がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

それでもボクはやってない

2008年02月29日 | Weblog
2008年02月29日 13時21分記載

周防正行監督の映画「それでもボクはやってない」が、明日21時からフジテレビ系列において放送される。丁度いいので、明日見てみたいと思う。


見たことがないので、タイトルからの想像になるが、おそらく警察・検察の不当な取調べ・起訴が主題として扱われるのかなと思う。


どういう結論になるのか(有罪になるのか無罪になるのか)は見てみないとわからないが、いずれの結論であってもそれが「真実」かどうかは犯行現場を現認した者(犯人・被害者を含む)以外にはわからないということを我々は忘れてはいけない。


周防正行氏が監督なので、「警察・検察が横暴で、裁判の結果、被告人が無罪となり、バンザイ!」なんて単純なストーリーになるのかどうかはわからないが、仮にそうだったとしても、無罪となったその「ボク」が真に無実なのかどうかはわからない。ただ、「無罪」という判決が下ったという事実が存在するに過ぎない。それ以上でもそれ以下でもない。


最近は、裁判所に対する期待が過剰だと私は感じているが、刑事裁判で「真実」はわからない。刑事裁判でわかるのは、検察官が作成した起訴状に記載されている公訴事実という物語が相当程度に確からしいか否かということだけである。裁判所に「真実」を明らかにする能力はない。


国民は、裁判所に過剰な期待を抱くのを止めるべきである。


「真実」を知りたい人は哲学や神学を学んだ方がいい。



田宮榮一元警視庁捜査第一課長への質問

2008年02月29日 | Weblog
2008年02月29日 12時23分記載

「無罪と無実は異なる。」と頻繁に公共の電波で発言している田宮氏に是非教えてもらいたいことがある。



「無罪と無実は異なる。」と言えるためには誰かが「真実」を把握している必要があるが、誰が「真実」を把握しているのか教えてもらいたい。

「無罪と無実は異なる。」と述べ、最高裁判所の無罪の確定判決は無実を示すものではないとするなら、誰がどのような根拠を持って「真実」をまごうことなく「真実」だと言い得るのか。是非お教え頂きたい。



よもや「自分」だなどと言いますまいな。



請願

2008年02月28日 | Weblog
2008年02月28日 22時22分記載

三浦和義氏の身柄拘束を我が国政府が認めるのであれば、我が国政府に是非お願いしたいことがある。



それは、沖縄(沖縄でなくても勿論構わない。)で犯罪を行ったと思われるにもかかわらず、基地に逃げ帰ることによって我が国の裁判を受けずに逃げおおせたアメリカの軍人・軍関係者のリストを作成し、それらの人間の行動をウォッチして、アメリカの主権が及ばない地域に出たところで身柄を拘束して我が国で刑事裁判を受けさせてもらいたい。



三浦和義氏にアメリカで裁判を受けさせられるならば、上記のことも可能なはずである。



日米地位協定によって阻まれてきた我が国司法権の行使を是非ともお願いしたい。



沖縄の人達がこれまでどれだけアメリカの軍人・軍関係者にひどい目に遭わされてきたことか。それに目をつぶるような政府であっては断じてならない。



(この頃「断じて」が多いな。よっぽど許せないことが多いんだな、俺。)



田宮榮一元警視庁捜査一課長は自制を

2008年02月28日 | Weblog
2008年02月28日 18時38分記載

田宮榮一元警視庁捜査一課長は、三浦和義氏の件に関しては発言を差し控えるべきである。



田宮榮一氏は、三浦和義氏を捜査した人間である。当然三浦和義氏を犯人だと思っている。しかし、我が国最高裁は三浦和義氏を無罪と確定した。そうである以上、街の居酒屋で酒飲みながら喋ってるならまだしも、公の電波で三浦和義氏を犯人視する発言は差し控えるべきである。

公判請求しておきながら、その公判で無罪の判決が下ったら、相手方当事者のいない所で犯人扱いするのは卑怯極まりない。

田宮氏の発言は、裁判所の判断は、警察・検察の主張に沿わない結論を出した時には間違っていると言っているに等しい。



一警察官の判断が最高裁判所の判断を上回るなどということは断じて認められない。



なぜ日本テレビはこのような人物に勝手気儘な発言をさせているのだろう。



政府・最高裁は明確な意思表示を

2008年02月28日 | Weblog
2008年02月28日 18時18分記載

三浦和義氏の身柄拘束について政府・最高裁は明確な意思表示をしてもらいたい。

認めるなら認めるで、その根拠を明らかにし、認めないなら認めないで、その根拠を明らかにしてもらいたい。



鳩山法務大臣は、「一般論としては」などという前置きをして、ちらっと記者会見で話をしていたが、そんな中途半端な一般論なんて別に聞きたくない。

我が国の最高裁判所が無罪と判決を下した人間の身柄が、当該無罪判決と同一の嫌疑で他の国家に身柄拘束されているのであるから、認めるのか認めないのか、はっきりと判断を示すべきである。



