②武井節庵(元卿)発のそれだったか・・・。それとも、実は枕山とも交流のあった播州在住の③河野夢吉(鉄兜)発の情報だったか(『枕山詩抄・下』15頁に「送河野夢吉帰播州」と題する漢詩掲載)


枕山の長女嘉年(かね)は門弟の鶴林を婿にし、大沼の家を継いだ。嘉年は後年目を患い、ほとんどものを見ることができなくなっていたが、父枕山から受けた漢詩の才は衰えなかったという。昭和9年3月22日に74才で亡くなった。号は芳樹。写真は麹町の家(下六番町13番地。現在六番町5−3)の二階で撮られたもの。永井荷風がここに嘉年を訪ねて枕山の話を聞き、資料を借りて帰った。その後関東大震災が起こり、荷風は再び嘉年のもとを訪ねて見舞ったということが『下谷叢話』に書かれている」とある。 枕山の息子新吉(大沼湖雲)には放蕩癖があり、勘当状態。その息子家族は、荷風による戸籍簿調査の結果、大正4-5年に「東京市養育院⇒地図中の①に収容され、そこで(新吉は)死亡した。而してその遺骨を薬王寺に携来った孤児の生死については遂に知ることを得ない」という形で作品を締めくくっている。小説よりも奇なりを地で行くような永井荷風のノンフィクション作品『下谷叢話』であった。息子新吉の子孫については関東大震災・第二次大戦の戦災などあったので役所関係の調査は難航するかもしれないが、ここを含め、なんらかの手がかりを薬王寺あたりが把握しているかも。枕山の息子新吉(大沼湖雲)は放蕩癖があり、勘当状態とぼろくそに書かれた御仁だったが、こちらは息子新吉&娘嘉年(嘉禰)校訂の『江戸名勝詩』明治11年刊


【備忘録】梁川星巌と橋本竹下/宮原節庵関連  星巌集@早稲田大学

参考文献)鷹橋明久「竹下『竹下詩鈔』の序文・跋文について」尾道文学談話会会報8,2018,pp21-37.

『星巌集』版本の成立経緯について
大沼枕山関係の研究書)合山 林太郎「大沼枕山と永井荷風『下谷叢話』: ――新視点・新資料から考える幕末明治期の漢詩と近代」 2023/4/
枕山の息子新吉(大沼湖雲)に関する情報はこの新刊書の中では部分的にしか、というか殆ど沈黙。
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雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)

2019年06月04日 | 断想および雑談

雑記帳 頼山陽の『日本外史』&『日本政記』(執筆中)
February 08 [Thu], 2018, 10:45
頼山陽『日本政記』・・・・神武天皇から後陽成天皇(秀吉時代)までの天皇を基軸に据えた紀伝体の史書&政論(日本の歴史に即して治政の在り方を具体的に論評。執筆の目的はお国の為になるような為政者・支配者の実際的な政治論書の提供だった)。山陽政治思想史ともいうべき性格を持つ(『日本思想史体系ー頼山陽』、岩波、解題)。本書に関しては徳富蘇峰の頼山陽研究に詳しいらしい。『日本政記』の種本だが、16巻(正親町天皇)までは林羅山の三男林 鵞峰 (1618-1680)著「王代一覧」、「大日本史」、それ以後16巻の「後陽成天皇」部分は関藤陰藤執筆分で典拠は頼山陽の「日本外史」。分量的には1-9巻(神武天皇ー近衛天皇)までが過半を占める。14巻・北朝最後の後小松天皇までが分量的には全体の3/4以上、この部分は「大日本史」が種本、それ以後は「日本外史」からの引用。外史は正史に対する民間の史書:稗史のこと。論賛部分は新井白石『読史輿余論』、安積澹泊『大日本史賛叢』からの引用。この点は『日本外史』も同様。

『日本政記』12巻は後醍醐天皇編だが、間違った年月日の記載を含め(『楮幣』とよばれる新紙幣、貨幣の発行について言及しているが、これらは計画され、3月には「乾坤通宝」発行詔書が発行されているが、乾坤通宝の存在は確認されていないなど)不正確な事項の記載も多々あるようだ。こういう部分は頼山陽のライターとしての未熟さ・杜撰さの発露(。作田『続日本権力史論』、183頁に乾坤通宝・楮幣の話題)。

