- 松永史談会 -

   こんにちは。ご機嫌如何ですか。

内務省感化救済事業への参加

2014年04月30日 | 断想および雑談
高島は明治41年ごろには当代随一の児童研究者として明治政府の専門委員(嘱託)という形で政策に関与していく。それと共に心理学的知見の修養(実践道徳)への応用の方途を模索するようになる。













感化救済事業講演集. 上

目次
・ 救済の意義 桑田熊蔵君/1p
・ 泰西に於ける感化救済事業 平沼騏一郎君/23p
・ 泰西に於ける模範感化救済事業 大場茂馬君/47p
・ 感化事業の方法と感化の程度 渋沢栄一君/71p
・ 監獄行政と感化事業 小山温君/85p
・ 少年犯罪者と其特殊矯正法 伊沢修二君/99p
・ 少年犯罪者の訓育 早崎春香君/115p
・ 実践倫理 中島力造君/155p
・ 副業普及の奨励 鶴見左吉雄君/291p
・ 小農保護事業 三松武夫君/337p
・ 感化救済事業と産業組合の効用 有働良夫君/363p
・ 感化事業と農業 針塚長太郎君/387p
・ 感化事業と工業教育 河津七郎君/421p
・ 水産に関する救済事業 松崎寿三君/441p
・ 東西貯蓄思想の異同及監獄感化院に於ける貯金問題 下村宏君/457p
・ 貧民患者の救療 野田忠広君/483p
・ 白痴教育の実験 石井亮一君/521p
・ 鼻と精神との関係 岡田和一郎君/571p
・ 欧米青年会事業 山本邦之助君/587p
・ 附録(実験談)
・ 中等教育界に於ける不良生徒の感化 佐藤範雄君/595p
・ 感化教育と葉隠の意義 鍋島秀太郎君/608p
・ 感化事業実験談 山田俊卿君/622p
・ 育児上の実験 福沢万休君/62

感化救済事業講演集 下
内務省地方局 [編]1909
目次 / (0006.jp2)
救済事業及制度の要義 井上友一君 / 1p (0010.jp2)
感化事業と其管理法 留岡幸助君 / 51p (0035.jp2)
各国に於ける救済事業及制度 高野岩三郎君 / 237p (0128.jp2)
感化救済事業と普通教育 野尻精一君 / 283p (0151.jp2)
社会教育 乙竹岩造君 / 349p (0185.jp2)
感化院の目的及其事業 古賀廉造君 / 411p (0216.jp2)
児童研究 高島平三郎君 / 457p (0239.jp2)
低能児教育 乙竹岩造君 / 699p (0360.jp2)
精神操練に就て 元良勇次郎君 / 779p (0400.jp2)
警察行政と感化事業 有松英義君 / 799p (0412.jp2)
感化救済と至誠 赤松連城君 / 837p (0431.jp2)
泰西に於ける模範救済事業 有吉忠一君 / 845p (0435.jp2)
社会衛生 窪田静太郎君 / 871p (0448.jp2)
少年犯罪者の訓育 有馬四郎助君 / 887p (0456.jp2)
矯風奨善の事業 中川望君 / 931p (0478.jp2)
都市の改善 中川望君 / 961p (0493.jp2)
農村の改良 中川望君 / 989p (0507.jp2)
共済組合の事業及制度 中川望君 / 1017p (0521.jp2)
宗教と感化事業との関係 斯波淳六郎君 / 1037p (0531.jp2)




感化救済事業の目的
「感化救済事業の主旨は、天皇の慈恵を地域社会での共同のあり方が依拠すべき模範としつつ、国民が共同で社会防衛に努め、国家利益に叶うように自営の道を講ずることとなる。感化救済事業を提唱することによって、救済事業が従来の「一部の救恤問題」という理解から「自営の方法」すなわち防貧へと、その範囲が拡大されて把握されるようになったといえよう。それは、恩賜としての窮民救済を受ける民であることから、地域社会の構成員として、恩賜を受けず、国家に負担をかけない「良民」すなわち一般勤労国民となることを積極的に奨励していく方向を目指すものといえる。この自営の道を講ずることが、地方の隣保相扶の堅持・強化の要請となり、さらには、地方の再編という課題に結びつくのである」

