- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

空中写真(1961年)を活用した藺草栽培地の判別作業

2018年09月20日 | 断想および雑談
整理番号 MCG613
コース番号 C10
写真番号 341
撮影年月日 1961/05/30(昭36)
撮影地域 福山
撮影高度(m) 1900
撮影縮尺 10000

これは一体何だろうか。実は藺草の栽培地(2016年、 福山市本郷町)なのだ。1961年5月撮影のこの地方の空中写真より藺草の栽培地分布を知る手掛かりが得られそうだ。
撮影日時は5月30日 午前11時48分。この画像を見ると水田部分の所々に色調の黒い部分土地被覆面で緑地性の被植が密であるとか、明⇔暗の度合い宅地・畑<水田や池水面)が見られる。



1961年度の空中写真撮影事業は山南地区でも5月30日実施。
これがその中山南一帯の画像。藺草刈り取り直前のため栽培地の検出が可能だ。


ところがこちらは7月15日撮影(福山市金江町一帯)。藺草刈取り(7月に入ってすぐ刈取)後、田植えが行われているので黒い部分は消滅。グレー部分の微妙な諧調の中に藺草収穫跡地が紛れ込んでいるため、判読はかなり難しい。ところが・・・・・


『柳津村誌』113頁掲載写真の写真原版(福山城博物館村田静太郎家資料)より。


村田静太郎家資料@福山城博物館より。


1961年撮影空中写真の簡易標定図を作ってみた。
沼隈郡全域としては撮影日は1961年5月6日、5月30日の2日間の実施で、その後C11Bコースのみ7月15日に追加撮影を行っていた。


従って藺草栽培地の判別作業は5月撮影分を使えばよい。念のため7月撮影分について確認したところ7月撮影の画像では刈取後だったのか、5月撮影画像で黒っぽく写っていた場所(例えばここに示したアニメ画像中の矢印部分)においてそこが逆に一際白っぽく変化するという特徴が読み取れた。

参考:国土理知院HP→天井部のプルダウンメニューから「空中写真の閲覧」へ 「閲覧条件」が表示されたら「同意」し、必要な空中写真のDL(ダウンロード)の際は「利用目的」に「その他」と答えるとDL が実行されます。


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松永史談会9月例会・案内

2018年09月18日 | 松永史談会関係 告知板
松永史談会2018-9月例会・案内

開催日時と場所
9月28日(金曜日)、午前10-12
喫茶「蔵」(ケーズデンキ南)

話題
塩浜から見た沼隈郡松永村(or 町)の歴史
空中写真を利用した塩浜の現地比定・事例




2010年撮影  昭和40年代に行われた小代・稲荷島地区の区画整理事業の中で過去の景観が大きく改変されている。




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「男児志を決して郷関を出づる」の巻ー亀之助が後事を託した4人の人々ー

2018年09月11日 | ローカルな歴史(郷土史)情報

家紋は「丸に四方剣花菱」・・・・東村の石井一族の家紋だ。屋号は亀居。これが石井豊太家の屋号だった(東村。大石井家当主談)。【メモ】屋号の付け方が東村の大石井(屋号:満井)と同形。松永に出た分家の益田屋石井氏とはこの点が異なる。


河本亀之助(1866-1920)は上京するときに亀之助一家の将来のことを依頼がてら石井憲吉(1850-1921)・石井一郎(1866-1926)大前・小川恒松(1832-1892)とこの石井豊太(大正1-5年草戸・佐波・神島組合立佐戸島尋常小学校校長、大正7-12年出身地の沼隈郡東村村長)の方へ挨拶廻りをしている。石井豊太は石井一郎ともども亀之助とは、おそらく私塾大成館時代の、友人だろうか。小川恒松と石井憲吉とはいづれも年の離れた年長者だ。とくに恒松の場合は息子・竹野豊八(大成館を出て後年今津尋常小学校校長)が亀之助と同じ世代だった。なお、亀之助を見送った「林・村上・河本諸氏」とあるうちの、「林」は今津村在住の医師林昌造(石井亮吉『松永塩業史/文化史の研究』、昭和48、279頁)だろうか。
今回の調査で河本亀之助が後事を託した4人の人々の消息確認が一応完了した。かれらの墓石は今津薬師寺墓地の半径50メートルの範囲にまとまった形で立地。





この一族は関西方面に転居したと聞いたが、法事はきっちり励行しているようだ。塔婆が・・・・ブロックの穴を利用して立てかける方法もありだな~。わたしの所では今年5月に3人分の法事をまとめてしたが、早くもその時の塔婆が朽ちてきた。



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寺岡千代蔵を調べていて随筆家上村貞章の大正10年時の居住地メッケ!