鳩山法務大臣の一般論を聞いて思うのだが、なぜ新聞記者等、その場で聞いている人間は「一般論なんて別に聞きたくないんです。三浦和義氏が身柄拘束されているこの件についての政府公式見解を聞きたいんです。」って言えないのかと思う。(所詮マスメディアの人間はその程度の人間の集まりだと言ってしまえばそれまでだが。)



認めるなら、警察も検察も裁判所も、捜査資料・公判資料を開示して全面的に協力すればいい。認めないなら、直ちに身柄の返還を要求すべきである。

いずれにしても、はっきりとした判断を示してもらわないと我が国政府・最高裁が何をどう考えてるのかさっぱりわからない。

そういうあやふやな、全てを有耶無耶にする態度が田宮榮一元警視庁捜査一課長の勝手気儘な発言を許している。(今日も日本テレビのニュース「リアルタイム」で「三浦氏は嘘をつくのがうまい」と言っていた。嘘かどうかなんて一捜査官になぜわかる?お前は神様か?)



ひどい話ー強盗容疑の誤認逮捕で国・県に賠償命令…宇都宮地裁

2008年02月28日 | Weblog
2008年02月28日 17時33分記載

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080228-OYT1T00328.htm

「宇都宮市で起きた2件の強盗事件で誤認逮捕され、無罪判決を受けた冤罪()被害者の同市の無職男性(56)が、違法な逮捕と捜査で精神的苦痛を受けたとして国と県を相手取り慰謝料500万円を求めた国家賠償訴訟の判決が28日、宇都宮地裁であった。


福島節男裁判長は、「警察官は男性を誘導し、虚偽の自白調書を作成した」として国と県に計100万円の支払いを命じた。

訴えなどによると、男性は2004年に洋菓子店とスーパーで起きた事件で宇都宮東署に強盗容疑で逮捕され、宇都宮地検に起訴された。しかし、公判中に別の男が犯行を認めたため、検察は男性の無罪を論告し、宇都宮地裁も05年、無罪判決を言い渡し、確定した。

原告側は、男性に知的障害があるとして、「障害は容易に認識できたのに、裏付け捜査を十分にせず、供述の信用性を確かめる当然の職責を怠った」と指摘。誘導して供述調書を作り、手を持って無理やり地図を書かせるなどの違法捜査が行われたとしていた。」


自分の名前しか書けない知的障害者相手に、警察も検察もひどいことするよな。



頂いたコメントについて33

2008年02月27日 | Weblog
2008年02月27日 12時21分記載

頂いたコメントに回答する。頂いたコメントは以下の通り。

「癌患者のstudy2007と申します。癌とは関係無いのですがこの報道に興味を持ったところにオレステステスデストラーデさんのしっかりしたご意見が出されましたので少しアドバイスを求めたくなりました。当方はワイドショーをちらっと眺めただけの大変浅はかな理解ですので間違いもあるかと思いますが、2~3御教示頂ければと思います。面倒ならスルーしてもらって結構なのですが、ご意見など伺えれば幸いです。

1.先ず、今回の件は日本人が米国で起こしたとされる事件の嫌疑であり、法律的主義のバッティングはあるものの、日本、米国双方に司法権がある、もしくはあった。という理解でよろしいでしょうか?

2.もしそうだとすると、20数年前に米国が日本側の司法に判断を委ねる際には、一般論としてなんらかの取り決めなり、(米側の捜査停止命令などの)通達なりが成されないモノなのでしょうか?例えば今回のケースでは「米側は司法権を永久に放棄する」等の文書を取りかわしておかなければ原理的にはこういう事は起こり得る訳ですよね。(素人目には非常に不思議に感じます。)

3.日米の捜査協力と司法権の受け渡しが「あ・うん」の呼吸で行われたモノだったと仮定しての質問ですが、今オレステステスデストラーデさんや三浦氏の弁護士が「容認できない」としているのはこの「あ・うん」の呼吸を解さないアメリカ側の捜査姿勢に対して。という理解で宜しいでしょうか?

