武井節庵 のゆかりの人さがしは 『諏訪八勝図詩』[むかしの版木が、昭和4年当時は実在。山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』によると「天保7(1836)年に50歳で亡くなった吉田霊鳳」に対する(、以下はわたしの見解だが)、おそらくは挿絵入り追悼漢詩集で、末尾に天保9年の年紀のある霊鳳の八勝詩に加える形で、霊鳳と交流のあった人々が吉田霊鳳の故郷:信州諏訪の名勝地関係の漢詩や絵(山水画)を提供している。 諏訪八勝詩 吉田清編 東條畊序(天保九年一二月) 菊池桐孫序(天保八年八月) 武井恭跋(天保八年一〇月) 天保九年歳次戊戌肇秋七日 信陽 吉田清(不求堂蔵板) 文末に当時15歳だった息子・武井恭(雪庵印)が跋文を添えている・・・この件に関しては研究中]を復刻した在野の考古学者であった 武居幸重さん(1996年に第5回相澤忠洋賞を受賞)のところでストップ状態になってから2015年5月以後、私的には中断していた。最近になってふと諏訪市の郷土史本の中に武井節庵に言及したものがあることをGoogleBook上で発見。 これがそのとき見かけた文面のコピー。 それからこの文面を有する書籍探しが始まった。幸い、ほどなくそれが昭和4年に当時の郷土研究ブームの中で出されたガリ版刷り・山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』(校長だった筆者が昭和4年から8年にかけ行った、職員向け講義のガリ版刷りテキストを印刷したもの)であることが判明。検索開始より5分後のことだった。 幸い、その活字版が昭和54年にご子息の山田敦夫さんによって復刻されていることわかり、その3日後(6月18日)に当該書籍を入手。6月22日土曜日午前中に、前日に電話連絡した地元自治体の文化財関係の部署へ情報提供(『諏訪八勝図詩』元版を古書市で販売した茅野市内の古書店主はもちろんのこと、その復刻版を出した武井幸重さんですら武井節庵については全く不知だった)。 山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』、岡谷書店版(1979)の再発見が起点となって武井節庵のゆかりの人さがしがもっか再始動中って訳だ。明治23年に武井見竜 (寛) 著 『田疇斎遺稿』の再刊者にして、大正5年刊『天龍道人事迹考』(渋川氏系図など掲載)の著者武井一郎さん(長野県諏訪郡豊田村小川⇒大正5年段階には長野市西後町72番地)あたりは同族だろか。 諏訪市の小川(こがわ)といえば学生時代に諏訪大社春宮とか諏訪湖のほとりにある高島城跡を訪れ、その近くをぶらついたことがあるところだった。不思議なものだ。城の湖側の一角に永田中将の銅像があった。わたしが訪れた頃地元諏訪では野尻湖の湖底よりナウマン象の骨が出てきた話題でもちりきだった。 武井節庵の伯父武井見龍[肥前出身の「天龍道人」こと渋川虚庵 (1718~1810)という、後半生を信州諏訪に居を定め、高島藩主の支援を受けながら、多くの書画を制作した江戸中期の勤王の志士/絵師より、天龍道人碑碣銘(てんりゅうどうじんひけつめい)と言う形で撰文を依頼された人物]の居宅が現在の諏訪市の小川にあったことを突き止めた訳だが、なぜかわたしは不思議な縁をこの武井節庵に対して感じる。 寛塾時代の門人だったIさんのご子孫やわたしがときどき墓参をしている。墓誌に安政6(1859)年、38歳で没とある。『諏訪史概説』には文化4(1807)年生まれとあるが、武井が生年月日をごまかしてきた可能性はあるが、まあ、普通に考えれば、これは誤りだろ。ただ、文政4(1821)年生まれだったとすると後述する『節庵初集』はいくら早熟な漢詩人だったとしても彼が21歳の時に刊行されたということになろう。天保13(1842)年には兄貴吉田慎斎のいた〈芝将監橋〉で居候。自らを武井精一郎と称した。菊池五山の序によれば、実父の吉田鵞湖が出資して公刊したもので、親父吉田鵞湖の跋によれば、節庵の年来の詩稿が火事で焼失したため、再び火災に遭っても残るようにと上梓したものだとか。ってことは吉田鵞湖が天保7年に50歳で没した(『諏訪史概説』、206㌻)という話とは矛盾? 『沼隈郡誌』の中に墓誌が収録されただけで歴史の表舞台から完全に消えた御仁のことをどこまでハイライト化させるのがよいのか。