日露戦後における留岡幸助の思想と行動 -


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高島平三郎「少年時代の追懐」

2014年04月28日 | 教養(Culture)
高島平三郎の母加寿子が没した年(明治41年9月28日)に書かれたものだ。この年は『応用心理講話』、翌明治42年にはベストセラーとなる『児童心理講話』が刊行され、皇太子当時の大正天皇夫妻に献上されている。


いまもむかしも「貧しきために却って心に張りが出来、楽しく頑張れる」という心境が語られている。


高島が20歳ころに書いた「教育時論」掲載の論文・詩などを併せて読んでいると青年高島にはすでに武士道の精神が透かし見えてくる。

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石井賚三「電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究」

2014年04月27日 | 断想および雑談
タイトル:電灯電力電鉄及屎尿公営に関する新研究

著者:石井賚三

出版者:洛陽堂

出版年月日:大正10






河本俊三時代の河本洛陽堂の出版物だ。著者の石井は同郷(松永町)の人物。河本とは同郷の石井賚三(いしいらいぞう)の著書の出版だ。本の内容は学位論文ばりのタイトルだし、第一内容が特殊すぎて・・・・・自費出版だったのだろか。河本俊三に対しては大いにその経営感覚を疑いたくなるような部類の出版物ではある
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ブラボー!大場一義『高島平三郎:体育原理』(「身体と心の教育」所収、講談社)

2014年04月27日 | 教養(Culture)
高島平三郎の名著『体育原理』の紹介。高島平三郎の人間像に関して、尊敬の念を込めて書かれ水準が高い論文だ。高島平三郎の人物像を学習する場合、一押し!
高島は我が国における体育教育の基本理念を構築した人物だった。『体育原理』(明治37)は高島が現在の日本体育大学(日本体育会体操学校)の校長時代に執筆した体育思想書だ。


高島平三郎は、柔道の方はあまり上手ではなかったようだが、嘉納治五郎から薫陶を受けている。
この本が出版されたころ、宗教学者融道玄の兄貴:小田勝太郎(福山藩士銀八三世の長男、1862-1935)は千葉県佐倉中学の教員だったが、この小田は嘉納治五郎の弟子であり、高島(学習院の教師、1965-1946)は明治20年ごろ嘉納(学習院の柔道師範)の家塾でしばらく塾生20余人とともに起居を共にしている。小田と高島とは年齢がことなるが嘉納塾同窓会で顔をあわせていたはずだ。小田は17-21歳の時に沼隈郡松永小学校などで教員をしており、小田の名前は『高島先生教育報国60年』などにも見かけないが高島の性格からしてこれほど接点が多い小田と交流を持たなかったはずがない。


小田勝太郎については融道男『祖父 融道玄の生涯』、勁草書房、2013が参考になる。
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例示主義ー高島平三郎の一つの書法ー

2014年04月27日 | 教養(Culture)
現今の心理学者どもが高島を批判する第一点目は、明治期の心理学者には多い問題点だが、欧米の専門書を消化吸収(受容)して、平明に説明することに意を注いでいくという方向性をもつもので、ここからは学説間の理論的な矛盾に留意して事実に立ち戻って吟味するというオリジナルな研究作業とはならず、ましてそうした自分の集めたデータによって、自分なりの理論体系を生み出していく方法論的な立場を身につける機会を自ら放棄してしまったというものだ(大泉溥「高島平三郎著作集・第六巻・解説、45頁」)。大泉が引き合いに出す波多野らのピアージェによる臨床心理的方法との差を念頭に置いた批判だが、草創期の児童研究に学術的な完璧性を求めるのは聊か酷というもの。
確かに高島は帰納的方法、科学的方法を志向したが、現実はヘッケル流の生物学の学説に対する信仰告白に終始したようなところもある。ただそうした(児童研究の中で遭遇した現実をヘッケルの教説をベースに演繹的に解釈した)部分はあるが、児童研究のパイオニアとして十分にその職責を果たしたと思うのだ。
倉橋惣三八紘編集の雑誌「婦人と子ども」16-9(大正5年)に転載された高島の小論文:家庭教育の基礎としての服従性