私の所感を述べますと、三浦氏は日本の法原理に従い、公正に裁きを受け無罪を勝ち取ったのだと思います。事件への関与が真に無かったのか、あるいは上手に犯罪を設計したのかは私には判りません。ですが司法の判断は尊重されるべきだと思います。で、あるならば、今回の様に原理的に2重の司法権が及ぶ場合には、その適用が及ぶ限りにおいてですが、2重に裁かれても特に問題は無い様に感じます。「日本の司法をバカにしている」とか「文明国として侮られた」などの感情的な反発では無く、加害者及び被害者の人権を保護するための法の当然の行使を日米双方に期待するところです。三浦氏の弁護士のコメントなどを垣間見ますと、ともすれば「被害者の人権よりも日本の司法の面子の方が重要」という意見にも聞こえてしまい、少し違和感を感じております。以上よろしく御願い致します。」



1.について:その通りです。刑法の場所的適用範囲については属地主義・属人主義・世界主義・保護主義があり、それらの主義をどの犯罪に適用させるかは、各国・各州で異なります。しかし、自国・自州で起こった犯罪に対して当該国・州の刑法が適用されないということはまず考えられませんので、犯罪の実行行為の少なくとも一部が行われた国・州の司法権が当該犯罪に及ぶと考えて差し支えないと思います。(この点について確定的なことを言うためには、本件の裁判管轄が決定し、適用される法律が確定する必要がありますが、それらが現時点では決定・確定していないので、予測での話となる点を予めご承知おきください。)

尚、日本の司法権が及ぶ根拠は刑法第3条第6号です。



2.について:ご指摘の通りです。study2007さんの指摘するような取り決めを日米政府間で交わしておくべきだったと思います。



3.について:違います。「あ・うん」の呼吸というような漠としたものに対する理解は求めていません。「一事不再理」「二重の危険(double jeopardy)の禁止」という法原則に対する理解の欠如を「容認できない」と言っています。

ここで、「一事不再理」「二重の危険の禁止」について説明させて頂きたいと思います。

一事不再理とは、刑事訴訟法上、有罪・無罪の実体判決又は免訴の判決が確定した場合には、同一事件について再び審理することを許さないことをいい、大陸法的な考え方と言われています。

二重の危険の禁止とは、同一の犯罪について、被告人を二重に刑事手続きによる処罰の危険にさらすことを禁止することをいい、英米法的な考え方と言われています。アメリカ合衆国憲法修正5条にも規定されています。

我が国憲法は、その39条において「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」と規定し、この規定については、①前段は一事不再理を定め、後段は二重の危険の禁止を定めているとする説、②前段・後段ともに一事不再理を定めているとする説、③前段・後段ともに二重の危険の禁止を定めているとする説が対立していますが、いずれの説を採っても結論に大差はないと考えられています。(芦部信喜「憲法」参照。)



「一事不再理」「二重の危険の禁止」が認められる根拠は、一つには「法的安定性に資する」ということ。もう一つには「正義・公平の理念に適う」ということになります。(抽象的な物言いで恐縮ですが、法の正当性を支える最終的なものは「正義」とか「公平」とか「公正」といった抽象的な観念に求めざるを得ません。)



これら「法的安定性に資する」「正義・公平の理念に適う」ということを具体的に考えてみたいと思います。



ある人がある罪に問われ、起訴されたとします。そして数年かけて刑事裁判を戦って無罪の判決を勝ち取りました。しかし、その数年後、新たな証言者が現れて、捜査機関が今度こそはと考え、再びそのある人を起訴し、また刑事裁判を戦うことになりました。しかし、今回もまた弁護側の法廷戦術が上回り無罪となりました。しかし、さらに数年後、科学技術の進展もあって、新たな物証が出てきました。3度目の正直と思って、捜査機関が三度起訴し、三度目の刑事裁判が行われました。ところが今回は捜査機関側の立証が勝り、捜査機関側が勝ち、そのある人が服役することになりました。



このような事態が「一事不再理」「二重の危険の禁止」を認めなければ起こり得ることになります。勿論、このような事態だけでなく、三度無罪、四度無罪、五度無罪という事態が起こる可能性もあります。このような事態は認めるべきでしょうか。捜査機関に疑いを持たれた人間は、一生、何度でも何度でも罪に問われ、重い負担のある刑事裁判を戦わなくてはならないでしょうか。そうすべきではいと考えるため、「一事不再理」「二重の危険の禁止」を認めることが「正義・公平の理念に適う」と私は言っています。また、裁判の度に結論が異なれば「裁判て何なんだろう?」と思われ、司法の存在自体が危機にさらされます。そのような事態を避けるために「一事不再理」「二重の危険の禁止」が認められており、私はそのことが「法的安定性に資する」と言っています。

このような観点から「一事不再理」「二重の危険の禁止」が認められているのだと私は理解しており、正しい考え方だと思っています。



この時に決して忘れてはいけないことは、「真実」は犯罪現場を現認した者(犯罪を行った者・被害者を含む)にしかわからないということです。犯罪現場を現認していない裁判官にも、警察官・検察官にも、マスメディアの人間にも、私にも「真実」は永遠にわからないということです。そういう危うい状況で裁判は進められているということです。