2018年09月06日 | 断想および雑談

大正10年の先憂会会員名簿によると後年有名な作詞家・随筆家となる上村(明治35年3月、旧松永市生まれ)は大正10年当時、千年村下組居住だった。



戦中戦後活躍した上村貞章の代表的な随筆集(上村の随筆集は全集化されている)





上村は幕末期に産炭地九州・小倉から来住した貧乏士族の三男坊:町医者上村兎毛の孫で福山・龍淵寺住職&師範学校/誠之館高校の教員(村田露月編『柳津村誌』、昭和33、359-360頁)

清平町・善立寺境内墓地にある上村兎毛(良貞、1835-1900)墓。兎毛の長男:若くして亡くなった医者の鉄雄(本家)、次男:鉱造(分家、校長→村長)、鉱造の息子が憲三(医者になるように期待されたが果たせず早稲田大学へ)。ここで言及した貞章は鉄雄の息子。


寺岡千代蔵の消息確認のため「大正10年先憂会会員名簿ー新沼隈建設の権威ー」(雑誌まこと11-12の臨時増刊)をチェックしていたら期せずして上村貞章の消息を一つ発見。

肝心の寺岡情報? この先憂会会員名簿には無かった。昨日お孫さん(概要に住所・電話番号メモ、家は能登原保育所の近く、2018年段階の話では祖父時代の原稿類は残っているとのことだった)から聞いた話の中に早くなくなったということだったので著書『漁村教育』上梓の直後に、もしかすると・・・・・・。
昨日電話で聞いた話の中に、お墓は勤務校のあった走島にあり、そこには(顕彰)碑のようなものが立っているということだった。その時は何のことか意味が理解できなかったが、今にして思えばそういうことだったのかいう感じがしている・・・後日事実確認予定⇒未確認。

広島県における寺岡姓の分布・・・旧沼隈郡の能登原・山波・神村(伊勢宮さんの神主家名方=寺岡、『島津家久日記』に今津町での宿泊先として記載された「四郎左衛門」は「寺岡の四郎左衛門」と同一人物)・西村(といった海辺の村)に集中する特殊な苗字だと判る。
ただし、名方(伊勢の寺岡)家墓地の中に四郎左衛門がなかったようにも思うので、「寺岡の四郎左衞門」の件はもっと範囲を拡げて確認作業が必要。



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寺岡千代蔵『漁村教育』、洛陽堂、大正6

2018年09月04日 | 断想および雑談
漁村一般の事柄として論じたもので、場所が特定できるような地名表記はない。しかし、明らかに明治・大正期の沼隈郡島嶼部(走島の漁村)について地方改良の観点からルポした本だと考えたほうが良いだろ。



治山治水(周辺山地の禿山化)と漁村

石炭を積載する巨大運搬船(運炭船)を「黒船」と呼んで沿岸漁民たちは畏れていたらしい(25頁)
この漁民の龍王信仰と安永浜を造成した機織屋庄助の龍宮社を建立した心性とはどこかで繋がっているのだろうか。山路機谷は松永湾の望める藤江の丘の一角に森田節斎と二人三脚で進めていた「史記」研究への思い入れの深さの発露ともいえる龍門祠(『沼隈郡誌』、902-903頁)建立。これは単なる山路の自己満足の所産でここで紹介した龍王信仰とは無関係でした


この本は作田高太郎が言及しなかった点を含め、沼隈郡(現在福山市走島町)あたりの学校教育の現場から見た漁家の生活実態or漁村のフォークロアを知るのに格好のテキストになりそうだ。無論本書の狙いはそういうことを明らかにすることではなく、漁村における学校教育の現状とそれに対する地方改良という側面からの対策提言であったことは言うまでもない。
因みに、例えば寺岡は本書の中で(国策に沿う形で)学齢の繰り下げを提言し、幼童教育の必要性を主張している。参考までにこの地方における幼児教育に関し、村田露月編『松永町誌』(211-212頁)が松永末広町の東隣(旧益田屋の土地の一角)の民家を借り受け御調郡原田町最円寺住職三浦寂静が昭和4年4月に昭和幼稚園を、同年11月丸山茂助の支援で東町元松林庵を改造し東昭和幼稚園を開園している点に触れている。前述したような寺岡の提言は明治末から高島平三郎や倉橋惣三らが推進してきた児童学(or 幼児教育)思想子供文化の広島県における享受の在り方を知る貴重な手がかりともなろう。