親が子供を育てていく中で行う親子関係、家庭教育の在り方を「子供が親に対して服従」するあり方を切り口として説明したものだが、高島の具体的で手際よい説明には感心させられる。こういうやり方が大泉の批判する例示主義
だったとするとそれは全然OKじゃんということになるだろか。
はやくから高島は今日動物行動学(霊長類学)や文化人類学(異文化理解)の分野で常用されている参与観察という方法を児童研究の中で実践しており、たしかに万事をrecapitulation理論の中で解釈しようとしたという難点はあったのだが、そういう面では中々大した学者だった。

それにしても高島の服従性に関する分類説明(分類の妥当性に関しては異論を挟む余地があるかもしれないが)は明快だ。
威嚇的服従・習慣的服従・利益的服従の3者を他律的と規定し、こういう形ではなく児童自身が自律的に行う感情的服従・合理的服従を喚起出来るような方向に指導していくことが教育的課題だと述べている。
こういう高島の論評はいじめや児童虐待が社会問題化している現代(高島は明治末に研究会報告された当時の児童虐待に対しコメントを行っている)においても役立つ知恵に溢れている。一応別の面から突っ込みを入れておくと、家父長的家族制度下において親子関係を支配ー従属(服従)のいう枠組みの中でだけ考える場合には高島の服従論は有意かもと思う。

それはともかくとして、高島が物事を体系的に捉える抜群に明晰的な頭脳を有していたことは若いころの心理学の教科書や名著『体育原理』を読めば一目瞭然だ。

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ここにも社交的だった高島平三郎めっけ!

2014年04月26日 | 教養(Culture)
一葉女史碑@山梨県、山梨県立文学館編『樋口一葉と甲州』、2009より転載
幸田露伴の文章だ。漢字・ひらがな混じりの新しい文体で書かれている。


賛助人

本記念碑の建碑について賛助人に名を連ねたのは、京浜地方の103人、地方の21人、親戚15人、そして発起人20人。
 その賛助人の中には、幸田露伴・与謝野鉄幹・与謝野晶子・平塚雷鳥・坪内逍遥・森鴎外・島崎藤村・馬場孤蝶・田山花袋・佐藤春夫・徳冨蘆花と並んで高島米峰・高島平三郎、阪本三郎・樋口虎之助・樋口邦子(一葉の妹クニ)が。


この辺のことに関しては荻原留則「樋口一葉と甲州」、甲陽書房、1989。改訂版の山梨ふるさと文庫刊(2005)が大変詳しい。



当時の記念碑除幕式とその前日の地元新聞社主催記念講演会の模様は「山梨日日新聞 大正11年10月15日」の記事が詳しいらしい。高島は樋口一葉とは面識はなかったが妹クニとは、半井を通じて交流が始まったようだ。ここでの高島は樋口家側から招かれた戸川秋骨・半井桃水・関如来らのグループに属し、ことにクニ一家(クニの子孫)と高島とは個人的に懇意な関係を築いていったようだ。



