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まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

メッセージは肯定文で!

2009-09-25 08:54:58 | 幸せの倫理学
スポーツ・コーチングの世界では、
「メッセージは肯定文で」 というのが常識になりつつあります。
つい日本人は危機管理のほうを重視してしまうので、
「ミスするな」 とか 「ボールから目を離すな」 みたいに、
否定文で指示を出しがちですが、
そうやって言われると人間の脳は否定のところまで捉えきれずに、
ミスをすることやボールから目を離すことに意識が向いてしまうのだそうです。

さて、写真のTシャツですが、
これは古田がスワローズの監督になった年に発売されていたもので、
その年の球団のキャッチコピーが入っています。
ちょっと小さいですが見えますでしょうか。
「Don't Miss the Chance !」
日本語にすると 「チャンスを逃すな!」 ということでしょう。

これが発表になったときに、ああ今年はヤバイな、と予感しました。
むろん古田の監督就任に沸きかえっていたときですから、
そんなこと口に出して言ったりはしませんし、
こうやって球場でもすぐにそのTシャツを買ってしまうくらいですが、
しかし、素人の私でも知ってることなのに古田監督は大丈夫かなあと、
シーズン開幕前から私の中では暗雲が垂れこめていました。
その後の経緯は皆さんご存じの通りで、
チャンス逃しっぱなしのまま退任劇に追い込まれてしまいました。

こういうときは 「Don't Miss the Chance !」 ではなく、
「Get the Chance !」(「チャンスをつかめ!」) と言わなくてはなりません。
これはスポーツに限らず、教育的指導場面全般に当てはまりますので、
みんな覚えていてください。  (×「忘れないでください」)
メッセージは肯定文で!   (×「メッセージを否定文で言ってはいけません」)

福山雅治の幸福論

2009-09-15 12:19:16 | 幸せの倫理学
福山雅治氏にはカラオケでたいへんお世話になっているのですが、
もともとファンだったわけではないので、
どうしても新曲チェックなどが後手後手にまわりがちです。
このあいだスナックに行って福山の曲を検索していたら、
知らない曲がたくさんあって、「なんだこれは?」 と思ったら、
今年の6月にニューアルバム 『残響』 がリリースされていたんですね。
お店の女の子に新しいの歌ってよとせがまれましたが、
まったくわからず悔しい思いをしました。
そこで翌日にはさっそく購入して、カラオケ向きの曲を探し練習を始めました。

中でも 「幸福論」 という曲があって、これが歌詞的にもメロディ的にもリズム的にも
とてもいい曲じゃないですか。
福山雅治氏の幸福論なんて、倫理学的にもそうとう興味があります。
残念ながらこの歌は、全体としては客観的な幸福論にはなっておらず、
あくまでも、曲の最後にあるように 「僕の幸福論」 にとどまっています。

  君が今日も笑ってくれたら
  君が今日もよろこぶなら
  それが僕の幸福論

ということだそうです。
しかしながら、歌詞の前半にはけっこう福山氏の客観的な幸福論も散見されます。

  生きてくためのメニューには
  いくばくかの幸福感って
  人にはやっぱり必要なんです

  それは人類60億もの
  年齢、性格、体質にそって
  主観的であるべきです

ここらあたりは強調点はちょっとズレていますが、私の幸福論と重なり合うところです。
幸福とは幸福感であり、あくまでも主観的なものにすぎない、
というのは私がずっとこのブログの中で論じ続けているポイントです。
さらに福山氏は次のように続けます。

  「幸せ」 を難しく考えずに
  語り過ぎずに
  未来永劫変わらないモノと
  期待し過ぎたりしないで

  そのつど自然と降りてくる
  この感じをつかまえて
  それで日々を繋いでいくんです
  it will be alright

この行(くだり)はもう他人様が書いた詩とはとても思えません。
さすがは福山サマです。
私が言いたかったことを全部言ってくれています。
ぼくがブログでわけのわからないことをグダグダ書き続けるより、
この曲を一曲歌ったほうがよっぽどいろいろ伝わるじゃないですか。
これからは片っ端からスナックをまわって、
ぼくの (=福山サマの) 幸福論を説いて回ることにしよう

面白きこともなき世を面白く

2009-09-01 19:18:21 | 幸せの倫理学
 面白きこともなき世を面白く

   棲みなすものは心なりけり

                 東行


この和歌は若い頃から気に入っていて、
高校の書道の授業で、自分の好きな歌を書けという課題を出されたとき、
迷うことなくこの歌を選びました。
東行というのは西行をもじってつけたペンネームだそうですが、
たぶんこれだけで誰のことかわかる人は少ないでしょう。
この歌を詠んだのは、幕末の志士、高杉晋作です。

