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まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

大掃除その2・努力の報酬

2009-04-06 18:40:08 | 幸せの倫理学
一念発起して始めた大掃除ですが、
その過程でひとついいことがありました。

研究者という仕事をやっていると、学会や研究会からのお知らせの中に、
返信用ハガキや返信用封筒(切手つき)が入っていたりすることが多いのですが、
私はこんな性格のために、
事前にちゃんと出欠ハガキを出したりするのがとても苦手です。
また、例えば全東北学生競技ダンス連盟からは試合のたびにあいさつ文の執筆を頼まれ、
原稿用紙と返信用封筒が送られてきたりするのですが、
今どき手書きで原稿を書いて封書で送ったりはしないので、
ワープロでささっと書いてメールで送信しちゃったりするわけです。

そうするとせっかく先方から頂戴した返信用ハガキや返信用封筒(切手つき)が
まったく使われないまま残っちゃうわけです。
それをゴミ箱に捨てちゃうのはもったいないので、
机の2番目の引き出しにとりあえず突っ込んでおいたわけです、これまで何年間も。
ほかにも年賀状の書き損じとか、買いすぎて余っちゃったやつとかも、
同じ引き出しに突っ込み続けてきたわけです。
それらが妙にかさばって引き出しがあふれそうになっていたので、
全部まとめて郵便局に持っていき、新しい切手に交換してもらうことにしました。

けっこうな量があったのでそこそこの金額になるのではないかと思っていましたが、
なんと全部で9000円弱
交換手数料が1枚あたり5円かかるのですが、
それを差し引いても8000円オーバーの切手が手に入ってしまいました
うーん、そんなにためていたのか。
各学会の皆さん、いつもいつも出欠ハガキを出さず本当に申しわけありませんでした
皆さまから頂戴した御厚志は研究のためありがたく使わせていただきます。

それにしても、なんだかうれしいぞっ
がんばった人は報われるんだなあ。
さあ、授業が始まっちゃうまでに何とか終わらせなきゃ

大掃除その1・未完了をなくせ!

2009-04-05 20:54:55 | 幸せの倫理学
4月に入ってから研究室の大掃除を始めています。
ここ数年、机もテーブルもイスも書類で埋め尽くされ、
研究室でゼミもできない状態でした。
この3月に卒業した院生とは、
院生室か生協のレストランでしかゼミやったことがなかったと思います。
卒論生の4年生とは、隣の隣の地理学実習室をお借りしてゼミをしてましたね。

ゼミができないどころか、自分の作業も自分の部屋ではできないほどで、
ワークシートの採点やテストの転記なども地理学実習室でやってましたし、
最後はとうとうお昼ご飯を食べるための
ほんの150平方センチメートルほどのスペースもなくなってしまい、
パンを食べるにもやはり地理学実習室を借りる、みたいな生活を送っていました。

こんなことではいけない
というわけで、ここは一念発起して大掃除に取りかかっていますが、
いっこうに片づきません。
私は「捨てられない男」なので、
どうせ掃除するならすべてをきちんと整理分類してどこかにしまいたい、
なんて思ってしまうので、作業はものすごく難航してしまうのです。
同様の理由により他人任せにすることもできません。
ゼミ生が何度か片づけましょうか、と言ってくれましたが、
他人に触らせるわけにはいかないのです。

写真は大掃除初日が終わった段階の状況です。
まだ机やテーブルが覆い尽くされていて表面が見えてきていません。
手前のイスはきれいなもんですが、
よく見るとその向こうのイスに書類が積まれています。
写真には写っていませんが、残りの2つのイスも同様の状態で座ることはできません。