高島講演の中身は当時の新聞でも紹介され、ある雑誌(佐佐木信綱ゆかりの短歌雑誌「心の花」 第二十六巻第十二号 一葉女史記念号、大正11年)にも掲載されているが、日記を素材とした一葉の人物像に関するもので、なかなか好評だったらしい(雑誌「心の花」に掲載された高島の講演要旨を読んでみたが・・・・特にどうってことはなかった)。
若いころから貧困と闘い、自らの運命を切り開くべく雑誌への論文投稿を繰り返してきた高島は樋口に対しては自分の壮絶な生き方とを重ね合わせながら共感の念を抱きつつの一葉研究を心がけたことだろ。
その後、児童心理学者倉橋惣三が和田芳恵編『樋口一葉研究』(昭和17年)において一葉作品中の「こども」ついて論じている。これなどは女子教育・女性問題に関する専門家だった心理学者高島に続いた研究といえようか。
なお、高島は前年(大正10年2月)に妻寿子を失っており、高島平三郎(56歳)にとってはそういう時代状況下での出来事だった。大正11年2月に高島は「女心と世の中」を刊行している。

一葉展での展示物と文学碑の除幕式後の記念写真(特定は出来ないが立ち姿の人物の中に高島平三郎も写っているらしい) 関連記事

前掲雑誌「心の花」の扉写真


樋口一葉全集 別巻 新世社,s17
[目次]
標題
目次
序跋略傳
「通俗書簡文」凡例 / 3
事のついでに(大橋乙羽) / 5
「校訂一葉全集序」 / 8
「一葉全集序」(幸田露伴) / 9
一葉歌集のはじめに(佐佐木信綱) / 12
「眞筆版たけくらべ」序(幸田露伴) / 16
同(島崎藤村) / 18
一葉全集の末に(馬場孤蝶) / 21
「眞筆版たけくらべ」跋(馬場孤蝶) / 45
一葉女史日記の後に書す(幸田露伴) / 72
樋口一葉君略傳(馬場孤蝶) / 74
新聞雜報 / 81
日誌鈔(副島八十六) / 84
碑文 / 94
硏究批評
一葉女史(小島烏水) / 99
樋口一葉 / 119
樋口一葉論(相馬御風) / 126
樋口一葉論(平林たい子) / 151
結ばれざりし一葉の初戀(神崎淸) / 183
樋口一葉(鹽田良平) / 212
樋口一葉について(齋藤淸衞) / 238
天才女(小島政二郞) / 262
一葉女史とその遺稿に就て(佐藤春夫) / 285
樋口一葉の一資料(吉田精一) / 289
一葉女史の日記について / 295
一葉の日誌文學(日夏耿之介) / 299
一葉女史とその和歌(佐佐木信綱) / 310
一葉と其師(戶川殘花) / 317
一葉の作品に現はれた女性(湯地孝) / 319
一葉女史の小說に現れたる子供(倉橋惣三) / 335
三人冗語(脫天子・登仙坊・鐘禮舍) / 355
追憶感想
一葉女史(半井桃水) / 365
女文豪が活躍の面影(三宅花圃) / 373
故樋口一葉女史(幸田露伴) / 382
一葉女史の追憶(戶川秋骨) / 386
二十三囘忌の秋に(平田秃木) / 391
一葉女史を憶ふ(三宅花圃) / 395
一葉の墓(泉鏡花) / 398
わが友樋口一葉のこと(田邊夏子) / 400
藝能界と一葉(正岡容) / 417
年譜書誌
一葉の生きた時代 / 425
一葉硏究への手引 / 439
後記(和田芳惠) / 449



半井桃水は西片町の住人で誠之舎長時代の高島平三郎とはご近所さん?
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先憂会刊雑誌「まこと」11巻12号・臨時増刊号中の会員名簿

2014年04月25日 | 教養(Culture)


まこと主義の民衆化を目指すとか。山本瀧ノ助の一日一善の「まこと」版のようだが・・・・。
「この主義を沼隈という基礎観念の上に立派に造り上げようとする一つの社会奉仕運動」というのは、誤植でなければ、ちと意味不明。ここは基礎観念ではなく実体を伴う「基礎地域」or 魂の郷愁を喚起するところの「Heimat(生まれ故郷)」とすべきなんだろなぁ~。無論、それらに類する「源郷」という言葉でもよいかもしれない。

