がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

術後補助抗がん剤治療の難しさ

2007年01月22日 | Weblog
術後補助抗がん剤治療には特有の困難さが存在する。それは既に原発巣切除を終えており、遠隔転移がなければ、抗がん剤の標的になるものが存在しないかもしれないということである。 見えない敵との戦いと言っていいかと思う。

乳がんや卵巣がん等でも術後補助抗がん剤治療は行われているが、骨肉腫の場合、過去のデータから、原発巣が発見された時点で80%の割合で遠隔転移があるとされている。転移先は殆どが肺で、稀に肝臓・骨・脳である。いずれにしても遠隔転移があるのであるからそれを退治しなければならない。自分は転移のない20%に入っていると確信している人は術後補助抗がん剤治療を行う必要はないが、あまり賢明な判断とは言えない。

現在の医療水準で捕捉できるがん細胞の最小単位は恐らく1mmではないかと思う。精密なCT画像と経験豊富な医師が読影してもこれが限度ではないかと思う。それでは、この1mmのがん細胞、正確に言うとがん細胞の塊にどれだけのがん細胞が集まっていると思うであろうか?100万個である。CTは平面なので1mmと表現したが、実際は1m㎥である。

1万個のがん細胞の塊は捕捉出来ない。しかし、放っておけばそれはやがて分裂して2万個になり、4万個になり、8万個になり、16万個になっていく。無限に分裂を繰り返していく。術後補助抗がん剤治療はそのような事態を防止しようとの試みである。しかし、上述したように、それは存在しないのかもしれない。そこが大変悩ましく、最後の最後まで、どこまで術後補助抗がん剤治療を行うべきか悩んだ。自分で結論を下したが、それが正しい判断だったのか否かは時間の経過だけが証明してくれる。現在のところ肺転移等は見られず、私の判断は正しかったこととなっている。しかし、1度転移が出れば、正しかったという仮の結論は完全に否定される。緊張感のある毎日である。

本田美奈子.さんについて

2007年01月20日 | Weblog
本田美奈子.さんが亡くなったのは、私が一通りの治療を終えて3ヶ月もしない頃であった。 ご存知の通り本田美奈子.さんは白血病であった。(メディアからの情報がメインなので、伝聞であることを予めご承知おき願いたい。)

白血病は非上皮性の腫瘍であり、大まかな分類で言えば骨肉腫と同系統の腫瘍である。同系統の腫瘍であるがゆえに1部同じ抗がん剤を使用する。メソトレキセートである。メソトレキセートの副作用には口内炎が出来るというものがある。ひどい場合には口中に口内炎が出来る。そうなると口から栄養を摂取することが出来なくなり、点滴等で栄養を補給するしかない。点滴で摂れる栄養には限度があり、体力は消耗し、体重は減少していく。以前に紹介した平岩正樹医師は、がん患者にとって「体重減少は寿命減少である」と仰っておられるが、全くその通りだと思う。過日述べたとおり、現在の医療制度では体重から算出した体表面積を基に抗がん剤の投与量を決定するので、体重が減れば、当然投与する抗がん剤の量も減少する。血中濃度が同じであれば、効果に差はないという意見もあるが、個人的・体験的に言えば、絶対量が決定的に重要である。投与量が多ければ多いほど効果があると考える。そのためにも高容量の抗がん剤投与に耐えられるだけの体をがん患者は維持しておかなければならない。

本田美奈子.さんは元々細いが、メソトレキセートの副作用のせいで余計に体力を消耗してしまったのではないだろうか。その意味でもやはり抗がん剤の副作用対策は大切なことである。口内炎が出来ずに栄養を経口摂取出来れば、もっと病気と闘えたのではないだろうか。(平岩氏によれば口内炎対策も十分可能であるらしい。)