私の高杉晋作に関する知識なんて司馬遼太郎の 『世に棲む日日』 とか、
武田鉄矢の 『おーい!竜馬』 くらいですので、
高杉の生涯に関してそんなに詳しいわけではありません。
吉田松陰に学び、農民たちを集めて奇兵隊をつくり、
天才的な采配によって幕府軍を破ったけれど、
肺結核のため27歳という若さで亡くなった、というくらいのことしか覚えていません。
その高杉の辞世の句がこれです。

『世に棲む日日』 には、高杉が詠んだのは上の句だけで、
下の句は看病していた尼さんがつけたのであり、
下の句はあまりいい出来ではないと書いてあったように思います。
しかし、私は下の句も含めて、
幸せになる秘訣が記されたいい歌だなあと気に入っていました。
客観的に言ったらこの世に面白いことなんて何にもないかもしれない。
しかし、心の側がそれを面白いものとして受け止めることができれば、
面白おかしくこの世を生きていくことができる。
そういう意味の歌として私は解釈していました。

高杉が上の句だけ詠んだときには、
受け止め方うんぬんみたいなことではなくて、
自分の力でこの世を面白く変えてやる!といった、
もっと積極的、主体的な意味を込めていたのかもしれません。
それはそれで同感できますし、私もそんなふうに生きたいと思います。
下の句も含めて、幸福というのは主観的なものであって、
自分の側の受け止め方、自分が満足するかどうかの問題である、
ということを詠った歌と解釈しても、
それはそれでいい歌ではないですか。
「若いのに君は達観していたんだねぇ、高杉君」 と言ってあげたくなります。

今とは時代がちがうけど、27の若さで散っていく彼が、
ここまでの境地に達することができたのです。
よっぽど恵まれた状況にいる私たちがそこに至れないはずはありません。
「面白きこともなき世を面白く」 生きてやろうではありませんか

幸福になる方法(その2)

2009-08-26 12:33:42 | 幸せの倫理学
以前に書いた自分のブログを読み返してみると、
締めの言葉に 「○○についてはまたの機会に書くことにします」 とか
「つづく」 などと書いてあって、
それっきり放りっぱなしということがけっこうあるようです。
約1年前に 「幸せの倫理学」 カテゴリーを立ち上げたとき、
最初の記事が 「幸福になる方法」 でしたが、
その最後は 「これが幸せになるための第一の秘訣です。第二の秘訣はまた今度。」
と締め括られていました。
そしてそれっきり放置プレイになっていました。
申しわけありません。
まあその後すでに関連する話は書いてしまっていますが、
いちおう約束を果たすことにいたしましょう。

1年前の話なので軽く復習しておくと、
幸福の定義は 「自らの欲求・欲望が満たされて、自分の状態に満足していること」 です。
この定義の前半部分から導き出される、幸福になるための第一の秘訣が、
欲求・欲望をできる限り小さく抑えておくこと、でした。
欲求・欲望が大きければ大きいほど、満たされる可能性が低くなるので、
欲求・欲望を小さくしておく方が幸福になれる可能性が高まるのです。

さて、第二の秘訣は定義の後半部分から導き出されます。
幸福とは 「自分の状態に満足していること」 です。
つまり、満足を感じるか感じないかが決め手なのです。
幸福というのは自分の外からやってくるものと思っている人が多いですが、
それは完全に間違いです。
幸福とは、自分で感じるものです。
感じなくてはいけません。
幸福な出来事が起こるのではなく、
ある出来事が起こり、それを自分がああよかったと感じたときに初めて、
自分の中に幸福が発生します。
同じ出来事が起こっても、それに満足を抱かなければ、幸福は生じません。
幸福とは幸福感なのです。

街で福山雅治に声をかけられたら、それは幸せな出来事のような気がしますが、
それ自体はニュートラルな出来事にすぎません。
福山雅治の大ファンだったら、もちろんものすごい幸せを感じるでしょう。
自分は特にファンでなくても、友だちに福山の大ファンがいれば、
その話をして羨ましがらせることができるので、少しだけ幸せになれるかもしれません。
しかし福山雅治が生理的にキライという人だったら、
ああ気持ち悪い、と不快な気分に陥るかもしれません。
逆にストーカーに近いくらいの熱狂的なファンの場合も、
ただどうということのない言葉をかけられただけでは満足できず、
なんでデートに誘ってくれなかったんだろうと、不満を抱くかもしれません。
このように幸福とは客観的な事柄ではなく、
自分が幸福を感じ取ることができるかどうかという、内面的な問題なのです。

したがって、幸福になるための第二の秘訣は、
満足しやすい体質を作っておくこと、にほかなりません。
つまり、日頃から幸せの感受性を高めておくことが大事なのです。
これは以前にお話しした、「ありがたい話」 と関わってきます。
なんでも当たり前と思うのではなく、それを有り難いことだと感じ取る能力、
それが大事です。
何にでも不満を感じる人はけっして幸せにはなれません。
ちょっとしたことにも満足し、感謝できる人だけが幸せになれるのです。