とりあえずは武井節庵を西国遊歴に出かけたまま、消息不明となっていると語ったおそらくは武井寅太郎さんの、いまだ私的には未接触の子孫の方(その代替物が地方自治体・文化財部署か郷土史家)くらいか・・・。節庵は門弟たちに対し、自分は寛永寺貫首(輪王寺宮)の故臣だと自己紹介をしていた。それが事実であったとすれば、おそらく当該貫首とは第十三代貫首公紹法親王(1815-1846、有栖川宮韶仁親王の第3王子,1843年に門跡に)だろ。薨去(こうきょ)は節庵25歳の時、かれは26歳の時(1847)に叔父武井見龍(父親吉田霊鳳の実兄)のところに一時滞在の後、『諏訪史概説』(206㌻)の言う尊皇の志を抱きつつ西国遊歴に旅立った。これはわたしの単なる想像だが、諏訪には自分の居場所を見いだし得なかったのだろ。その彼がたどり着いた先が備後国沼隈郡藤江村の豪農山路熊太郎(機谷)の元だった。一時期(1849-1852)は精力的にこちらの漢詩好きの文人たちと交流を重ねていた。1856年段階の節庵は尊皇家森田節斎(武力を使わない社会変革を提唱)を当該山路家に匿う工作をしていた福山藩儒江木鰐水(や備中興譲館の坂谷朗蘆ら)からは冗談抜きに邪魔者扱い(否、笑いもの扱い)をされていた。 参考までに言及しておくと岩瀨文庫の『節庵初集』書誌中では節庵は天保8年12月に致仕。その後西国へ、とある。なお、節庵初集第9/10巻辺りは天保11,12年頃ヵとする。前述した武井節庵の墓誌にある「輪王法親王の故臣」云々に関する言及はなし。 どなたかこの人物に興味のある方は是非とも永井荷風の史伝『下谷叢話』ではないが節庵研究に取り組んでもらいたいものだ。この荷風の名作は鷲津家一族の中の没落=負け組:大沼枕山一族に対する永井荷風自身の共感がベースとなっている味わい深い名作だ。 『節庵初集』など武井の残した文章の研究が進めば、武井節庵の再評価を含め、才能豊かだったこの人物の実像により迫れるはずだ。 いまは90歳近い高齢の山田敦夫家に電話して見たが、そのとき応対に出られた人は敦夫さん50歳頃に当たる昭和54年岡谷書店から復刻した山田茂保『諏訪史概説-文化史を中心として-』にかんしては、山田茂保さん(昭和21没)の存在を含め、自分はよそからきた人間だということ一点張りで口を閉ざした。
武井節庵の郷里:長野県 諏訪市 豊田小川 武井姓の電話番号
武井節庵研究に役立ちそうな基本文献の一つ『日本詩史・五山堂詩話』岩波・新日本古典文学大系28月報(1991)所収の、富士川英郎「詩話」についての雑談、1-4頁。 富士川英郎は広島出身の医学史研究の泰斗富士川游の息子。
武井節庵研究の現在
わたしの研究は①武井の漢詩については検討対象外であること、②武井節庵(お墓は今津町薬師寺本堂裏手に立地)に関する古文書は門弟の家筋に当たる満居石井家蔵もの及び松永竹原屋高橋氏(『西山遺稿』)限定で,新史料の発掘面でまだまだの状態である。
【参考文献】合山林太郎編 大沼枕山と永井荷風『下谷叢話』--新視点・新資料から考える幕末明治期の漢詩と近代-、二松学舎大学アジア学術総合研究所日本漢学研究センター、日本漢学研究叢書3、汲古書院、2023。
合山林太郎:菊池五山の詠物詩の課題と大沼枕山-新出資料「五山堂詩社課題」について-237-254頁。
合山林太郎ほか:天保14/1843年大沼沈山詩稿翻刻、255-292頁。武井節庵が信州へ旅立ちしたのは大沼らが彦根藩家老岡本黄石が湯島の松琴楼で開いた詩宴(天保14年5月8日)に参加した後のことだったらしい。沈山が飯沼の弘経寺(茨城県常総市豊岡町にある浄土宗寺院)滞在中武井もそこにやってきて3日間滞在し、漢詩を作りあっている(288-290頁)
のことだった(262頁)。弘経寺の梅痴上人と大沼枕山は昵懇だったのか『枕山詩抄』下、丙午(弘化3年、1846)の記事にも「五山堂掲題」の記述と共に登場。
永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)
【備忘録】梁川星巌と橋本竹下/宮原節庵関連 星巌集@早稲田大学
参考文献)鷹橋明久「竹下『竹下詩鈔』の序文・跋文について」尾道文学談話会会報8,2018,pp21-37.
『星巌集』版本の成立経緯について
大沼枕山関係の研究書)合山 林太郎「大沼枕山と永井荷風『下谷叢話』: ――新視点・新資料から考える幕末明治期の漢詩と近代」 2023/4/
枕山の息子新吉(大沼湖雲)に関する情報はこの新刊書の中では部分的にしか、というか殆ど沈黙。