本田美奈子.さんの言葉で印象的な言葉・場面がある。仮退院が認められた際に「私には歌しかないから」と言って、お世話になった看護師さん達の前で歌を歌ったということである。私も、同系統の病気になったことを知ってから親近感を感じて本田美奈子.さんの歌を聴くようになったが、誠に美しい歌声である。アメイジング・グレイスはとりわけ気に入っている。

果たして私には「これしかないから」と言い得るだけのものがあるであろうか。甚だ心許無い。

「私には歌しかないから」と言い切れるだけのものを持ち得た本田美奈子.さんを羨ましく思う。と同時に、そう言い得るだけのものを持ちながら亡くならざるを得なかった本田美奈子.さんの無念をも思う。

現在、本田美奈子.さんの映像・音楽とともに骨髄移植に対する理解・協力を求める公共広告が流されているが、このブログを読んで協力したいと思う人が1人でも居てくれればと切に願う。

おじ馬鹿日記

2007年01月17日 | Weblog
闘病記とタイトルを設定しておきながら、話が本筋から逸れて大変申し訳ないが、おじ馬鹿としてもう少しだけ姪っ子・甥っ子について記させて頂きたい。

入院してから今日まで私は、車椅子に乗っていた時を除けば常に両松葉を使っている。現在もである。

そんな私の姿を見て、甥っ子と下の姪っ子は私が足を怪我していると思っている。ある日、当時8歳の甥っ子は遠慮がちに「失礼なんだけど、いつ治るの?」と私に聞いてきた。不躾な人間が増えている中、甥っ子は8歳児としては最大限気を遣ってくれたように思う。身内ながら優しい子に育ってくれたなと嬉しく思った。そのまま人の痛みのわかる人間に育ってもらいたい。

次は下の姪っ子の話であるが、当時6歳の姪っ子と近くの桜を見に行ったことがある。帰ってきて洗面所で手洗い・うがいをしていると姪っ子が「にいに、疲れちゃってない?」と心配そうに声を掛けてきてくれた。両松葉で歩いていた私が大変そうに見えたのだと思う。この子も優しい子に育ってくれてるなと、とても嬉しくなった。

1番上の姪っ子は現在高校受験に向けて一生懸命頑張って勉強している。常に真面目で、一生懸命なとても良い子である。良い結果が出ることを願っている。(この一文は、いつか姪っ子や甥っ子が見た時に「私の事が書いてない」と言われないためのおじの気遣いという面も否めない記述である・笑)

家族について

2007年01月16日 | Weblog
病気になってというか、骨肉腫であると判明して1番初めにショックを受けたのは母親であった。私はいまだ人の親ではないので想像するしかないが、自分の子供が骨肉腫だと告げられた時のショックはいかばかりかと思う。母親は生検の結果を聞く際に一緒に病室に居た。ファーストオピニオンの病院では骨肉腫であると同時に、CT結果から、肺に2箇所転移らしきものが見られるということも併せて告げられていた。私の調べた範囲では初診時肺転移症例では70%の患者が死亡する。そこまで母親は知らなかったとは思うが、息子が自分よりも早く死ぬかもしれないことを幾らかは想起したのではないかと思う。自分で言うのもなんだが、それまで私は母親にとって自慢の息子であった。私の写真をいつもバッグに入れて持ち歩いていたくらいである。(私には姉がいるが、姉の写真も持ち歩いていた。確認はしていないが、今でも持ち歩いているのではないだろうか。) 初めて親不孝らしい親不孝をしたように思う。