裁判官や警察官・検察官が「真実」を把握出来る程の存在で、起訴された人間が真に犯罪者なのであれば、何度でも何度でも、有罪になるまで刑事裁判を行えばいいでしょう。しかし、裁判官・警察官・検察官に「真実」が把握出来ない以上、起訴された人間は実は無実なのかもしれません。そのことは、刑事裁判を進めるうえで必ず考慮に入れておかなければならないことです。

そのどちらかがわからない中で裁判を進め、結論を出しているということを我々人間は忘れてはいけません。



今回は三浦和義氏という特異なキャラクターが出てきているため、「三浦氏が真犯人では?」というバイアスがかかりがちですが、法の原則はある特定の人間だけを対象とはしません。ある人間には適用し、ある人間には適用しないなどという恣意的な運用は許されません。(このこともまた法の下の「平等」という抽象的な観念に帰着してしまいますが。)



以上のことを前提として、それでは「一事不再理」「二重の危険の禁止」は、国内のみで認めれば足りると考えるか否かで今回のケースについての結論は異なってきます。

私は「近代法治国家」と呼べるような国(具体的には、イギリス・フランス・ドイツ・アメリカ等)で行われた裁判については「一事不再理」「二重の危険の禁止」を通用させるべきだと考えています。そうであるが故に今回の三浦氏のケースを「不当」だと言っています。

勿論、これには読売のような反対意見もあって、国が違えば「一事不再理」「二重の危険の禁止」は及ばないとして、今回の三浦氏のケースを「法的に何の問題もない」と言う意見もあります。

しかし、言わずもがなですが、私は自分の意見が正しいと考えています。



study2007さん所感「原理的に2重の司法権が及ぶ場合には、その適用が及ぶ限りにおいてですが、2重に裁かれても特に問題は無い様に感じます」の部分について:2.でstudy2007さんが述べ、私も同意している通り、本来であれば、study2007さんの指摘するような取り決めを日米政府間で交わしておくべきでした。

しかし、実際には日米政府の(私から言わせると)怠慢によって、study2007さんの指摘するような取り決めがなされませんでした。その結果、三浦氏は二重の危険にさらされつつあります。政府の怠慢を一国民に負わせるのは筋違いだと私は思います。政府の怠慢の責任は政府自らが負うべきです。

さらに言うと、今回のようなケースを認めると(=二重に処罰しうるとしてしまうと)study2007さんの指摘するような取り決めをしない方が捜査当局側に有利に働くようになってしまい、嫌疑をかけられている人の人権が侵害されやすくなってしまいます。そういう事態は避けるべきだと考えます。

何度も言うようで恐縮ですが、嫌疑をかけられている人は実は「無実」なのかもしれないのです。



被害者の人権は当然大切ですが、嫌疑をかけられている人の人権も大切です。両者は等価値です。(嫌疑をかけられている人が実は犯人だとわかっていれば、当然、犯人の人権は制限されます。それがわからない中で手続きを進めなければならない所に刑事裁判の難しさがあります。)



三浦和義氏の件について2

2008年02月26日 | Weblog
2008年02月26日 19時10分記載

掲題の件に関する元最高検検事で白鴎大法科大学院教授の土本武司氏(73)の発言を紹介する。

「「『一事不再理』の原則は、近代法治国家の間では国際的な常識。いずれかの法治国家で無罪が確定した人間を別の国において再び起訴するなど、理論上は可能でも、現実的に行うべきことではありません。確定的な重要証拠が出てきたことにより、米国司法当局が“正義のリアクション”をとったとも考えられますが、実際には、まだ証拠不十分な別の重大事件捜査のための別件逮捕とみるべきでしょう」



「法治国家の統制の下で裁判が執行され、関係者がすべてを出し尽くしたうえで、日本の最高司法機関の最高裁が無罪を確定した以上、米国の身柄拘束は、制度として問題がなくとも、近代法治国家の精神に大きく反します。この矛盾に対し、日本の司法は厳重な抗議、申し入れをすべきです」



別件逮捕かどうかはわからないが、その他の点は正に仰る通りである。この考え方が妥当な考え方である。



読売新聞は昨日の朝刊社説(参照URL http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20080224-OYT1T00688.htm )で「日本の憲法には、無罪とされた行為について刑事上の責任を問われず、また同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問われない、とする「一事不再理」の原則がある。

 しかし、この原則は、国境を越えて海外までは及ばない。日本の刑法も、外国において確定判決を受けた者でも、同一の行為について更に処罰することを妨げない、と定めている。