もうかれこれ2年以上、この状態です。
昨年も年度末には片づけようと思ったのですが、
掃除をする時間が取れないまま新学年に突入してしまいました。
コーチングの世界では、何か大きい夢を達成しようと思ったら、それに取りかかる前に、
ずっとやらなきゃやらなきゃと思っていながらやれていないこと
(コーチング用語で「未完了」と呼ぶそうです)を
まず最初に片づけなきゃいけないのだそうです。
私には研究室の掃除というのが大きな未完了として立ちはだかっています。
システム手帳のプロジェクトチェックリストの筆頭に、
「研究室の大掃除」と書かれて重要度「A」となっているにもかかわらず、
自ら立てた予定日をはるかに超えて、あいかわらず未完了のままです。
これをやっつけることができたら、今年は去年以上にいい年になるかもしれません。
さあ、がんばるぞぉ
乞う御期待

MFT(その2)・深川製磁

2009-04-03 20:16:58 | 幸せの倫理学
久しぶりの My Favorite Things 第2弾です。

写真は、うちのお気に入りの食器、深川製磁の器です。
深川製磁というのは佐賀県有田の窯元です。
有田焼の窯元としては今右衛門とか柿右衛門なんかが有名ですが、
それらほどメジャーではないものの、
そこそこ名が通った窯元だと言えるでしょう。
1900年のパリ万博に出品しただとか、
宮内庁御用達であるなどという話よりも、
福島駅前にある福島市唯一のデパートである中合の食器売場の階に、
深川製磁の特設コーナーが設けられている(今右衛門売場の隣)と言えば、
たいがいの福島の人は「おお!」と感心してくれるのではないでしょうか。

深川製磁の食器は今右衛門や柿右衛門ほど高価ではなく、
また源右衛門みたいにワンパターンでもなくて、
豊富なシリーズが揃っているのが気に入っています。
なかにはいかがなものかと思わせる意匠のものもないわけではありませんが、
まあそれも愛嬌というか、チャレンジ精神の賜でしょう。
飾ってあるのはどれも大のお気に入り。
一番上のは古伊万里調の飾り皿なのでふだん使うことはありませんが、
青がきれいな明染付白抜紋のシリーズや、
(このシリーズはティーセットだけでなく大皿や小皿も持ってます)
陶器の絵を染め付けているブルーチャイナのシリーズなどは、
毎日のように食事に使っています。

そんなに高くないとはいってもそこそこの値段しますので、
父の法事で九州に帰ったときに有田の陶器市に出向いて、
二級品を大量に買ってきたりしてるうちに、
たくさん揃ってきました。
食器は使ってナンボなので、料理を作りながら、
これはどの器に盛ろうかなどと考えていると幸せがいや増していきます。
そして、ふだん使いの食器をこうしてディスプレイして眺めるのも、
またちがった趣で楽しいものです。

年度末の雑務に追われてなかなかブログも更新できず、
My Favorite Things のシリーズを始めると宣言したものの、
そのまま放置プレイでしたが、
なんか書いてるだけで幸せになってくるではありませんか。
こういうつらい時こそ自分のお気に入りを思い出すべきでしたね。

My Favorite Things

2009-02-24 18:59:31 | 幸せの倫理学
昨年末からずっと満身創痍でした。
①誕生日に万能ネギをみじん切りしてるときに誤って指もみじん切り
②その2日後、寝違えて首から左肩にかけて痺れるような痛み
③大晦日からかかとがひび割れして、かかとをつけて歩けない
どれも普通なら1週間ぐらいで治っていいようなささいな故障ですが、
歳だからでしょうか、2ヶ月近くずっと悩まされ続けでした。

それは幸せなことを考えるのをサボっていたからではないか、
自分の幸せ力(ポジティブ・シンキング)が弱っていたからではないかと思い至りました。
そこで mixi のほうで始めた年明け第1弾の企画が、
「私のお気に入り My Favorite Things」シリーズです(略してMFT)。
自分の好きなものを列挙していくことによって、
自分自身を楽しい気分にさせていこうという、
他人にとってはまったくもってどうでもいいような自分本位の企画ですが、
これを始めたおかげで上記の3つがみごと完治したので、
やっぱり幸せ力を高めるのは大事だぞと思い、
mixi ネタをこちらにも転載することにいたします。

