先日、映画 『黒部の太陽』 がリバイバル上映されているという話をしましたが、
けっきょく夏休みの宿題に追われて見に行くことはできませんでした。
大画面で見られなかったのは残念ですが、そのうちDVD化されるそうだし、
とにかくいずれもう一度見てみたいと思います。
さて、『黒部の太陽』 で思い出したんですが、
まさにあの頃、我が家は黒四ダム・ブームで (母親が1人盛り上がっていただけですが)、
家族で映画を見に行ったあと、夏休みの家族旅行でわざわざ黒四ダムに行ったのでした。
黒四ダムは富山県の山奥にあって、どうやって行ったのか記憶は定かではありませんが、
とにかくとてつもなく遠かったような思い出だけが残っています。
ウィキペディアで見てみると、
「黒部ダムは、世界的に見ても大規模なダムであり、
また周辺は名勝・中部山岳国立公園でもあることから、
立山黒部アルペンルートのハイライトのひとつとして、多くの観光客が訪れる。」
と書いてありますが、小学校1年生ぐらいにその良さがわかるはずもなく、
その年の家族旅行はあまり楽しみなものではありませんでした。
その暗い気持ちが伝わってしまったのか、
その旅行は家族史に残るとんでもない旅と化してしまいました。
なんと、旅行日程と台風の直撃がピッタリ重なってしまったのです。
どのあたりで暴風雨に見舞われたのかも覚えていません。
ただ、黒四ダムに着いた頃には大変なことになっていました。
台風直撃で近くの川が氾濫し、帰路が断たれてしまったのです!
観光客は事務棟 (だったと思う、たぶん) の会議室みたいなだだっ広い部屋に集められました。
私たちは氾濫した川を直接見たわけではありませんから、
実際のところどんなことになっているのかまったくわかりません。
例によって必要な情報は全然入ってきませんから、
ただここで待ってろと言われるばかりで、いずれ帰れるのか、今後どうなるのか、
何もわからないままその部屋でじーっと時間をつぶしているしかありませんでした。
といってもダムの事務棟に閉じ込められてどうやって時間をつぶせばいいのでしょうか?
たしか日が暮れたあと、ダムの人から、現在あちこちに救援依頼をしているが、
川の氾濫のため救助の人たちもここに近づけない状況で、
おそらく皆さん、今日はここに泊まっていただくことになります、みたいな大本営発表がありました。
わお!
台風の中、ダムに泊まって一夜を明かすって
意味がわかりません。
人生最大の大惨事ですっ
のちほど皆さんに毛布と簡単な食事を配付いたしますと言われましたが、
実際にそれが配られたのはそれからだいぶ時間が経ってからだったように覚えています。
けっきょく本当に帰ることはできず、ダムに寝泊まりすることになりました。
泊まるというよりは避難所生活です。
食糧はどれほど備蓄されているのか、いつここから救出してもらえるのか、
先のことがまったくわからないのです。
とにかく怖くて心細かった覚えがあります。
ずーっと暴風雨の音が聞こえていたように記憶していますが、
今から思うとはたして窓一つないような事務棟の会議室のなかでそんな音が聞こえたのか、
あとからの想像でいろいろと勝手に付加されてしまったのかもとも思いますが、
小学生がそんな目に遭ったのですから、恐怖で記憶が歪んでいたとしてもしかたありません。
それになんといっても、あの映画 『黒部の太陽』 のトンネルの出水シーンの記憶が鮮明ですから、
川の氾濫と聞いて、いつここも水に襲われるんじゃないかと気が気じゃありませんでした。
とにかく長い夜でした。
いつもの布団ではない、床の上に敷いた毛布の上に横になって、
台風と洪水に怯えながら寝るんですから、ぐっすり眠れるわけもありません。
わたし的に言うと、3.11のあの夜と同じぐらい怖かったような気がします。
ほとんど情報がない、自分では何にも対処できないという無力感は圧倒的でした。
そして、やっと夜が明けました。
その後の記憶も定かではありません。
父に連れられて外の様子を見に行ったような記憶があります。
あれだけの暴風雨がだいぶ小止みになっていて、ちょっとホッとしたんだったのではないかな?