第一の秘訣と第二の秘訣は関連しているということがわかってもらえるでしょうか。
どちらも練習しだいでできるようになります。
晴れた朝には、いい天気だなあと窓を開け、
雨の日には、これでまた湖に水がたまってよかったなあと美味しい水を飲み、
月曜の朝学校に向かうときは、通学路の軒先の花の香りを楽しみ、
選挙カーの騒音を聞いたら、民主主義の国に生まれたことを感謝する。
日々の生活のちょっとしたことの中にいちいち満足を感じるように努力して、
少しずつ幸福の感受性を高めていってください。
最後に自作の格言をひとつ披露しておきます。

「幸福になりたいと切望している人は一生幸福になれない、
 幸福になる方法を知っている人はすでに幸福である」


悩んでもしょうがないことに悩まない

2009-08-24 11:44:04 | 幸せの倫理学
スティーブン・コヴィーの 『7つの習慣』 という本は、
ビジネス書とか自己啓発本なんかの中でもめちゃくちゃ売れまくっている本ですが、
私はずっと敬遠していたんです。
タイトルがダメでしたね。
「習慣」 というのはカントの倫理学と真っ向から対立する概念なんです。
その点については近々カントに関するカテゴリーを立ち上げてゆっくり論ずるつもりですが、
とにかくカント・ラブの私は、カント倫理学に引きずられて、
「習慣」 について語るやつなんてロクなもんじゃないという偏見をもっていたわけです。

ところがこのたびたまたまある事情があって (これについてもそのうち書きます)、
この本を読むことになったんです。
そもそも私はビジネス書とか自己啓発本のたぐい全般をかつては毛嫌いしていたのですが、
幸せの倫理学とかキャリアのこととかを考えるようになって、
最近ではけっこういろいろ読むようになりました。
しかし、それら類書に比べてみても、
この 『7つの習慣』 はずば抜けて優れた本だと言えるでしょう。
読む前は完全になんかのハウツー本だろうと思っていたんです。
ビジネスを成功させるために毎日やるべき7つの習慣とかが
エラそうに書かれているんだろうな、と。
全然ちがいました。
むしろこれはカント倫理学をわかりやすく説いた本だと言ってもいいかもしれません。
(ああ、今世界中のカント研究者を敵に回したかも…)

さて、コヴィー氏が説く7つの習慣のうちの第1の習慣は、
「主体性を発揮する」 です。
これは 「自己責任の原則」 とも言いかえられています。
「自己責任」 って最近、新自由主義の文脈でひどい意味で使われるようになっていますが、
ここでいう自己責任はそういうことじゃなくて、
「問題は自分の外にあると考えるならば、その考えこそが問題である」
ということを意味しています。
つまり、問題は外から自分に降りかかってくるものと考えるのではなく、
自分はすべての問題に対して主体的に対処することができるのであり、
その責任を引き受けよ、ということです。
これは私の 「幸せの倫理学」 とも合致する考え方でしたし、
たぶんカント倫理学の自由概念とも両立するのではないでしょうか (ああ、また…)。

コヴィー氏は 「すべての問題は影響できる」 と言い、
私たちが直面する問題を3種類に分類することを提案しています。

・直接的にコントロールできる問題 (自分の行動と関係している問題)
・間接的にコントロールできる問題 (他人の行動と関係している問題)
・全くコントロールできない問題 (誰も影響できない問題、過去の出来事など)

第1のグループは当然、自分の行動で影響できます。
第2のグループは、自分が他人に影響を及ぼすことによってコントロールできます。
第3のグループにも、自分の態度を変えることによって影響を及ぼすことができるのです。
つまり、笑顔をつくり、穏やかな気持ちでそれを受け入れればいいのです。
これは私のモットーのひとつ、
悩んでもしょうがないことに悩まない、とまったく同じではありませんか。

コヴィー氏は、本書の中でアルコール依存症連合会の座右の銘を引用していました。
これはけっこうヒットしました。
「主よ、変えるべき変えられることを変える勇気を、
 変えられないことを受け入れる平和を、
 そして、その区別をつける知恵を与えたまえ」
若い人たちを見ていると、
悩んでもしょうがないこと (コントロールできない問題) に悩んでいる人を
たくさん見かけますので、
3種類の問題を区別する知恵というのがまずは大事だなと思いました。