さて、私のお気に入りとして挙げたいものはいくらでもあるのですが、
「My Favorite Things」と言われて真っ先に思い浮かぶのは、
まさにそのタイトルと同名の曲「My Favorite Things」です。
言わずと知れたミュージカル映画 『サウンド・オブ・ミュージック』 の中で歌われた1曲です。
あの映画を見たのは福島大学に来てから、つまり30代になってからだったと思います。
曲を初めて聴いたのは映画で見るよりも前の大学時代、社交ダンス部に入っていた頃に、
ダンス音楽(クイックステップ用の曲)として、練習や試合のときによく聞いていました。
その後、ジャズを聴くようになってからも、
ジョン・コルトレーンその他の演奏でよく耳にしました。
JR東海の「そうだ 京都、行こう」のCMでずっと使われ続けていますから、
聴いたことがない人はいないでしょう。

だから映画を初めて見たとき、おお、あの曲はこれだったのかぁ、とちょっと感動しました。
しかも、歌詞があるし(それまで聴いていたのはすべてインストゥルメンタル)。
まあ知らなかった私が珍しいのかもしれませんが、
(そういえば「ドレミの歌」がこの映画発祥ということも知りませんでした)
My Favorite Things は、雷を恐がる子どもたちのためにマリア先生が、
自分の好きなものをどんどん思い出していくことによって恐さを吹っ飛ばそう、
と歌ってあげる歌だったのです。
そこで挙げられるお気に入りは、
子猫のひげとかクリーム色の子馬とか、
他愛もないというか、そんな物好きな人ってこの世にいる?
と思っちゃうようなわけのわからない物ばかりなんですが、
次のサビの一節は、まさにポジティブ・シンキングじゃありませんか。

When the dog bites, when the bee stings
犬が噛んだり蜂が刺したり
When I'm feeling sad
悲しい気持ちになるときは
I simply remember my favorite things
私はただ 自分のお気に入りを思い出す
And then I don't feel so bad
そうすれば そんなにつらい気分じゃなくなる
http://www.uranus.dti.ne.jp/~fauchon7/my-favorite-things.htmより)

というわけで、曲といい歌詞といい、本当に私のお気に入りの1曲です。
そしてこの歌詞にならって、
包丁で指を切ったり首を寝違えたり何かイヤなことがあったときは、
自分のお気に入りを思い出して、それらを吹っ飛ばしてしまおうと思うのです。
でもイヤなことがあったときというのは、なかなかそういう気分になれないし、
自分の好きなものも急には思い出せなかったりするものです。
だから、これからここにいくつか自分のお気に入りを発表していき、
いつでも思い出せるように自分の心に焼き付けておこうと思うのです。
皆さんのお気に入りは何ですか?
何かイヤなことがあったときにこそ自分の大好きなものをすぐに思い出せるよう、
今のうちに備えておいたほうがいいですよ。

ありがたい話

2008-10-10 16:53:38 | 幸せの倫理学
よく授業中に話す小ネタの中でも、一番評判のよいというか、
わりとみんなが覚えていてくれる話が、この「ありがたい話」なので、
それを披露しましょう。

①人間は「本能の壊れた動物」である。

他の動物に比して人間の赤ちゃんはまったくの無能状態で生まれてきます。
魚の赤ちゃんは孵化した瞬間に泳ぎ始めますし、
馬の赤ちゃんも生まれた瞬間に立ち上がります。
それに比べて人間の赤ちゃんはまったく何もできず、
親が面倒をみてくれなかったらほんの数日も生き延びることができないでしょう。
人間は基本的な本能が壊れています。
生存本能すら壊れているので、人間は自殺してしまうこともできるし、
種の保存本能も壊れてしまっているので、
性行動(セクシャリティ)と生殖活動(子どもをつくる)が分離してしまっています。

②人間にとって当たり前なことは何もない。

本能が壊れているということは、つまり自然によって決定されていないということです。
あたかも自然法則によって定められたことであるかのように思えることも、
実は人間にとってぜんぜん当たり前のことではないのです。
「人間なんだから○○して当然」とふつう思われていることも、
実は、文化として人々がそう決めたというだけの話であって、
自然によって決定されているわけではないのです。
ただ生きていくということですら、人間にとって当たり前ではありません。
むしろ日本人は百年ちょっと前には、
「(場合によっては)自殺することが当たり前」という切腹文化を作りあげていましたし、
60年ぐらい前には、神風特攻隊という文化も作り出しました。
自分の命を守るということですら、
人間にとっては自然によって定められた当たり前のことではなく、
文化によっていくらでも変更可能なことなのです。