大正10年と言えば沼隈郡制の廃止が役所の吏員たちに伝達された時代。
「新沼隈建設の権威」・・・・・社会教育活動、当時は地方改良運動の活動母体:先憂会は過去形になりつつある沼隈郡という地域に何故粘着したのだろ。当時は郡誌編さんちゅうでもあり、先憂会内には独特の高揚した気分が横溢してたのだろか。
明治末~大正期には恩賜を受けず、国家に負担をかけない「良民」すなわち一般勤労国民となることが奨励された。山本瀧之助が河本亀之助の支援を得て発行した雑誌「良民」(良民社)もそういう時代の産物。先憂会は元祖NGOだったわけだが沼隈郡に作られた、云わば「良民」会でもあったわけだ。


購読者名簿があった。河本洛陽堂の名前も・・・・。平河町5-36は故河本亀之助の住所だ。宮沢裕は総理大臣宮沢喜一の親父。


自動道話社・西川光二郎、高島平三郎の名前も・・・・。そして修養団幹部たちの名前が・・・・。西川と先憂会との繋がりもこの「修養」がらみ?!


この史料は村田露月家での「まこと」調査のときに見かけなかった代物だが、とても有用だ。

ちと写真が手ぶれでピンボケ・・・・・大正11年5月先憂会東京例会での記念写真、テーブルに着席しているのは衆議院議員井上角五郎、となりに実業家の宮沢裕(宮沢喜一の父親)、浜本鶴賓・一人置いて河本英三郎と村田露月、その後ろに立っているのが河本俊三(洛陽堂主)、高須村出身の医師の三島粛(簫)三(しゅくぞう/しょうぞう)。高島平三郎とか丸山鶴吉の姿はみられない。


関連記事
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高島平三郎の「雉経松(首つり松)」考

2014年04月25日 | 教養(Culture)
高島20歳頃の「教育時論」掲載の論考だ。この当時から迷信に関する哲学的思考ないしは論理的思考のできる非常に冴えた御仁だったことが判る。当時から心理学関係の文献を読んでいたらしい。自学自習した知識でもってレヴィ・ブリュール流の「原始的心性」の非合理性を打破しようとする青年高島の気概の感じられる論考だ。本稿は自らに言い聞かせるという意味もあるのだろうか。特に「強く心上に捉住してはなれざる観念は必ず以て実事に化せんと欲する傾向あるものなり」という部分など。

青年高島は井上円了の妖怪研究など読んでいたのだろか。

後日精読予定
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豹変した高島平三郎

2014年04月24日 | 教養(Culture)
学校内ではキリスト教・仏教・神道などなど主義主張の多様化によって、内部対立が・・・、一方学校間では独自色が強められて・・・
そんな中、高島は信教の自由は認めるが、国家というのはどこにいても降りそそぐ光源=太陽のような存在としての皇室を核にして一枚岩であるべきだと。高島の皇室観は文字通り、戦後憲法の中で言われるような統合の象徴としてのそれだ。そんな高島平三郎の信念が「教育時論215号(明治24年4月刊)」誌上で語られている。
この中では皇室に対する不忠、国土に対する不親切、国民に対する不義を許すべきではないという高島の国家観を匂わせる発言もしており、天皇制に対して批判的でアメリカ合衆国贔屓の分子たちに対しては宣教師たちの口からく語られるようにアメリカ合衆国も決して聖人国ではない。原住民(土人=アメリカインディアン)に対する行為を見れば一目瞭然だと高島は手厳しい。同様のアメリカに対する警戒感と言えばやはり『世界を征服せんとする米大帝國』(上杉慎吉ほか訳、未来社、大正14年)。


