- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

松永史談会5月例会のご案内

2024年04月26日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会5月例会のご案内

開催日時と場所
5月31日(金曜日)午前10-12時、『蔵』
話題 今川了俊『道ゆきぶり』の内容分析。


先月予告の話題[佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)]は6/7月例会に順延。
テキストとして稲田利徳執筆の『中世日記紀行集』小学館、1994、389-425頁に所収版を使用予定。この詳述版が後掲の基本文献①/稲田利徳論文1~5。

松永史談会の活動報告を兼ねた市民雑誌(中近世移行期に於ける松永湾北岸域の風景点描②を扱った『文化財ふくやま・59号』と幕末期沼隈郡内豪農層の思想傾向と関連付けながら行った安政4年「松永湾岸風景図屛風」の絵画史料分析物を『福山城博物館友の会だより・54号』)掲載論攷(学会誌では「短報」)の抜刷2冊(『文化財ふくやま・59号』は抜刷及び雑誌本体)は6月例会時に配付。

紀行文研究に関する松永史談会の関連記事①松永史談会2024年2月例会:賴山陽の修史事業に影響を与えた、史志(or 地誌)編纂家古川古松軒(1726~1807)の行動と精神(=学的方法論)について
関連記事②松永史談会2017年5月例会:賴山陽『東遊漫録』に言及した「湊・市・宿駅―近世剣大明神界隈の風景―」

参考記事
基本文献)
ネット上に公開されたテクストとしては国文学者稲田利徳「今川了俊『道行きぶり』注釈1-5」、岡山大学教育学部研究集録、1992。
この小学館版には稲田利徳校注・木下勝俊(長嘯子/ちょうしょうし)『九州の道の記』、571-586頁もある。4月例会では広島県立博物館のメイン展示物草戸千軒遺跡と福山城下の中に再編された「神島 上中下市」に言及したが、実は後者のみが『九州の道の記』には登場し、ここに居住した人物と木下は暫し蹴鞠を楽しんだ場所として登場(珍しい蹴鞠に付近の住民が多数参集し見物・・・出兵時の武将:木下勝俊がどういう精神状況だったかは不明だが、現在の神島橋付近のしかるべき場所で、ここ住まいの都会育ちの人物某(足利義昭の近習)らと長時間蹴鞠を楽しんだ)。なお、4月例会では広島県歷博発「神島(地字「古市」あり)不在の草戸千軒論」には不自然さがあることを指摘。5月例会では今川了俊『道ゆきぶり』には無記載だが、この朝鮮出兵(1585年)当時の旧沼隈郡域の記述に関しては『中世日記紀行集』小学館版細川幽斎『九州道の記』(伊藤敬校注に言う、秀吉の滞在先=備後津郷にあった公儀御座所、郷土史家の間では足利義昭がらみの言説として流布する場所)など他の古記録についても紹介予定。
単行本)中世史家川添昭二『今川了俊』、人物叢書、吉川弘文館、2023(初版は1964)。

雑誌論文)地名考証関係では渡邊世祐「足利時代の山陽道」1-3、歴史地理4-8/9/10、1902.


角重始「道行きぶり」の世界、広島文教女子大・文教國文學25,2023、10-27頁。....既往の研究を川添(歴史)>稲田(文学史)に(九州地方平定作戦を推進させる中での紀行文制作という文脈に焦点=)比重を置きながら今川了俊の九州行を要領よく再整理したもの(謂わば、国文学者による歴史学的研究もの)。
小沢富夫『家訓』、講談社学術文庫683 今川了俊の「今川状」(弟仲秋に残した人生訓・・・江戸時代の庶民道徳にも影響を与えたもので、利欲を廃し公正を尊び、神仏を敬うと言った道徳観に支えられた武家道徳を説いたもの)
今川了俊『難太平記』

[福岡県・みやこ町歴史民俗博物館/WEB博物館「みやこ町遺産」]よりとりあえず参考までと言うことで、全文引用
「今川了俊は、九州進発にあたって、前の大将軍渋川義行の失敗にかんがみて慎重に作戦計画を立てた。すなわち、一族の者を豊後と肥前に上陸させ、その地の武士を糾合(きゅうごう)して太宰府へ向かい、了俊自らは少し遅れて正面から門司へ渡り、豊前・筑前を経て、太宰府で一族の者たちと合流し、懐良親王方を壊滅させるというものであった。
 了俊は京都出発にあたって、備後・安芸の守護職を兼任して、両国の軍勢を動員し、更に、周防・長門の守護大内弘世と婚姻関係を結んでその協力を得て、その強大な軍事力に頼るところ大なるものがあった。
 応安四年(一三七一)六月、了俊は子息義範(よしのり)を備後尾道から、船で豊後高崎城に向かわせた。
 豊後では、このころ大友氏継(うじつぐ)から親世(ちかよ)へ家督が移り、氏継が南朝方へ走るという事件があった。足利義満―細川頼之ラインが守護クラスの大名家の家督問題に介入したらしい。今川了俊は「京都の御さたのおもむきをしり候ハぬ人々」が、これを不満に思って、氏継とともに南朝側へ走ったと述べている(『入江文書』卯月十五日付)。
 菊池武光は、高崎城の今川義範軍を包囲して、翌応安五年(一三七二)正月までの半年間に、一〇〇余度も合戦を繰り返した。
 今川義範が豊後へ向かった翌月、了俊の弟仲秋(国泰・頼泰・入道仲高)も尾道を船出し、十一月、肥前松浦に上陸し、松浦党の支援を得て、肥前の各地で戦い、応安五年二月、烏帽子(えぼし)岳で戦って、菊池次郎武政を破り、軍を筑前に進めた。
 今川了俊は、応安四年十月に入って長門国に到着し、十二月、門司へ渡海した。これを聞いた菊池武光は高崎城の包囲を解いて、軍を太宰府へ返し、肥後との連絡路を確保して、太宰府の維持に努めた。
 応安五年二月、今川了俊の軍は、筑前麻生山の多良倉・鷹見岳(八幡西区カ)攻めにかかり、少弐冬資や大内弘世の奮戦によって、両城を抜き、太宰府に近い高宮に陣をしき、肥前長島庄から蜷(にな)打へ進出してきた弟仲秋の来陣を待った。同年八月、菊池肥前守武安を筑後酒見城で退けた仲秋軍は、菊池武安を追って筑前に入り、了俊の軍と合流して、両者は一挙に太宰府攻撃に移った。
 応安五年八月十二日、太宰府は陥落し、懐良親王・菊池武光らは、筑後高良山へ移った。このあと、大内弘世ら中国勢は帰国した。」

