がん(骨肉腫)闘病記

抗がん剤治療、放射線治療、人工関節置換手術、MRSA感染、身体障害者となっての生活の記録を残します。

も~う2

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月21日 22時43分24秒

事の発端は、ある内容のメールを父から受け取ったことに始まります。





父が納得いかない様子だったので、真意を確認しようと、私が父の主治医に電話しました。これが昨日の14:00。





これはどっちもどっちだと思うんだけど、お互い自分の主張を譲らず、15~20分程度平行線。





これじゃさっぱり真意がわからないなと思って、病棟に電話し看護師長と会話。これが14:30から5分程度。





看護師長は「私の方では答えられない」というので、しばらく考えた挙げ句、父の主治医の上司に電話。これが15:40。15分程度話をして、納得して電話を切る。





ところが、今日、父の主治医から「2時間15分にわたり業務妨害をされた」「あなたとは今後話はできない」と言われる。





うそ~ん。そりゃ言い争いみたいにはなったけど、そりゃお前もわけわかんないこと言うからだろ。(あっちもそう思ってると思うんだけど。だからお互い様だろって。)





医師に説明を求めると業務妨害になるの?すげえ解釈だな。





他に4人いるところでそう言われてるから、逆にお前が名誉毀損だと思うんだけど。


も~う

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月21日 01時29分45秒

父親の主治医の若い女性医師に腹が立って腹が立って体調悪くなる。



自分が入院していた頃と変わったよな~。なんか官僚的な対応。



コミュニケーションが全然取れない。病院選び失敗したかなあ。



20代に見えるんだけど、医者は偉いとでも思ってんだろうな~。20代で医療の何がわかんだかな。



もっと謙虚になれんかね。命握ってる圧倒的な立場の強さがあるんだから、そこは余計に気を付けなきゃいけない所だと思うんだけどな。上の人間もそういう教育してんのかな。



非常に腹立たしく、残念。


「原発事故で死者いない」…高市氏発言に与野党から批判

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月19日 00時56分36秒

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130618/waf13061818490031-n1.htm  2013.6.18 18:45



「自民党の高市早苗政調会長が17日の講演で「福島第1原発も含めて死亡者が出ていない」と発言したことに対し、18日、与野党から批判が相次いだ。高市氏は同日、「誤解されたのならしゃべり方が下手だったかもしれない」と国会内で記者団に釈明した。

 高市氏は「被曝(ひばく)で直接亡くなった方はいないが、安全基準は最高レベルを保たないといけないと伝えたかった」と説明。菅義偉官房長官は記者会見で「政治家は誤解されないよう気を付けないといけない。ただ、高市氏の意図と違って報道されている」と述べた。

 民主党の細野豪志幹事長は「政権を担う資格がない」と批判。みんなの党の江田憲司幹事長は「政調会長、政治家を辞任すべきだ」と述べた。自民党の溝手顕正参院幹事長も「死ぬ、死なないということと(再稼働を)一緒に発言することはない」と苦言を呈した。」



高市とか米倉とか、原発での作業に従事させたいね。



こんな奴等が高い地位にいるんだから、日本がよくなるわけねえよな。




http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130618/waf13061822360043-n1.htm  2013.6.18 22:34



高市氏発言「実情知らない」…福島から批判の声



「自民党の高市早苗政調会長が、東京電力福島第1原発事故で死者は出ていないと述べたことについて、福島県では18日「あまりにも原発事故の実情を知らない発言だ」と批判の声が上がった。

 震災による避難で体調が悪化して死亡したり、自殺に追い込まれたりした場合、自治体が「震災関連死」と認定し、災害弔慰金を支給している。

 福島県によると、県の震災関連死は1415人で、被災県の中で最も多い。県は「原子力災害は収束していない。政府・与党には、福島の実情と県民の思いをあらためて重く受け止めてほしい」とコメントを発表した。

