- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

梁川星巌(やながわせいがん、1789-1858)編著『星巌集』(西征集)を見ながら

2021年05月20日 | 断想および雑談
後に夫人となる紅蘭(1804-1879)を伴って岡山~下関~長崎への巡歴の帰り道、文政8年(1825)のことだが、尾道で主に豪商橋本竹下らの接待をうけ、肉親の葬儀(叔父賴春風)でたまたま竹原に帰省中の賴山陽に会い、田氏女(平田)玉蘊(1787-1855)には漢詩:古鏡絶句4首を送っている(菅茶山翁のススメもあって長崎まで足を伸ばす途中文政6年に、尾道で平田玉蘊・玉葆姉妹の描いた絵を見せられ、その返礼に漢詩を詠んでいるが、帰路に尾道に立ち寄った文政8年には平田玉蘊の為に古鏡絶句4首を詠んでいる。平田玉蘊36-38歳、これらのエピソードからも玉蘊の承認欲求=「他人から認められたい、自分を価値ある存在として認めたい」 という欲求の強さが伝わってこよう)。そして神辺で菅茶山翁(1748-1827)と再会、その後は讃岐・岡山へと向っている

梁川星巌が主宰した玉池吟社(漢詩塾)の社中の中の森田居敬(葆庵)は森田節齊(沼隈郡藤江村に6年間滞在。山路機谷の史記研究を支援した儒学の大先生)の弟で後年備中国庭瀬藩儒。門下の三高足のうち、鈴木松塘(鈴木邦、鈴木を洒落て鱸/スズキとすることも、別名:彦之or松塘)や大沼枕山(大沼厚、1818-1891)ら二人の名前はあったが、小野湖山(門下の三高足の一人)の名前や門下生の河野鉄兜(一時期藤江村に来て山路機谷に漢学を教えた)のそれは度々登場するも本『星巌集』上に漢詩は未掲載。『枕山詩鈔』と同じ東叡山(=浅草寛永寺境内)の観梅の話題(星巌・紅蘭夫婦と大沼枕山・鈴木松塘らと連れだって参加)の中で武井節庵の名前が一度だけ登場。

おや尊皇家藤田東湖の名前が・・・・

8冊揃・帙入。保存状態は普通。天保の年号の記載された版本だが実際はもっと後の刊行本ヵ、何人かの所有者を経てわたしの所に辿りついたとみえ、各種の蔵書印。その中に「星文庫」というのがあった。

最終巻の口絵に蓮塘の寓居図。左は柳に植物の芭蕉

『星巌集』の研究書としては伊藤信『梁川星巌翁 : 附・紅蘭女史』、大正14が便利。


【追加情報】
こちらは大沼枕山の詠物(漢)詩集『枕山詩抄』

この中には前述の『星巌集』掲載記事と同じ、梁川星巌を交えて、大沼や武井節庵らが近所の上野寛永寺境内で梅見をした時の漢詩が入っている。
千葉県の鋸山山頂に建つ星巌詩碑⇒「幕末明治期における日本漢詩文の研究

尾道市立中央図書館・山路家史料の中で見かけた「大沼枕山」の名前(筆跡は山路機谷)
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人気・地方絵師「田氏女(平田)玉蘊(1787-1855)作「桐鳳凰図」@宗教法人慈観寺・・・・この襖絵に対する私の第一印象では、絵心のある素人絵師水準。つまり、伊藤若冲上村松園クラスの大家の作品を基準にしていえば第一人者風の風格(つまり、ハッとするような視覚的インパクトとかピカッと光り鑑賞者の心を鷲づかみにするような美的な迫力)などは全く不在。全体的な構成面(構え)はこじんまりと萎縮気味で、絵柄もどことなく大人しく、突き抜けるような生気や華やぎに欠け、気品もなし。
ただし、昭和8年に松永高女で開催の先哲遺墨展に神村・井上さん所蔵の玉蘊女史の絵が出展されていた(『青むしろ』1-11、昭和8年)。地方では名の知れた人気女流絵師だったのだろう。

メモ 梁川星巌は蝦夷地探検家松浦武四郎や賴山陽の息子頼三樹三郎と懇意だった。
久下実・豊田渡「二神家旧蔵襖絵について」、民具マンスリー52-7(2019年10月刊)、1-9頁が岩城島に転居した平田玉蘊の子孫(玉圃、1813-1884)について言及。
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永井荷風『下谷叢話』に記載された漢詩人大沼枕山(1818-1891)