エントロピー増大

2009-08-18 13:01:29 | 幸せの倫理学
春休みにせっかく片づけた研究室ですが、

日々の授業や会議に追われているうちにまた崩壊してしまいました。

当然のことながら、幸福感や自己効力感はガタ落ちです。

熱力学の第2法則 「エントロピー増大の法則」 というものがあるので、

世界は無秩序な状態のほうに向かって進むことになっているから、

こうなることは自然法則によって運命づけられていたのだと受け容れようとしましたが、

大好きな Wikipedia を見てみると (例のところ)、

どうやらその解釈は間違っているようです。

自然法則のせいにしてないで、ちゃんと片づけようっと

小確幸、再び

2009-08-13 22:30:28 | 幸せの倫理学
食器洗いのスポンジをまた新しいのに替えました。
またまた幸せになれました。

前の記事を探してみたら、前回新しいのに替えたのはほんの1ヶ月半前のようです。
今回のスポンジは妙に短命で、すぐにダメになってしまったなという感じです。
やはり夏場だからでしょうか。
よく飲むから洗い物も多くて使用頻度が高く、
気温と湿度のせいで雑菌も繁殖しやすいんでしょう。
すでに数週間前から、穴が開くわ、ヘニャッとなるわ、
「精神衛生上悪いわ、とっとと替えてやる」と思っていたのですが、
たまたま買い置きがなく、
電車通勤していると、通勤途上に台所用品を売っているような店もなく、
そしてその手の店が開いているような時間に帰ってくることもできず、
という毎日を送っていたので、
不幸な気分を引きずったまま、ずっと過ごしていたのです。
昨日やっとクルマでスーパーまで買い物に行き、
喜々としてスポンジを4つも買い漁りました(これで半年くらいは幸せに過ごせる)。

どうです、この元気さかげん!
そして色つや!
同じコープマートで買った、まったく同じスポンジとはとても思えないでしょう
ふふふ、これからまたしばらく毎日食器を洗うたんびに幸せになれるな。

教訓 「転ばぬ先のスポンジ」
小さいけど確かな幸せをもたらしてくれる物があるなら、
なくなったりダメになったりしてしまう前にバーンとたくさん買い置きしておきましょう


「よかったさがし」

2009-07-21 14:11:38 | 幸せの倫理学
以前にミクシィで 「身代わり理論」 や 「芸の肥やし理論」 を披露したとき、
マイミク (ミクシィ上の友だちのことです) のひとりから、
同じようなポジティブ・シンキングの例として
「よかったさがし」というのを教えてもらいました。
マイミクさんの文をそのまま引用する形で紹介させていただきましょう。
ちなみに「ボス」というのはミクシィ上の私のニックネームです。


(以下、引用)
ボス、ポリアンナ物語 「よかったさがし」 って、知ってます?

牧師の娘のポリアンナという少女が
たくさんの苦労を乗り越えながら成長していく姿を描いた物語なのですが、
小学生の時に読んで、
ポリアンナが初めてお父さんに 「よかったさがし」 を教えてもらうくだりを
今でもよく覚えています。
1週間に1度だけ食べれるはずのハムエッグ (だった気がしますが) を、
お父さんが自分たちよりさらに貧しい人が病気だったので、施しをしてしまって、
パンしか食べられなくなるんです。
幼いポリアンナはすごくふてるのですが、
そんはポリアンナにお父さんは 「よかったさがし」 という遊びを教え、ポリアンナは、
「今日は楽しみだったハムエッグが食べられなくて残念だけど、
次に食べるときはもっとうれしいからよかった」 と言って、
いつもつらいことや苦しいことが起こるたびに 「よかったさがし」 をして、
周りも巻き込んで明るく、幸せになっていくんです。

なぜか小学生の私には、この発想の転換が衝撃的で、
周りの状況を変えられないときには、
その中でもかすかにでも自分に利になることを見つけて、
まぁいいや、と言って過ごす癖がついてしまったんですよね。
まぁ今回は自分で気付かないうちに度が過ぎたなと思いますが、
あんまりにも周りが変だと発想を転換していかないと
身がもたないっつ~とこはありますよね(苦笑)。
(引用、終わり)


私は 『ポリアンナ物語』 って知らなかったのですが、
ウィキペディアで調べてみると、

> 主人公の名前である Pollyanna は 「極めて前向きな楽観主義者」 の意味として使われ、
> その後心理学分野での用語 「ポリアンナ効果」「ポリアンナ症候群」 が生まれた。

ということだそうです。
なるほど、一般名詞化するくらい有名なんだ。
私はまさにポリアンナなんですね。
一度読んでみなければ。
というかハウス名作劇場でアニメ化されていたらしいので、
今度借りてみようかな。

芸の肥やし理論

2009-07-16 15:35:40 | 幸せの倫理学
悪いことが起きたときそれをプラスに受け止めるポジティブシンキング。
その第2弾です。

もう古い話ですが、一昨年の秋、ひどく転びました。
2時過ぎまで飲んでて、家がもうすぐそこというところまで帰ってきていたのに、
ほんのちょっと近道して、真っ暗な駐車場を通り抜けようとしたら、
駐車場入口にずいぶん低くチェーンが張られており、
まったく気づかずにそれに引っかかり、顔面からダイブしました。

痛かったです
メガネはオシャカ。
鼻の下をすりむき(写真1)。
わかりにくいけど、左ヒザは広範囲にわたって損傷(写真2)。
さらには、前歯も損傷。
メガネは買い換え。
身体の傷はキズパワーパッドで補修。
そして歯医者通い。