 原発事故のため福島県楢葉町からいわき市に避難している男性(54)は「憤りを感じる。父を含め、事故さえなければ生きられた人はたくさんいたはずだ」と強く批判した。」


「終末期ケア」で更生を=重症受刑者に実施-医師不足や世論反発課題・医療刑務所

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月17日 00時43分44秒

http://www.jiji.com/jc/zc?key=%b4%cb%cf%c2%a5%b1%a5%a2&k=201306/2013061600106



「末期のがんなどを患う受刑者らに対し、八王子医療刑務所(東京都)で病気による身体的苦痛やストレスを和らげる「緩和ケア」が行われている。安定した精神状態で余生を送れるようにして更生につなげる狙いがあるが、医師不足や世論の反発など、浸透には課題が多い。

 ▽後悔や反省を口に

 「亡くなっていく受刑者に何ができるのか」。昨年、受刑者49人が死亡した八王子医療刑務所では、2010年ごろから緩和ケアを行っている。限られた余命の中、いかに更生につなげるかが課題で、所内の医師や看護師らで勉強会を開き、緩和ケアに取り組んでいる。
 昨秋、肝臓がんの60代男性受刑者は海外に住む娘に電話した。けんかしていたが、会話を重ねて和解。男性はほほ笑んだような顔で亡くなった。
 膵臓(すいぞう)がんの60代女性受刑者は昨春、希望していた所内の花見に参加。おかゆしか食べられない状態だったが、その日は他の受刑者と同じ弁当を食べた。花見の様子を楽しそうに話し、8日後に死亡した。
 緩和ケアを受けた受刑者は人生について後悔や反省を口にすることもあるという。大橋秀夫所長は「人間らしい生活で初めて素直な気持ちになり、人生を振り返って終えることができるのでは。緩和ケアは矯正のひとつ」と強調する。

 ▽「尚早」と慎重意見も

 医療刑務所は全国に四つあるが、緩和ケアを取り入れているのは八王子医療刑務所だけだ。
 法務省によると、刑務所などの医師の給与は低く、民間の半分から3分の1程度とも言われる。医師が十分に集まらず、慢性的な人材不足が続き、緩和ケアを普及させる余裕はないという。
 受刑者へのケアには、世論の反発も予想される。八王子医療刑務所が緩和ケアを導入する前、職員を対象に行ったアンケートでも「時期尚早だ」など慎重意見があった。
 法務省矯正局の中田昌伸補佐官も「『受刑者にそこまでしなくても』という声があると思う」と懸念を示す。一方、「自分の罪を悔い改めて死を迎えることは、矯正処遇として効果がある」と、取り組みを評価する。(2013/06/16-15:40)」



まず、所内で緩和ケアに取り組んでいる医師及び看護師に敬意を表したい。



そのうえで、刑務所などの医師の給与が低く、民間の半分から3分の1程度となっている現状を放置している法務省に猛省を促したい。等しく医師である以上、刑務所等に限って民間の3分の1程度の給与では、医師が集まるはずがない。集める気がないと言っていい。



ではなぜ集める気がないのか。記事中にもある通り、世論におもねる日和った精神性にその根っこはある。



言うまでもないが、受刑者は、裁判所によって言い渡された刑に服する義務がある。しかし、受刑者だという理由で医療行為を受けてはならないという理由はない。末期がんになれば、その病状に見合った医療が受けられて然るべきである。



受刑者に緩和ケアを行うと言えば、末期がんの痛みや苦しみを知らない「世論」なるものが反発をするかもしれない。しかし、そんな実態も知らない、実態もないような「世論」におもねることなく、法務省として、どうして緩和ケアが必要なのか、緩和ケアを行わない場合の苦しみ・辛さがどれほどのものなのかを積極的に周知していけばいい。裁判員制度を無理やり導入した時の何万分の一かの労力で済むだろう。



繰り返しになるが、受刑者が服する義務のあるのは、裁判所によって宣告された刑だけである。末期がんの苦痛も受忍しなければならない義務は全くない。

小池振一郎の弁護士日誌の記事のご紹介

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月16日 17時49分51秒

http://koike-sinichiro.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-6f08.html



