- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

下迫貝塚と馬取貝塚の今昔

2024年01月28日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

柳津町馬取貝塚は、今まで謎だった松永町・山本新さんという人物が大正15年8月段階に発見し、その後昭和7年1月に至って沼隈郡教育会によって実地調査が行われた。大正15年5月6日~9日の太田貝塚調査で面識が出来たのか山本新さんはその3か月後には京都帝大教授清野謙次(医学)に対して、太田貝塚から言えば、松永湾の対岸に当たる沼隈郡柳津で見つけた馬取貝塚の情報を伝えていた。すなわち清野氏は著書『日本石器時代人研究』 、1928の中では、山本新さん発大正15年8月25日付私信から得られた伝聞情報をそのまま紹介している。参考までに「太田貝塚は尾道市の東郊に して、本邦先 史考古學、人類學の最 も重要なる遺跡である備中津雲貝塚 を西に去る直線距離約8里 の所に位する瀬戸内海 に南面 した緩斜地である。最初大正十五年四月十二 日當時長崎考古學會々員たりし佐藤翼穗氏が試掘 し體 を獲、その報 に島田貞彦 氏急行 して同月十五 日には更に5髄 の古人骨が發掘 5された(但 し人骨番號に第8號 迄)。越 えて翌五月六 日より九日に亘る清野謙次、平井隆、金關丈夫3氏の發掘は更に58例 の古人骨を追加 し合計66例 となつた。」という。 露頭部分は花崗岩の風化土(原地形を一部残す。頂部に柿の木、大正15年当時一帯は桑畑)。地形的には低平な丘陵端の上に貝塚層が乗っている。金江・藤江あたりの海岸部は多数の円礫(古い地層の場合は風化し腐り礫化。これはなし)の露頭が目立つ洪積台地。写真中の水路は人工河川の新川で、新川筋の潮汐限界点はこの地点より若干上流側にある。従って、水路の側面石垣の見られる変色位置は満潮時の水位探る有力な手掛かりとなろう。興味のある人は現場で確認してみるとよい。この貝塚での縄文時代の遺物包含層は満潮時の潮位よりたかだか3㍍程度上位に位置するにすぎない(要確認)。  

『福山市史・上巻』に言及が見られるが、倉敷考古館蔵の土偶(福田貝塚 縄文後期)

解説文によれば「(前略)土偶はそのときの調査以外で、採集されていたのである。いずれにしても、当地方としては土偶は大変珍しく、縄文時代も後期の(後略)」。

 


下迫貝塚一帯の現在(水路は新川

柳津町下迫貝塚 。縄文時代後期の地形面は新川筋の堤防道路面の1メートル上位。 地元の人に場所を訪ねたが、下迫貝塚を馬取貝塚と混同する人がいたが、ほとんどが馬取貝塚すら不知だった。あらかじめネット情報と住宅地図で見当をつけていたお宅(坂本順助さんの昭和25年生まれのお孫さんがご当主)を訪問し、それが正解だった。むかし、郷土史家I@神村が訪れたことがあるということだったので、わたしの訪問はそれ以来のことだったのだろう。場所的にはわたしが以前からよく訪れていたところ(柳津町市場組・fake史蹟:「神武天皇上陸碑」「磐井」, 村鎮守:清平大明神の「清平」は地名だが、これを祭神光孝天皇皇子一品式部卿清平親王(要確認)の「清平」と解釈し、ここから虚偽言説の大迷走が始まり、明治初年以後は実在が定かでない祭神「清平親王」/「橘清平」とはせず、一挙に著名な祭神「橘諸兄」へと跳躍。この人を祭神とした橘神社に移項させていく。柳津はそういう支離滅裂のFakeloreがまかり通る愛すべき土地柄・・・『沼隈郡誌』515-516頁参照)の数十メートル南方に当たった。縄文後期の土偶は馬取貝塚発見者でもある松永町在住の山本新さんが、昭和14年に考古学研究者村上正名さんらが訪れる1ヶ月ほど前に、坂本さんの屋敷地内で発見したということに菅原守・吉原晴景『高島宮史蹟』、昭和14年が言及していた。当該土偶は現在、東京国立博物館に所蔵されている。下迫貝塚は宅地だったため坂本さんの屋敷地の北西隅のわずかな面積を掘り下げただけだったようだ。


島田貞彦「備後國沼隈郡高須村太田貝塚に就いて / 島田貞彥/p23~33」、歴史と地理、26-4,1930.

   

太田貝塚の立地環境は、隆起海岸低地(松永湾岸での貝塚はこの地形面上、山陽本線線路以東は干拓地で海抜0m地帯、西国街道は海岸低地上、この地形面の2m上位に隆起海岸低地が拡あり、その地形面上に貝塚が立地)(潮汐限界点よりも2m弱上位・、満潮時の海水位よりも3メートル程度上位・・。この太田貝塚が立地する地形面は松永湾岸の干拓地の背後に形成されていた海岸低地の山側で縁取る形で分布。近世の西国街道の地形面と太田貝塚立地の地形面の高度差=a+b) 場所 

追加調査:明徳4年(1393)の年紀をもつ、『延寿院殿佐藤左馬頭治信大居士』という珍しい戒名の墓石。一見してFake(インチキ)なのだが・・・。家のルーツ関して深い思い(この点が唯一の事実)が込められているこの地方ではまま見かけるものだ。この形式の墓石はこの地方では江戸前半期のもの。数年前から注目してきた史料なのだが、本日はご子孫の消息確認ができた。半歩前進! 懇意にしていた仏壇屋のお婆さんは平成30年没で、2才年上の主人はその三週間後に亡くなっていた。

戒名

室町~戦国期の稲村城主田坂家の戒名@備後・三原 三原市文化課
松永・山本新という人物は実を言うといまだに謎のままなのだ。 『洗谷遺跡』1976、福山市教育員会 水呑町洗谷、洗谷橋南200m、芦田川河口部右岸 占部徳十郎屋敷前、海抜3-7m。馬取貝塚と同じような地形の場所(地山海抜2.4m)。 本谷遺跡は不知だが、その他の貝塚は松永湾岸と同様の地形環境に立地するようだ。 木ノ庄貝塚@木ノ庄町中央時計台の向(城北中学と樹徳小学校の間の道を北上した高校の立地する台地の端(海抜5-6㍍)
コメント    この記事についてブログを書く
« 慶賀光春 | トップ | 松永史談会 2月/3月例会のご... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。