新しいメガネ代は4万5千円かかりました。
身体の傷はけっこう時間かかってしまいましたが、
キズパワーパッドのおかげでほとんど痕が残ることもなく完治しました。
前歯(上の左側の歯)はもともと古傷のせいで下側部分が斜めに削れていたのですが、
その部分をアスファルトに打ってしまったようでギザギザになっていました。
「ここを削ってなめらかにすると、右の歯に比べてそうとう小さくなってしまいます。
食事とかには問題ないけど、ちょっと貧相な感じになってしまうでしょう」
とのことで、そこでやってもらったのは、
セラミックやらプラスチックやらを細かく砕いたものを使って整形し、
接着剤でくっつけて補修するという施術です。
なんという名の技法ですかと尋ねたら、
「えっ?えっと何だっけ?」と言葉につまってしまわれたので、
とりあえず勝手に命名しました。
名づけて、「歯のエクステ」療法
こちらは3万円弱かかりました。

痛いわ、金はかかるわで散々な目にあったわけですが、
鼻の下にキズパワーパッドを貼りながら、
「おお、これは神様からのご褒美かも」と啓示を受け、
写真を撮ってミクシィの日記に書くことを思いつきました。
当時、プチうつで大スランプに陥っていたため、
特に仕事に打ち込んでいるわけでもないのに、
ミクシィの日記に書くことも何も思いつかず、
文章を書かないからよけいにうつな気分に落ち込んでいくという
負のスパイラルを生きていました。
しかし、このマヌケな事故のおかげですっかり元気を取り戻し、
これはきっと神様がネタを提供してくれたにちがいないと嬉々として写真を撮り、
このネタで引っ張って何本も日記を書いてしまいました。

「身代わり理論」どころではない、究極のポジティブ・シンキングですね。
うーん、やっぱ芸人にとっては、すべての不幸が芸の肥やしになるんだなあ。
というわけでこれを「芸の肥やし理論」と名づけたのです。
ミクシィとかブログとかをやっている人にはうってつけのポジティブシンキングです。
そうでなくとも友人に自慢するとか職場での会話のネタにするとか、
いろいろ応用のしかたはあると思います。
人間笑われてナンボ
人生はすべてネタ
「芸の肥やし理論」で人生の不幸を乗り切っていきましょう。

身代わり理論

2009-07-09 17:12:39 | 幸せの倫理学
幸せになるためにというよりも、
不幸を軽減するための方法をひとつ紹介しましょう。

「身代わり(サクリファイス)理論」です。

うちでは特に物を壊したときにこれを使います。
例えば、洗い物中にグラスを割ってしまったとかいう場合には、
「ホントは事故とか病気とか、もっと悪いことが起きるはずだったのに、
 その身代わりとしてこのグラスが割れてくれたんだ。
 グラスなんてまた買えばいいんだもん。
 これくらいですんでよかった、よかった。」
と思うようにするのです。

物が壊れたり、物をなくしたり、ちょっとしたケガや病気をしたりといったときには、
この「身代わり理論」を使って右から左へ受け流すことにしています。
これはまさに受け止め方をコントロールする訓練です。
そりゃあたしかに大事にしていた物を壊したりなくしたりしたら、
泣きたくなるほど悲しくなるし、
それを壊したりなくしたのが自分ではない別の誰かだったりした場合は、
その人を人であるかのように責め立てたくなるものですが、
そこをグッとこらえて、
「なんだ、これくらいですんでよかったぁ」
と思うようにするのです。

思うだけでなく、口に出すようにすると効果はさらにアップします。
誰かが壊した場合には、
その人に向かってこのことばを言ってあげましょう。
実際には心の中が煮えくりかえっていたとしても、
このことばを発することによって、
自分の心もしだいに鎮まっていくから不思議なものです。
相手も人の物を壊してしまったことによってものすごく動揺し傷ついていますから、
こう言ってもらうことによってとても救われます。
そうするとたんに不幸が軽減するだけでなく、
この不幸な出来事をきっかけとしてむしろ幸せになれてしまったりもするのです。

どうです、「身代わり理論」すごいでしょう
ぜひお試しあれ。

受け止め方のゲーム

2009-07-07 12:43:21 | 幸せの倫理学
昨日は、ものの考え方はたくさんあって、
考え方ひとつでラクになれるよ、という話をしました。

これで思い出すのは、哲学ではないんですが、
東京外語大時代に、中嶋嶺雄先生の国際関係論の授業で習った、
Games of Perceptions という概念です。
直訳すると「知覚のゲーム」ということになるのでしょうか。
中嶋先生によれば、国際関係というのは「受け止め方のゲーム」なんだそうです。
例えばA国が何かをしたとします。
A国はA国なりの意図があってそれをしたのかもしれませんが、
肝心なのは、それを近隣のB国がどう受け止めるかである、というのです。
つまり、重要なのは、A国の真意ではなく、
B国にとってA国の行動がどういうものに見えるかということが、
国際関係を動かしていくことになる、という話だったと思います。