2013年6月 8日 (土) 「中世」発言から―とまどいのブログ後日談



「国連・拷問禁止委員会での日本政府報告書審査の模様を書いた私の5月29日付ブログ「日本の刑事司法は『中世』か」に、1日だけで52,000件ものアクセスがあった。大変なことになっている、と驚いた。以前、日本テレビのワイドショーでコメンテーターをしていたときは、視聴率10%で1000万人が見ていると言われ、オウム事件のときは20%を超えたこともあったが、特にあわてたことはなかった(拙著『ワイドショーに弁護士が出演する理由(わけ)』平凡社新書)のに…。ネットの怖さだろうか。とまどった。


 いちばん伝えたかったことは、日本の刑事司法は「中世」か、というキーワードだった。だからタイトルをそうしたのだが、それ以上に日本大使の「シャラップ」発言が注目を浴びたようだ。先日、東京新聞の取材を1時間ほど受け、その大半は刑事司法について語ったのだが、翌日の6月5日付朝刊は、「国連で日本政府代表『笑うな、黙れ』」の大見出しとなってしまった。


 その前日に発行された日刊ゲンダイは、大使の日本語使用を皮肉った記事になっていた。当初のブログに、「日本語で挨拶した大使」と書き(後に、修正)、これが、大使の挨拶全体が英語ではなく、日本語だったという印象を与えてしまったようだ。私は、日本語同時通訳のイヤホーンをしていたが、大使が日本語で挨拶したのか、英語だったのかに関心がなかった。「笑うな。シャラップ」発言の「笑うな」は日本語、「シャラップ」は英語そのままだったように思ったのだが、後で聞き返してみると、すべて英語だった。同時通訳のため、混乱したようだ。不正確な記述だったので、これが日刊ゲンダイの出所だったとすれば、申し訳ない。日刊ゲンダイから取材を受けていれば、この点を正す機会になったのに、残念だ。


 韓国の朝鮮日報にもこの委員会の模様が掲載されているようだ。


 私が最も言いたいことは、日本では、未だに、取調べへの弁護人の立会が実現していないことと、連日長時間にわたる取調べがいまも普通に行われていること。東電OL事件では、被告人と同居していた同じネパール人が2か月近く連日「任意」で取調べられた。午前3時まで取調べられ、その後午前7時から取調べが再開されたこともあった。私が最近担当した事件では、逮捕された夜遅くまで取調べられ、仮眠をとった後、午前3時50分から5時10分まで再び取調べられている。異常だ。前近代的(まさに「中世」か)刑事司法といっても過言ではない。


世界の嘲笑を買っていることが、日本の官僚司法家にはわかっていない。日本で拘禁された外国人は、家族に電話もできないのか、とあきれている(数年前の広島刑務所逃亡事件は、中国の家族に電話したくて逃亡したと報じられている)。


「取調べに過度に依存した日本の刑事司法は時代の流れとかい離したものであり、根本から改める必要がある」(2011年3月検察の在り方検討会議提言)という反省から設置されたはずの法制審議会「新時代の刑事司法制度特別部会」が、本年1月、中途半端な取調べの可視化と会話傍受などの新たな捜査手段の拡大をセットとする基本構想をまとめた。弁護人の立会は先送りされ、取調べ時間の規制については一言も触れられていない。何とも時代遅れな構想であり、マスコミがなぜ批判しないのか、不思議でならない。基本構想は撤回して、一から出直すべきだ(拙稿「えん罪原因の解明から刑事司法の根本的改革へ」日弁連えん罪原因究明第三者機関WG編著『えん罪原因を調査せよ』勁草書房所収)。


5月31日拷問禁止委員会は、日本政府に対して、1日の取調べ時間を規制し、取調べへの弁護人の立会いを実現せよと勧告した。法制審は、まずこの勧告を真摯に受けとめるところから再出発すべきだろう。」

小池振一郎弁護士のブログ記事のご紹介

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月16日 17時46分09秒

http://koike-sinichiro.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-99bb.html  2013年5月29日 (水)