第十二巻:後醍醐天皇では名分は備わっているが、建武の親政の悪政ぶり(施策が性急すぎ『二条河原の落書』にあるような世の中の混乱ぶり)に言及し、天皇の支配者としての資質のなさを指摘(後醍醐天皇は『大日本史』がいうような仁政を布き民生を安んずる為政者の資質を欠く御仁だった)。「宮室を営むを以て急となし、妃嬪を悦ばせるを以て務めとなす」(『日本政記』 340頁)、と。作田高太郎も頼山陽の影響を受け後醍醐天皇を捉えて子供が30数人いる▽力×倫男呼ばわり・・・・(この種の認識は浅薄皮相な頼山陽以来の後醍醐天皇観の反映だが、これは紫式部の執筆した一種の「栄花物語」たる『源氏物語』を主人公・光源氏を中心としたハレーム=頽廃小説だといった捉え方と類似の困った誤解の所産だ。わたしの理解では、多くの子孫を残すためのハーレムを形成することは今流の感覚で言えばまことに嘆かわしいことではあるが当時としては正統な王権行使であった)。その治世は後鳥羽上皇時代と同様で上下をあげて頽廃的だった、と(『日本権力史論』 240‐241頁)。頼山陽が注目したのは、そんな後醍醐天皇の資質の有無ではなく、悲惨な状況にあった天皇のために命を投げうってまで忠義を尽くし”嗚呼忠臣楠氏墓”と命名して徳川光圀を感激させた臣下:楠木正成の生き様の方であった。後醍醐天皇の近習の中では一番家柄の劣る楠木をその功名は永遠だとも頼山陽は書いているので、これは幕末の勤王家たちを十二分に鼓舞するところとなったこと疑いなしだ。

『日本外史』は後醍醐天皇という帝王としてはいささか資質に欠ける人物の有する本朝伝統的権威(天照大神を信仰する人物)に対する忠義の示し方に応じて忠臣/逆臣を区別し、足利尊氏は後者の典型(註解では国賊とも記載)、北条・足利氏は姦雄。前者の典型として家柄が劣り出自のもっとも卑しい人物:楠木正成を忠臣の代表として形象化している。いわく「楠木正成公の広大な節義は巍然として山河と共に並び存し世道人心を万年の後までも存分に継ぎ保つもの、それに引き換え姦雄:北条・足利氏らの権勢の持続期間は高々数百(2,3百)年、楠木氏と彼らの優劣は」明らかだろうとばかりの激賞ぶり。時間論のduration(持続時間)面から言えば楠木の節義は永遠の価値を有するものだが、姦雄(足利氏)の権勢はたかだか数百年程度のものだ、と(頼山陽特有の巧みなレトリック)。徳川幕府の長い繁栄は北条・足利とは異なり新田氏時代の善行・忠義のおかげだとも。

『日本外史』解説としては『日本外史』、岩波文庫(上)の尾藤正英のものが要を得ており、それを参照のこと。


日本外史を一種の文学作品、長大な叙事詩だと・・・・納得!  学問的には史実に関してやはり誤謬が多過ぎらしい。


論賛部分には「大日本史」・新井白石の「読史余論」、北畠「神皇正統記」などを参照した形跡
頼山陽の名分論(「名分のあるところ踰越すべからず」)からすると新井の足利将軍=国王、当時は天皇というものは実質的に不在だったといった歴史理解にはもう反発。

頼山陽のいう「尊皇」至上主義は討幕とか天皇親政への待望とは無関係。そもそも本書は老中松平定信に提出された軍記物の衣装をまとった朱子学的名分論の書で、為政者たちにとってはお馴染みの当然「史記」の書法などを手本とする。頼山陽の名分論は藤田幽谷が松平定信に提出した正名論(「君臣上下の名分を正すことの重要性を強調しつつ、幕府が天皇を尊べば大名は幕府を尊び、大名が幕府を尊べば藩士は大名を敬い、結局上下秩序が保たれるようになるとして、尊王の重要性を説く」)と同類。その限りにおいて両者は幕藩体制を擁護する尊皇思想に言及したといえよう。