例えば、日本の首相が靖国神社に参拝します。
日本の首相にはそれなりの理由があって、
先人への哀悼の意を表するために参拝するのかもしれませんが、
かつて日本に植民地支配されていたアジア諸国の側は、
その行為を、日本が戦前の軍国体制に回帰しようとしている証拠だと受け止めます。
その疑念をもって各国政府が日本政府に対し抗議声明を出したり、
各国国民が抗議行動を起こしたりすると、
今度は日本政府や日本国民がそれを内政干渉と受け止めます。
このように国際関係というのはまさに「受け止め方のゲーム」として展開されていくのです。

大学時代に学んだことはほとんど忘れてしまいましたが(実は私はロシヤ語学科出身)、
この話だけ妙に記憶に残っているのはなぜかというと、
そのとき、この話はたんに国際関係だけでなく、
人間関係のすべてに当てはまるよなあと、若いながらも自分なりに考えたからです。
身近な人間関係においても、行為者の真意がどうであったかよりも、
その行為が相手にどう受け止められるかが重要で、
実際、ある人の真意と周りの人の受け止め方がズレてしまうことによって、
対人トラブルの多くは発生しているんじゃないかと思われます。

そこからさらに発展して、受け止め方をコントロールできるようになれば、
人生幸せに生きていけるようになるんじゃないか、ということまで考えました。
相手の言動を勘ぐったり、
その裏に悪意や攻撃性を感じ取ったりすることはよくあることですが、
それらはあくまでもこちらの勝手な憶測にすぎず、
相手の真意であるかどうかはわかりません。
相手の真意でないものを勝手に悪く受け止めて、
相手と敵対関係に陥ってしまうというのは、
あまりにもバカバカしく時間の無駄ではありませんか。
それぐらいなら、何を言われたりされたりしようと、
相手の言動をプラスに受け止めるように心がけておけば、
心穏やかに暮らせるようになるんじゃないか、
たまに相手の悪意を見ぬくことができなくて少々傷つくことがあったとしても、
相手の真意を誤解し続けてありとあらゆる人々と敵対関係に陥るよりは、
よっぽど幸せになれるんじゃないだろうかと考えたのです。

その後、人生すべて受け止め方のゲーム、というのが私の人生観の根幹となり、
受け止め方ひとつで幸せになれる、というのが私のモットーになりました。
大学のパンキョーの授業が一人の学生の人生をこんなにも変えてしまうなんてスゴイことですね。
まあたぶん中嶋嶺雄先生はあの授業でこんなことを伝えたかったのではないと思いますが、
それもまた「受け止め方のゲーム」ですよね。

お手軽に幸せになる方法

2009-07-02 20:20:14 | 幸せの倫理学
食器を洗うスポンジがクタクタになっていたんです。
ヘニョッとしちゃった感じ。
泡立ちは悪いし、長めのグラスとか洗おうとすると底まで届かないみたいな。

いつもはそれでも、どこかが破けてしまうとかいうことがない限り使い続けていたんです。
洗い物するたびにああと思いながらも、もったいなくて捨てられず…。
でも今回は大英断を下しそのヘニョを叩き捨て、
買い置きしてあった新しいスポンジをおろしました。

そしたら、おおっ!
シャキッとしてるじゃないか。
グラスの底まで軽々と届くじゃないか。
うーん、幸せだっ
毎日のストレスが解消され、洗い物が楽しみになりました。
人間ってこんなことで幸せになれるんだな。

ん? ぼくだけ?

汝自身を知れ(その2)あるいは自動車わらしべ長者

2009-06-23 19:10:45 | 幸せの倫理学
先に自分のモットーを書き出しましたが、
あとからあとからいろいろと思い出すもんですね。
ぜひとも補足しておきたいものとして次の3つを挙げておきます。

・飲みに誘われたら先約がないかぎり断らない
・タバコは買わない
・クルマは買わない

1番目は、まあたんに付き合いのいいやつということなんでしょう。
あるいはたんなる酒好きか。
2番目は、健康のためマナーのため喫煙はしない、とかいうことではなくて、
高率の税金を払いたくないので自分では買わないようにしているということです。
吸いたいときは人からもらうようにしています。
3番目も、環境のためクルマに乗らない、ということではなく、
(ドライブ人生論を書いている私がクルマを持っていて乗っていることはバレバレですね)
自分でお金を出してクルマを買ったりはせず、
人からもらうようにしているということです。
それにしてもなんでこんなモットーで生きていけるのか、
その歴史をご紹介しておきましょう。