 三浦元社長は無罪判決が確定後、何度かサイパンに渡航していた。逮捕状を執行された際、「日本では無罪判決が出ている」と異議を唱えたというが、法的には何の問題もない。」と書いている。極めて表層的な、人権の普遍性を理解しない浅はかな考えである。



確かに我が国刑法は第5条において「外国において確定裁判を受けた者であっても、同一の行為について更に処罰することを妨げない。ただし、犯人が既に外国において言い渡された刑の全部又は一部の執行を受けたときは、刑の執行を減軽し、又は免除する。」と規定しており、読売の「日本の刑法も、外国において確定判決を受けた者でも、同一の行為について更に処罰することを妨げない、と定めている。」との記載は完全な誤りとまでは言えない。

しかし、この規定に対しては、立法論・立法政策として誤りであるとの批判が強くある。私も、他の近代法治国家において確定判決を受けた者に対してはこの規定は適用してはならないと考える。理由は、上記土本氏の述べている通りである。



読売にしても他のメディアにしても、伝わってくるニュアンスは「三浦和義が真犯人に違いないから、日本で裁けなかった恨みを米国に晴らしてもらいたい」というものである。田宮栄一氏の「無罪は無実とは異なる。」という発言がその典型である。

そんな感情論で人を裁いてはいけない。人権保障を目的とする法の精神・原則に照らして、今回のロス市警の行為が妥当なのか否かを判断しなければならない。刑事裁判手続きは人を処罰することが主たる目的ではない。無実の人をどう不処罰にするかが主たる目的である。(だから無罪が推定されるし、被告人に反論・防御の機会が与えられる。)そのような観点で今回のケースを考えなければならない。



今回の件に関する報道では、カリフォルニア州法に詳しい弁護士やロス疑惑に関わった捜査機関の人間が頻繁に登場して好き勝手なことを喋っているが、人選自体誤りである。憲法学者や刑法学者に話をさせるべきである。(マスメディアに批判的な学者であれば尚好ましい。)なぜなら、何州の何法が適用され、どのような手続きで裁かれるのかの前に、そもそも身柄の拘束それ自体が認められるか否かを問題にすべきケースだからである。



今回のケースに限らないが、マスメディアはムードで人を罰しようとする。極めて危険な性向である。

松本サリン事件の教訓が全く活かされていない。



国の借金838兆50億円 昨年末 国民1人当たり656万円

2008年02月26日 | Weblog
2008年02月26日 12時16分記載

まず、フジサンケイ ビジネスアイ本日8時26分配信の記事を紹介する。

「財務省は25日、国債や借入金などを合計した「国の借金」が2007年12月末現在で838兆50億円になったと発表した。前回公表の9月末現在に比べて4兆3068億円増え、過去最高を更新した。2月1日現在の推計人口(1億2776万人)で割ると、国民1人当たりの借金は約655万9000円で、3カ月間で約3万3000円増えた計算になる。

 財務省では、国際通貨基金(IMF)の基準をもとに国債と一般会計や特別会計からの借入金、為替介入資金などにあてる政府短期証券(FB)などの国の借金残高を3カ月に一度公表している。

 12月末現在の内訳をみると、歳入不足を補うために発行する普通国債が9月末に比べて3兆3653億円増え、534兆5145億円となった。特殊法人向けに発行する財投債などを含めた国債残高は678兆6416億円に達し、3兆9639億円増えた。

 借入金は1199億円増の57兆366億円。FBは2229億円増の102兆3269億円だった。

 国の借金は9月末に4年ぶりに減少したが、FBの一部償還による一時的な減少で再び増加に転じた。」



例によって例の如く、財務省が負債だけを煽っている。



政府短期証券(FB)を発行しているということは、背後に資産となる外国債があるはずだ。



財務省は、債務だけではなく、米国債をはじめとした債権の総額も明らかにするべきである。



債権を明らかにせず、債務だけを殊更煽る手法は真に卑怯である。(まあ、官僚は卑怯者の集まりなので、やりそうなことではあるが。)



我々民間人は、官僚の姑息な手段に騙されないよう十分に注意する必要がある。



三浦和義氏の件について

2008年02月25日 | Weblog
2008年02月25日 18時01分記載

マスメディアの人間がどう考えているのか、捜査に当たった人間が(よくテレビでコメンテーターとして出てくる元捜査一課長田宮栄一氏等)どう考えているのかは知らないが、日本国で無罪の確定判決が下っている人間を、同じ嫌疑で再度処罰しようと逮捕・勾留することは不当である。日本国政府は三浦和義氏の身柄を返すようアメリカ政府に要求しなければならない。そうでなければ自国の司法への信頼を政府自ら覆すことになる。



