がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

本ブログの目的

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月27日記載

本ブログを作成し始めた理由は、1つには稀有な病気の記録を残すこと。もう1つには、記録を残すことと関連するが、同病ないしは同系統の病気(悪性骨軟部腫瘍)になった人およびそれらの人達の関係者の方々に情報提供をしようと思ったことである。

私が骨肉腫に罹患していることが判明したとき、情報を求めて色々彷徨ったが、役立つ情報には余り多くは出会えなかった。

それは骨肉腫の好発年齢が10代・10歳未満であること及び罹患者の絶対数が圧倒的に少ないことが理由であろうと思う。私のように30になってから骨肉腫になった人は日本でも数えるくらいしかいないのではないだろうか。

幸か不幸か私は理屈っぽく神経質なので、色々な資料を調べ、自らの闘病の記録も取ってあった。そこで、これらを一般に公開して、情報を求めている人達の一助としてもらおうと思ったのである。

そしてこの所期の目的はある程度達成出来たのではないかと自分としては思っている。

以上のことから、最終クールの抗がん剤治療の記事の掲載をもって本ブログを終了しようと思っている。時期的にはゴールデンウィーク中くらいになるかと思う。

ただ、その後でも言及すべきと思うコメントに対しては言及し、定期検診の結果についての報告は行っていく予定ではある。

ちょっと早いが、これまで関心を持って読んで頂いた方々に対して感謝申し上げる。と同時に、もう少しだけお付き合い願いたい。


続・頂いたコメントについて11

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月24日記載

頂いたコメントに言及する。頂いたコメントは以下のとおり。

「自分のコメントが取り上げられると照れちゃいますね(^_^;)

切断したものの、傷口が塞がらず再度切断…それもまた…で
計三回、股関節まで切断したので、最後は幻肢痛にかなり苦しめられていましたね。
モルヒネを使ったところで痛みは消えず…

せめてもの救いは最後の時が近付くにつれ、痛みが薄れたようで眠るように逝けた事でしょうか…。

すみません…
自分の事ばかりでm(__)m


切断とならずにホントに本当によかったですね。

的外れなコメントでごめんなさい(>_<)

削除していただいても構いませんので…。」


お父様ほどの苦しみとまではいかないが、私もそれなりに苦しみを味わっているので、お父様の苦しみの幾分かはわかると思う。

本当に痛みはつらい。すべての気力が奪われる気がする。お父様の苦しみはいかばかりかと思う。


TP(トータルプロテイン)の値が低いと、傷口の塞がりが余り良くないようである。お父様は闘病生活によってTPが下がってしまっていたのかもしれない。私もTPの値が下がらないように鶏のささみなどを意識して多く摂った。


最後は少しは痛みがうすれたようで、それがせめてもの救いであっただろう。私も死ぬ際は少しでも苦しみ少なく死にたいというのが願いである。生まれてきた以上、死ぬことは止むを得ない。そして大抵の場合、死ぬ時は苦しいものであろう。ただ、自分としては、もうその苦しみは味わったように思う。せめて死ぬ時は安らかに死にたい。


現在の所、幸いにも足は繋がっているが、人工物が入っている以上、いつ感染してもおかしくない。感染しないよう注意を払っているつもりであるが、人工関節が入っている限り感染の可能性は常にある。ただただ感染しないことを願うしかない。


人間はなんと無力であろう。


ハレルヤ~チャンス

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月24日記載

タイトルの言葉は月9ドラマ「プロポーズ大作戦」で山下智久(以下「山P」という)が過去に戻る際に発する言葉である。

長澤まさみファンの私としては是非とも見なくてはと思って見始めたのだが、これがなかなかいい。

長澤まさみがかわいいのは当然の前提として(笑)、ドラマの中で山Pがよく走る。全速力で走る。その姿が「THE 青春」という感じで清々しい。「青春ってああいうエネルギーを持ち合わせていることを言うんだよな。」と見ていて思う。歩いてもいいんだけど、抑え切れない思い・エネルギーがあって全速力で走る。それでいてすぐに回復する。疲れなんて感じない。それこそが若さなんだよな、と思う。現在自分が疲れ易い状態にあるせいもあって、羨ましくもあり、また、もう若い頃には戻れないんだよな、と思って、少し切なさを感じたりもする。