本編(『日本外史』・第五巻:新田氏前記)は臣下の名分(朱子学的な名分= 立場・身分に応じて守らなければならない道義上の分限)などといった儒教的倫理観を、中国の古典に登場する人物、中心的には楠木正成を引き合いに出しつつ我が国の軍記物語の中に注入・改作した作品なのだ。プロット構成の中では楠木正成を後醍醐天皇の「夢想」、建武の親政の「寿命」を大坂・天王寺蔵聖徳太子「未来記」を持ち出しわずか3年だと楠木自身に予め悟らせるといった筋書きになっており、このように神のお告げ的要素を表現する在り方の中で、頼山陽のおそろしくDoxa(憶断)に満ちた原始的心性は全開する。ここでは天命・天誅の「天」に相当する普遍的価値を担う部分に「聖徳太子」が当てられていることにも注目しておきたい。(徳富蘇峰『人間山陽と史家山陽』1932、民友社…大正11年東京築地での講演会で「頼山陽は世の中をひっくり返すぞといった危険思想の持主ではなく、国家主義と皇室中心主義の唱道者」80頁)。


『日本外史・第五巻(冒頭の文章)』皇室に対する忠勤(王事に勤むること:勤王の精神)の乱れ、皇室(権威)自体の乱れの中での臣下(権力者:源平、北条)の横暴

徳川家は新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称したので南北朝期の新田氏をハイライト化し、その背後に楠木氏らを配置するといった明らかに徳川幕府(日本外史の最終巻では時間をかけて慎重に天下を取った家康公を持ち上げ、だから徳川氏の治世が長続きしたのだと豊臣氏を引き合いに出しつつ称賛)にゴマすりをする(=媚びをうる)やり方を頼山陽は取っている。因みに*新田氏前記・楠木をメインに中興諸将;北畠・菊池・名和・児島・土居・得能の各氏を付記⇔新田前記を読むと軍記物語の形式を借りた家柄・門地の面で劣位にあった楠木正成一族を『史記』中の人物に準えながら特徴付け、楠木の行動を引き合いに出しながら儒教的な倫理(忠義・仁・名などの徳目)を唱道したまるで浪曲台本のようだ(執筆中)、『日本外史』は文化文政期の文芸作品『里見八犬伝』などと同じ土俵の上で眺めてみるというのもありなのだろ(たとえば成功例とは思えないが井上厚史「『南総里見八犬伝』と『日本外史』の歴史意識」同志社国文学 (61), 514-503, 2004-11 )。

・・・日本政記

名分論:名分を乱したものは激しく攻撃、それを守ったものには最大級の称賛を与える立場から記述。
頼惟勤によれば楠木正成との出会いに関して後醍醐天皇の夢想が契機となったといった記述があるらしい(中公バックス『頼山陽』 日本外史 、234頁)。

「瑞夢石」(夢枕に現れた霊石)というお題の漢詩屏風(幕末明治期・沼隈郡今津村)・・・・頼山陽の生きた時代の生活世界の中には現実の世界と夢の中の世界のことは同一の座標系の中で矛盾なく共存していたことがわかるだろう。


確認したところこの箇所だ。


夢想というのは頼山陽の心性の在り方の反映か。夢想は鎌倉時代の代表的史書:『吾妻鏡』にも出てくる言葉だが、『日本外史』のメインテーマ部分でのお伽話めいた筋立て。本書の性格の一端が少しく透かし見えてきた。