〔参照条文 日本国憲法39条

何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。〕



マスメディア(特に日本テレビ)は、訴訟の一方当事者と言っていい、直接捜査に当たった田宮氏のような人物に好き勝手に喋らせるべきではない。アンフェアである。(三浦氏に防禦の機会を与えていない点において。)

田宮氏は「無罪と無実は違う。」とテレビで再三述べているが、問題のある発言であり、それを垂れ流すマスメディアにも問題がある。

無罪と無実が異なる場合は当然ある。(十分な立証が出来なかった場合等。)しかし、無罪となった人間を無実だと見做さなければ法秩序が成り立たない。そのために憲法は一事不再理を定めている。田宮氏の発言は憲法39条の規定を無意味化させる発言である。



マスメディアが有罪としたい人間に対して国家刑罰権が発動されるのではない。捜査機関が犯人だと考えた人間に国家刑罰権が発動されるのではない。裁判所が有罪と判断した人間に国家刑罰権が発動されるのである。



自国民の権利が侵害されることのないよう、我が国政府には適切な行動を取ってもらいたい。身柄を拘束されたのが誰かによって態度を変えることは絶対にあってはならない。 



国交省キャリア職員2人を逮捕 予定価格漏らした疑い

2008年02月24日 | Weblog
2008年02月24日 18時26分記載

メディアの扱いが小さいので、アナウンスしておきたいと思います。



参照URL http://www.asahi.com/national/update/0223/TKY200802220338.html

「国土交通省が発注した国営飛鳥歴史公園(奈良県明日香村)の防災工事をめぐる談合事件で、大阪地検特捜部は23日未明、国交省の幹部候補採用のキャリア職員2人が、受注業者に非公表の予定価格を漏らしたとして、元同公園事務所長で同省公園緑地課企画専門官の高松正彦容疑者(43)=東京都国分寺市=ら2人を競売入札妨害(偽計)の疑いで逮捕した、と発表した。容疑を認めているという。


 他に逮捕されたのは、独立行政法人・都市再生機構職員の上島晃嗣容疑者(52)=東京都北区。

 調べによると、高松容疑者は05年7月の「甘樫丘(あまかしのおか)地区」防災工事の入札にあたり、非公表の予定価格が5200万円をわずかに上回ることを受注業者「槙峯建設」(奈良県高取町)社長の槙峯和也容疑者(67)=競売入札妨害(談合)容疑で再逮捕=に事前に漏らした疑い。上島容疑者と槙峯社長の求めに応じたという。ほかの入札参加業者9社が予定価格を上回る入札価格を示すなか、槙峯建設は予定価格より7万円安い5200万円(落札率99.86%)で受注した。

 高松容疑者は入札実施の数日前まで約2年間、所長職を務めた後、人事異動で離任した。上島容疑者は槙峯社長と親しく、高松容疑者に社長を紹介したとされる。

 特捜部は、再逮捕した槙峯社長が「元所長から予定価格を聞き出した」などと供述したことから、高松容疑者が在任中に決まった予定価格を槙峯社長に教え、槙峯社長が主導した業者間談合の成立を助けた疑いがあるとみて、22日朝から高松容疑者ら2人の事情聴取をしていた。

 高松容疑者は87年、技官として旧建設省に入省。都市計画課課長補佐などを経て、本省の現職にある。上島容疑者も79年入省の技官で、国交省公園緑地課緑地環境推進室長などを務めた。ともに国家公務員1種(旧上級甲)試験に合格したキャリア職員で、公園緑地課で先輩と後輩の関係にあったという。

 飛鳥歴史公園は高松塚や石舞台、キトラなどの古墳周辺5地区からなる。事件の舞台になった甘樫丘地区は蘇我蝦夷(そがのえみし)・入鹿(いるか)親子の邸宅があったとされる。」



本日の読売新聞11面

2008年02月24日 | Weblog
2008年02月24日 12時50分記載

読売は自らが行った世論調査の結果を本日の1面、10面、11面に掲載している。(参照URL http://www.yomiuri.co.jp/feature/20080116-907457/news/20080223-OYT1T00545.htm )



ここで読売は、「ねじれ国会」をどう見る?という見出しとともに、「肯定派・否定派 伯仲」という見出しを付けている。



世論調査は全国の有権者3000人を対象に行い、1734人から有効な回答を得ている。そのうちの48.9%の人が「ねじれ国会」を「政策協議が行われ、国会が活性化する」と答え、40.7%の人が「ねじれ国会」を「法案が成立しなかったり、遅れたりする」と答えている。(残り10.4%は「答えない」)



1734人の48.9%というのは848人であり、40.7%というのは706人である。?(「答えない」人を除いて割合を出すと前者が54.6%、後者が45.4%。9.2%の差がある。)

これは「伯仲」と言えるのか?「前者がやや上回る」というべきではないか?