洛陽堂刊『農村青年夜学読本』初版大正3年
洛陽堂に山本瀧之助や天野藤男が出入りしていたころの沼隈郡熊野尋常小学校長高山秀雄編の教科書だ。
これに比べると寺岡の『漁村教育』は独自の論理を展開。しかも文才のあった人物なのだろう、『漁村教育』はルポルタージュ系の読み物としてとても面白い。

壺網(坪網)
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洛陽堂刊行の雑誌『都会及農村』

2018年09月03日 | 河本亀之助と東京洛陽堂
大正4年11月15日、洛陽堂は編集主幹に天野藤男を据え、雑誌「都会及農村」を御大典記念発行という形で創刊(1巻1号)した。翌月12月28日印刷納め、大正5年1月1日に刊行されたのが正月号(2巻1号)。わたしの所蔵本で見ると、4月号までの表紙挿絵は平福百穂筆。3巻1-3号は恩地孝四郎筆。3巻5-6号の表紙挿絵は橋口五葉(1881-1921、「」のサインあり)。いずれも複数号に亘って表紙のデザインを使いまわしている。3巻には中国新聞藤井氏より贈呈の書き込みがあり「乞高評」の印。創刊号には「贈呈」の印。

「地方改良」という国策に沿った雑誌「都会及農村」だった。天野藤男の編集者としての能力不足が影響したのか3巻を見ると創刊時の勢いは失せていた感じ。天野自身も、刊行しなくてよい雑誌だとか「3号雑誌」だとか、いろいろ周囲からチャチャを入れられていたようだ。当時洛陽堂が発行していた雑誌『白樺』と比較すると、やはり内容面での知的喚起力、企画の斬新さなど何処を切り取っても雲泥の差。編集後記で「加藤一夫」が書いたものを掲載するとの予告をしていたが、実現はみなかったらしい。永井潜の弟子医学者で推理小説家小酒井 不木(ペンネーム)が3巻5号に一文を寄せていた。広島県人の心理学者下田次郎も寄稿(3巻8号)。「壺網」というタイトルの一文(「都会及農村」3-5、46-51頁、大正6」)を寄せた寺岡千代蔵は広島県沼隈郡の人(大正6年当時、沼隈郡走島村立燧洋尋常小学校長)。ザーッと文章に目を通してみたが文芸的センスのある人だったようだ。
武者小路実篤が2巻1号に「ある読者に」という一文を寄せている。執筆者(日本における近代農学の祖・横井時敬ら・・・むろん高島平三郎も)の顔ぶれから見て2巻一号(つまり創刊時)が雑誌『都会及農村』のピークだったかな~
岡山県井原出身で東京市長経験者阪谷芳郎は都市計画や都市基盤整備の必要を、また郷党の丸山鶴吉は都会の持つ光と影のうち、後者(社会問題の温床になりやすい貧民窟など)に目を向けた都市研究の必要性を指摘している点が目を引いた。


大正7年1月刊 167頁+洛陽堂図書目録、B6判(NHKブックスサイズ)、ソフトカバー
前掲した寺岡千代蔵「壺網」の骨子は『漁村教育』151-153頁に転載


3巻9号の挿画は恩地孝四郎、3巻10号は原勇・恩地孝(孝四郎)が担当。なお、原勇は「月映」同人以外の人物(詳細不詳)。


河本哲夫が神田北神保町2番地に開業したことを告げる「新生堂」の広告を掲載(3巻6号、大正5年6月1日刊行)。


中身の分析は他日を期す。私の印象では後年の有名画家の駆け出し時代の作品がこの雑誌には多々見られ、そちらの研究の方が意義がありそう。

なお、わたしが所有しない雑誌『都会及農村』の1巻2号、4,5巻

洛陽堂刊雑誌の仰天古書市場価格・・・これは雑誌「白樺」復刻版・全巻5セット入手できる価格に相当する。

10月9日現在売り切れ。収集家にとっては垂涎の的になるんだろうか


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「心伸びるときには九天の空に通い、逆に心秘するときは方寸に盈(みた)ず」-本庄重政が残した一言ー

2018年09月01日 | 断想および雑談
本日西山厚の『仏教発見!』、講談社現代新書1755、2004が届いた。西山は旧知の人で、人柄は予備校講師(京都大大学院生)時代の教え子に押しかけ女房になられた、情に棹されやすいが、とても気立ての優しい人だ。