2021年05月19日 | repostシリーズ
永井荷風の『下谷叢話』は自分の母方の祖父鷲津毅堂と鷲津家から江戸の大沼家に入った鷲津幽林の長男:鷲津治右衛門(大沼竹渓)、その子の大沼沈山を巡る今日風にいえば繁栄/衰退といういわば真逆のコースを辿った鷲津一族(鷲津毅堂と大沼枕山(力点おいて記述))のファミリーヒストリーをまとめたもの(典型的な「伝記文学」というよりも歴史研究もの)。鴎外の『渋江抽斎』に触発された作品のようで大正13-15年にかけて書かれている。これを読むと歴史小説に力を注いでいた文豪森鴎外が永井を高く評価し慶応大学教授に推薦したことも首肯出来よう。 月報1/2/3


荷風曰く「わたくしは枕山が尊皇攘夷の輿論日に日に熾ならむとするの時、徒に化成極勢の日を追慕して止まざる胸中を想像するにつけて、自ずから大正の今日、わたくしは時代思潮変遷の危機に際しながら、独旧事の文芸にのみ恋々としている自家の傾向を顧みて、更に悵然(筆者注ーがっかりしてうちひしがれるさま)たらざるを得ない」(369㌻)と。 こんな感じの表現でやや自嘲気味に感慨をもらしているので、あるいは、荷風自身としては、大沼枕山の生き方とダブらせながら、こんなご時世に文芸などにうつつを抜かす自分に対する不甲斐なさとか、自分の作風に関しても一風変わった、文章形式の浮世絵の世界を徘徊しているといった風の自覚は大いに持っていたのだろ。彼の場合漢籍を幼少期から先生について学習していた。


後記(『荷風全集15』、岩波、昭和38年より引用)


尾道市立図書館蔵の史料『嘉永五(1852)年対潮楼集 観光会詩』白雪堂主人(山路機谷)の裏表紙に書き込まれた大沼枕山(34歳)の名前と住所(下谷和泉橋通御徒町)この情報の出所は? この『観光会詩』中には"未開牡丹"のお題の漢詩を会に出席した房州人の某が詠んでいた。ただし、この人物の漢詩は安政2年刊白雪樓藏版『未開牡丹詩』には所収されておらず、当然森鴎外『備後人名録』にもその名前は記載されてはいない。房州といえば大沼は房州谷向村在住の親友鈴木松塘( 梁川星巌門下。大沼枕山・小野湖山とともに星巌門下の三高足と称された。なお、永井荷風は大沼と梁川との関係は師弟関係にはなく、枕山は梁川を先輩として尊敬していたのみだと書いている-328㌻)のもとをときどき訪ねていた(375㌻)。そういう点を考えるともしかするとといった程度のことではあるが、これは房州某発の情報だったか。あるいは鈴木の旧友でもあった山路のところに滞在中の武井節庵(元卿)発のそれだったか・・・。それとも


枕山の長女嘉年(かね)は門弟の鶴林を婿にし、大沼の家を継いだ。嘉年は後年目を患い、ほとんどものを見ることができなくなっていたが、父枕山から受けた漢詩の才は衰えなかったという。昭和9年3月22日に74才で亡くなった。号は芳樹。写真は麹町の家(下六番町13番地。現在六番町5−3)の二階で撮られたもの。永井荷風がここに嘉年を訪ねて枕山の話を聞き、資料を借りて帰った。その後関東大震災が起こり、荷風は再び嘉年のもとを訪ねて見舞ったということが『下谷叢話』に書かれている」とある。 枕山の息子新吉(大沼湖雲)には放蕩癖があり、勘当状態。その息子家族は、荷風による戸籍簿調査の結果、大正4-5年に救貧施設「東京市養育院⇒地図中の①に収容され、そこで(新吉は)死亡した。而してその遺骨を薬王寺に携来った孤児の生死については遂に知ることを得ない」という形で作品を締めくくっている。小説よりも奇なりを地で行くような永井荷風のノンフィクション作品『下谷叢話』であった。息子新吉の子孫については関東大震災・第二次大戦の戦災などあったので役所関係の調査は難航するかもしれないが、ここを含め、なんらかの手がかりを墓地のある台東区瑞輪寺あたりが把握しているかも(娘カネ及びその婿鶴林の子孫:令和元年10月6日没の曾孫東京都江東区の大沼千早さん)。枕山の息子新吉(大沼湖雲)は放蕩癖があり、勘当状態とぼろくそに書かれた御仁だったが、こちらは息子新吉&娘嘉年(嘉禰)校訂の『江戸名勝詩』明治11年刊