当時は「和臭」を嫌う風潮が徂徠派を中心に関東では強かったらしいが、山陽は地名・人名・官名は中国風に改めることを避け、日本語表記した・・・・この点は無問題。江戸を中国風に「武陵」とか「武昌」と表記されたらそれこそ困りものだ。森田節斎は日本は中国文化圏内に在ることを力説していたが、頼山陽の歴史制作も当然に『大日本史』、中国の「史記」「後漢書」「三国志」等を手本(=準拠枠として過去を再構成)としたもの。頼惟勤は本書が山陽の「日本にて必要の大典とは芸州の書物と呼ばせ申したき」(33頁)思いといった芸州№1主義の発露に過ぎず、本書が後時間(=時代)的に帝国主義「日本」の思想、勤王家を鼓吹した歴史的事実があったとしても、別問題。本書自体の価値とは一旦分けて考えるべきだ(36頁)という。
ただ、頼惟勤が日本外史研究史の中の平泉澄・和辻哲郎(「尊皇思想とその伝統」・・・山陽は詩人だ。したがって歴史叙述は学問的というよりは芸術的、その功績は歴史叙述の上にあるのであって、歴史探究の上にあるのではない、と)・丸山真男・尾藤正英(岩波文庫『日本外史1-5』昭和43年、解題:「日本外史」は人物中心の武家時代史であり、その中では個々人の人物の人間像を描写し、その心情の美しさ、行動の正しさや勇ましさを顕彰することに主眼が置かれていた。読者は山陽の記述を通じて武士(和辻のいう「臣下」)としての生き方、日本人としての人生観を学ぶことが出来た、と、34頁)らの論考をハイライトした時点で、頼山陽が帝国主義「日本」の思想に与えた影響とか勤王家を鼓吹した歴史的事実を『日本外史』そのものから分離して考えるべきだという論拠は半ば失われているというべきだろ。

私自身は『日本政記』『日本外史』はまことに下らない本だという印象を深くした訳だが、作田高太郎を理解するためには最低限、このくらいは通読しておく必要があろうと思っているところだ。頼山陽には被支配者側の事柄は視野に入っておらず、言及領域は支配者間限定。『大日本史』は為政者論、『日本外史』は臣下忠勤論、作田の『日本権力史論』三部作は支配される側の立場から行論されている。

『福翁自伝』では賴山陽は子供時代の教えの中で信じるに値しない存在だと思い込まされたこと、そして『学問のすゝめ』の中では
『日本外史』が説いたような儒教的名分論は根本的に否定(例えば明治7年4月執筆の第8編「我が心を持って他人の身を制すべからず」)。名分論は陰陽五行説同様の妄説。忠臣義士の死は徒死(無駄な死)・犬死だったという福澤の主張は当時大批判をあび、その弁解を,明治7年11月7日付けで慶應義塾59楼仙万記のペンネームを使い、時勢論を持ち出して弁明。時勢論では昔は忠死だった、だが今は対外的な懸案事項も関係することだが、そんなことは徒死同然だという風に反論。福澤の考え方は英国の歴史家E・H,カー風にいえば「歴史とは尽きることのない過去と現在との対話の中にある」ものだという事になろう。福澤諭吉は当たり障りのないことは言わないタイプで、「ああ言えば上祐」風のところもある位の抜群に頭脳明晰な御仁だった。

福澤は拝金主義の宣教師であって学校教育で商売をする人物だと言う意味の評伝『学商福澤諭吉』明治33を書いた福山藩出身の渡辺修二郎は明治3年故郷中津に帰る途中の福澤に対して,多分岡田𠮷顕(岡田本人は東京に出向中だったので、洋学者江木鰐水)らが誠之館の視察をお願いした。それを快諾した彼の主たる関心事は自分の著書や翻訳書がどの程度、誠之館の寄宿生達の間に浸透しているか、そしてそれらは海賊本ではないか否かと言う点にあっただろう言った調子の渡辺一流の勘ぐりを(意地悪く)書いていた。

◆「古い革袋に新しい酒を盛る」

浜野靖一郎『頼山陽の思想 日本における政治学の誕生』、東京大学出版、2014

 『「天下の大勢」の政治思想史 -頼山陽から丸山眞男への航跡』, 筑摩選書 231, 筑摩書房, 東京, 400頁, 2022年

 

