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まさおさまの 何でも倫理学

日々のささいなことから世界平和まで、何でも倫理学的に語ってしまいます。

地域生活文化クラス ・ 2年次学生研修

2010-12-06 18:07:13 | 幸せの倫理学
この土日、私が担当している福島大学・人間発達文化学類・文化探究専攻・地域生活文化クラスの
2年生たちを引き連れて、合宿研修に行ってまいりました。
宿泊先は岳温泉にある 「あだたらふれあいセンター」 です。
土日でも6,500円と格安で泊まれるのですが、
さらに福大生は1,500円も割り引いてもらえるので、
学生を連れて行くには手頃な宿だと思います。
露天風呂はありませんがちゃんと温泉ですし、研修室もきれいだし、
夕食もけっこう充実していますし、送迎バスで送ってもらえますし、学生たちからも好評でした。

土曜日の12時半に大学に集合して出発する予定でしたが、
土曜日はものすごい強風が吹いていて、JRが軒並み運休していて、
出発前から大パニックです。
5名が福島駅に、1名が郡山駅に足止めを食らい、復旧の目途が立ちません。
困った挙げ句、反対方向になってしまいますが、
福島駅に寄って5名を拾っていくことにしました。
郡山の1名はどうしようもなく、親御さんにクルマで現地まで送っていただきます。
なんだか最初から疲れ切ってしまいましたが、
予定よりも1時間以上遅れて、やっと全員が現地に集まることができました。

さて、本来、2年次学生研修は学生主導で計画を立てることになっているのですが、
今年は初めての試みとして、私のほうで完璧にプランを立てて実行してしまいました。
学生に任せておくと、ただ宴会をやっておしまいということになりがちだからです。
まあ、それでもいいのですが、今年の私のクラスでは、
クラス全員必修の 「基礎演習」 という授業で、
社会に出るまでに身につけておきたい大人の力の育成をテーマの1つにしていますので、
せっかく宿泊して2日間費やすのですから、
そのためのワークショップの時間に当てようと考えたのです。
実は、人間発達文化学類になって以来、1年生の合宿研修では、
プロの講師の方を頼んでワークショップをやってもらっていました。
企業で人事担当の役員を経験し、ビジネス・コーチングの世界でも名の知れた方を、
特別のコネでお招きし、特別のワークショップのプログラムを組んでもらっているのです。
今回は、初めて2年生の合宿でもお願いすることにいたしました。
というか実は 「基礎演習」 の授業でもすでに2回お呼びしています。
1回目は 「自分を大切にする」 ということでプレゼンテーションをしていただきました。
2回目は 「自分と他人はちがう」 というテーマで、ストレングス・ファインダーの結果を使って、
講義やワークショップをやっていただきました。
今回の合宿はその集大成で、
「自分も相手も大切にして、お互いの可能性を拓くコミュニケーションスキル」 について、
みっちり2日かけてワークショップをやっていただこうという趣向です。

まず第1日目は、自分の中の 「ねばならない」 にどんなものがあるかを探るところから開始です。
それをお互いに比べあって、自分と他人の 「ねばならない」 が全然違うことにも気づいてもらいます。
NLPの知見も織り交ぜながら、例えば 「食べ過ぎてはならない」 というプログラムを持っていると、
いくらそう思っていても食べ過ぎからは解放されず、むしろよけいに食べ過ぎてしまうこと、
そして、食べ過ぎてしまってから 「なんて自分はダメなんだろう」 と自分を責め立ててしまうというように、
いつも自分を追いつめる生き方をするようになってしまうということが示されました。
そこから、自分を解放し、自分の可能性を引き出すためのスキルの実習に移り、
まず、怖いとか悲しいとかの自分の感情をしっかり認めてあげた上で、
次に可能性を拓くような問いを自分に発してあげるという練習を、ケーススタディを用いて行いました。
初日後半は、相手を大切にするとはどういうことかのワークショップです。
相手を大切にするとは、相手の言うことを全面的に受け容れてしまうことではなく、
じっくりと相手の言うことを聞いて、きちんと相手のことを理解してあげることです。
理解することと同意することは違うのです。
相手が自分と異なる主張をもっていたとしても、
相手がなぜそのように考えるのかそう言い張るのか、
その背景となる相手の価値観や相手の 「ねばならない」 までさかのぼって理解してあげること、
別にその主張に同意しなくとも、ちゃんと理解してあげることが相手を大切にすることです。
そのために相手にたくさん話してもらえるようにするにはどうしたらいいか、
アイスブレークやペーシングや傾聴、承認といったコミュニケーションスキルについて、
デモンストレーションで見せてもらいながら学んでいきました。
普通の人は、自分の言いたいことを我慢して相手に合わせることが、
相手を大切にすることだと勘違いしていますので、
これだと我慢した挙げ句にぶち切れるということになり、
相手もそれではなぜ切れられてしまったのかまったくわからず、
建設的な人間関係を築くことができません。
これでは自分のことも相手のことも大切にしていないよね、
ということを実感したところで1日目のワークショップは終了しました。

2日目は、素直に自分を伝える 「アサーティブ・コミュニケーション」 の具体的な方法について、
ケーススタディで学んでいきました。
「客観的事実」 と 「自分の解釈・感想」 と 「自分の要望」 をきちんと分けて伝えること、
I メッセージと Youメッセージと We メッセージの使い分けなどを学んだ上で、
ある敵対的状況において、たんに相手とどんなふうに会話を進めたらいいかだけではなく、
具体的にどういう言葉を使って伝えるか、グループでちゃんとセリフまで考えて発表しました。
最後に相手から可能性を引き出してあげるために、
クローズド・クエスチョンとオープン・クエスチョンをどう使ったらいいかを学び、
2日間で学んだことを総動員しながら、1対1で話し合うロールプレイを行い、
2日間の学びを振り返りシートに記入して合宿研修を終えました。

今の大学でこういうことを学ぶ機会はほとんどないと思いますが、
(昨年私の 「戦争と平和の倫理学」 でやった非暴力コミュニケーションは、
 若干これに近いものかもしれませんが、実際の練習まではほとんどできませんでした)
どこかの段階で学んでおくべきことだろうと思っています。
幸せに生きていくためにはこういうことができたほうがいいし、
今すぐできないとしても、こういうことを知っているというだけでも、
人生はだいぶ変わってくるだろうと思います。
地域生活文化クラスの皆さん、学んだことをぜひ実生活に活かしてみてください。
講師の木村先生、学生相手に丁寧なワークショップをしてくださりありがとうございました。
みんなの習得具合に応じて臨機応変に課題や流れを変えていくところは、
たいへんに参考になりました (自分ではマネできないと思いますが…)。
また、3年生なのにオリターとして参加してくれた学生さんにも感謝申し上げます。
波乱含みで始まった合宿研修でしたが、最後は快晴の中、
全員元気に (つぶれてしまう人もなく) 無事終えることができよかったです。
みんなの振り返りシートの内容はまた別の機会にご報告することにいたします。

Q.FFシリーズではどれが一番好きですか?