同紙面上で佐々木毅学習院大学教授(前東大学長)は『「ねじれ国会」に対する評価では「活性化する」という数値がやや多い』と評している。こちらが妥当な評価・日本語の使い方だろう。



「伯仲」を辞書で引いてみると、「優劣のつけにくいこと。お互い格別の違いがなく、よく似ていて力などが釣り合っていること。」と載っている。読売の「肯定派・否定派 伯仲」という見出しは誤っている。「肯定派が否定派をやや上回る」とでも書くべきであった。

ではなぜそう書かず、「肯定派・否定派 伯仲」などと書いているか。読売はどうしても「ねじれ国会」を問題があるものであり、否定すべきものとしておきたいからである。そうしておかないとナベツネを先頭に社を挙げて大連立を推し進められない。間違っても、国民に「ねじれ国会」を肯定してもらっては困るのである。そういう「ためにする見出し」である。さすがは自民党機関誌である。



我々国民は、読売の意図ある誤導(ミスリード)に引きずられないよう注意しなければならない。(世論調査の結果を見てみると、国民は非常に冷静に、よく政治を眺めていると感じる。読売は「ためにする見出し」など書かずに、謙虚に結果に表れた国民の意識に向き合うべきである。言っても無駄そうだが・・・。)




本日の読売新聞朝刊 編集手帳

2008年02月22日 | Weblog
2008年02月22日 10時51分記載

「憲政史上の名演説家で番付をつくるならば、不動の両横綱は咢堂(がくどう)・尾崎行雄と木(ぼく)堂(どう)・犬養毅だろう。「咢堂が雄弁は真珠玉を盤上に転じ、木堂が演説は霜夜(そうや)に松籟(しょうらい)を聴く」と評された◆真珠のころがる涼やかな音色や、松の梢(こずえ)に吹く風の音を聴かせよと、無理な注文をするつもりはないが、せめて金盥(かなだらい)に石ころを投げ込むのは慎んでほしいものである。鳩山邦夫法相の舌禍が止まらない◆「死刑ベルトコンベヤー」発言から、「友人の友人がアル・カーイダ」「田中角栄先生の秘書時代に、ペンタゴン(米国防総省)から大変おいしい食事を毎月ごちそうになった」「志布志事件は冤罪(えんざい)と呼ぶべきでない」まで、“騒堂”とでも号を贈りたくなる◆予想もしない質問に口が滑ったのならばまだしも、法相の問題発言はいつも問わず語りである。その場を盛り上げようとするサービス精神が裏目に出たと解説する人もいる◆スピーチの名手で知られる作家の丸谷才一さんはエッセーのなかで、失言の予防には原稿を用意するに限ると語っている。原稿なしにしゃべる。受けない。聞き手を何とかして喜ばせたい。焦る心に失言の落とし穴が待っていると◆一を聞いて十を知ったつもりで百しゃべるのが政治家の常とはいえ、立場というものがあろう。金盥と石ころに代えて、紙と鉛筆が要る。」



こんなのが法務大臣だし、国交省官僚のレクリエーション費を適切だと言い放った冬柴が国土交通大臣だし、額賀が財務大臣だし、電源開発や空港への外資参入についての見解が閣内は勿論、次官レベルでも一致しないし、そりゃ、この国も良くならねえよ。



自民党政権の終焉および外資参入や個人投資家に関してトンチンカンな発言をしている経済産業省事務次官 北畑隆生の更迭を願う。



参照記事

「経済産業省の北畑隆生事務次官が2008年1月25日に行った講演で、インターネットで短期的に株売買を繰り返すデイトレーダーや投資ファンドについて「最も堕落した株主」「バカで浮気で無責任」などと発言し、物議をかもしている。北畑事務次官は2月7日の定例会見で反省の弁を述べ、また経済産業省は8日、ホームページ上に北畑次官が講演した講演録を掲載し、「次官の真意はこれを読んでもらえればわかります」と取り繕うが、波紋が広がっている。

■競輪場や競馬場に行っていた人が、パソコンを使って証券市場に来た

 問題発言は経済産業省の外郭団体・経済産業調査会が主催する1月25日の講演会であった。テーマは「会社は株主だけものか? ‐企業買収防衛策・外為法制度改正・ガバナンス‐」。ここで北畑次官は、「本当は競輪場や競馬場に行っていた人が、パソコンを使って証券市場に来た。最も堕落した株主だ」と、デイトレーダーを罵倒。さらに、「馬鹿で浮気で無責任なので、議決権を与える必要はない」「(米投資ファンドのスティール・パートナーを引き合いにして)経営者を脅す悪い株主」と批判した。