明治21年9月に学習院傭教師となり、まる3年。明治24年4月より学習院上野分校に転勤となったころの評論文だ。東京に出て数年、高島ー豹変した高島平三郎ーは知性の身の丈が一回りUPし、このとき天下国家を視野に捉えられるだけ思考範囲の広さを身についていたことが判る。


高島の皇室観は『現代の傾向と心的革命』中でも、皇室というのは国民に対しては真善美の根源のようなものだと・・・・。したがってそういう皇室に対する反逆は狂気の沙汰というのが高島の意見だった。

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高島平三郎「中等学校修身教授資料」&「現代の傾向と心的革命」

2014年04月23日 | 教養(Culture)
高島平三郎「中等学校修身教授資料」
独協中学時代に執筆した修身の教科書。
高島にとって心理学のほか明治~昭和初期における倫理道徳=修養は重要な専門分野であった。その繋がりで後年(社会革命ではなく)「心的革命」の必要性を説く。高島と西川光二郎との接点もこの部分であっただろ。
高島が、たとえば大阪の日蓮宗の信者に対して行った講演会の速記本が公刊されている。高島が講演会で行ったことは日蓮の教えや行動を例示しながら、かつて編纂した中等学校修身のテキストの中身にそった修養の講義そのものだった。その中身は現代社会にも通じる一本筋の通った講話だった。高島は明治~昭和にかけて時代状況に合わせた講話を全国各地で行ったが、その内容は時代を超えた普遍的な真理を内包するものが多い。その辺は洛陽堂から「暴風来」を出し天皇神聖説を思いっきりぶち自滅した上杉慎吉(東京帝大)あたりとはかなり異なる。



高島執筆の修身(実践道徳)の教科書とその教授資料


弱小国家は西洋列強によって必ず侵略され、崩壊させられる。そういう世界情勢の中におかれた日本に求心力を与えてくれる存在としての皇室の存在意義を説いている。




高島は本書の刊行の2年後には品川弥二郎、加藤弘之ゆかりの独逸協会学校教授に。したがって本書は児玉昌が「高島先生教育報国60年(381-382頁)」において指摘した独協中学時代の倫理の教科書として使われたもの(その教授資料)に違いなかろ。
大村は教師陣を充実した。地理・守屋荒美雄、国語・芳賀矢一・志田義秀・林敏介、歴史・津田左右吉、音楽・大村恕三郎・東儀鉄笛・東儀俊竜、生物・丘浅次郎、獨逸語・三並良・高田善次郎・小笠原稔(獨協卒)・谷口秀太郎・武内大造・国吉直蔵、修身・山口小太郎(獨逸語)高島平三郎、理科校医・広瀬益三(獨協・東大卒)、美術・木元平太郎らであった。」

高島の教え子:児玉昌(名市大精神医学教室の初代教授)

この教科書の中身を読み本らしく膨らませ青年向け修養(=実践道徳の)書として書き直したのが『現代の傾向と心的革命』。井上哲次郎は『高島先生教育報国60年』において高島を常識をわきまえた人物だと評しているが、それは『現代の傾向と心的革命』の内容を捉えてのコメントとしても通用する様に思われる。
本書より高島の思想の一端に触れてもらいたい。高島は開明的で、バランス感覚に富み、中庸をわきまえた思想家でもあったことがよくわかるだろ。ただ、徳富蘇峯ほどのスケール大きさは高島にはなかった。
修身というのは私的には教育勅語に直結する過去の遺物にすぎないのだが、高島理解のために後日これらのテキストを精読してみようと思う。
表表紙の家紋は「丸に剣・かたばみ」。我が家と同じ代物だが・・・高島家のもの?