大学1年のときに免許を取った直後、どうしても車が欲しくなって、
中古車(トヨタ・コロナ)を50万円で購入しました。
しかし、そのローンと保険料と駐車場代と維持費に追われ、
大学5年間はコロナを養うために費やされてしまいました。
当時、新宿に住んでいたんですが、駐車場なんて野ざらしの上、
2台を前後に並べて停める縦長の駐車場で、
もう1台の車(知らない人の)のカギも預かっておき、
自分の車が奥に停まっている場合には、まず相手の車を動かし、
次に自分の車を出し、相手の車を元に戻してからやっと出発できるという、
ありえないくらい不便な駐車場なのに、
毎月35000円もぼったくられていました。
そこから得た教訓は「車なんて金を払って買うもんじゃない!」

塾でバイトしていた頃、講師仲間の先生から三菱ランサーをもらいました。
これが私の「自動車わらしべ長者物語」の始まりです。
今から思うとひどい話ですが、当時駐車場の空きがなくて借りられず、
したがって車庫証明が取れないため、名義変更もできずにいました。
駐車場がないので大学に停めっぱなしにしたり、山奥に放置したり。
そのたびに元の所有者のところに警察から連絡がいき、
申しわけないことをしてしまったと思います。
この車は、お金がなくてオイル交換もしないまま乗り回していたので、
最後は高速道路走行中にエンジンが焼き付いてオシャカになってしまいました。

福島大学に赴任してからすぐにヒザを骨折し、通勤に不便を感じていた頃、
父が亡くなったため、そのお下がりのホンダ・シビックを相続しました。
オートマではなかったためはじめのうち運転に苦しみましたが、
マニュアルのFF車というのは雪道には最適だったと思います。
これでよくスキーに出かけましたが、
末期には窓に隙間ができてしまい、
雪の日など雑巾で水の浸入を防ぎながら運転していました。

その後、弟の同僚の方からトヨタ・カリーナEDを譲り受けました。
外見だけ見てとても気に入っていた車だったので、
もらえると聞いたときは驚喜しました。
(わらしべ長者は基本的に相手の都合に合わせるしかないので、
 自分の好みを優先できない)
そんなに悪い車ではなかったのですが、
外見のカッコ良さに比べて、中は屋根も低く、
意外と居住性が悪かった覚えがあります。
都会ではポケモン電車(車両の外側にポケモンの絵が描いてある)とかが走っていて、
子どもは外から見て大喜びしていますが、
乗ってしまえばただの車両でガッカリするというのと
基本的には同じ構図ではないでしょうか。
この車以来、外見に対するこだわりはまったくなくなりました。

次は弟のお下がりの日産・ローレル。
カリーナEDにガタが来て、そろそろまずいなあと思っていた頃に、
とてもタイミング良くやってきてくれました。
内装もよく、わらしべ長者にとって初めての高級車と言ってよいでしょう。
加速が悪いのと燃費が悪いのがタマにキズですが、このさい贅沢は言えません。

5年前まで乗っていたのは、
大学の同僚のお父様から譲り受けたマツダ・センティアでした。
あまり知ってる人がいないのですが、
ある時期までマツダの最上級車だったようで、
元族だったという代行屋のおニイちゃんはこの車のことに詳しくて、
しきりに加速性能のよさをほめてくれました。
ローレルとセンティアは幸いオシャカにならなかったので、
学生や卒業生に譲りました(もちろんタダで)。
車は天下の回りモノです。

現在乗ってるのはメルセデス・ベンツです。
妻の同僚のお父様から、
東京ではもう乗れなくなってしまうけど廃車にするのは忍びないので、
ぜひもらってやって下さいと頼まれたのです。
300Eターボディーゼルという車種ですが、
石原都知事のせいで東京ではディーゼル車は新たに車検を通せなくなってしまったのです。
というわけでわらしべ長者はとうとうベンツを手に入れてしまいました。
(さすがにタダというのは気が引けたので謝礼としてドンペリを1本差し上げました)

うーん、幸せ者だっ!
幸せは幸せを呼ぶんだなあ。
どんどんクルマがランクアップしていっているじゃないか。
特に自分から探し回っているわけでもないのに、
クルマがいいタイミングでどこかからやってくるんだなあ。
ありがたや、ありがたや。
恵んでくださった皆さんにホント感謝、感謝です。

さて今乗ってるベンツ、93年式にしてすでに走行距離20万キロ超。
いつ何が起こってもおかしくない状態です。
初めての車検のときにミッションの不具合とオイル漏れが指摘されましたが、
修理に70万円かかると言われ、
そのままにしてなんとか車検だけ通してくださいと頼み現在に至っています。
というわけで、余ったクルマ募集中です!
どなたかクルマを譲ってくれませんか?
この流れで言うと次はポルシェかジャガーかという感じですが、
そんな贅沢は申しません。
ボルボでもチェロキーでもプリウスでもOKです。
わらしべ長者に愛の手を!

汝自身を知れ!