でも、それと同時にピーカンの空を見上げたような記憶もあります。
どちらが正しい記憶なのか、あるいは時間差でどちらも本物の記憶だったのか…。
台風は過ぎ去っても氾濫の影響はまだ残っていて、しばらく待たされたように思いますが、
昼前後には自衛隊が救援に来てくれました。
頑丈そうなトラックが何台かやってきて、みんなそれに分乗させられました。
もちろんみんなトラックの荷台に積まれるわけですが、
私と妹はたしか小さいからといってトラックの助手席に乗せてもらいました。
(ほかにも小さい子はたくさんいたのですが…)
今思えば別格扱いに喜んでいいところですが、子どもの私はトラックの荷台に乗ってみたくて、
そのせっかくのチャンスを奪われて内心ものすごく残念でした。
ただその落胆を口や顔に出してはいけないという分別はもう備えていました。
氾濫した水の流れをトラックで突っ切っていくという説明を受けていましたが、
その水は子どもの私が想像していたのに比べて大した量ではありませんでした。
それにもちょっぴりがっかりしましたが、
これもやはり今思えば、自家用車で突っ切れるような流れではなかった気がします。
とまあ、そんなこんなでなんとか無事救出されました。
そのあとの記憶はまったくありません。
たぶん寝不足のため、車中もぐっすり眠りこけていたのでしょう。
それにしてもすっかり記憶の彼方に飛んでいましたが、
幼い頃にけっこうサバイバルな経験をしていたんだな。
ちなみにこれは夢オチではありません。
記憶があやふやな部分が多いのは確かですが、けっしてたんなる想像力の産物ではないのです。
『黒部の太陽』 がリバイバル上映されなければずっと記憶の底に沈んだままだったかもしれません。
44年ぶりに掘り起こされた、私のなかの恐怖の記憶のお話でした。
けっきょく夏休みの宿題に追われて見に行くことはできませんでした。
大画面で見られなかったのは残念ですが、そのうちDVD化されるそうだし、
とにかくいずれもう一度見てみたいと思います。
さて、『黒部の太陽』 で思い出したんですが、
まさにあの頃、我が家は黒四ダム・ブームで (母親が1人盛り上がっていただけですが)、
家族で映画を見に行ったあと、夏休みの家族旅行でわざわざ黒四ダムに行ったのでした。
黒四ダムは富山県の山奥にあって、どうやって行ったのか記憶は定かではありませんが、
とにかくとてつもなく遠かったような思い出だけが残っています。
ウィキペディアで見てみると、
「黒部ダムは、世界的に見ても大規模なダムであり、
また周辺は名勝・中部山岳国立公園でもあることから、
立山黒部アルペンルートのハイライトのひとつとして、多くの観光客が訪れる。」
と書いてありますが、小学校1年生ぐらいにその良さがわかるはずもなく、
その年の家族旅行はあまり楽しみなものではありませんでした。
その暗い気持ちが伝わってしまったのか、
その旅行は家族史に残るとんでもない旅と化してしまいました。
なんと、旅行日程と台風の直撃がピッタリ重なってしまったのです。
どのあたりで暴風雨に見舞われたのかも覚えていません。
ただ、黒四ダムに着いた頃には大変なことになっていました。
台風直撃で近くの川が氾濫し、帰路が断たれてしまったのです!
観光客は事務棟 (だったと思う、たぶん) の会議室みたいなだだっ広い部屋に集められました。
私たちは氾濫した川を直接見たわけではありませんから、
実際のところどんなことになっているのかまったくわかりません。
例によって必要な情報は全然入ってきませんから、
ただここで待ってろと言われるばかりで、いずれ帰れるのか、今後どうなるのか、
何もわからないままその部屋でじーっと時間をつぶしているしかありませんでした。
といってもダムの事務棟に閉じ込められてどうやって時間をつぶせばいいのでしょうか?