③人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことは何もない。

自分が生きていくということですら人間にとって当たり前ではないのですから、
ましてや、人間が他人のためにしてあげることで当たり前のことなんて何ひとつありません。
もしもある人が誰かに何かをしてあげたのだとしたら、
それは自然法則に従って当たり前のこととして行ったのではなくて、
意志の力でやってあげようと思って自発的に意図的にしてあげたことです。
母性本能とか父性本能という言葉がありますが、
人間の場合、親に子どもの面倒をみるという本能が備わっているわけではありません。
ですから、たいていの親は子どもの世話をしますが(それはひとえに文化のおかげ)、
中には子どもを捨ててしまったり、育児を放棄してしまったり、
さらには自分の子どもに虐待を加えたり、
そして殺してしまったりする親も存在するのです。
親が子どもの面倒をみることすら本能的にやっていることではないのですから、
人間が他人のためにすることで自然な当たり前のことなんて何もありません。

④他人のために何かをしてあげるというのは有ることが難しいこと。

したがって、誰かが他の人のために何かをしてあげたとするならば、
それはよくある当たり前のことなんかではまったくなく、
めったに起こることのない、「有ることが難しいこと」、
すなわち、「有り難い(ありがたい)こと」なのです。

⑤「有り難い」から「ありがとう」

だからそれに対して私たちは「ありがとう」と言うのです。
誰かが何かをしてくれたら、やってくれて当然じゃん、ではなく、
それはとても「有り難い」ことなのだということは知っておいたほうがいいでしょう。
ご両親がお金を稼いできてご飯を作ってくれ学費を払ってくれたとしたら、
それはとても有り難いことですし、
友だちが朝あいさつしてくれたり、自分の話ににっこり笑ってくれたりしたら、
それはとても有り難いことなのです。
コンビニの店員さんがマニュアル通りに「いらっしゃいませ」と言ってくれることですら、
それはやはり自然本能でやっていることではなくて、有ることが難しいことなのです。
そう思えば、日々のほんの小さなすべてのことに対して、
感謝の気持ちが湧き上がってくるのではないでしょうか。
「ありがとう」という言葉はそういう気持ちが込められた、
とてもいい日本語だと思います。
だから私は、毎日できるだけたくさん「ありがとう」と言うようにしています。
人との関係において、
やってくれて当たり前、ああしてくれて当たり前、こうしてくれて当たり前、
という感覚を少しずつ減らしていき、
むしろ、やってくれないのが当たり前、思い通りにやってくれなくても当たり前、
もしも自分のためにちょっとでも何かやってくれたら「ありがとう」、
こんなことまで、あんなことまでやってくれたら「本当にありがとう」、
そういう気持ちで生きていけると、とっても幸せな気分になれますよ。

以上です。
どうです?「ありがたい話」だったでしょ。

幸福になる方法

2008-09-10 23:36:08 | 幸せの倫理学
私は大学のときに幸福になる方法に気づき、それ以後、ずっと幸福です。
私が悟りを開いてしまった「幸福になる方法」を大公開してしまいましょう。

まずは幸福の定義から始めましょう。
幸福とは「自らの欲求・欲望が満たされて、自分の状態に満足していること」です。
哲学史上いろいろな定義がありましたが、
これが一番無難な定義だろうと思います。

さて、ホッブズとかを勉強した人はわかると思いますし、
まあそんな難しいことを知らなくても自分の経験に照らしてみればわかると思いますが、
人間の欲求・欲望はほっておくとどんどん肥大化していきがちです。
最初は空腹さえ満たせればよかったものが、
だんだん、より美味しいものを求めていくようになり、
挙げ句の果てに海原雄山になってしまったり、とか。
一度ブランド品に手を出すと、
より高いもの、よりレアなものが欲しくなっていく、とか。
そして、欲求・欲望が肥大化すればするほど、
それが満たされる確率は低くなり、
人間は幸福ではいられなくなってしまうのです。