姉がいると上述したが、その姉には3人の子供がいる。告知の時点で、1番上の姪が12歳、2番目の甥が6歳、3番目の姪が4歳であった。母親が泣きながら姉に電話をし、これまた泣きながら話を聞いている姉の傍らで1番上の姪っ子がなんとなく内容を把握し「にいに死んじゃうの?」と泣きながら心配してくれた(私は姪や甥に「にいに」と呼ばれている)。骨肉腫という病名を聞いた姪っ子は自らネットで調べた。何を勘違いしたのか、間違えたのか、骨肉腫の生存率は95%と出たらしい。それを見て姪っ子は安心し、その後は大して心配していない。恐らく抗がん剤の寛解率がCRに分類される症例を目にしたのだろうと思う。いい勘違いであった。2番目の甥っ子、3番目の姪っ子は勿論詳しいことは理解出来ない。ただ、「にいに」がどうやら入院しているらしいことはわかったらしい。お見舞いに行きたいと言って、姉に連れて行ってくれるよう頼んでいた。私や姉の間では、病院にはたくさんの菌やウイルスがいると思われるので、小さな甥っ子や姪っ子は連れて来ないようにしようということで合意していた。そんな事情も知らず、下の姪っ子は自分がうるさくするから連れて行ってもらえないと思ったらしく、「絶対静かにしてるから病院連れてって」と姉に頼んでいた。その気持ちだけで十分有難かった。事実、退院まで姪っ子や甥っ子は1度も病院には来ていない。

退院してから下の姪っ子と会う時がある。そういう時姪っ子は、私の前を「にいにが通りますよ」と先導してくれる。小さい子なのにとても気の利く子である。そんな私は完全なおじ馬鹿である(笑)。

骨肉腫の好発年齢は10代・10歳未満であるが、姪っ子や甥っ子がならなくて本当に良かったと思う。正直言ってかなりしんどい思いをし、今もしているが、姪っ子や甥っ子がなるくらいなら自分がなる方が余程ましである。誰もならないのが1番いいのではあるが・・・。

抗がん剤副作用対策雑感

2007年01月16日 | Weblog
私の抱いた感想を率直に述べれば、抗がん剤の副作用対策は極めて不十分である。抗がん剤を投与する時は、前流しと言って、水分の補給を行い、 その後制吐剤(吐き気止め)を投与し、抗がん剤を投与する。しかし、この制吐剤が「馬鹿にしてるのか」というくらい効かない。プリンペラン・アモバン・カイトリル・ゾフラン等と様々体験したが、かろうじてやや効いたかなというのはゾフランくらいである。他は効いたという実感は全く持てなかった。

この問題の根本的な原因は、日本では患者は我慢すべき存在だと思われている所にあるのではないかと考える。それでは我慢すべきと考えているのは誰か。考えの古い医師・看護師・患者自身・家族、即ち合理的に物を考えられない全ての人達ではないか。ここで声を大にして言っておきたいのは、患者は病気になり、入院している時点で既にそれなりに苦しんでいる。さらに我慢する必要な全くない。その前提に立って初めて患者の苦痛を如何に除去していくべきかという真剣な議論が始まる。以前に有益な書籍の所で紹介した平岩正樹医師は可能な限りの副作用対策を行っている。このような医師が1人でも増えることを願うとともに、国民全体もそのような方向に意識を持っていってもらいたい。医療を受けることは修行ではない。生きていくうえで忍耐が必要なことは言うまでもないが、それを医療の現場に持ち込むことは完全に誤りである。医療を受ける時にも我慢が必要だという人は、是非とも全身麻酔をかけないで10時間くらいかかる大手術をうけてもらいたい。それを実行出来たなら、こちらもそう主張する人の話を聞く用意がある。

日本は、痛みを緩和するためのモルヒネの使用量が欧米に比べて圧倒的に少ない。これは、上記の理由に加え、モルヒネに対する偏見も作用している。いつの世も、どのような分野の問題でも、偏見は合理的結論を妨げる最大の阻害要因である。医師・看護師を含めた国民全体が、可能な限り合理的に、冷静に、様々な問題を考えてもらいたい。たまたま私は医療に関わる問題において問題提起をしているが、言うまでもなくこの問題提起は全ての問題に妥当するものである。