2010-10-23 11:23:19 | 幸せの倫理学
「Q.趣味は何ですか?」 という質問に対して、
そのひとつとしてRPG (ロールプレイングゲーム) を挙げ、
ドラクエ (ドラゴンクエスト) や FF (ファイナルファンタジー) をよくやってます、
とお答えしたところ頂戴した追加質問です。
正確には次のような2問でした。
 
「FFシリーズではどれが一番好きですか?
 好きなキャラクターは?」

もう完全に倫理学なんてどうでもよくなってしまっているようですが、
まあそれは想定の範囲内ですので、ちゃんとお答えすることにしましょう。

A-1.一番好きなのはFFⅡです。
    FFⅦとFFⅩもいい勝負で相当お気に入りです。

どれが一番かを決めるというのは難しいですね。
特に昔のやつは記憶が薄れてしまっていますし、
そもそも、ファミコンからプレステへと移行しながら、
どんどんハードが扱えるデータ容量自体が飛躍的に増大してきていますので、
昔のものと今のものを単純に比較することはできません。
なので純粋に並列的に比較したわけではなく、
印象に残っているインパクトの強さということで判断してみました。

いつだか申し上げたように、近年では自分へのごほうびとして、
なにか一仕事をやりとげたときにドラクエかFFを買ってあげるようにしていますので、
発売と同時に買ってプレイしているわけではありません。
で、論文を書くというのはけっこう時間のかかる仕事ですし、
特にここ数年、大きな仕事を抱えていて、それがなかなか終わる気配がないので、
なかなかRPGをやれずにいるという状態です。
現在までのところ、ドラクエはⅧまで、FFはⅩ-2までしかやっていません。
その中での比較ということでお聞きください。

FFシリーズでどれが一番好きか?
うーん、いろんな要素があるので本当に決めがたいですね。
FFⅦとFFⅩはシリーズ中、画期的なシステムが新たに導入された作品だったと思います。
FFⅦはプレステに移行した第1作で、
RPGが二次元から三次元 (3DCG) になったのでものすごく衝撃を受けました。
ストーリーも面白かったし、ミニゲームがたくさん用意されていたのも楽しくて、
相当やりこんだ記憶があります。
ただし、初めての3D作品ということでいろいろとプレイしにくい不備がありましたし、
武器にマテリアを装着するというシステムがけっこう鬱陶しかった記憶があります。
FFⅩはプレステ2に移行した最初の作品で、
キャラクターに表情がついたり、喋るようになって、
RPGというよりはCG映画を見ているようでした。
ストーリーもまるで映画のようで、主人公たちのラブストーリーがあり、
最後の悲劇を予感させながら、『ソフィーの世界』 のような大どんでん返しの結末を迎えるなど、
ゲームでこんなのあり?と思わせるくらい驚かされました。
しかし、スフィア盤の上を移動しながら成長していくというシステムは、
最初のうちは夢中になっていろいろ考えながらすごろくを楽しんでいましたが、
戦ってはいちいちすごろくしなきゃいけないのがだんだん面倒になってきました。
武器を改造するためにアイテムを集めなきゃいけないのも大変で、
ダークマターを手に入れるために訓練場でアースイーターと何度戦ったかわかりません。

どちらもナンバー1候補でしたが、未だに印象に残っているということで、
両者を抑えてFFⅡに軍配を上げました。
とはいえ、あまりに昔のことだったので、ⅡだったかⅢだったか曖昧で、
今回お答えするためにウィキペディアで調べてみなければなりませんでした。
何が記憶に残っているかというと、初めのうちはメインキャラクターの4人が揃っておらず、
その代わりに短期間同行してくれるサブキャラクターが何人かいて、
戦闘にも参加してくれるというシステムになっていたことです。
彼らは能力値も高く、ゲーム序盤の戦いで大いにメインキャラを助けてくれるのですが、
そのうちの1人 (調べてみたらヨーゼフ) が、ミッションクリア後、
大岩のトラップからみんなを救うために犠牲になって命を落としてしまうのです。
これは衝撃的でしたね。
それも含めて、もうよく思い出せませんが、
出会いと別れを繰り返すストーリーが面白かったという記憶が残っているのです。
今プレイしてみるとどう思うかわかりませんが、
思い出は美化されるということを承知の上で、FFⅡを一番に選ぶことにしました。

2問目の好きなキャラということですが、
昔のものでは名前も自由につけられたし、それほどキャラの個性がなかったような気がします。
FFⅡだと、今挙げたヨーゼフくらいの記憶しかありません。
メインキャラは初期設定のままやったのか、
イケヤマとかフルタみたいな名前をつけたんだったか思い出せません。
キャラで記憶に残っているのは、FFⅦのクラウドと、
一番最近にやったFFⅩの面々くらいでしょう。
うーん、その中で誰が好きか?

A-2.好きなキャラは、FFⅩのティーダとユウナでしょうか。

それ以外にもFFⅩには魅力的なキャラがたくさん登場していて、
アーロンやルールー、リュックなども捨てがたいですね。
しかし、先にも述べたようにRPGとしては初と言っていいくらいの、
本格的ラブストーリーを演じてくれましたし、
口笛を吹いたりなどの名シーンも数々ありましたので、
この2人をベストキャラに選んでおきたいと思います。
それにしても、来年には50歳になろうかというのに、
こんなに熱くFFのことを語っていていいのでしょうか?
当然のことながら、倫理学者がみんなこうだとは思わないであげてください。
RPG好きの倫理学者なんて他に聞いたことがありませんから、たぶん私くらいでしょう。
頼むから内田先生とかには内緒にしておいてください。

Q.自分のことを一言でいうとどんなですか?