たしか日が暮れたあと、ダムの人から、現在あちこちに救援依頼をしているが、
川の氾濫のため救助の人たちもここに近づけない状況で、
おそらく皆さん、今日はここに泊まっていただくことになります、みたいな大本営発表がありました。
わお!
台風の中、ダムに泊まって一夜を明かすって
意味がわかりません。
人生最大の大惨事ですっ
のちほど皆さんに毛布と簡単な食事を配付いたしますと言われましたが、
実際にそれが配られたのはそれからだいぶ時間が経ってからだったように覚えています。
けっきょく本当に帰ることはできず、ダムに寝泊まりすることになりました。
泊まるというよりは避難所生活です。
食糧はどれほど備蓄されているのか、いつここから救出してもらえるのか、
先のことがまったくわからないのです。
とにかく怖くて心細かった覚えがあります。
ずーっと暴風雨の音が聞こえていたように記憶していますが、
今から思うとはたして窓一つないような事務棟の会議室のなかでそんな音が聞こえたのか、
あとからの想像でいろいろと勝手に付加されてしまったのかもとも思いますが、
小学生がそんな目に遭ったのですから、恐怖で記憶が歪んでいたとしてもしかたありません。
それになんといっても、あの映画 『黒部の太陽』 のトンネルの出水シーンの記憶が鮮明ですから、
川の氾濫と聞いて、いつここも水に襲われるんじゃないかと気が気じゃありませんでした。
とにかく長い夜でした。
いつもの布団ではない、床の上に敷いた毛布の上に横になって、
台風と洪水に怯えながら寝るんですから、ぐっすり眠れるわけもありません。
わたし的に言うと、3.11のあの夜と同じぐらい怖かったような気がします。
ほとんど情報がない、自分では何にも対処できないという無力感は圧倒的でした。
そして、やっと夜が明けました。
その後の記憶も定かではありません。
父に連れられて外の様子を見に行ったような記憶があります。
あれだけの暴風雨がだいぶ小止みになっていて、ちょっとホッとしたんだったのではないかな?
でも、それと同時にピーカンの空を見上げたような記憶もあります。
どちらが正しい記憶なのか、あるいは時間差でどちらも本物の記憶だったのか…。
台風は過ぎ去っても氾濫の影響はまだ残っていて、しばらく待たされたように思いますが、
昼前後には自衛隊が救援に来てくれました。
頑丈そうなトラックが何台かやってきて、みんなそれに分乗させられました。
もちろんみんなトラックの荷台に積まれるわけですが、
私と妹はたしか小さいからといってトラックの助手席に乗せてもらいました。
(ほかにも小さい子はたくさんいたのですが…)
今思えば別格扱いに喜んでいいところですが、子どもの私はトラックの荷台に乗ってみたくて、
そのせっかくのチャンスを奪われて内心ものすごく残念でした。
ただその落胆を口や顔に出してはいけないという分別はもう備えていました。
氾濫した水の流れをトラックで突っ切っていくという説明を受けていましたが、
その水は子どもの私が想像していたのに比べて大した量ではありませんでした。
それにもちょっぴりがっかりしましたが、
これもやはり今思えば、自家用車で突っ切れるような流れではなかった気がします。
とまあ、そんなこんなでなんとか無事救出されました。
そのあとの記憶はまったくありません。
たぶん寝不足のため、車中もぐっすり眠りこけていたのでしょう。
それにしてもすっかり記憶の彼方に飛んでいましたが、
幼い頃にけっこうサバイバルな経験をしていたんだな。
ちなみにこれは夢オチではありません。
記憶があやふやな部分が多いのは確かですが、けっしてたんなる想像力の産物ではないのです。
『黒部の太陽』 がリバイバル上映されなければずっと記憶の底に沈んだままだったかもしれません。
44年ぶりに掘り起こされた、私のなかの恐怖の記憶のお話でした。
つかえねーな