術後補助抗がん剤治療1クール目

2007年01月14日 | Weblog
人工関節抜去手術後はひどい熱が出た。手術のために無理やり38度まで下げた反動と、そのような中で骨をいじる手術を行ったためと思われる。41度の熱が1週間位は続いたと思う。ただ、この頃は意識が朦朧としていたので、記憶は定かではない。その後も41度までとはいかないが39度から40度の熱が暫く続いた。闘病中最も辛い期間であった。他の治療も筆舌に尽くしがたい辛さであったが、その中でも一際辛い期間であった。自殺してしまおうかと思ったくらいである。

そのような何時終わるかもわからない発熱地獄から開放されて暫くして、術後補助抗がん剤治療1クール目が始まった。平成16年8月19日のことである。今回はカルボプラチン(=パラプラチン)800mg。これもまた「毒薬」である。お気付きの方もおられるかもしれないが、術前補助抗がん剤治療1クール目で使用したシスプラチン類似の薬品である。シスプラチンのある分子の部分にカバーをかぶせることによって、シスプラチンの毒性・副作用を少し抑えた薬である。シスプラチンで余りに激しい副作用が出た患者や、腎機能が衰えたお年寄りの方に使われることが多い。(勿論他のがんではカルボプラチンを標準的に使うことはいくらでもある。骨肉腫は悪性度の高いがんなので、使われる抗がん剤は強く、かつ、高容量となる。)

主治医は術前の経験があるのでここでもやはりシスプラチンを使いたがったが私が拒否。カルボプラチンにしてくれるよう要望。臨床試験データでは、シスプラチンが効かなかった人にはカルボプラチンは効かないが、シスプラチンが効いた人にはカルボプラチンが効く可能性はそれなりにある。それを自分で調べて知っていたので、シスプラチンが劇的に効いた以上はカルボプラチンも効くだろうと考え、カルボプラチンを選択。確かにシスプラチンまでではなかったが、カルボプラチンも結構ひどい副作用が出た。シスプラチンやカルボプラチン、オキサリプラチン等はその名前から想像がつくかと思うが、プラチナ化合物(白金製剤)である。冗談で主治医が「君は金目の物に縁がないということだね。」と言ったので、私は「いや逆ですよ。縁があるからプラチナが出て行ってくれないんですよ。」と言い返したりしていた。この主治医はかなり際どい感じの冗談を良く言う。私はそういうのは嫌いではないので笑って応酬していたが、人によっては訴えてきたりするのではないかと内心心配している。ちゃんと人を見て話し分けていることを願う。

感染症雑感

2007年01月13日 | Weblog
感染症に罹ったことについて、それまでの経緯も含め、思う所を記したい。

6月21日の手術の数週間前、主治医とは別の医師に感染症について質問をした。感染症になったらどのようになるのかと。その時は感染症になったらどうなるのかという話がメインで、人工関節を抜いて最低半年はそのままにしておかなければならないという話であった。なぜ半年も抜いておかなければならないのか尋ねた所、3ヶ月は細菌の撲滅のため。残り3ヶ月はダメージを負った周囲の細胞の修復のためということであった。私はもっと話を聞きたかったのだが、ここで「悪い話はやめよう」と医師に言われ、話は打ち切られてしまった。この点を後でとても悔やむことになる。なぜ感染症になるかの原因の部分をもっと深く掘り下げて聞いておけば良かった。「悪い話だからこそ聞きたい」と引き留めるべきであった。感染症に対する認識が甘かった。

感染症になってから医師に聞いた話では、術後、感染症になる確率は10%だそうである。医療行為における10%のリスクというのはとても高い。この話は手術前には聞いていない。輸血のリスクや麻酔のリスクについてはどのようなリスクがどのくらいの確率で存在するのか詳しく説明を聞いたが、感染症については説明を受けていない。手術の同意書にはチェックが付けてあるだけであった。