日本の刑事司法は『中世』か



「5月21日、22日の2日間、ジュネーブの国連で拷問禁止委員会の第2回日本政府報告書審査が開かれた。私は、日弁連の代表団の一員として、委員会を傍聴した。

第1回日本政府報告書審査は2007年だった。このとき私は、周防監督の「それでもボクはやってない」(英語版)を自ら持参してジュネーブで上映し、委員の人たち何人かに見てもらい、素晴らしい勧告が出された。今回は、それから6年振りである。

最終日の終了時間が近づいてきたころ、アフリカのモーリシャスのDomah委員(元判事)が、「(日本の刑事司法は)『中世』」とコメントした。衝撃的だった。
それまで、各委員から、
取調べに弁護人の立会がないのはなぜか、と質問され、日本政府が、取調べの妨げになるからなどと答えたり、
取調べ時間が制限されていないという指摘にも、誠意をもった回答をせず
…というように、日本政府が不誠実な官僚答弁に終始していたから、委員たちはいらだっていた。

そこで、Domah委員の「弁護人に取調べの立会がない。そのような制度だと真実でないことを真実にして、公的記録に残るのではないか。弁護人の立会が(取調べに)干渉するというのは説得力がない…司法制度の透明性の問題。ここで誤った自白等が行われるのではないか。…有罪判決と無罪判決の比率が10対1(㊟100対1の間違い)になっている。自白に頼りすぎではないか。これは中世のようだ。こういった制度から離れていくべきである。日本の刑事手続を国際水準に合わせる必要がある。」と、ズバリとメスを入れたコメントになったのだと思う。

これに対して、過敏な反応をしたのが、最後に日本政府を代表して挨拶した上田人権人道大使だった。
「中世」発言について、大使が、「日本は、この(刑事司法の)分野では、最も先進的な国の一つだ」と開き直ったのにはびっくりした。当初、同時通訳が「日本は最も先進的な国だ」と訳し、あわてて、「最も先進的な国の一つだ」と言い直した。
会場の、声を押し殺して苦笑する雰囲気を見て感じたのか、なんと、大使は、「笑うな。なぜ笑っているんだ。シャラップ!シャラップ!」と叫んだ。
会場全体がびっくりして、シーンとなった。大使は、さらに、「この分野では、最も先進的な国の一つだ」と繰り返し、「それは、もちろん、我々の誇りだ」とまで言い切った。
大使挨拶を受けた最後の(女性)議長の挨拶は、慌てて、「時間がないところで、(いらいらさせて)申し訳ありません。」などと取り繕っていた。

日本の傲慢さを目の当たりにした印象だ。アフリカの委員にまで言われたくない、という思いがあったのだろうか。戦前、このジュネーブの国際連盟で日本が脱退した時も、こんなだったのではないかと、思わず連想してしまった。
外務省の人権人道大使でありながら、条約機関の意義(当該政府と委員会の建設的対話
)を理解しているのだろうかと不安に思った。
ちなみに、この「人権人道大使」というのは、2005年に設けられ(当時は「人権担当大使」)、2008年4月に「人権人道担当大使」と称され、上田氏が任命されたようだ。

本当は、この『中世』j発言と「シャラップ!」は新聞の1面トップに大きく報じられて然るべきだと思うのだが。

5月31日に出される拷問禁止委員会の日本政府に対する 第2回勧告が注目される。」


「シャラップ!」より問題なのは

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月16日 17時13分00秒

http://bylines.news.yahoo.co.jp/yamaguchihiroshi/20130616-00025725/



山口浩 駒澤大学グローバル・メディア・スタディーズ学部教授 2013年6月16日 11時5分





最近はネットのおかげか暴言ネタに事欠かない(ちっともありがたくないが)。暴言に対して本当に怒ったり悲しんだりしている人もたくさんいるのだろうが、どうも見ていると、ネタとして消費されている場合の方が多いような風情が感じられなくもない。「他人の不幸は蜜の味」などというが、他人の暴言も、何の味かはともかく、人々がおいしく召し上がるもののようだ。特に有名人やら政治家やら官僚やらの暴言は、ひときわ美味らしい。昨今の「大漁」ぶりにマスメディアの方々も笑いが止まらないのではないかと想像する。