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福山出身の森下博の寄進物

2019年06月02日 | 教養(Culture)
The iconography of Japanese paternity in the 17th century(17世紀における日本的父性の図像学)
京都の嵐山にある大悲閣千光寺といえば・・・・。<リンク:http://www5e.biglobe.ne.jp/~hidesan/senkou-ji.htm>大悲閣は、慶長19年(1614)、保津峡を開削した角倉了以が、清涼寺(嵯峨釈迦堂)近くにあった千光寺を現在地に移し、保津川の開削工事で亡くなった人とその関係者の菩提を弔うために二尊院の僧、道空了椿(どうくうりょうちん)を中興開山に講じて建立したもの。</リンク></大>



大悲閣からの眺望;Aは比叡山、Bは大文字山、Cは音羽山(滋賀県境)、A-Bの下にある丘陵:双ヶ丘

<大>角倉了以(1554~1614)といえば・・・・・・・・・・・・・・、安土桃山時代から江戸時代にかけて豪商。わが国の民間貿易の創始者として、南方諸国と交易や海外文化の功績をたてた人物で、国内においては、保津川、富士川、天竜川、高瀬川などの大小河川を開削し、舟運の便益に貢献した。晩年は、この地に隠棲し余生を過ごしたという。嵐山の亀山公園内に角倉了以の偉業を称えて建立された銅像が、また嵯峨二尊院には墓がある。角倉家の本姓は吉田氏。ご先祖さんは室町時代には臨川寺(かつての河端御所)の東隣に居宅を構えた地元(大井郷)の豪族(下司)であった。了以の父吉田宗桂は漢方医。親族には土倉(金融・商社経営)が・・・・・・・・・・・。現在の角倉町に角倉神社(長慶天皇陵の南隣に清明墓と並置)が残る。<色:#3366cc>大悲閣千光寺の入り口に立つ石造物(大正14年森下博の寄贈とある。森下仁丹の創業者)。大阪商人たちの中には財力の一部を郷土の社会事業や京都の社寺など多方面に寄進(社会還元)したようだ</色>。勧修寺(かじゅうじ)の塔頭仏光寺にも森下仁丹の寄進物が・・・・。



洛東の勧修寺の大悲閣を寄進したのは尾道出身の山口玄洞だった。山口は京都高尾の名刹・神護寺の金堂、洛東醍醐寺伝法院大講堂、比叡山延暦寺阿弥陀堂なども寄進していた。



エキゾチックな観音さんだ。


大悲閣の観音さんといえば山口玄洞の故郷・尾道の千光寺のそれを想起するが・・・・・。山口の頌徳碑はたしか尾道の西国寺にあったとおもうが、山口家は代々この寺の門前(ニシテラ小路)に居宅を構え、醤油販売も手がけた医者の家系だった。

岡村敬二「山口玄洞の軌跡を辿る」
岡村敬二氏は三原市出身の書誌学者で論攷「山口玄洞の軌跡をたどる」は蒔苗暢夫, 長沼光彦 編(2013)『京のキリスト教 : 聖トマス学院とノートルダム教育修道女会を訪ねて』に所収。山口氏の寄進物に関しては『仰景帖』1938に詳しい。
信仰心旺盛な社会奉仕家⇔功名心旺盛な浪費家
仰景帖 - 国立国会図書館デジタルコレクション (ndl.go.jp)

 

 

 



わたしは勧修寺の近所に永く居住していたが、ここを初めて訪れたのは歴史研究の一環であった。その中で山口玄洞のことを知り、幼少期よく口にしていた大石順教尼のことで松永・福山に来訪の時には地元婦人会のメンバーと講演会に出かけていた。この尼さんの弟子が福山市東村町の大塚全教さんであったことを知ったのは福山に帰省後のことであった。門跡さんにいろいろインタビューしたが、歴史のことはこちらは情報提供する感じで、大西順教さんの弟子が養護老人ホーム入所の2人がいて一人は一年前に亡くなったという話を伺ったことが思い出される。その人が大塚全教(1920-2007)尼だった訳だ。門跡さんは筑波さんという元皇族山科家出身の方で、山口のことを聞いたら「そのものは・・・」という感じの言葉づかいで元皇族時代の口ぶりが残っていた。1935年生まれの方なので現在89歳。わたしがお会いしたのは71歳の時だったことになる。この人の兄貴がNHKラジオ放送でおなじみの農学者筑波常治さん。 関連記事
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