私は学生の頃から法律を勉強していて、現在も法律に関わる仕事に就いているが、上記の病院の対応は医師の説明義務違反による債務不履行責任を問われる可能性を孕んでいるように思う。同意書にサインしているのだから感染症の説明に対する同意があったとして病院側が争い、勝つ可能性も考えられるが、微妙な判断になると思われる。10%もの高率の危険性を十分に説明しなかったからである。専門性の高い職業に就いている者には、その専門性が高ければ高いほど高度な注意義務が課せられる。その高度な注意義務を医師は果たしていなかったと言えるのではないだろうか。ありとあらゆるリスクを説明する義務まではないと思うが、10%のリスクは説明しなければならない。(その10%という数字にも私は疑問を持っている。私が入院していた病院では結構な数のMRSA患者がいたので、実はもう少し高いのではないかと。足を切断する結果になっていたら裁判で争っていたかもしれない。)

もちろん説明を受けていたとしても、患肢温存手術を選んでいたが、事前に説明を受けていれば心構えを含め、色々な対応を取れたのではないかと思う。傷口が塞がるまでは面会者とは会わない、ドレーンが抜けるまでリハビリを行わない、部屋に除湿機を置いて部屋の湿度を下げる等。そういったことを考える機会が与えられなかったことは非常に残念である。

人工関節抜去手術ならびに内部洗浄およびセメントビーズ留置

2007年01月12日 | Weblog
平成16年7月21日。人工関節抜去手術ならびに内部洗浄およびセメントビーズ留置。1度感染してしまった人工関節は抜かなければならない。通常、人が細菌感染した場合、自己の白血球や血液に乗った抗生物質によって細菌を退治する。しかし、腫瘍広範囲切除の際に血管も同時に切除されている私には白血球や抗生物質によって細菌を退治することが出来ない。血管が通っていないのだから当然である。そうなると敵のいない細菌はこれでもかとばかりに増殖し体に悪さをする。MRSA自体はそれほど強力な細菌ではないが、手術後やお年寄り、小さな子等、抵抗力の弱い人は気を付けなけなければならない。

手術をするためには体温が38度以下まで下がっていなければならない。40度くらいあった熱を下げるため来る日も来る日もバンコマイシン。やっと38度を切った所で手術。心境は無念の一言。8時間もかけて入れた人工関節を抜かなければならない。何の為の前回手術だったのかと、考えても仕方のないことが頭を巡った。

手術は約5時間。入れた人工関節をまず抜く。その後感染した箇所を中心に洗浄。その後当該箇所にバンコマイシンを固形化したものをワイヤーで繋いだ「セメントビーズ」というものを留置。セメントビーズを留置してくるのは、1つはMRSAの完全な撲滅のため、もう1つは、皮膚や筋肉の拘縮を可能な限り防ぐため。関節を抜いたままだとそこはスペースになってしまう。スペースがあるとそこを埋めようと皮膚・筋肉が拘縮して足が短くなってしまう。両足とも短ければ只の短足だが、片足だけ短いと非常に不便である。 私も拘縮を避けようとセメントビーズを入れたのであるが、結果としては5cm右足が短くなってしまった。非常に生活が不便な状態である。切断するよりは良かったと自分で自分を誤魔化すしかない。

MRSA感染

2007年01月08日 | Weblog
術後1週間はベッド上安静ということで、全てをベッドの上で済ませる。骨をいじる手術では熱が出るのだが、ご多分に漏れず私も39度位の熱が出た。しかし、それほど苦しいといった気持ちはなかった。

1週間経過後車イスに乗って院内を動き回る。原発巣切除を終えて、松葉杖で歩けるようになったら一時退院させてもらう約束を取り付けていたので、7月4日からリハビリ室でリハビリを始める。一時退院に向けてやる気満々であった。一時退院の目標を7月15日に自分の中で設定していた。

しかし、このはやる気持ちが仇となる。抜糸は済んでいたが、ドレーン(血液やリンパ液等の滲出液を体外に排出する管)はまだ抜けていない状態でリハビリをしてしまっていた。一般的にはドレーンが抜け、傷口がふさがってからリハビリをはじめる。