 この発言について北畑次官は7日の記者会見で、「(会員向けのセミナーなので)講演の内容が外部に出るということは思っていなかった」としながら、「2時間以上しゃべり続けたので退屈される方もおられる。『個人的意見』として、また『表現としてやや危険』と申し上げてたとえ話をしましたが、不快に思われた方があったかもしれませんので、この辺は反省しております」と謝罪。真意は、「株主軽視ではなく、会社の形をよくすることによって株主利益の増大を図っていくこと」と話した。

 8日に公表された講演録では「問題発言」は、「不適切な部分は訂正させていただきたい」という北畑次官の意向が反映されて削除されている。経産省も「(本人は)本意ではなかった。慎重さを欠いた」と反省しているとし、「真意」は講演録にあることを強調した。



 ある中堅証券会社のアナリストは、「もともとデイトレーダーは経営権を目的に投資しているわけではないから、議決権があろうと、なかろうと関心ないのは確か。ただ、いまや個人投資家の大半がネット取引をしているのに、なんともおそまつとしかいいようがない。企業担当者を前に、たんにリップサービスが過ぎたのでしょう」という。

■「要は経済オンチなんじゃないですか」

 ところで、北畑事務次官とはどんな人なのだろう。1972年4月に当時の通商産業省に入省。04年の経産政策局長時代には大手スーパーのダイエーの再建をめぐって、産業再生機構による再生計画にクレームをつけたり、07年2月にはスティール・パートナーを、株式を買い集めて高値でその会社に買い取らせる「グリーンメーラー」と根拠もなく批判したり、「天下りあっせんの禁止」に公然と反対してみたりと、とにかく「古い霞が関」体質をひきずった人物とされている。もともと「要注意人物」であり、今回の問題発言も「またか」といった印象も強い。

  「要は経済オンチなんじゃないですか」(前出の証券アナリスト)

 エコノミストの池田信夫氏は自らのブログで、「彼が問題なのは、反資本主義的な姿勢にある。彼の頭の中には通産省の栄光の時代の産業政策の亡霊がまだ徘徊しているのである」と指摘している。

 北畑次官は08年6月に退官する予定で、その後は「スペインで余生を送りたい」などと話していたことは有名。そんな「夢」のスペイン生活も円安ユーロ高で危うくなってきた。」
(※J-CASTの記事 参照URL http://www.j-cast.com/2008/02/08016525.html )






ミス日本グランプリ 鈴木恵理さん(20)ありがとう!

2008年02月21日 | Weblog
2008年02月21日 19時36分記載

まず、本日配信の毎日の記事を紹介する。(参照URL http://mainichi.jp/select/today/news/20080222k0000m050002000c.html )



「08年度のミス日本グランプリに選ばれた鈴木恵理さん(20)は21日、東京都中央区日本橋人形町の日本障害者スポーツ協会(北郷勲夫会長)を訪れ、「北京パラリンピックの日本代表のために役立ててください」とグランプリで獲得した賞金の一部を寄付した。

 東京出身の鈴木さんは、日大体育学科でスポーツを学ぶ2年生。一昨年マスターズの水泳平泳ぎ個人の部で優勝、昨年末には初マラソンのホノルルで完走するなどのスポーツ好き。将来はスポーツインストラクターになるのが夢だという。鈴木さんは「障害を乗り越えて頑張る人たちを少しでも応援したくて」と北郷会長に寄付金を手渡した。」



自分が二十歳の頃は、寄付なんてこれっぽっちも考えてなかったからな~。単純に立派だな~と。



ミス日本グランプリの活動の中に、障害者に対する理解への支援等も組み込んで活動してもらえるとさらに有難いな。



う~ん難しい

2008年02月21日 | Weblog
2008年02月21日 17時45分記載

伯母の治療について、旦那さんと私の母を含めた伯母の兄弟での話し合いの結果(がんサバイバーとして私も一枚噛んでいる)、緩和ケアにも力を入れている都内の大きな病院で治療を行ってもらおうということになり、伯母に話を持っていったのだが、伯母が断固拒否。生まれ育った地(関東のある県)で治療を受けると言って譲らない。

伯母は自分の状態を正確に細かく把握しているわけではないので、そう考えるのも理解できなくはない。ただ、それでは、ということで、全てを告げると、それはそれで問題がありそうで、判断が難しい。

自分であれば、絶対に事実を伝えて欲しいと思うが(というか、私であれば、色々自分で調べてしまうので多分自分で把握できてしまうが)、伯母がそれを望むのか、望んだとして、余命2ヶ月という事実を受け止め切れるのか、非常に悩ましい。



う~ん、どうする。悩み続ける時間も与えられていないことが、余計に悩ましい。