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『宇都宮龍山傳并遺稿』

2021年05月12日 | repostシリーズ
宮原節庵遺稿の巻4に「遺芳湾十勝詠並序」という一文を見つけた。西国周遊時(宮原は尾道出身、頼山陽門下で昌平黌を出て京都で開塾)の滞在先とか名勝として尾道の橋本竹下、山南の桑田翼叔とか阿伏兎とかの記述が散見された。山路家の別業白雪楼での接待が以下のごとくハイライト化されていた。




宇都宮龍山

2021年5月10日 広島の古書店にて川ノ上亮作『宇都宮龍山傳并遺稿』尾道市教育会、1931を入手。「宇都宮龍山傳」部分(1-48㌻)は龍山の経歴を知り得る唯一の史料。
宇都宮龍山は山田方谷(子孫に二松学舎学長山田準など輩出)永井荷風『下谷叢話』に脇役として登場する鷲津毅堂(尾張丹羽郡の鷲津家の一族)の親友[徒士身分出身で山林奉行だった宇都宮龍山、新谷藩(愛媛県)脱藩前は原田姓を名乗っていたが藩主から「不埒千万」と怒りを買った。『宇都宮龍山傳并遺稿』18-20㌻に依れば、龍山還暦を迎える文久2(1862)年には25年ぶりの新谷帰参を計画。実現は見なかったが、そのとき鷲津らは龍山のために藩側に対していろいろ恩赦免責工作の労を執っている]だった。毅堂自身は永井荷風の外祖父。なお、『下谷叢話』は鷲津家の一族:大沼竹渓父子、就中子の大沼枕山に焦点を当てた歴史小説。勝ち組vs負け組という事で言えば、鷲津一族の負け組(荷風自身が自分の生き様と何となく重なり合う部分を感じ、幕末明治期の漢詩人大沼枕山一族)にスポットライトを当てた歴史小説の名作だ。
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宇都宮龍山墓@慈観寺

【参考データ】
こころを動かされたのはこちら(幼子3人:智仙童女・壽光童女・秀月童女を失った.。漢学者宇都宮清(1803-1886)夫婦の哀惜の情が伝わってくる)
本日(2020年12月12日)一番の発見(^-^)/



三童女の墓石と対面する形で慎ましく宇都宮龍山夫婦墓(脇に小さな石灯籠)が建っている。
国会図書館デジタルコレクション『宇都宮龍山遺稿』、1931

宮原節庵については最近集中的に行った尾道調査の中でわりとしばしば目にした名前。尾道には菅茶山ー賴山陽縁故の文人たちのことに関心をもつ福山藩側でいえば浜本鶴賓のような人が郷土史家達(例えば財間八郎)の中に何名かいて、いろいろ「山陽日日新聞」などタウン誌に興味深い話題提供していた。わたしはこの「山陽日日新聞」(一面A3サイズ)については平成13年以後のものは一通り目を通したが、残余についてはまた機会があれば悉皆的に当たってみたいと考えている。戦前は一時期地域史研究者青木茂も編集に関わっていた。
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『連雀之大事』(国立歴史民俗博物館編『中世商人の世界』、1998)

2021年05月06日 | repostシリーズ
連雀(中世的行)商人宿町の市(町)立て作法書とされる『連雀之大事』(元和7年)を見ていて、ふとその記述方法やその背後に見られる多分に修験者特有の呪術宗教的というか易学的というかその類いの思考法にはどうにも手に負えない本荘重政『自白法鑑』理解をする場合のヒントが隠されているような、いないような、そんな思いが漠然とではあるが、ふとわたしの脳裏に去来。
支離滅裂


『連雀之大事』(国立歴史民俗博物館編『中世商人の世界』、1998)自体は『自白法鑑』研究とは無関係に、必要に迫られ読解中(正確に言えば単に字面を追うだけ)だ。思考法は修験道系のモノだが『自白法鑑』に負けず劣らず説明は呪文そのものというか、万事こじつけ気味で、前論理的だ♪───O(≧∇≦)O────♪
熊沢蕃山の著書の中にも難儀なモノがある。『増訂蕃山全集』の第4巻がそうだ(監修者の宮崎道生もお手上げ状態 )。安藤昌益の著書の中にもけったいな内容のものがあった。そういえば尾道市のある寺にも、私にとってはなんとなく個性的で不思議な墓石があった(^-^)/、ちょっと違っていたか?