7月8日位から熱が上がり始める。白血球の数値と炎症反応を表すCRPの数値も上がり始める。感染の徴候である。ただ、この時点では白血球・CRPともに急激に上昇したわけではなかったので、風邪だろうということで、数日間は風邪薬を処方され、それを服用していた。しかし、その後白血球数が18600(正常値は3000~8000程度)、CRPの数値が22(正常値は0~0.5)にまで上がり、明らかに風邪とは異なる感染症であると判断され、ドレーンが挿し込んである所から滲出液を採取し、細菌検査に出す。数日後結果が判明。MRSA陽性。この時点で既に熱が40度近くにまで上がっていた。そこからはMRSAに唯一有効とされている抗生物質であるバンコマイシンをこれでもかと投与。手術した所にも直接注射。闘病中1番しんどい時期を過ごす。

私はMRSA感染するまで「闘病」という言葉が嫌いであった。何か大袈裟な感じがしていた。「そんなに大袈裟なものじゃないだろう。治療って言えばいいじゃないか。」と思っていた。しかし、MRSA感染を経験してからは「闘病」という言葉を使うことにした。なぜなら、「闘病」という言葉に値するほどの苦しさだったからである。40度を超える熱。当然食欲なぞなく、気力も衰える。幻聴も聞こえ出し、いつ熱が下がるかもわからない。お年寄りや子供が亡くなってしまうのがよくわかる苦しみである。次の手術後も含め、40度以上の熱が1ヶ月以上続いたと思う。高いときは41度。本当に辛かった。

この時までほとんど冷静さを失わず治療に臨んできたが、初めて冷静さを欠いた局面であった。

腫瘍広範囲切除ならびに人工膝関節置換術

2007年01月08日 | Weblog
平成16年6月21日。腫瘍広範囲切除ならびに人工膝関節置換術。朝9時から8時間の手術。大腿骨から脛骨にかけて(わかり易く言うと太ももからすねあたりまで)15cmほどを周囲の筋肉とともに切除し、コバルトクロムという金属で出来た人工関節を埋め込む。私の腫瘍は割と大きめだったが、それでも足を残せたのは抗がん剤が良く効いたことと、主治医の腕が良かったことが理由であろう(ファーストオピニオンのがんセンターでは切断だと言われていた。)。抗がん剤が良く効くと腫瘍細胞と正常細胞の境界がはっきりしてくる。その境界線の少し外側を電気メスで切っていく。

骨肉腫に限った話ではないが、がんの手術で1番大切なことは腫瘍細胞に切り込まないようにすることである。誤って腫瘍細胞に切り込んでしまうと「播種(はしゅ)」と言って腫瘍細胞が散らばってしまう。散らばってしまうとそれらの腫瘍細胞は血液やリンパに乗って全身に散らばってしまう。万が一にも切り込んではならない。かといって余り広めに切除すると足の機能が残せない。私の主治医は人工関節手術の第一人者と言っていい人物だったので、幸いにも私の足は残った。この主治医でなければ足は残せなかったのではないかと思う。

手術後、切除した骨および筋肉を見せてもらったが、かなり大きく且つグロテスクなものであった。写真もあってこのブログに載せようと思えば載せられるのだが、ちょっとグロテスク過ぎるかなと思うので、載せないつもりでいる。

放射線治療

2007年01月06日 | Weblog
前述のとおり、私は非常に抗がん剤が効きやすいので、医師は抗がん剤治療を継続したかったようであるが、ここでも私が抗がん剤の継続投与を拒否。手術を行ってくれるよう依頼した。ただ、私の腫瘍は太い血管(おそらく大動脈)および神経を巻き込んでいたので、それらを切断することなく足を残すためには放射線をかけておかなければならないということで、放射線をかけることになった。放射線の単位はグレイというが、私は30グレイを10日にわけて照射した。これも非常に良く効き、ALPが1000下がった。一般に骨肉腫には放射線があまり効かないと言われるが、医師にはあまり一般論にはとらわれず、実施可能で、副作用の大きくない治療には積極的に取り組んでもらいたい。(これは手術後に医師から聞いたことだが、血管・神経に浸潤していた腫瘍細胞は死滅していたということである。事実、今も私の足は繋がっている。)
いよいよ次は手術である。