都知事の件、大阪市長の件がネタとして消費され尽くした後の暴言界で今、話題の中心となっているのはおそらく、復興担当だった官僚のツイッター発言炎上事件だろう(この件 )。しかし、それにやや隠れたかたちになってはいるものの、私としてはむしろ、こちらに注目したい。

「日本の人権大使が国連で暴言 「シャラップ」」 (共同通信2013年6月14日)

【ジュネーブ共同】国連の人権条約に基づく拷問禁止委員会の対日審査が行われた5月22日、日本の上田秀明・人権人道担当大使が英語で「黙れ」を意味する「シャラップ」と大声で発言していたことが13日までに分かった。「シャラップ」は、公の場では非礼に当たる表現。

人もすなる暴言吊し上げ合戦を我もしてみんとて、というわけではないが、この件ではどうしても気になることがある。

この件について報道では、総じて「シャラップ!」(Shut up!)ということばに関心が集まっているようだ。もちろん、これはああいう場では言語道断の暴言であって、これを大使自身が逆ギレして口にしたなんていうのは頭を抱えたくなる事態だ。ダメダメであることは一目瞭然だし、インパクトも強いから見出しにもうってつけだしというわけで、これを中心に取り上げたくなるのはビジネスとしてやってるメディアならむしろ当然かもしれない。

「「人権人道担当大使」国連で大失態!日本批判に「何がおかしい。シャラップ!」」 (J-Cast news2013年6月12日)

「国連で「シャラップ」日本の人権大使、場内の嘲笑に叫ぶ」 (産経新聞2013年6月13日)

「日本の大使が「シャラップ!」=国連拷問禁止委で暴言」 (時事通信2013年6月14日)

「日本の人権大使、国連委員会で苦笑に「黙れ」」 (読売新聞2013年6月14日)

「外相 日本の立場 丁寧に説明を」 (NHK2013年6月14日)

「日本人権大使ブチ切れ!国連で暴言「シャラップ」」 (サンケイスポーツ2013年6月15日)

実際、YouTubeに上がっている動画 を見ると、これはひどいといわざるを得ない。この会合の性格やこの人物の職責を考えれば、同じ国の人間であることが恥ずかしくなる。「ロンパールーム」ならCM明けにクマのぬいぐるみに差し替えられるレベル(古いね)、などと冗談かましたいところだが、この暴言自体よりもっと懸念すべきことがあるように思うのでそうも言っていられない。

それは、この大使が「我々は、この分野(人権問題)において最も進んだ国家である」と発言したことだ。動画では確かにこう言っている。

"Certainly, Japan is not in the middle age. We are one of the most advanced country in this field."

報道では、「日本の刑事司法制度は自白に頼りすぎており、中世のようだ」との指摘に対しての発言、とされている。「中世」(Middle Ages)を「中年」(middle age)と言い間違えているところはまあご愛嬌。動画は1分程度しかない(元動画 をざっくり探してみたが該当部分は見つからなかった)ので、ここでいう「this field」が何を指すかについては報道に従うこととする。この会合を傍聴していた弁護士の方のブログ記事もあるのでご参照。

「日本の刑事司法は『中世』か」 (小池振一郎の弁護士日誌)

「中世」かどうかはともかく、少しでも事情を知っている人なら、この発言は「えええええ」となるのではないだろうか。

この委員会は、日本だけではなく、各国の状況について定期的に勧告を出しており、それに対して各国政府が回答している。今回の会合 に基づく日本への指摘事項はここ に出ているが、かなり多岐にわたっているのがわかる。項目だけ以下に挙げるが、この中で太字のものについては、委員会は「deeply concerned」ないし「seriously converned」と言っている。

Definition of torture

Statute of limitations

Non-refoulement and detention pending deportation

◎Daiyo Kangoku(代用監獄)

◎Interrogation and confessions(尋問と自白)