だから幸福になるためにはまず第一に、
欲求・欲望をできる限り小さく小さく抑えておく必要があるのです。
いつでもちっちゃいことに満足できるよう心を整えておくことが
幸せの秘訣なのです。

スワローズファンはスワローズが日本一になれなくても、
リーグ優勝もできなくても、
それどころかその日の試合に勝てなくても、
1点でもいいから点を入れてくれさえすれば、
東京音頭を踊って幸せな気分にひたることができます。
あの傘を振って東京音頭を歌う応援には、
そういう幸せになるための秘訣が隠されているのです。

私はサッカーを見るときは、
応援してるチームが勝つことを望んでしまうと不幸せになる確率が高いので、
どっちのチームでもいいから、
ゴールシーンを見られたら喜ぼうと思って見ています。
こんなふうにふだんから欲求・欲望を小さくしておくと、
その欲求・欲望が満たされる可能性が高まるので、幸せになりやすくなるのです。

これが幸せになるための第一の秘訣です。
第二の秘訣はまた今度。

カント研究者が語る「幸せの倫理学」

2008-09-09 20:26:26 | 幸せの倫理学
「ドライブ人生論」がまだ3つくらいしか書きためられていませんが、
臆することなく新しいカテゴリーを立ち上げてしまいます。
名づけて「幸せの倫理学」。

「幸福の倫理学」にしようかなとも思ったんですが、
どこぞの宗教団体と似てしまうので漢語ではなく大和言葉にしてみました。
「幸せ」でも「幸福」でも意味はいっしょです。

さて、カント研究者である私が「幸せ(=幸福)」について論じてしまうというのは、
けっこう研究者生命を危険に晒すことであります。
カントは「義務論」とか「厳格主義」と呼ばれる倫理学を打ち樹てた人なので、
一般に、幸福を排除しようとした倫理学者であると目されているのです。
「排除」というのは言い過ぎだと思いますが、
しかし、出発点においてカントが幸福を「度外視」しようとしていたのは確かでしょう。
そんなカントを研究している私が、
「幸せ(=幸福)」を正面から取り上げるというのは、
カント研究仲間から「裏切り者」と後ろ指さされかねないことなのです。

自分の中でも、カントを研究する自分と、幸福を論じる自分が、
どれだけ整合的に統合可能なのかはっきりしていない部分もあるのですが、
どちらも自分にとって重要なテーマであることは確かなので、
自分のカンに素直に従いつつ、書きたいことを書いていこうと思っています。

伝えたいことはただひとつ。
「みんな幸せになっていいんだよ!」

すでに言い古されたことではあります。
いろいろなフレーズが出回っています。

「幸せになってね。私祈ってます」(園まり)

「幸せになりなさい。あなたはもっと自分を大切にしてもいい。」(くらもちふさこ)

まあ真理は不可避的に(=どうしたって)普遍性を帯びるものだから、
倫理学者は何も目新しいことを言い立てる必要はないはずです。
昔から言われ続けている大事なことを、
自分のことばでもう一度言えばいいだけのことではないでしょうか。
そのためにこのカテゴリーを立ち上げました。

みんな幸せになっていいんだよ

うう、不幸せ

2007-11-11 20:16:44 | 幸せの倫理学
ベイシアまでサッポロ一番ソース焼きそばを買いにきたのですが、売ってませんでした。置いてあったりなかったりというのが一番始末悪いですね。なまじ期待してしまうと裏切られたときにイタイ。こないだ大量に置いてあったので、ついあって当たり前と思ってしまったのが不覚でした。ソース焼きそばを食べられる程度で幸せになれるなんて、なんて自分は欲求・欲望が小さくて素晴らしいんだろうと自負していたばりだったのに、これくらいでへこたれられるなんてまだまだ修行が足りんっ!