術前補助抗がん剤治療2クール目~その2~

2007年01月06日 | Weblog
本筋に戻る。アドリアマイシンは50mgを2日間。「毒薬」のシスプラチンに比べると格段に楽な副作用であった。これで効果がなければどうにもならないが、幸いなことにこちらも良く効き、投与時7800あったALPが約4000と、こちらも半減。効果判定はPR。「これはいい」と思い、その後の抗癌剤治療の軸とすることを自分の中で決める。ここでまたまた話が横道にそれるが、主治医・その他のお世話になった医師・看護師といった方々に対して私は非常に感謝している。ここまで私のブログを読んで頂いた方は既におわかりのことかと思うが、私は理屈っぽく且つ自己主張が強い。そのような私に対して、いやな顔をせず治療にあたってくれた。とりわけ主治医は非常に器の大きな人物で、感情的な対応を取られたことは1度もない。良い先生に巡り合えてとても良かった。この主治医は朝6時代から患者の病室を全室まわり、にこやかに言葉を交わし、その後ナースステーションでひとしきり話をして、診察またはオペに向かう。診察はお昼も取らずに午後3時くらいまで。オペの場合は、種類によるが、10時間くらいかかるオペもザラにある。それを毎日、およそ40年続けている。ただただ頭が下がる。現在の医療制度はそのような心ある医師、看護師に無理を強いることでかろうじて成立している。直ちに改善策を講じなければならない状況であるが、当事者意識の欠如した厚生労働省の役人、政治家、社会的問題に無関心な国民によって、改善の歩みは遅い。

再び本筋に戻る。 アドリアマイシンの副作用として気を付けなければならないのは骨髄抑制であるが、幸い私は骨髄体力が強い方だったので、白血球・血小板・赤血球・好中球等の数値はそれほど下がらなかった。大変ラッキーであった。アドリアマイシンの副作用としてもう1つ良く言われることは「髪が抜ける」というものである。これは正確に言うと全身の毛が抜けるということであるが、私は男ということもあり、全く気にならなかった。抜ける毛がうっとうしいなという程度の感想であった。ただ、母親は、ごっそり抜ける(実際は抜けるというより、ガサっと取れるというイメージに近い)髪の毛を見て涙を流していた。女性と男性では感じ方に違いがあるのであろう。私は病気が治るのであれば、全身の毛が一生はえてこなくても構わないと思ったものである。眉毛はかけばいいし、かつらもある。冬少し寒いくらいの実害しかない。

術前補助抗癌剤治療2クール目~その1~

2007年01月06日 | Weblog
術前補助抗癌剤治療2クール目はアドリアマイシン。1クール目のシスプラチンが非常に良く効いたので、医師はあと何クールかシスプラチンを続けたかったようだが、あまりに激しい副作用のため私が拒否。抗癌剤3クールくらいで全ての治療が終わるのであればシスプラチンを投与し続けても良かったが、入院前の説明では、順調に行ったとして、術前補助抗癌剤治療を数クール、その後原発巣切除手術、さらにその後で術後補助抗癌剤治療6クール、期間としては約1年ということだったので、とても体がもたないと判断。結果論ではあるが、この選択は正しかったと思う。なぜなら手術後MRSAに感染し、手術を2回余計に受けなければならなくなったからである。MRSA感染については後日改めて詳しく記したいと思う。