Complaint mechanism

Conditions of detention

◎Solitary confinement(独房への監禁)

◎Death penalty(死刑)

Training

Redress, including compensation and rehabilitation

◎Victims of military sexual slavery(戦時性奴隷被害者)

Violence against women and gender-based violence

Trafficking

Psychiatric health care

Corporal punishment

Other issues

これらの問題の多く、特に委員会が特に深い懸念を示した太字の項目は、国内でも日本の制度の問題点として挙げられ、以前から議論がなされてきた。もちろん、日本が世界有数の「安全な国」であることは誰しも認めるところだし、人権全般についていうなら、少なくとも「one of the most advanced」という大使の発言(後でそう言い直した)は、大筋でまちがっていないだろうが、少なくとも上記の領域で「most advanced」であると考える人はあまりいないだろう。

たとえば最近でも、いわゆるパソコン遠隔操作ウィルス事件における誤認逮捕があった。この件で最大の問題点は、警察が誤認逮捕をしたことではない。無実の人間が複数、警察の取り調べに対して、やってもいないことをあたかも自分でやったかのように、詳細に渡る「手口」まで含めて「自白」させられてしまった、ということだ。これは誰がどうみても、警察が自白内容を誘導しているとしか考えられない。

「PC遠隔操作:「謝罪じゃ足りない」誤認逮捕大学生の父」 (毎日新聞2013年6月4日)

神奈川県警などの説明によると、男性は当初は否認したが、逮捕の3日後には容疑を認める上申書を提出。その後また否認に転じたものの、再び容疑を認めたという。

その後、遠隔操作事件の「真犯人」として逮捕した被告に対しては、可視化すれば取り調べに応じるとした申し出を拒否し、2月の逮捕以来ここまで勾留を長引かせてきた。苦し紛れではあるだろうが、見方によってはやりたい放題だともいえる。彼が真犯人であるかどうかに関わらず、これは大きな問題だと思う。

「AKB襲撃予告容疑など追送検 PC遠隔操作事件」 (朝日新聞2013年6月10日)

パソコン(PC)遠隔操作事件で、警視庁などの合同捜査本部は10日、アイドルグループ「AKB48」の襲撃予告を書き込んだとする威力業務妨害容疑と、6人のPCに遠隔操作ウイルスを感染させたとする不正指令電磁的記録供用容疑で、元IT会社員片山祐輔容疑者(31)=ハイジャック防止法違反罪などで起訴=を追送検し、発表した。捜査本部として最後の立件となる。

無実の被疑者に「自白」をさせた例は、他に志布志事件 などが知られているし、いわゆる痴漢冤罪 事件などでは否認する被疑者を長期勾留し、「罪を認めた方が軽くすむ」などと自白を強いていたケースがいくつもある。このようなやり方が取り調べの現場で広範かつ日常的に行われているであろうことは、警察や検察が取り調べの可視化に対して頑強に抵抗していることからも伺える。だからこそ、委員会は前回と同じ、以下のような指摘を再び日本政府に対して出しているのだろう。

(a) The State party’s justice system relies heavily on confessions in practice, which are often obtained while in the Daiyo Kangoku without a lawyer present. The Committee has received reports about ill-treatment while interrogated, such as beating, intimidation, sleep deprivation, and long periods of interrogations without breaks;

(b) It is not mandatory to have defence counsel present during all interrogations;

(c) The lack of means for verifying the proper conduct of interrogations of detainees while in police custody, in particular the absence of strict time limits for the duration of consecutive interrogations;

(d) None of 141 complaints concerning interrogations filed to the public prosecutors by suspects and their defence counsels resulted in a lawsuit.