ネット上で見つけた参考文献
川添昭二・朱雀信城共編「九州探題関係文献目録-今川了俊-」、年報太宰府学第五号、74-60頁→今川了俊の研究文献リスト
太宰府市史・中世資料編(未見)

コメント

松永史談会2024年4月例会のご案内

2024年04月16日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2024年4月例会のご案内

日時 4月26日 金曜日 午前10-12時
場所 蔵
話題 松永史談会2023-12月例会提供話題の続編として今回は青木茂「中世港町における航運活動-高野山領備後尾道を中心にして-」(『魚澄先生古希記念論集-国史学論叢』、1959)及び柴垣勇夫編『中世瀬戸内海の流通と交流』、2005、塙書房所収(兵庫・岡山・広島の県立博物館・考古学主導)の矢田俊文・藤田裕嗣(ここでは掲載論文ではなく、同氏の「安芸国沼田庄の市場と瀬戸内流通網」、歴史地理学136,1987を取り上げる)・松井輝昭氏らの論攷を検討しながら、中世瀬戸内海における経済(物流/交通)圏域論の現状とその問題点(具体的には史料の歪みや研究者自身の抱える歪みの所産、及び歴史研究者が陥りやすいパレイドリア現象の兆候)を洗い出しながら、松永史談会が実践してきた環境-歴史-文化という<思考の三角形>(⇒博物誌的)側面から中世備南地方に於ける新たな地域史研究の在り方を探って行く。

パレイドリア( Pareidolia)現象:視覚刺激や聴覚刺激を受けとり、普段からよく知ったパターンを本来そこに存在しないにもかかわらず心に思い浮かべる現象、こうした現象はThomas Gilovich流に言えば「わずかなこと(=史料断片)から肯定的な(=自分の仮説に合致する)情報を探し求めたり、信じている(=自分の立てた仮説が動機付けとなって)と、そのように物事は(=なんでもない史料なのに当該仮説に合致した証拠資料のように)見えてくる。そして自分が信じたいもの(例えば自分が取り組んできた尾道・厳島)(=それらの港が瀬戸内交通の要衝であったと思えてくるといった風に)信じようとする」傾向とでも言い換えることが出来よう。
従って今回は網野善彦・宮本常一氏や予てより注目の中世瀬戸内海域史研究の第一人者山内譲氏にはちょっと失礼という感じの話題提供となる。なお、4月例会の話題は5月例会予定の佐伯道之 編「世羅郡下調べ書出帳集成 芸藩通志編集資料」、1998(→『芸藩通志』に見る頼杏坪の地誌編纂のセンス)の紹介のつなぎとして提供するものである。

これまで関連記事
①歌西金寺境内の伝「和泉式部供養塔」から見た松永湾
②続「中世歌島荘研究の成果と課題」
③松永史談会2023年11月例会のご案内-第一報-  杉原保
④2023-6例会「庵室考-中近世移行期の沼隈郡新庄および神村における社会史の一断面-」
⑤2022-11例会: 毛利氏の「海の御用商人」尾道・渋谷与右衛門の知行地・新庄つる木浦について-中近世移行期における松永湾北岸域の風景点描(1)-
⑥2022-5 「中世沼隈郡新庄今津における『弁財天女の霊廟』-薬師寺蔵今津金剛寺本尊如意輪観音像の拝観に事寄せて-」

❽松永史談会11月例会のご案内-第一報-網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく。その試みの手始めとして、11月例会では 環シナ海経済文化圏に関わる問題を提起。
❾伊予-備後の田頭氏と「因島中庄田頭氏家伝」(全面的にrewrite予定)、松永史談会会報2021-1/2(号外)//非表示
❿松永史談会2023-12例会:網野善彦ほか編『瀬戸内の海人文化』(『海の列島文化・9』小学館、1991)及び地方史研究協議会編『海と風土』、雄山閣、2002を中心にこれまでの地域の風土性を炙り出そうとしてきた様々な瀬戸内研究(写真紹介文献類は一例)を回顧(成果及び課題の整理)しながら、松永史談会が行ってきた地域史研究をIntra-regional(地域内的)及びInter-regional( 相互地域的)な視角から再論理化していく方途を探っていく
など多数。
コメント