2010-10-20 07:53:24 | 幸せの倫理学
A.キリギリスです。

今回は珍しく結論から述べてみました。
「一言でいうと」 という要望に対して、端的に短くお答えしてみましたがいかがでしょうか。
この質問は、代表質問に選ばれていた、
「Q.先生自身、自分自身をどうとらえているのか?」 と同じだと思いますので、
お答えしている内容も、あのときの答えとほぼ変わりません。
たしかあのときは 「幸せな人間」 とか 「安定している人間」 と答えたように覚えています。
それを一言でまとめてみると、「アリとキリギリス」 に出てくる、
キリギリスに譬えるのがふさわしいのではないかと考えました。

私のモットーの中には、「明日できることは今日やらない」 というのがあります。
「明日できることは今日やらない」 というとなんとなくカッコよく聞こえるかもしれませんが、
モットーというよりも 「明日できることは今日やれない」 性格なんだろうと思います。
大事なことも何もかもすべて先延ばしにしてしまいます。
日頃からコツコツと計画的に物事を進めておくということができません。
それで毎回、締め切り直前にあたふたしてしまうことになるのですが、
それでもたいてい何とかなってしまいますので、
最近ではもう自覚的にあらかじめ頑張ろうと思うのはやめようと開き直りました。

というわけで私はアリではなくキリギリスなのです。
最近、心筋梗塞で入院した友人からは、
「明日できることは今日やらない」 主義の人間は心筋梗塞になったりはしないらしい、
とお褒め (揶揄?) の言葉をいただきました。
昨年、ベテランナースの方々に講義をしたときに、
自分は最期はガンで、自分の死期を知ったうえで死にたいという話をしたのですが、
「先生みたいな性格の人はガンにはなれませんよ」 と一笑に付されてしまいました。
うーん、お気楽な人間にはカッコいい最期は望めないのですね。
ある方からは 「人生を楽しむ達人」 と評されたこともありますが、
いつまでも健康に明るく楽しく生きていきたいと思います。

おっと、今日は午後から中高の先生たちの研修会で講義をしなきゃいけないんだった。
まだ何にも準備してないや。
一度、大学に行って大至急、印刷しなきゃ。
それでは行ってきまーす

Q.もしどうしようもなく落ち込んだらどうしますか?

2010-10-15 17:37:09 | 幸せの倫理学
うーん、この質問に答えるのは難しいなあ。
似たような質問で、こんな質問もありました。

Q.ストレス解消法はありますか?

こちらの問いなら簡単に答えられます。

A.ありません。
  ストレスを感じることはほとんどないからです。

そうなんです。
私、ストレスがないんです。
だからストレス解消する必要がないんです。
第1回目の授業のときに、若い頃に幸福になる方法を知ってしまったと言いましたね。
その方法は、下記のブログに書いてあります。

「幸福になる方法」
「幸福になる方法 (その2)」

この2つを1つにまとめるならば、「受け止め方のゲーム」 と言えるかもしれません。
受け止め方を自分でコントロールできるので、何が起こってもストレスを感じずにすむのです。
特に悪いこと、イヤなことが起こったときに人はパニックに陥りがちですが、
そういうとき私は、「身代わり理論」「芸の肥やし理論」 を使って、
それらを右から左へ受け流すことができるのです。
私のモットーのなかには、「悩んでもしょうがないことに悩まない」 というのがあります。
こういう人間はどうしようもなく落ち込んだりすることはありませんよね。

しかし、タイトルにかかげた問いは 「もしも」 という仮定つきの質問ですので、
どうしようもく落ち込んでしまった場合のことを想像してお答えしなければなりません。
「落ち込むことなんてありません」 では仮定つきの質問に対する解答にはならないでしょう。
というわけで、どうしようもなく落ち込んでしまった場合を想像してみるのですが、
うーん、どうするんだろうなあ?
こういう想像って難しいなあ。

ええっと、どうしようもなく落ち込むということではないのですが、
私もたまに 「プチうつ」 っぽい感じになることがあります。
やらなきゃいけない仕事があるのに、何もやる気がしなくなって、
大学にも行かず、家の中でも何もできなくなってしまうということが、たまーに起こるのです。
そういうときはどうするのか、というのがご質問に対する答えに一番近いのかもしれません。
で、お答えはこうなります。

A.ボーッとソファに横になってテレビを見て過ごします。

本当に週末中ずーっとひたすらソファでテレビを見続けるなんてことがたまにあります。
一番ひどかったのは、昨年末にずっと 「ダメな過ごし方」 をしたときでした。
自分でも自己嫌悪に陥ってしまうくらい 「ダメな過ごし方」 でした。
まあでも、それを数日やればそれでプチうつを脱することができますので、
どうしようもなく落ち込んだときは、それを1ヶ月か半年くらいやれば、
立ち直れるんじゃないでしょうかね。
どうしようもなく落ち込んでいたらそんなもんじゃなすまないのかもしれませんが、
まあそういうことを経験したことがないので、想像の範囲ではこの程度のお答えしかできません。
うーん、そんな状態には陥りたくないもんだなあ。
そうならないように 「幸福になる方法」 を日々実践していこうと思います。

研究室復活!

2010-09-13 17:47:28 | 幸せの倫理学
昨年の夏休みに 「エントロピー増大」 という記事を書きました。
その前の春休みに研究室の大掃除をして自己効力感が上がっていたのだけれど、
前期のあいだにそれが崩壊してしまい、なんとかしないとマズイという内容でした。
そのときの写真がこれです。



けっきょくあの夏休みのあいだにこれを片づけることはできないまま、
後期に突入してしまいました。
後期は木曜日に授業が3連チャンであり、
講義から戻ってくるととりあえず荷物をテーブルの上に置き、
休む間もなく次の授業に出かけるということをしなければならず、1日終わるともうグッタリして、
しっちゃかめっちゃかになったテーブルや机の上を片づけようという気にもならないまま、
重たい身体を引きずるようにして帰るということを繰り返していましたので、
エントロピーはさらに増大していきました。
特に後期は、「文化創造論」、「教養演習」、「公民科授業研究」 という、
いわゆる講義型ではなく、学生に課題を与えていろいろなことをやらせるタイプの授業が多いので、
必要な器材や資料、学生の提出物などが多く、なかなか片付けることができないという状況でした。
そのため研究室とは名ばかりで、
ほんの1~3名相手の卒論・修論指導もこの部屋のテーブルで行うことはできず、
論文を書くために机の上に各種文献を広げることはおろか、試験の採点をするスペースすらなくて、
地理学実習室や6階の空き部屋を転々としながらなんとか授業と仕事をこなすという毎日でした。
何度も片付けようとしたことはありましたが、エントロピー増大のスピードには抗いがたく、
とうとうその後の冬休みにも春休みにも掃除が成功することはなく、
うちのゼミ生たちはまるまる1年間、研究室でゼミをやることができずに、
ずっとボヘミアン生活を強いられていました。
今年の夏休みに突入したときには、テーブルや机の上ばかりでなく、
下にもモノがあふれ返り、こんな感じになっていました。

    

というわけで今年の夏の最重点課題は、研究室の掃除だったのです。
翻訳やら論文執筆やらホントはやるべき仕事が山積していますが、
研究室で研究できないのではお話になりませんので、
まずは環境整備から行っていかなければなりません。
まあ、はっきり言って今年の夏はほぼこの仕事に費やしたと言っても過言ではないでしょう。
途中、締切のあった論文執筆や採点はすべて自宅で行いました。
研究室ではもっぱら研究ではなく掃除をしていたのです。
しかし、ほとんど1年半分の堆積物ですから撤去作業は難航し、
遅々として進まないまま、何度も途中であきらめかけました。
そこをなんとか意志の力を振り絞って頑張り続け、
やっとここまで片付けることができたのです。