いつから自分は全力で走れなくなったのだろう。損得抜きで、衝動だけを源泉として突っ走れなくなったのだろうと思う(ここでいう「走る」とは精神的に、という意味である)。それは「大人」としては当たり前のことなのだろうが、一方で、何も考えず、「思い」だけで突っ走ってみたいという願望もある。

そんなことを考えながら、毎週楽しく、しかし、甘酸っぱい思いを抱えながら、ドラマを見ていきたいと思う。


おじ馬鹿日記8

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月22日記載

今日は高校に入学しためいっこ、9歳のおいっこ、7歳のめいっこが遊びに来た。上のめいっこは勉強に励みつつも同好会に入って、楽しい高校生活を送っているようである。下のめいっこは今日は凄くシャボン玉遊びをしたかったようで、「今日は風が強いから止めたら?」という周囲の声も聞かず、風の強いなかシャボン玉遊びをしていた。やってみると意外とよく、シャボン玉が強い風に乗って速く綺麗に飛んでいった。

私にとって今日1番面白かったのはおいっこの話で、おいっこは今「コロコロコミック」を定期的に購入して読んでいるらしい。その中に「デンジャラスじいちゃん」というキャラクターが出てくるマンガがあるらしい。その「デンジャラスじいちゃん」の話を「にいに(私)」に色々教えてくれた。内容については割愛するが、なるほどそれはデンジャラスだな、と思った。ひとしきりそんな話をした後で、帰り際においっこが「にいに、コロコロは14日か15日には出るよ。」と私にコロコロの発売日情報を教えてくれた。

おいっこよ。「にいに」とは呼ばれているが、にいには30代だよ。さすがにコロコロは読まないよ。情報は有難く頂戴しておくけど、多分コロコロを買いには行かないよ。同い年くらいに見られてるのかな、にいには(笑)


やっぱり子供はかわいい。


生徒達との思い出

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月22日記載

過日述べたとおり、病気になったとき私は塾の経営・運営・講師をしていた。生徒達との思い出はたくさんあるが、そればかり記載すると「ガン闘病記」ではなく「生徒達との思い出」とタイトル変更をしなければならなくなってしまうので、病気に関わるところでの生徒達との思い出だけを記したいと思う。

私の病気が判明したとき、自分が担当していたある生徒に病気のことを率直に話した。もしかすると足を切断しなければならないという話もした。すると、その生徒は「私が先生の右足になってあげるよ。」と明るく言った。子供の言うことなのでそれ程深く考えた発言ではなかったと思う。しかし、そうであるが故に偽りの無い優しい気持ちの発露であったように思う。とても嬉しく思った。その生徒とは今でも連絡を取ることがたまにあるが、私の右足になってくれると言ったことなどどこ吹く風といった感じで(笑)一生懸命に自分の人生を歩んでいる。幸せな人生を歩んでいってもらいたい。

また他のある生徒にはMRSAに感染したとき「先生死ぬかもしれない。」とメールを送った。(実際その時は死ぬかもしれないと思って、予め伝えておかなければとメールしたのだが、今冷静になって考えてみると、生徒にそのようなメールは送るべきではなかったように思う。その時は冷静に物を考えられる状態になかったということで言い訳とさせてもらいたい。)すぐに「ダメ×⑳ イヤ×⑳」というメールが返ってきた。とても嬉しく、死んじゃいけないなと思ったものである。この生徒ともたまに連絡を取っているのだが、彼氏も出来て楽しく暮らしているようである。こちらもまた幸せな人生を歩んでいってもらいたい。

他にも心配してくれた生徒や親御さんはたくさん居て、そのうち何人かは病院にお見舞いにきてくれた。

骨肉腫になったことで、私は少なくとも50%程度の確率で死ぬだろうと予測していた。幸い抗がん剤が良く効いて現在も存命中だが、生きるか死ぬかの瀬戸際であっても割と冷静でいられたのは、上記のような生徒や親御さんとの人生が送れて幸せだったと思っていたからだと思う。「他の人よりは短い人生になる可能性が結構あるけど、幸せな人生だったな」と告知当時思ったものである。

私の心の中では、十年後になるか、二十年後になるかはわからないが、また塾を開いて子供達と暮らしていきたいという思いが捨て難くある。実現可能性は現在のところ全くの未知数であるが、また子供達と暮らせたら幸せだろうなと思う。