2009-04-13 22:06:36 | 幸せの倫理学
看護学校の授業で「哲学の先生に聞いてみたいこと」に
その場で答えるという取り組みを行っています。
そして、授業中にお答えできなかった質問に答えるために、
「哲学・倫理学ファック」というカテゴリーを設けてブログで答えるようにしていますが、
今年度は私個人に関わる質問も多かったので、
それらについては別のカテゴリーの中でも答えていくことにいたします。

看護学校では「哲学の先生に聞いてみたいこと」の前に、
皆さんのモットーを書いてもらっています。
モットーとは「生き方の原則」です。
つまり、自分で自分に対して決めているルールです。
モットーの中には、食べ物を食べる順番とか(「好きな物は最初に食べる」など)、
朝起きて最初にやることなどのように生活に密着したレベルから、
人とのつきあい方の原則(「やられたらやり返す」とか「人にされたくないことはしない」など)のように、
その人の生き方の根幹に関わるようなものまで様々あります。
「汝自身を知れ」というのは哲学の標語のひとつですが、
このように自分のモットーを反省してみて言語化することは、
自分自身を知るための手がかりになりますので、時々考えてみることをお奨めします。

さて、みんなに自分のモットーを考えてもらった後だったからでしょう。
「先生のモットーは何ですか?」という質問がけっこうありました。
もっと限定して「先生が教鞭をとるときのモットーは何ですか?」という質問もありました。
人に考えさせているだけではいけないので、自分でも考えてみることにしましょう。

・美味しい物は最後に食べる
・今晩何を飲むかを決めてから、それを中心に夕食のメニューを考える
・明日できることは今日やらない
・車を運転しているとき、歩行者や自転車に向かってクラクションを鳴らさない
・同様に、歩行者や自転車を危険な目に合わせない
・車を運転するときはできるだけ信号のない道を通る
・車庫入れは一発でキメる(切り返しは極力しない)
・授業ではできるだけ学生の空気を読む(理解しているか、退屈していないか…)
・授業では自分が話す量ではなく、学生が吸収できる量を最大化する
・悩んでもしょうがないことに悩まない
・自分で何とかできることに関してだけ、どうすれば何とかなるのかについて悩む
・自分の問題に関して願掛けや神頼みはしない
・神社、仏閣等でお祈りをするときは世界平和を願う
・他人を(故意に)傷つけたり、踏み台にしたり、犠牲にしたりしない
・自分の強みを活かす(自分の苦手なことで勝負しない)
・他人とは同じ土俵で競わない(自分のニッチな売りを大事にする)
・まわりのみんなをエンパワーするため、ポジティブに振る舞う
・人生を楽しむ

こうやって書き出してみると、いろいろと思いつくもんですね。
そして意外と一貫しているというか、
同じことをいろいろなレベルで言い換えているだけのような気もします。
それにしてもやはりどれもカント的ではないですね。
カントは幸福を倫理学から極力排除しようとした人ですが、
私のモットーはどれも幸福に結びつくものばかりです。
研究仲間からはずっと言われ続けてきたことですが、
やはり私がカントを研究しているのはヘンなのでしょうか?
カント学者が「幸福の倫理学」を語るのはやっぱマズイかなあ?
うーん……。
まいっか。悩んでもしょうがないことに悩むのはやめとこうっ

大掃除その3・自己効力感

2009-04-08 18:24:32 | 幸せの倫理学
フッフッフッ、どうだ、このテーブルを見よっ
これで完全に、書類置き場ではなく、テーブルになったではないかっ。
しかもイスもどうだっ!
大掃除その1の写真ではわかりにくかったかもしれないが、
4つあるイスのうち3つまではやはり書類置き場になっていたのだが、
それらもきっちりイスとして使えるようになったぞっ
これで研究室でゼミができるっっっ
研究室でゼミをするという、ごくごく当たり前のことが、
この2年間はずっとできなかったのだが、
そのことがどれほど私の精神を苦しめていたことか…。
お客さんが来てくれたときに、
ちょっと座ってもらってコーヒーを出すことができないということが、
どれほど屈辱的であったことか…。

それに比べて部屋が片づいた今は、
自己効力感(セルフエフィシェンシー)に満ちています。
この「やればできるんだ」という感覚
朝、大学にやってきてこの整理された研究室に迎えられると、
よーし、今日もやるぞぉという気力が湧いてきます。
未完了をなくしていくことが次へのステップを踏み出す糧となる、
ということはコーチングなどを学んで理論的には知っていたんですが、
実際にこれほど気持の違いを生み出すというのは、
やはり本当にやってみないとなかなか実感できないものです。

皆さんもなにか未完了はありませんか?
それを片づけてみると幸せ度がグッとアップしますよ。
しかもそこからさらに新しいなにかに取り組む元気が出てくるのだから、
幸福はもっともっと大きくなっていくこと間違いなしです。
さあ勇気を出して、長年の未完了に取りかかってみましょう