    

おおっ、素晴らしいっ
まだまだ完全とは言えませんが、
久しぶりにテーブルの木目や、机のグレーの作業面を見ることができました。
これで思いっきり研究や学生指導に打ち込むことができます。
ウウッ、うれしい
ぼくだってやればできるじゃないかっ。
問題は、また後期の授業が始まったときに、魔の木曜日をどうやって乗り切るかですね。
これで安心してしまうのではなく、ここからがエントロピーとの闘いの始まりです。
4年生やM2の子たちが卒業するまでこの部屋でゼミをやれるよう、
なんとかがんばっていきたいと思います。

『ニーチェの言葉』

2010-08-31 08:38:41 | 幸せの倫理学
『超訳 ニーチェの言葉』 という本がとても売れているらしいですね。
ニーチェの様々な著作の中から名言を取ってきて、
原文を逐語訳するのではなく、
意味を取りながらざっくりと現代日本人にわかりやすいように超訳した上で、
1テーマ1ページ以内にまとめてある本です。
とにかく読みやすいです。
特に、編訳者の白取春彦さんは、
「ニーチェはニヒリズムの哲学者ではない。むしろ、ニヒリズムを批判したのがニーチェだった。」
と解していますので、この本のキャッチコピーは、
「世に知られることのなかった ”明るいニーチェ” がここにある」 となっています。
例えばこんな感じです。

「014 解釈のジレンマ

 物事はいかようにも解釈できる。
 良い物事、悪い物事が初めからあるのではない。良いとするのも悪いとするのも、役立つとか役立たないとか、素晴らしいとか醜悪だとか、いかようであろうとも、解釈するのは結局は自分なのだ。
 しかし、どう解釈しようとも、そのときからその解釈の中に自分を差し込むことになるのを知っておこう。つまり、解釈にとらわれ、その解釈ができるような視点からのみ物事を見てしまうようになるのだ。
 つまり、解釈や、そこから生まれる価値判断が自分をきつく縛るというわけだ。しかし、解釈せずには物事の始末がつけられない。ここに、人生を読み解いていくことのジレンマがある。
                                        『たわむれ、たばかり、意趣ばらし』」


「025 喜び方がまだ足りない

 もっと喜ぼう。ちょっといいことがあっただけでも、うんと喜ぼう。喜ぶことは気持ちいいし、体の免疫力だって上がる。
 恥ずかしがらず、我慢せず、遠慮せず、喜ぼう。笑おう。にこにこしよう。素直な気持ちになって、子どものように喜ぼう。
 喜べば、くだらないことを忘れることができる。他人への憎悪や憎しみも薄くなっていく。周囲の人々も嬉しくなるほどに喜ぼう。
 喜ぼう。この人生、もっと喜ぼう。喜び、嬉しがって生きよう。
                                         『ツァラトゥストラはかく語りき』」

番号とタイトルは訳者がつけたものです。
全体にこの手の箴言ばかりが選ばれていますので、まるで私の 「幸せの倫理学」 みたいです。
いや、それはいくらなんでもおこがましいでしょうか?
でも014番なんてまるで 「受け止め方のゲーム」 と同じ話ですし、
025番は 「幸せになる方法」 の話ではありませんか。
うーん、ニーチェってこんなにポジティブな人だったんだ。
たしかに 「世に知られることのなかった ”明るいニーチェ” がここにある」 という感じです。
ニーチェを本格的に読む気はないけれど、
「明るいニーチェ」 には触れてみたいという方にはうってつけの本だろうと思います。
またニーチェは抜きにして、人生訓として読むというのもありだろうと思います。

ところでこの本の後半のほうに、こんな文章がありました。
これを読んで私の頭はグルグルになってしまったのです。

「182 本を読んでも

 本を読んだとしても、最悪の読者にだけはならないように。最悪の読者とは、略奪をくり返す兵士のような連中のことだ。
 つまり彼らは、何かめぼしいものはないかと探す泥棒の眼で本のあちらこちらを適当に読み散らし、やがて本の中から自分につごうのいいもの、今の自分に使えるようなもの、役に立つ道具になりそうなものだけを取り出して盗むのだ。
 そして、彼らが盗んだもののみ (彼らがなんとか理解できるものだけ) を、あたかもその本の中身のすべてであるというように大声で言ってはばからない。そのせいで、その本を結局はまったく別物のようにしてしまうばかりか、さらにはその本の全体と著者を汚してしまうのだ。
                                             『さまざまな意見と箴言』」

うーん。
この本がやってることってまさに 「最悪の読者」 の所業ではないのでしょうか?
「世に知られることのなかった ”明るいニーチェ”」 を顕在化させることができたのは、
「何かめぼしいもの」、「自分につごうのいいもの」 を、
「本のあちらこちら」 から 「略奪」 してきたからではないのでしょうか?
私には 「遂行的矛盾」 に見えてしかたないのですが…。
それにしても編訳者はどういうつもりでこの一節を採用することにしたのでしょうか?
素朴に、なかなかいい言葉だなあと感心したので、
「知について」 の章にふさわしい一節として取り上げたのでしょうか?
それとも、つごうのいいところだけの切り貼りじゃないかという批判が出ることを先読みして、
いやいやそういう批判が出るのは百も承知の上ですよ、この本はそんなものではないんですよ、
と余裕をかましてこの一節を引用しておいたのでしょうか?
うーん、謎だ。
まあ、私は読書というのは、
「今の自分に使えるようなもの、役に立つ道具になりそうなもの」 を受け取ることができれば、
とりあえずはそれでOK (それがすべてではないが…) と思っていますので、
別にこの本の編集方針に異議を唱えるつもりはありません。
(私の編集方針に従えば182番は採用しなかったな。)
とにかく、本当のニーチェを知りたいというのでないかぎり、
明るく力強く生きていくための人生訓を求めている方にはオススメの本だと言えるでしょう。

梅雨明けっ!

