2007年07月11日記載
頂いたコメントについて言及する。頂いたコメントは以下のとおり。
「4番目と関連するのかしないのか分からないのですが、お訊きしてみたいことがあります。
企業や国を相手にした場合「和解」と判決がよく下されますが、それは判例によって国家や企業の責任を法的に確定しないため、つまり両者の活動を縛らないよう「解釈をしない」ということなのだと読んだことがあります(「カネと暴力の系譜学」萱野稔人)。
仮にそうだとして、法曹人口を増やすことを国がすすめていることの背景は何なのか知りたいと思いました。審理の効率などはあると思いますが。
突然失礼しました。」
まず最初に申し上げておきたいのは、和解とは訴訟当事者間における合意であり、判決とは裁判所の下す判断であるので、「和解」という「判決」は存在しない。(「裁判上の和解」という、確定判決と同じ効力を持つものもあるが、これも「判決」ではない。)
次に、「企業や国を相手にした場合「和解」と判決がよく下されますが」との点についてであるが、ここは、企業や国を相手にした訴訟の場合、裁判所が和解を勧めることがよくあることを言いたいのだと思うが、これは全くその通りである。その理由としては、コメントがをくださった方が引用されているように「判例によって国家や企業の責任を法的に確定しないため、つまり両者の活動を縛らないよう「解釈をしない」ということ」と考えることも可能だとは思う。そして、そのように権力機関を懐疑的眼差しをもって見つめることは権力の暴走を食い止めるために必要なことであるとも思う。
しかし、企業や国を相手にした訴訟の場合、裁判所が和解を勧める理由は他にもあると私は思う。
良いか悪いかの評価は別として、事実として裁判は物量戦である。資金が多い方が裁判を有利に進められる。印紙税のないアメリカと違って我が国では結構な金額の印紙代がかかる。企業や国を相手に高額の損害賠償請求をしようと思えば、請求する時点でかなりの印紙代がかかる。それに加えて、日本では裁判の結論が出るまでに結構な時間がかかるので裁判を維持するためには高額の弁護士費用も必要になる。勝訴を勝ち取ってもそれまでの経費や弁護士への成功報酬を差し引けば足が出てしまう可能性もある。裁判を戦い抜く労力も相当なものである。
上記のような事情を考慮し、早急な救済を図るため和解を勧めることもあるのだと思う。
公害訴訟や薬害訴訟においては早急な救済の必要性はより一層高まる。被害者に有利な内容で和解を勧めることには一定の合理性があると考える。
さてここで、日本の裁判官は何人くらいいると思われるだろう。およそ3000人である。(ちなみに検察官はおよそ2000人、弁護士はおよそ1万5000人である。)
それに対し、全裁判所の新受件数(民事・刑事・行政・少年・家事の各事件の総数)は実に588万件である。裁判官の負担は非常に重い。裁判官が訴訟において和解を勧めるのにはこのような事情もある。和解の方が判決よりも早く決着がつく。裁き切れない数の事件を抱えた裁判官が和解をもって事件処理を早く進めたいと考えても不思議は無い。
上記のような事態を打開しようと司法制度改革は始まった。裁判官を増員したかったのである。
司法制度は、司法の独立を守るべきとの考えから、裁判所・検察庁(=法務省)・日本弁護士連合会(略して日弁連)の法曹三者によって決定される。裁判官を増員したい裁判所に、これまた検察官を増員したい検察庁が同調し、反対する者の多かった日弁連を押し切る形で、法曹三者を増員することを中核とする司法制度改革は進められている。
私は司法制度改革に賛成である。理由は以下のとおりである。
行政と同じく司法も国民に対するサービスであると私は考えている。受益者たるべき国民が司法サービスを満足に受けられないようでは法治国家とは言えない。人口10万人あたりの法曹の人数は、アメリカはもとより、イギリス・フランス・ドイツ等に比べて圧倒的に少ない。国民から遠いところに司法は置かれている。
さらに、医療制度における医師不足と同様の問題が司法制度にも存在する。都市部に弁護士が集中し、地方の弁護士が足りないのである。この問題を解消するためにも法曹の増員は不可欠であると考える。
裁判官や検察官といった権力機関の人間を信用できないということであれば、裁判官や検察官を選挙によって選出するという方法もある。そのような方向に司法制度改革を持っていっても良いと思う。(一定の刑事裁判に国民が関与することとなる平成21年実施の裁判員制度はその第一歩と言ってもいいかもしれない。)
しかし、いずれにしても司法を担う人間を多くするべきとの結論は変わらない。
「justice delayed,justice denied(遅れた正義は、否定された正義)」という言葉がある。1日でも早く正義は実現されなければならない。(正義とは何か、という大きな哲学的な問題が横たわってはいるが。)