頂いたコメントについて11

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月21日記載

頂いたコメントについて言及する。頂いたコメントは以下のとおり。

「大変な苦痛を乗り越えられたんですね…。

私の父は閉塞性動脈硬化
で両足切断しました。

切断に至るまでの過程は
とても言葉では言い表せない程の闘病でしたね…。

「切って痛みがなくなるなら切ってくれ」
どんなに酷く苦しい状況でも 痛い 苦しい と一言も言わなかった父が泣きながら言った言葉が今も耳に焼き付いています。」



お父様の痛みに対する気持ちは文字通り痛いほどよくわかる。しかし、現実はさらに厳しい。

ご存知かもしれないが、切断をするということは神経も含めて切断するということである。神経を切断すると「幻肢痛(ファントムペイン)」という痛みが生じる。読んで字の如く、無いのにあるように感じ、そこが痛むのである。人により違いがあるが、非常に強い痛みが一生続く場合もある。行くも地獄、退くも地獄である。


人工関節再置換手術

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月21日記載

平成17年3月31日。人工関節再置換手術。成功すれば9ヶ月にわたった膝関節のない生活に終止符が打たれる。しかし、前回のMRSA感染の経験があるため、術前に、再感染した場合にどうするかを自身で決める。再感染した場合は切断。親の同意も取得し、いざ手術へ。6~7時間の手術。まず内部に留置してあったセメントビーズを除去。その後、皮膚・筋肉の拘縮のため、前回入れた人工関節よりもやや小さめの人工関節を入れて手術は終了。全身麻酔下のため当然意識・記憶はない。

麻酔から醒めてから1地獄待っていた。セメントビーズを9ヶ月入れていたため、セメントビーズが脚の内部組織とすっかり癒着してしまっており、それを無理矢理引き剥がさなければならなかった。その引き剥がす過程で、細かな血管や神経を傷つけてしまった。そのため麻酔から醒めて脚を見てみると、右脚全体が真紫。右脚全体が内出血しているような状態。これまでの3回の手術では、医師から「痛みには強い方なの?」と言われるほど全く痛がらなかった私が、苦痛で顔を歪める。これまで経験したのとは全くレベルの異なる痛み。様々な鎮痛剤(モルヒネも使ったと思う)も全く効かず、痛みに苦しめられたまま2週間程が経過。

やっと真紫だった脚が黄色味を帯びてくる。ちょうどあざが徐々に治っていくような感じである。それからまた2週間くらいすると、脚はほぼ黄色になっており、痛みもだいぶ和らいだ。この時の感想は「脚を取ってくれ。」「どれだけ苦痛を味わえばいいんだ。」というものであった。

人工関節再置換手術を受ける人は日本中でもそう何人もいないと思うが、相当な痛みが術後に待っていると覚悟しておいた方がいい。ちなみに、私の脚にはその時に除去しきれなかったセメントビーズが1部残っている。そのくらい内部組織と癒着してしまっているということである。レントゲンを取るとそのセメントビーズの残滓がはっきりと映っている。


疲れの原因判明

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月20日記載

余りに疲れがひどく、かつ、長引いているため、心療内科を受診。24時間の自律神経検査を受ける。すると、交感神経が24時間高いレベルのまま推移していることが判明。医師曰く「24時間運動し続けているのと同じ。」とのこと。道理で疲れるわけである。眠りが浅いなと思っていたのもそれで合点がいった。同時に、副交感神経の働きが悪いことも判明。全くリラックス出来ていないとのこと。

そこで、交感神経の働きを抑える薬と副交感神経の働きを良くする薬を処方してもらい、現在服用中。自分としては原因がはっきりしたことで少し安心した。薬の力も借りながら、うまく気分転換をはかるよう意識して今後の生活を送り、現在の疲れ易い状態を脱したいと考えている。

明日で骨肉腫との告知を受けてから丸3年である。1年4ヶ月の過酷な闘病生活と、すぐに社会復帰して1年半のフルタイムでの勤務である。自分で言うのもなんだが、良くやっていると思う。自律神経の1つや2つおかしくなっても止むを得ないだろう。ただ、このままでは如何ともし難いので、自律神経が全うに機能するよう生活改善をしていきたいと思う。

過酷な闘病生活やストレスフルな毎日で疲れが抜けない方がいたら「24時間自律神経検査」を受けてみたら如何かと思う。交感神経が高いレベルのまま推移していて体が全く休まっていないかもしれない可能性がある。私が受診した病院では保険適用外で5000円であった。疲れの原因がはっきりするのならそれ程高くはないかなと思う。睡眠時無呼吸症候群か否かもわかる。ちなみに私は睡眠時無呼吸症候群ではなかった。