江崎玲於奈氏曰く「何をやるかでなく、何をやらないのかを見極めるのが大事だ。やらなくていいことはやるな」。そういう意味では『連雀之大事』などは、その取り組む必要のない対象なのかも・・・。

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松永村出身の片山辰之助『広島県新地誌』、明治24

2021年05月04日 | repostシリーズ
ここのとこしばらく尾道調査を行った。そのなかのチェック項目の一つが明治24年頃尾道で漢学塾:瓊浦(けいほ)学館を開いた片山辰之助の消息確認。だが残念ながら失敗に終わった。松永在住の片山さん(むかし養魚場経営)には予てより「片山虎之助」(間違って幾度となく辰之助とすべきところを国会議員片山虎之助と混同)さんのことを息子で画家だった片山牧羊の名前を挙げて問い合わせてきたが自分の一族内ではその心当たりがないということだった。
ところでその片山辰之助だが旧福山藩学生会の草創期の会員で誠之舎の入寮していた確か松永村出身の御仁だ。学生会発足時には入寮生をを代表して演説していたから、当時はリーダー的存在(旧福山藩学生会雑誌3号)だったのだろ。人物評では高島平三郎は「文学家」、片山は「滑稽家」、井上角五郎は「能弁家」、平沢道次は「熱心家」だったようだ。
片山『広島県新地誌』訂正再版(2020年10月13日大阪の古書店にて入手)
無題広島県新地誌
中身は高等小学校1年の郷土地理の教科書を念頭に編集されたもののようだが、県内の山川、名物・名勝名所などを特集した名勝図誌風の旧態依然。明治23年2月現在の片山の住所は御調郡尾道町1850番地(奥書にあるのは寄留先として東京市本郷区西片町10番地=旧福山藩邸内)、出版人の三木半兵衛(三木文明堂):尾道町311番地。


明治24年に帰省し、尾道で私塾「瓊浦(けいほ)学館」を始めたようだ。漢詩が得意だった。辰之助の息子に片山牧羊(夫人は松永町出身)という日本画家がいた。片山芳湾が片山辰之助の号。参考までに遺芳湾(松永湾の雅号)の遺芳は丸山鶴吉の号。芳湾は遺芳湾に由来する名称だろう。参考までに芳渓は西川国臣の長男一郎(ジャーナリストで児童文学作家)の号。

高島蜻蛉は高島平三郎のこと。

片山が行った明治23年の誠之舎生総代祝詞原稿(旧福山藩学生会雑誌3号)・・・・一昔前の漢文調


武勇節操が弛緩気味なことを憂慮し、小田勝太郎・高島平三郎・川崎寿太郎・川崎虎之進らは誠之舎修武場で演武会開催を企画という記事。明治24年に高島を頼って上京した河本亀之助、二番目のバイトが川崎虎之進の書生だった。かなりプライドを傷つけられた感じで長続きはしなかったようだ。このバイトは高島の紹介であったことはもはや説明を要すまい。

何年か前に尾道山路家が中央図書館に寄託した史料類の中に明治期の漢詩愛好家の薄っぺらな回覧ノート風の綴じ本(蒸芋会 『五句集』、鶉ノ巻)を見たことがある。走り書き風のもので、そのときは関心がそちらになく内容のチェックはしなかった。この中に片山芳湾の名前があったかなかったか・・・・・(2021年12月に確認したところ明治12年段階のもので、当然片山とは関係なかった。同人は石井竹雨・亀山則々・石屋町大石病院内の松本梧葉・藤本索残・辻本越水・平岡錦村・久米悟柳・岡田鱶州・村上百声・土居次郎ら)。
大正10年段階の片山辰之助の消息についてだが、なんど60才近い年齢だったと思われるが東京市麹町区5番町18在住で、日本国勢調査記念出版協会主事に収まっていた。
『広島県新地誌』を見るに付け、明治20年代段階に於いてさえ、漢詩漢文にご執心だった片山辰之助は時流を読み違え、先見の明には些か欠けるところがあったように思われるが、河本亀之助と同年代の向学心旺盛な向都離村型旧備後福山藩領民(青年)というカテゴリーの中には定位できるだろう。この人物については以上でリサーチ一時保留(or 終了)。

令和5年ペルー大使の片山和之の出自は福山市松永町の片山氏。
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