ちょっと前になりますが、夏川草介氏の 『神様のカルテ』 という小説を読みました。
この本のこと全然知りませんでしたが、調べてみると昨年映画化もされたそうで、
泣き虫の私は例によってボロボロ泣きながら読みました。
物語は 「24時間、365日対応」 を謳い文句にしている地方のやや大きめの一般病院が舞台。
そこで内科医として5年ほど勤めている青年、栗原一止 (いちと) が主人公です。
彼はいわゆるゴッドハンドと呼ばれるような天才的外科医みたいな人ではないのですが、
医者不足のため過酷な状況のなかで、それでも必死に患者に向き合おうとしていきます。
そういう良心的ではあるけれどもごく普通の内科医の日常を通して、
さまざまな矛盾に満ちた現代の医療現場をみごとに描き出すとともに、
現代において医療はどうあるべきか、医療者の仕事とは何かを問いかけてくる作品です。
いろいろなエピソードが描かれていきますが、特に中心となるのは、
身寄りのない胆のう癌患者の老婦人、安曇 (あずみ) さんのお話です。
人間ドックで胆のう癌が発見され、大学病院に紹介したのですが、すぐに戻されてきてしまいました。
ここからちょっと引用してみます。
「あと半年の命だと言われました。治療法はないから、好きなことをしてすごしてくださいと」
語尾がかすかに震えていたのを私は聞き逃さなかった。
安曇さんは今年72歳、早くに夫を亡くし、子供も親戚もいないひとり暮らし。たったひとりの孤独な患者に、いきなり 「好きなことをしてすごせ」 と言ったのか。
どこのアホウな医者だ!
そういう大切な話をする時にこそ、時間をかけて関係を築かねばならぬのだ。初診の外来でいきなり、よりによって 「半年で死ぬから今のうちに好きなことをしろ」 とは……。
現代の医療において告知やインフォームド・コンセントが重要であるとはよく言われますが、
その背後には患者と医療者のあいだのラポール (信頼関係) が必要であることが看破されています。
何でもただ伝えればいいというわけではないのです。
さて、この安曇さんそれから間もなく主人公がいないときに大量の下血をしてしまいました。
同僚で友人である砂山次郎が処置をしてくれてなんとか持ち直しますが、
癌が思ったよりも速く進行しているようです。
再び引用です。
胆のう癌は元来が成長の速い腫瘍である。症状が出にくいために発見が遅れることとあいまって、進行期ともなると生存期間がかなり短い疾患である。だがそれにしてもこの胆のう癌は速い。胆のうから広がった癌が周囲の内臓に次々と食らいついて広がり暴れまわっている。これでは腹の中に猛獣を一匹飼っているようなものだ。
「次郎、とりあえず助かった。感謝する。」
「それには及ばん。お互い様だ。だがこいつをどうする?」
「考える」
「考えたところで治療法があるのか?」
「治療法を考えるのではない」
私は写真の中の癌巣を睨みつけたまま語を継いだ。
「本人にどう話すかを考えるんだ」
私は医者である。
治療だけが医者の仕事ではない。
これこそが本来の告知、本来のインフォームド・コンセントであり、本来の医者の仕事です。
すでに本人は不治の病に冒されていることを知っているのだけれども、
進行が速くて余命が当初予想されていたよりもさらに短くなる、
そのことをどう伝えるかに心を砕くのが医者の仕事であると言うのです。
はたしてここまで考えてくれる医者が現実にどれほどいるかわかりませんが、
医療者たるものこうであってほしいと願わずにはいられません。
そして、しばらくのち最期の時がやってきます。
再び大量の下血と脈拍の異常。
栗原の脳裡にはなんとか持ちこたえさせるための無数の選択肢がよぎりますが、
悩んだ挙げ句、いずれの処置もしないことにしました。
栗原は医療とは何か、生きるとは何かを自問します。
最後の引用です。
しばしば医療の現場では患者の家族が 「できることは全てやってくれ」 と言うことがある。五十年前までの日本では日常の出来事であったし、その結果のいかんに関わらず、その時代はそれで良かった。拙劣な医療レベルの時代であれば、それで良かった。
だが今は違う。
死にゆく人に、可能な医療行為全てを行う、ということが何を意味するのか、人はもう少し真剣に考えねばならぬ。「全てやってくれ」 と泣きながら叫ぶことが美徳だなどという考えは、いい加減捨てねばならぬ。
助かる可能性があるなら、家族の意思など関係なく最初から医者は全力で治療する。問題となるのは、助からぬ人、つまりは寝たきりの高齢者や癌末期患者に行う医療である。
つまりは、安曇さんのような人に行う医療である。
現代の驚異的な技術を用いて全ての医療を行えば、止まりかけた心臓も一時的には動くであろう、呼吸が止まっていても酸素を投与できるであろう。しかしそれでどうするのか? 心臓マッサージで肋骨は全部折れ、人工呼吸の機械で無理やり酸素を送り込み、数々のチューブにつないで、回復する見込みのない人に、大量の薬剤を投与する。
これらの行為の結果、心臓が動いている期間が数日のびることはあるかもしれない。
だが、それが本当に ”生きる” ということなのか?
この数十年のあいだに医療が大きく様変わりしたことが描かれています。
簡単に言えば 「SOLからQOLへ」 ということなのでしょうが、
医療の進歩が現代の医療者に新たな問題を突き付けているわけです。
この小説の背後にあるのは、日野原重明 『生きることの質』 に示されているような医療観です。
医療者が患者を思う気持ちには今も昔も変わりないのだと思いますが、
医療者が何を為すべきかに関しては、はっきりと時代の変化が生じたのだろうと思います。
そんなことを考えさせてくれる小説でした。
核心的なところをだいぶ引用してしまいましたが、
引用箇所だけ読んで泣くことはできなかったでしょ?
まだ読んでいない人にはぜひ一読をお勧めします。
特に看護学校の皆さん、看護教員養成講座の皆さん、読んでみて感想をお聞かせください。
読む際には、ハンカチかティッシュをそばに置いておくことを忘れずに。
続刊も出されているようなので、私も追い追い読んでいきたいと思います。
ところで、読み終わっても最後までよくわからなかったことがひとつ。
この 『神様のカルテ』 というタイトルは何を意味しているのでしょうか?
「神様」 という言葉によって何を表そうとしていたのかがまったくわかりません。
たぶん作中のどこにも書いてなかったように思います。
帯に付されたコピーは 「神の手を持つ医者はいなくても、この病院では奇蹟が起きる」 で、
そのキャッチコピーは納得なのですが、だとすると、栗原一止がけっして神様なんかではなく、
ただの1人の医師であり人間であるというところがこの小説のミソであって、
わざわざタイトルに 「神様」 という語を使用する必要はなかったように思うのですが…。
うーん、気になる。
続刊を読むとその意味が判明するのでしょうか?
わかり次第またご報告したいと思います。
またよろしくです♪
けんさんの記事のコメント欄でけんさんが、
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