術後補助抗がん剤治療4クール目

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月07日記載

平成17年1月20日。術後補助抗がん剤治療4クール目はまたまたアドリアマイシン50mgを2日間。これも私がリクエスト。

病院からは前の月である12月に術後補助抗がん剤治療4クール目を行おうと言われたが、ここでもまたまた私が拒否。理由は、クリスマスや正月を病院で過ごすのが嫌だったからである。以前にも書いたが、私は無神論者なのでクリスマスも正月も関係ないのだが、病院ではクリスマスに医師がサンタの格好をし、正月は正月でそれらしいことをする。それに参加させられるのが嫌だった。余計寂しくなるような気がした。喜ぶ患者さんも結構いるらしいが、私には理解できなかった。

そういうわけで上記の期日に投与し、術後補助抗がん剤治療2クール目と同じような副作用が出て、そこそこしんどい思いをし、術後補助抗がん剤治療4クール目を終えた。

いよいよ次は人工関節再置換手術である。成功すれば9ヶ月の膝関節のない生活にピリオドが打てる、と思ったものである。ただ、人工関節を入れる以上は再感染のリスクがあり、もう1度感染したら耐えられないんじゃないかなと、41度の発熱地獄を思い出しながら怯えていた。


イフォマイドの投与法について

2007年08月18日 | Weblog
2007年04月05日記載

恐らく日本の殆どの病院がそうであると思うが、イフォマイドを骨肉腫の治療に使う際の投与法は以下の通りである。

まず、前流しの点滴(生理食塩水)を24時間流す。その後または同時に制吐剤を投与し、続いてイフォマイドを連続投与する。術後に投与する場合は減量して5日間とされる場合があるが、術前に使われる場合や、術後であっても術前の抗がん剤治療があまり奏功しなかった場合には、7日間、時間にして168時間投与されることになる。時間もさることながら、量もまた尋常ではない。私の体重・体表面積を前提にすると、7日間で28g(=28000mg)が投与されることになる。超大量イフォマイドと言われる所以である。その後で後流しの点滴(生理食塩水)を24時間流すので、点滴に繋がれている期間は9日間、時間にして実に216時間である。

私がイフォマイドを忌避していたのは、副作用もさることながら、この時間の長さにうんざりしていたからである。216時間3リットルの点滴袋に繋がれて、かつ、副作用に悩まされ続けるということを考えただけでうんざりしていた。投与前から気持ちで負けていた。下手に知識が身に付いているので、事態を予見してうんざりしてしまうのである。この辺が私のウイークポイントである。

ここで1つ医師に提案があるのだが、私が調べた範囲ではイフォマイドを間欠的に投与する方法もあるようである。効果も連続投与と遜色ないようである。であれば、間欠的に投与する方法も選択肢の1つとして頂けないであろうか。連続投与に耐えられる強い精神の持ち主は連続投与でもいいだろうが、私のようなへこたれてしまう患者もいるので、是非検討してもらいたい。

ちなみに、イフォマイドの副作用はアドリアマイシンより強め、シスプラチンよりはやや楽といったところであろうか。個人的には吐き気が一番辛かった。白血球もガクンと下がり、髪も抜けた。


君がくれた夏 ガンと闘った息子の730日

2007年08月18日 | Weblog
2007年08月16日記載

タイトルに記載したのは、8月18日(土)に24時間テレビで放送されるドラマの名前である。

内容は骨肉腫と同系統の悪性骨軟部腫瘍の一種であるユーイング肉腫と闘った男の子の話である。

ユーイング肉腫も骨肉腫に劣らず大変厳しい病気である。個人的には、骨肉腫よりも治療が過酷であると思っている。

私は骨肉腫の告知を受けた頃、情報収集のために色々彷徨ったが、その時に出会ったのが「かずちん」さんの「fragrant olive」というホームページである。(URLは http://kirika.jp.org/ )

かずちんさんは私と同じ病院に入院していたため、大きな関心を持って拝見させて頂いていた。ユーイング肉腫に関する情報を求めている方はこちらを訪れてみるのもいいのではないだろうか。

ユーイング肉腫については、「少しは、恩返しできたかな」という本も出ているので、そちらを読んでみるのもいいかもしれない。(どちらも実話である。)