シスプラチンは「毒薬」であったが、アドリアマイシンは「劇薬」。よくもまあこんなにおどろおどろしい薬が打ち込まれるものだと思ったものである。話は少し横道にそれるが、抗癌剤は非常に強い薬なので投与ごとに同意書を取られる。抗癌剤の投与を受ける者は覚悟をもって投与を受けなければならない。薬によって、投与の仕方によって当然違いはあるが、抗癌剤投与には数%の死亡率があると思っておいた方がいい。そのリスクを引き受けられないのであれば抗癌剤投与は受けない方がいい。日本ではほんのちょっとでも副作用死が出ると、マスコミを筆頭に鬼の首でも取ったように騒ぎ立てる。100%安全な行為などこの世に存在しない。道を歩いているだけでも死ぬときは死ぬ。ましてや医療行為に絶対安全などということはない。安全性を追求することと、100%の安全を保証するということは全く別個の問題である。マスコミは幼稚な煽動は厳に慎むべきである。副作用死の可能性が何%あるかを伝えることは大切なことであるが、副作用死のあるその薬を使うか否かは患者の自己決定権の問題である。3%の副作用死の可能性があったとしても、97%の奏功に掛けるというのも生き方としてはあり得る。マスコミやそれに煽られる人々は、97%に掛けたいと思う人の選択肢を奪ってはならない。とかく日本人は情緒的な反応をしがちなので、この点は強く言っておきたい。

有益だった書籍とサイト

2007年01月03日 | Weblog
私にとって有益であった書籍やサイトを以下に紹介したい。ガン患者の方はご覧になっては如何であろうか。

1)平岩正樹氏の書籍全て:氏の書籍は取り寄せて殆ど読んだが、同意・共感出来ない部分がなかった。非常に有益な著作の数々であった。

2)がんのWeb相談室:がん治療に真摯に取り組んでいる医師が、がん患者の質問に答えてくれるとてもタメになるサイト。

3)夢幻夜想:同じ病と闘った方の記録。とても勉強になった。

4)Ryo's:同じ病と闘った子の記録。子供の持つ強さ、優しさ、人生の過酷さを教えてくれる。

5)星の王女さま:同じ病と闘った子の記録。家族の絆、親の子を思う気持ちを教えてくれる。


いわゆる代替療法・民間療法・健康食品等について

2007年01月02日 | Weblog
発症してしまった癌については民間療法ないしは健康食品は全く無効であると考える。エビデンスのはっきりしない治療法も同様である。発症してしまった癌には手術・抗癌剤・放射線以外の治療は効かない。癌患者はこの点を肝に銘じるべきである。癌はそれほど甘い病気ではない。免疫療法や温熱療法などが実験的になされているが、あくまで実験と割り切るべきである。遺伝子治療にも過度の期待を寄せてはいけない。繰り返しになるが、現時点でエビデンスのはっきりした治療は手術・抗癌剤・放射線治療だけである。癌になると不安になって、エビデンスのない治療や健康食品に惑わされがちだが、そんなもので治るのであれば毎年30万人以上の人間は死なない。その現実を見つめるべきである。発症前に自らの免疫力を高めるために食事に気を配ることは良いことだと思うが、その免疫システムをかいくぐって形成されたのが癌病巣である。それに健康食品などが効くわけがない。効くと喧伝する人間はその治療で日本中の癌患者を治して見せてもらいたいものである。アガリクスやクロレラ、メシマコブ、温熱療法、遠赤外線温浴など、どれも全く効かない。悪化させるだけである。そんなものに使っているお金や時間があるのなら、抗癌剤治療を熱心に研究している医師を探す方が余程有益である。ただ、日本にはそのような医師が限りなく少ないというのが難点なのであるが。

民間療法ないしは健康食品、さらには怪しげな宗教にまで絡め取られている病人が我が国には多いと思うが、それは医師・現代医療に対する不信の反射でもある。医療関係者には、病人がエビデンスのない治療に絡め取られないように、診療・治療技術を磨き、情報公開を適切に行い、患者とのコミュニケーションを密にしてもらいたい。それが現在の医療制度では難しいとはわかってはいるのだが・・・。