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上杉晋吉「暴風来」、洛陽堂、大正8年

2014年04月18日 | 断想および雑談
タイトル:暴風来
著者:上杉慎吉
出版者:洛陽堂
出版年月日:大正8
















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教育壇

2014年04月16日 | 教養(Culture)
高島平三郎30歳代時の論文の中に「教育壇」に掲載されたものがある。観察と試験(実験)を併用した子供研究について論じた論文だ。観察項目は多面的でその辺に独創性が認められるが、全体としては長編だが、内容的には高島自身が自覚している通り、研究ノート級。しかし、高島が「我が国における児童研究の発達」(「児童研究」1-2、5-15頁、明治31年)において、明治30年5月に発表された「小児研究」が我が国における児童研究を整理した最初の論文だったと回顧しており、したがって本論文は我が国における児童研究にとっては記念碑的な意味を持つ。
わたしが持っている高島平三郎の「小児研究(1)」の原稿(1897)




原稿は「割愛ス」で終わっている。活字版ではさらに2ページ分追加されている。


「小児研究」のはじめの部分

教育壇は「教育時論」を発行していた開発社刊の雑誌で、1号 (明30.2)-26号 (明32.3)まで出されている。






投稿者の西山績(山形県女子師範校長(1909年8月12日 - 1919年3月))に関しては

P7--------
南船北馬集 第十三編
 
1.冊数
 1冊
2.サイズ(タテ×ヨコ)
 188×127㎜
3.ページ
 総数:122
 目次:〔1〕
 本文:121
(巻頭)
4.刊行年月日
 底本:初版 大正6年6月11日
5.発行所
 国民道徳普及会




教育関係雑誌目次集成: 教育一般編 第 第 17 巻 巻, 教育ジャ-ナリズム史研究会中に教育壇の目次が収録されている。



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花井卓蔵の墓

2014年04月15日 | ローカルな歴史(郷土史)情報
こんにちは!

花井卓蔵は明治・大正期に大活躍した有名弁護士で政治家


大善寺小路


大善寺という浄土宗の寺の本堂脇、大きな「立原家の墓石」が境内に入るなり目に飛び込んでくる。無縁墓地の山側の一等地にある。権力者は死後の世界まで庶民を押しのける? そのようなことはないか
お墓の向きは相対し卓蔵のものだけ西向き。立原家の先祖代々墓は東向き。


JR三原駅から西国街道を広島方面に10分walking、世羅郡に至る南北道の交差点を恵下谷川の川筋にそって北側(山側)に5分。


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高崎能樹「母心による教育」

2014年04月14日 | 断想および雑談

タイトル
母心による教育

著者
高崎, 能樹


著者
高崎能樹 著

出版地
東京

出版社
宗教々育図書刊行会

出版年
1938

大きさ、容量等
195p ; 19cm


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随処作主  (ずいしょにしゅとなる)  <臨済録>

2014年04月13日 | 教養(Culture)
随処作主  (ずいしょにしゅとなる)  <臨済録>

高島の後醍醐天皇に対する「臣節」ぶりは今の私たちにはなかなか理解しにくい部分だが、当時は、いや高島はそういう生活世界に生きていたということだろ。明治末段階に無政府主義者の皇室に対する態度を「狂気」じみていると言っている。国民的統合のかなめとして天皇という存在がどうしても必要だと彼は考えていたのだ。国家を持たない民族は悲惨だとも考えていた。

高島が講義の導入部分で好んで使っていた言葉:随処作主

語意は
環境や境遇などに左右されず、どんなところにあっても主体性を保つこと。すると必ず道 が開けて正しい成果が得られる。周りに流されることなく主体的に生きていかなくては ...

高島と交流のあった京都・天竜寺の関精拙(京都・天龍寺240世住持)
関の制作物「水月」だ。禅の思想を工芸(造形)的に再構成したもの。天龍寺の大方丈から後醍醐天皇廟に至る長い回廊の途中に掛けてある。
高島は各宗各派の宗教家と広範に付き合っていたようだ。

講演の名手高島くらいになると名僧以上の説教力があったのではなかったか。
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