2010-07-20 12:32:03 | 幸せの倫理学
今日はむちゃくちゃいい天気ですっ

梅雨は明けたのかなと思って調べてみたところ

福島あたりも、一昨日の7月18日にはすでに明けていたようです。

この連休はずっと家にこもって 『HEROES』 を見ていたので、

梅雨明けの情報を知らずにいました。

いかん、いかん。

なんせ去年は、東北地方はとうとう梅雨明けしないまま、

夏らしい夏も来ず、梅雨からそのまま秋に入ってしまった感じだったので、

なんだか2年ぶりの待ちわびた夏という感じがします。

私は 「夏の似合わない男」 と呼ばれてきましたが、

生まれて初めてダイエットに成功中の私としては、

胸を大きく開いて夏を迎え入れてやろうではありませんか。

まあまだ、水着姿になって 「脱いだらすごいスゴイんです」 の腹を他人様にお見せする、

なんていうことができるほどダイエットが完全成功をおさめたわけではありませんが、

Tシャツやポロシャツくらいは自信をもって着てやろうかと思います。

さあ来いっ、夏っ

地球温暖化の猛威を見せてみろっ

自分の心を守る術

2010-07-14 19:04:24 | 幸せの倫理学
もうだいぶ前のことになりますが、「幸福になる方法」 について、
「その1」「その2」 を書きました。
幸福になるための第1の秘訣は、「欲求・欲望をできる限り小さく抑えておくこと」 で、
第2の秘訣は、「満足しやすい体質を作っておくこと」、
すなわち、「日頃から幸せの感受性を高めておくこと」 でした。
これは、「幸福」 の定義が、
「自らの欲求・欲望が満たされて、自分の状態に満足していること」 ですので、
そこから自動的に導き出されてくる答えだと私は考えているのですが、
ただ、私がこう考えるようになった背景には、
それなりの経緯があったのかもしれないなあと急に思いました。

人は失恋や死別など、大きな喪失を経験したとき、ひどく傷つくものです。
その痛手が大きければ、長い時間を失意の底で過ごさなくてはならなくなります。
人生のなかでこんなことが何回か起きたら、
心は自己防衛策としていろいろな方策を編み出したりするでしょう。
私の 「幸福になる方法」 というのは、
実は 「自分の心を守る術」 だったのかもしれないとも思えてきました。

「欲求・欲望をできる限り小さく抑えておく」 というのは、
本当は、好きな人とずっと一緒に幸せに過ごしていきたい、という欲求・欲望があるのだけれど、
人の心は変わるものだし、人間関係もどんどん変化していってしまうものだし、
たとえそういうことが起こらなかったとしても、人の命なんて儚いものだから、
どちらかが急に亡くなってしまうなんていうこともあったりと、
どうしたって、ずっとは一緒にいられないかもしれないわけで、
そういうことに備えて、ずっと一緒にいよう、なんていうデカイ野望は抱かずに、
一緒にいられるあいだは楽しく過ごそう、みたいにあらかじめ欲求を小さくして、
不慮の事態に備えているのかもしれません。
「満足しやすい体質を作っておく、日頃から幸せの感受性を高めておく」 というのも、
いつ何時なにがあるかわからないわけで、
しかも、そういう兆候とかを探し始めたらいくらでも見つかっちゃうだろうから、
できるだけそういうことからは目を背けて、
相手がしてくれるちょっとしたことに目を向けて、
それを有り難いことと感謝して、
そこに幸せを感じ取って満足できるようにしておいたほうがいいですよ、
ということなのかもしれません。
つまり、「幸福になる方法」 というのは、不幸を感じなくてすむように、
あらかじめ心を閉ざしておく方法なのかもしれないと思うのです

こういう人はフツー、「冷たい人」 って言われますよね。
「冷たい」 は言い過ぎかもしれないけど、「クールな人」 ではありますね。
これが極度に進行すると、
失恋や離別を恐れて最初っから恋愛なんてしないようにするということになってしまいますが、
まあそこまでいかなくとも、常にクールさを保つことによって、
のちのち傷つかずにすむように予防線を張っておくなんていう人はいるでしょう。
クールな人は本当に幸福なんでしょうか?
私の理論からすると、彼は幸福なんだと言ってあげたいのですが…。
とにかく彼には 「自分の心を守る術」 が必要だったということは確かですね。
彼がそれによって自分の心を守れるといいですね。

腰痛からの解放

2010-07-11 13:19:57 | 幸せの倫理学
私は腰痛もちというほどではありませんが、しばしば腰痛に苦しめられてきました。
だいたい年に1回くらいひどいぎっくり腰になり、
また、それほどではないけれど腰から背中にかけてドーンと重くなることが、
やはり年に1、2回のペースで来るという感じでした。
それ以外のときは特にツライということはないので、腰痛もちとは言わないのでしょうが、
腰に弱点を抱えていることは確かです。

そして、2年前のこと、たぶんあれはぎっくり腰のほうではなく、
ドーンのほうだったと思いますが、ただけっこう重症で、
いつもならドーンはシップを貼ってなんとかやりすごすんですが、
これはちょっとヤバイなと直感したので病院に行ってみることにしました。
私は困ったときはとりあえず大原病院に行くようにしていたのですが、
たしかあの頃から大病院は町医者からの紹介がないと、
よけいにお金を取られるようなシステムになっていたので、
しかたなく新しく病院を探すことにしました。
それで思い出したのが、うちの近くで、
「ペインクリニック」 という看板を見かけたよなあということでした。
で、さっそくその病院に行ってみることにしました。
それが 「しぎはらクリニック」 というところなんですが、
「痛みの専門治療クリニック」 と謳っています。
この腰の痛みをなんとか取り去ってくれよぉと願いながら、
でもけっきょく痛み止めを処方されて、
シップを貼るくらいのことしかできないんだろうなあとも思いながら、
半信半疑で診察を受けました。
まさかそれが腰痛からの解放の第一歩だったとも知らずに。

まずはあっちゃこっちゃレントゲン写真を撮られました。
そして鴫原先生の前に座ります。
開口一番、先生はこうおっしゃいました。
「マクラのせいだな。」
えっ? マクラ?
そんなバカな。
私はけっこうマクラにはこだわっていて、
通販とか、寝具専門店とかでも相当いろいろ買っています。
で、さまざま試したあげくに一番自分に合ってるやつを選りすぐって使っていましたので、
マクラのせいにされちゃあ納得いきません。
とはいえそこは大人ですから、お医者さん相手にすぐさま反論したりはいたしません。
とりあえず先生のお話をうかがうことにしました。

先生の説明はこうです。
私の首の骨 (頸椎) はまっすぐになってしまっているそうなんです。
本来、人間の骨というのは首から腰にかけて、横から見たときに、
背骨が大きなSの字型になっていなければならないのですが、
私の場合は、首の部分の湾曲がないんだそうです。
最近そういう人が増えていて、理由は忘れてしまいましたが、
こういう人は腰痛とかになりやすいのだそうです。
で、こうなる1つの原因がマクラなんだそうなのです。
ここらへんの理屈をあんまりよく覚えていないところをみると、
ふーんという顔をしながらも、ほとんど聞き流してしまっていたのでしょう。
「マクラのせいだな」 の第一声からラポール (信頼関係) は崩れ去ってしまっていたのです。
けっきょく反論はせず、電気的な処置を受け、
なにか薬かシップをもらって帰ったのだろうと思います。