この本の裏表紙に奈良唐招提寺蔵「釈迦如来像」(鎌倉時代)胎内文書中の「一切衆生、皆々仏になさせ給え」に注目し、一切衆生の中には「ノミ・クモ・シラミ・・・」(本書100頁)といった虫けらも含まれていたことに感心していた。わたしはこの人らしい心の機微を感じた。機微と言えば盲目僧鑑真の筆跡と視力の問題にも西山は言及していたな~。
西山が学芸部長時代の図録『聖地寧波』(2009)
西山は専門家に交じって「寧波と禅」(264-265頁)の一文を執筆している。
この人はいわゆる神童がそのまま大人になったような人で、資質的には、4歳年上の兄貴と違って、研究者(学者)というよりも心に響く語りの出来る「説教師」。そういえば西山はどこかで世界で一番素晴らしいミュージアムはどこだと思うかと質問された時、即座に「〇▽(自分の勤務先の名前)」だを答えている。心の底からそう思って答える辺りが薬師寺管主だった高田 好胤風というか、高田を敬愛していた西山らしさ。
この世界のすべては仏教の経巻(経典)だが、人間が認識できるのは人の文字で書かれた部分だけだといった『正法眼蔵』の中の言葉にロマンティスト西山はひどく感動している。この辺の感動の仕方もこの人らしいところ。

ただ、東大寺・法華堂の日光菩薩・月光菩薩像を東大寺とは目と鼻の先の奈良国立博物館の広い会場に持ち出して、こうすることが所詮は別の場所から手狭な法華堂に押し込められて来たこれら仏像にとってナイスなことなのだという形で展示の意義を説明。この辺の得手勝手さが西山の 「仏教発見!」が本物か否かを考えた場合に何とも気になるところではある(本書206-211頁)?

西山が感激した「ノミ・クモ・シラミ・・・」といった虫けらの話はともかく、わたしが感心させられ心から離れないのは本庄重政(1606-1676 )の『自白法観』中のある一節の方だ。


『自白法鑑』

意識の広がりに関しては心伸びるときには九天の空に通い、逆に心秘するときは方寸に盈(みた)ずと。先述の「クモ・ノミ・シラミ・・・」に向けられる感覚(山川草木悉皆成仏観)はやはり「心秘するときは」の方に結び付くものかなぁ~~~
わたしは今行っている地域史研究の過程で虫けらに対する意識を強く感じたのは安永浜を造成した機織屋庄助に対してだった。その点本荘重政は両眼性に着目し人畜間には共通した特徴がみられることそして畜生たちも成仏できると考えていたが、機織屋庄助のような干潟干拓が干潟の生物たちを死滅させることでもあるといった考え方は本庄には希薄というか無かったかもしれない。
本庄重政と熊沢蕃山とはともに一時期、備前藩主池田光政の家来だった。蕃山は海岸低地や干潟を干拓する形での新田造成は古田の低湿地化や農民の新田部への流出に伴う古田農地の荒廃や、河川の天井川化を招きやすく「治山治水」面から慎重にすべきだと考えていたが、本庄は藩財政の確立や殖産興業面を重視し果敢に干潟干拓を推進し塩田の造成を行った。

わたしは西山厚『仏教発見!』に接して、改めて17世紀以後の松永湾岸開発を〇氏ー×氏を軸に機織屋(岩井)庄助を交えたかれらの行動に関して思想史面から彼らのGeosophie(生活環境をデザインする時代的知や社会的知の在り方) を再構成(整理〉し直してい見たい考え始めているところだ。


注)朱子学における「心」は情側面を取り去った性(理性的)側面(天から賦与された純粋な善性)を重視、陽明学の「心」は、「性(天理)」・「情(人欲)」をあわせたもの。本荘重政は人生経験を通じて得られた知見をもとに「体」との対比を行いつつ先述のような感じで「心」に関する独自の解釈を試みている。
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現在の寧波-舟山港湾区(Ningbo-Zhoushan port)

2018年09月01日 | 断想および雑談






現在の寧波港(寧波の市街地人口200万人、都市圏人口600万人)
の港湾船舶情報・・・コンテナ埠頭が拡充され、2011 年の貨物取扱量は中国最大の 6.91 億トン。上海港を上回っている


最近(2018年8月18-30日)の船種別入港船舶隻数・・・・貨物船中心で取扱量は中国トップクラス

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