そのときの腰痛はわりとあっさり解消しましたので、
やはり病院に行っておいてよかったなあと思いました。
さて、問題はマクラです。
首の骨に問題を抱えているから腰痛になりやすいという点は納得していましたので、
本当にマクラを替えることによって腰痛にならずにすむのであれば、
いちおう試してみようかなあとも考えるようになりました。
数あるコレクションのなかで、私が真っ先に選んだのは、テンピュール的なマクラです。
テンピュールというのは低反発素材を使ったマクラの代名詞といってもいいくらい、
この分野では草分け的な存在です (いわゆるザ・ブランドですね)。
ただちょっとお高いのでどうしようか悩んでいたところ、
イオンのプライベートブランドTOP VALUEで類似品を見つけて、買ってあったのです。
売り場には自分の頭にピッタリのサイズを測るための測定器なども置いてあって、
首の部分や後頭部の部分の高さがチョイスできました。
それで選んだのが、コレです。



私はエイリアン頭ですから、首に当てる部分がけっこう高いです。
こういう形状のマクラを使ったことが今までなかったということもあるかもしれませんが、
実際に寝てみると、けっこう首が圧迫される感じがします。
ちょっとこれは自分には合わないかもしれないなあと思い、
もう少し首の部分が低いやつも買っておくことにしました。
なんせTOP VALUEですから、2個買ってもどうという値段ではありません。
2つを比べてみるとだいぶ高さに差があることがわかるのではないでしょうか。



で、まあ2つを買って帰ってきて、寝比べてみたのですが、
やはり、計算上私にピッタリのはずのやつはどうも首のところがツライ感じがして、
けっきょく低いほうをしばらく使い、それもなんとなくイヤになって、
以前から一番お気に入りだったマクラを復活させていたのです。
そしたら 「マクラのせいだな」 ですから、
「なにを」 と思っちゃったわけです。
しかし、マクラを替えてみるのだとすると、ほとんど使われないままお蔵入りしていた、
計算上私にピッタリのやつにしてみるしかないではありませんか。

替えてみて数日間はやはり違和感がありました。
しかしふと気づいてみると、マクラを替えてからあまり寝返りを打たなくなっていました。
私は、赤ちゃんのときから横向きに寝かされていましたので、
眠るときの基本ポジションは身体の右側を下にして寝る体勢です。
ただ横向きに寝るというのは不自然な体勢のようで一晩中、仰向けになってみたり、
左側を下にしてみたり、そして基本ポジションに戻ってみたりと、
ずーっと寝返りをし続けながら眠っていたのです。
それが、このマクラに替えてから、ずーっと上を向いたままほとんど寝返りも打たず、
ぐっすり眠れるようになっていたのです。
最初感じていた違和感も数日もするうちになくなってきました。
そして、あっという間に2年の月日が過ぎて今日に至っているのです。
しかも、なんとこの2年間一度も腰痛は発生していません。
ぎっくりもドーンもまったく来ないのです。
おお、やっぱり鴫原先生の言うとおり 「マクラのせい」 だったんでしょうか。
こればっかりはたまたまということもありえますし、
この先また腰痛が発生しないともかぎりませんから何とも言えませんが、
しかし、ここまでの実績を見るかぎりは、
マクラを替えてよかったと評価してもいいのではないでしょうか。
さすがはペインクリニック!
そして、さすがは似非テンピュール!
このまま腰痛から解放されるようだったら、
鴫原先生とイオンには感謝状を贈りたいと思います。

祝・日本代表初ベスト8進出!

2010-06-30 01:43:17 | 幸せの倫理学
まだ前半を0-0でしのいだところですが、
試合終了と同時にアップしたいので、気が早いですが書き始めてしまいます。
今日は厳しい展開ですねぇ。
そりゃあ決勝トーナメントに入ったわけだし、
イタリアを予選落ちさせたグループFを1位通過したパラグアイ相手ですから
そう簡単にいくなんて思っていませんでしたが、
それよりも日本選手の動きがちょっと気になります。
運動量もパスも予選リーグのときのような冴えがないように思います。
奪ったボールはすぐに奪い返されちゃうし (というかミスで相手に渡しちゃうし)。
しかし、その中で前半を0-0でしのげたというのは、
やはりかつての日本代表とはちがうような気がします。
なのでなんだか勝っちゃうような気がするので、もうブログを書き始めてしまうわけです。

実は今日、日本戦があるとは知りませんでした。
あいかわらず熱心なファンではありません。
もしも飲み会に誘われていたらふらっと行ってしまっていたでしょう。
9時まで働いて帰ってきてテレビをつけたら、
「このあと日本×パラグアイ」 という表示をたまたま見かけたということです。

おっともう後半も0-0で終わり、これから日本初の延長戦が始まりました。
全体的に押され気味ではありますが、しかしなんだか安心感があるのです。
ハーフタイムには堀北真希のそんなCMが流れていますが、
なんとなく点を取られる気がしないのです。
けっこう危ない局面がよくあるのですが、それでもなぜだか点を取られる気がしないのです。
このまま延長戦も0-0で行くのでしょうか?
延長戦を零封してPK戦に入ればもう完全に負ける気はしません。
きっと川島が何本か止めてくれるでしょう。
おっと今もボコボコに攻められまくりましたが、やっぱりしのぎました。
あっ今度は本田のフリーキックだが、ああダメかあ。

うーん、そして延長前半も0-0です。
おお、もう延長後半が始まった。
延長戦の前半と後半のあいだはぜんぜん休みがないんですね。
過酷だあ。
みんなガンバレ!
どっちもみんなヘロヘロだなあ。
でもこの中でよく走ってるよなあ。
ところどころいい場面も作るし。
ああ、そして延長も終了だあ。
しかし、よくパラグアイ相手に引き分け零封で乗り切ったなあ。
素晴らしいっ!
これで、私の予言通りPK戦だっ!
勝つな、きっと。
頼むぞぉ川島あ~、止めてくれぇ!

川島、エライッ!
日本のオリバー・カーンと呼んであげよう。
次はベスト8ですか。
スペインかポルトガルですね。
長友と遠藤が出られなくなったのはイタイですねぇ。






と、ここまで書いてあったのに残念です。
まさかPK戦で負けるとは…。
でも、いい試合でした。
よく戦いました、日本代表。
夢を見せてくれてありがとう、岡田監督。
私も初めてサッカーを楽しんだ気がします。
本当にありがとうございました。

祝・日本代表W杯決勝T進出!

2010-06-25 05:32:43 | 幸せの倫理学
午前3時試合開始ですから、そうとう迷ったんですが、
けっきょく見ることにしました。
私は野球派ですので、サッカーのことはまったく詳しくないのですが、
カメルーン戦もオランダ戦も日本代表はよくがんばっていたと思います。
まあカメルーン戦は勝ちはしたものの、むしろ相手の調子が悪かったおかげという感じでした。
オランダ戦は逆に負けはしたものの、おっ?オランダ相手にここまで戦えるのかという感じでした。
しかし、いずれの試合も選手がみんなよく走っていて、
今までの何回かのW杯のなかでは一番強さを感じさせてくれるチームのような気がします。
とはいえ、デンマークは完全に格上ですので、引き分けでいいとはいえ、
これで見納めという可能性もおおいに大です。
ここまで楽しませてくれた御礼も兼ねて、観戦することにしました。

ところがなんと、みごとな勝利ではありませんかっ。
3対1
できすぎですっ
おめでとう、日本代表
おめでとう、岡田監督
本当にいい試合を見せてくれました。
みごとなフリーキック (×2)、みごとなダメ押しのゴール
そして、よく守りました。
1点は取られたものの、PKも止めちゃったし
いやあ、素晴らしい試合でした。

おっといかん、もう寝なきゃ。
福大生も含めて、日本中の人がまだ起きてるとは思うけど、
だからといって倫理学者が仕事に遅れていくというわけにもいかんでしょう。
それにしても、今年もまだヤクルトの試合を1試合も見ていないというのに、
W杯は、このあいだのイングランド戦も見てしまったし、韓国戦も見ているし、
私はまるでサッカーファンみたいじゃないですか。
うーん、いいのかプロ野球、いいのかスワローズ?

ルーツへの旅 (その3) ・ お茶どころ嬉野

2010-06-16 15:08:38 | 幸せの倫理学
嬉野は温泉地であるとともに、お茶どころとしても有名です。

今は新茶の季節ですから、お茶もお土産に買ってきました。

(見にくいかもしれませんので拡大写真もアップしておきます。)

ところで、昨日書いた 「ホテル桜」 の和風レストラン 「花月」 ですが、

テーブルに置いてある紙ナプキンが、普通の白いやつではありません。

ホテル桜のオリジナルナプキンなんですが、なんだかうすーく緑色がかっています (写真参照)。

使うとかすかにお茶の香りがします。

よく見てみると小さな字で 「このナプキンは、茶殻を再利用しています」 と書いてありました。

これはステキなアイディアだなあと思い、ちょっと欲しくなって、

すぐに 「花月」 を出て、隣の売店に行ってみますが、売り場には置いていません。

お店の人に、「花月に置いてある紙ナプキンはお茶の香りがしてとてもいいですね。

ちょっと買って帰りたいんだけれど売ってないんですか?」 と聞いてみたところ、

「売ってはいないんです。でも、よろしかったら差し上げますよ。」 と言ってくださり、

花月のレジカウンターのなかから1袋 (たぶん100枚入り?) 出してきて、くださいました。

うーん、なんでも言ってみるもんだ。

家族からは 「どこに行っても自由だなあ」 と呆れられましたが、

ユーミンじゃないけれど、「欲しいものは欲しいと言ったほうが勝ち」 ですので、

私としては大満足です。

お茶の香りの特製紙ナプキンも、嬉野土産として持ち帰ってくることができました。

今うちに遊びに来てくれたら、ナイフレストの代わりに、

このナプキンの上に、お箸やカトラリーを並べてさしあげます。

もちろん食後には嬉野茶です。

近くまでお越しの際はぜひお寄りください。

いい奴じゃん

2010-06-12 15:10:12 | 幸せの倫理学
師匠のブログ清水義範の 『いい奴じゃん』 が取り上げられていたことを前に紹介しました。
それにインスパイアーされて、同氏の 『幸せになる力』 についてご紹介したのですが、
その後、まだ読んだことのなかった 『いい奴じゃん』 も取り寄せて読んでみました。
むちゃくちゃいい小説でした。
こんなに前向きな本があっていいのでしょうか。
『幸せになる力』 が理論編のハウツー本だとすると、
『いい奴じゃん』 はそれに基づいて書かれた 「明朗青春小説」 (著者自身による定義) です。
実際に 『幸せになる力』 の出版が2008年の2月、
『いい奴じゃん』 の出版が同年の10月ですから、
著者はまずは自分の言いたいことを理論的に整理し、
それに基づいて小説を書くというように執筆を進めていったのでしょう。
理論派の私としては、彼のそういう著述の進め方自体が憧憬の対象です。

著者はこの小説を 「さくさく読めて元気の出る小説」 にしたかったと言っていますが、
しかし、次のようにも述懐しています。
「実のところ、二十一世紀初頭の現代において、明朗青春小説を書くのは楽なことではなかった。
 この厳しい時代に、そんな暢気な小説が成立するだろうか、という問題があるのだ。」
ただのお気楽小説にしないところが、この人のスゴイところです。
現実は現実でちゃんと見据えている。
登場人物の大半が24~5歳なんですが、それは、
その世代の人々が本当に生きにくい時代になってしまっている、
ということを見きわめた上での選択です。
「経済界が無慈悲なまでの合理化」 をはかり、
「日本の雇用制度が崩れ」、どんどん正社員が減らされていて、
「その結果、不本意であっても派遣社員やフリーターに甘んじなければならないとか、
 場合によっては勤労意欲がないわけではないのに失業状態に追いやられている人までが出てくる」
ような世の中になってしまっている。
「そういう時代の二十五歳くらいの若い人はつい暗い表情で悩んでしまうよなあ、と思う。
 しかし、だからこそ私は、前向きな明るい青春小説を書きたいと思ったのだ。
 厳しい時代の中に生きていても、暗いほうにばかり考えてはいけないと思うからだ。」
これはまさに、私がいつも言っている 「受け止め方の問題」 です。

自分にはどうしようもない、今の時代をどう受け止めるか、というのは、
幸せになるための根幹に位置する問題と言っていいでしょう。
それを表現している部分を、ちょっと長くなってしまいますが、引用してみることにしましょう。
主人公の荒木鮎太は小説のスタート時、24歳。
派遣として運送会社で働く、運が悪くて災難に巻き込まれやすい若者です。
派遣仲間の友人、大道寺薫も同い年の、オネエ言葉で話す若者 (男) です。
以下は、ある日の2人の会話です。
たまたまの話の行きがかり上、時代状況の話になってしまいます。

「とにかく鮎太はね、自分が運の悪い人間だってことを忘れちゃダメよ。何をやっても、やらなくても、アンラッキーなことに巻き込まれちゃうんだから」
「やってもやらなくても結果が同じなら、注意したって意味ないだろう」
「屁理屈を言わないの。私はあなたの場当たり的な人生を心配してあげてんだから」
「おれだってちゃんと考えて生きてるぜ」
「そうかしら。ちゃんとした定職につかないで派遣先を転々としていく生き方の、どこにポリシーがあるわけ? あなたに、人生をどうしたいっていう目標があるのなら、教えてほしいわ。」
「派遣のことはしょうがないんだ」
「しょうがないって何よ」
「どうも、そういう時代らしいってことだよ。ちゃんと定職についたほうが安定した人生で、生涯賃金だって派遣社員の数倍だってことはおれも知ってる。会社に人生を縛られちゃうのが面白くないからって考えて、派遣のほうが気楽に自由に生きていけるからそっちを選ぶっていうのは、なんだっけ、大人になるまえの状態にとどまるっていう言葉……」
「モラトリアムのこと?」
「それだ。そういう生き方を選ぶのは大人になりたがらないモラトリアム人間だっていう分析があるじゃないか。でも、もうそういうことでもないんじゃないかと思うんだよ。日本の社会が変わってきてて、フリーターや派遣社員でいい、正社員はいらないってことになってきてるんだと思うよ。だから、定職につきたくないから派遣になってるんじゃなくて、それしか働きようがないからそうなってるんだよ」
「日本の企業体質の根本的な変化のことね。労働コストを下げるために正規雇用者を減らしていくわけよ。そして社会には階層が生まれていく」
「それだよ。やる気がないから派遣で食いつないでいるんじゃないんだよな。派遣でしか働けないってのが、日本の現状なんだよ。だからそれはしょうがないんだ。だからおれは、今、目の前にある仕事をバリバリやることにしているんだよ。そうやって、なんとか生活していけてるのがおれの生き方で、それは恥ずかしいものじゃないと思ってる」
「そうだったわね。あなたってそういうふうに前向きで逞しいヒトなのよね。私ちょっと間違ってたみたい。なんで定職につかないのっていう質問は取り消すわ。それって今を知らないオヤジ世代の言い草だもんね」

こんな厳しい時代状況で、世を呪って自暴自棄になってもいいだろうに、
しかし鮎太はそれをしかたないこととして受け入れて、その中でどう生きていくかを考えています。
他人が悪いんだ、世間が悪いんだ、というふうにひとのせいにしたりしないで、
自分なりに一所懸命、前向きに生きていこうと決意しています。
こういう人は不幸になることができません。
客観的に言えば不幸とか不運とか呼べるようなことが次々と襲いかかってきても、
それを受け止め方ひとつですべて、プラスの方向へのエネルギーに転化してしまいます。
まさに 「幸せになる力」 だなあと思います。
本当にさくさく読めて元気が出る小説ですので、
ぜひ大学生や卒業生の皆さんには読んでいただきたいですし、
できれば中学生や高校生にも読んでもらいたいと思いました。

最後にもうひとつ。
これはこの本には書かれていないことですが、
上記で引用したような箇所やあとがきを読んでいて自分として思ったのは、
それにしても今の世界のこの状況はどう考えてもおかしいよなあということです。
個人的に幸せになるためには、これを受け入れプラスに受け止めることが必要だと思いますが、
しかし、じゃあこの状況をほっておいてただ受け入れるしかないのかというと決してそんなことはなくて、
すでに幸せになってしまっている人、正規雇用で恵まれた環境に生きている人には、
そうでない人々のことを思いやる責務、
この時代状況を少しでも何とかしようと努力する義務があるのだろうと思います。
それを私は 「ノーブレス・オブリージュ」 と呼んでいますが、
それについてはまた別の機会にお話ししましょう。

光あれ!

2010-06-02 12:21:10 | 幸せの倫理学
研究室には蛍光灯が6本あります。

そのうちの4本が切れてしまっていました。

もの悲しいほど暗い感じです。

しかし、蛍光灯を交換するためには、事務職員の方に来ていただいてやってもらうか、

自分で新しい蛍光灯とハシゴを借りだしてきて交換するかしなければなりません。

この足の踏み場もなく荒れた状態の研究室では、そのいずれもやってみる勇気がなかなか出せず、

ずっとほったらかしにしていたのです。

ちょうど机の上の2本はまだ消えずに残っているし、

研究室のドアに近い側の4本が消えているので、

来客が留守と勘違いして寄りつかずにいてくれるのも意外と都合がいいし、

というわけで、もう1ヶ月くらいでしょうか、

ゼミ生や修論生には文句を言われながらも、

もの悲しい暗いなかでずっと生活してきたのです。

しかし、今日たまたま階段ダイエットの最中に、

ハシゴと蛍光灯をもった事務の方とばったり遭遇してしまいました。

これはそういうお告げなんだろうなと覚悟して、

蛍光灯が切れている旨をお伝えし、交換してもらうことにしました。

交換が完了してスイッチを入れてみると

おお、なんと明るいんでしょう

部屋が明るくなると、なんだか心も明るくなってくるではありませんか。

たったこれだけのことでこんなに幸せになれるなら、もっと早くやっておけばよかった。

今思えば、これもひとつの 「未完了」 だったんですね。

いかん、いかん、自分で書いたことをきっちり実践していないなんて。

次はいよいよ最大の未完了、研究室のかたづけに挑戦せねばっ

幸せになる力

2010-05-10 21:21:33 | 幸せの倫理学
最近、私のブログの師匠である中間玲子先生がブログを毎日更新されていて、
どの記事も倫理学的観点からしてもたいへん興味深いのでオススメです。
そのなかで先日、清水義範の小説 『いい奴じゃん』 が取り上げられていました。
私はその小説を読んだことがないのですが、ぜひ読んでみたくなりました。
で、そのブログ記事を読んでいて思い出したのですが、
同じ清水義範の 『幸せになる力』 という新書がとてもいい本で、
いずれブログに書こうと思っていたのですが、ずっと忘れていたので、
この機会にご紹介させていただきたいと思います。

本書は、教え魔である清水義範氏が、
子どもたちに幸せになる方法を教えてあげようという意欲作です。
読者として想定されているのは、第1に小中学生。
第2に高校生・大学生。
そして最後に、その親である大人たちです。
小中学生を第1のターゲットとしているだけあって、とても読みやすい文章ですが、
内容はとても深いので、皆さんにもオススメです。

最近流行りの 「勝ち組―負け組」 みたいな二分法を排除して、
幸せになるためのごくごく真っ当なノウハウが披露されていきます。
清水氏は幸せになる力として5つの力を挙げていました。
①自己肯定感から持てる自信 (自分のよさを知って自分を好きになる)
②人の役に立つよろこびから出てくる意欲 (人の役に立つよろこびを知る)
③自分を正確に理解してこそ持てる希望 (自分を正しく知り、希望を持つ)
④社会を理解していってみがく想像力 (社会を知り、想像力をみがく)
⑤苦境から自分を守るための回避力 (本当にまずい状況では助けを求め、逃げる)
どれももっともです。
詳しくはぜひ本書を読んでみてください。

清水義範氏には以前から親近感を感じていたのですが、
本書を読んで、根っ子のところが自分と同じ人なんだということを確信しました。
子どもたちや、その親たちに、
人は誰でも幸せになるべきだし、幸せになることができるのだ、
ということをなんとか伝えようと努力しています。
世界中の子どもたちとその親たち、
そして教育者をめざしているあなたにぜひ読んでもらいたい一冊です。