このように考えてくると、この件で何が最も深刻な問題かがわかる。「シャラップ」は確かに暴言だがそれ自体は大使個人の失態であり、その恥は本人とその任命者が負えばいい。しかしこの会合で問われたのは、日本という国が人権というものをどう扱っているかだった。それに対して政府は、上のリンク先文書で見る限り、基本的には多くの重要とされた指摘に対してことごとく後ろ向きの回答をしている。この姿勢は、たとえば次のような記事をみれば、大使個人の問題ではなく、組織としてのものであることが容易に推察できる。

「取り調べ可視化を再議論 法制審「司法取引」も検討」 (日本経済新聞2013年6月14日)

この日の議論では、取り調べの可視化について「対象事件を拡大すべきだ」との意見が出る一方、警察関係の委員は「捜査への支障が避けられない」と指摘。

通信傍受拡大を巡っても「乱用を防ぐため第三者機関を設けるべきだ」との意見に対し、「現行のチェック体制で何が足りないのか論証しないと議論が進まない」と反論が出る場面があった。

個々の点についてはいろいろ議論もあろうが(特に慰安婦関連については異論をお持ちの方もいるだろうが話がずれそうなので本稿では論点としない)、国内でも政府のこのような態度に対する懸念の声が少なからずあったことは、事情を少しでも知る人ならわかるだろう。実際、弁護士の接見が制限される日本の被疑者取り調べは、日米地位協定改訂の際の障害にもなったと聞く(参考 )。実害は少なからず明らかになっているわけだ。しかし、ポジショントークもあるとはいえ、政府はこうした国内外の声を否定するかのような強弁を続けている。件の会合で大使が「笑うな!」と怒鳴りつけた失笑は、そうした実態を知るからこそ出たものだろう。

その意味で、あの場で日本国政府を代表する立場である大使自身が「シャラップ!」と逆ギレしたことは、政府の聞く耳持たない姿勢とあまりにも整合的であったために、それをはからずも最もかっこ悪いやり方で根拠づけたかたちとなった。日本は国内外が「深く懸念」する人権侵害の状況をそうだとはまったく認めず、むしろこれを「世界最先端」だと言い張り、批判者を怒鳴りつけて黙らせる国ということになってしまったわけだ。

しかし、この問題は笑えない。「彼ら」だけの問題ではないからだ。こうした政府の姿勢は、単に官僚や政治家が人権を無視しているというより、国民の間にそれを容認、あるいは望む風潮があることが背景にある。実際、警察に対して、悪い奴ら(実際には「自分の目には悪そうに見える奴ら」だ)を徹底的に取り締まってほしい、犯罪をとことん減らしてもっともっと「安全安心」な社会にしてくれといった期待が寄せられている。彼らは、当然組織エゴのようなものもないではないだろうが、むしろ誠実に、責任感を持って、こうした「国民の声」に応えようとしているという要素の方が強いのではないかと思う。

もちろん、犯罪に巻き込まれ、被害者となってしまった人たちの声には真摯に耳を傾けるべきだろう。あのとき警察がきちんと対応してくれていれば被害に遭わずにすんだとか、なんで警察はあんな悪い奴らを野放しにしておくだとかいう話はあちこちでよく聞く。しかし、だからといって、そのためには無辜の者が逮捕され連日の取り調べによってやってもいない犯罪を「自白」してしまう事態が起きてもかまわない、ということにはならない。どちらもあってほしくないが、捜査や取り調べの際のルールをどのくらい厳しくするかという点では、残念ながらこの両者にはトレードオフ関係が成立する。はっきりいえば、日本に住む私たちが享受する「安全安心」は、冤罪を含む人権侵害によって支えられているのではないかという疑いがあるのだ。

自分や身近な人が犯罪被害者となることを恐れる人は、同じくらい、自分や身近な人が無実にもかかわらず被疑者となってしまうかもしれない恐れへの想像力を持ってほしい。警察や検察に「しっかりやれ」と言うなら同じくらい、それを実行するために彼らが持とうとする捜査や取り調べの際のフリーハンドにも警戒の目を向けるべきだ。警察というサービスは「無料」で利用できるが、同時にさまざまな社会的コストを伴うことを知らなければならない。

大使の「シャラップ!」を恥じたり笑ったりする前に、日本が人権に関して大きな課題を負っていることを憂うのがスジというものだろう。民主主義社会では、それらは主権者たる私たち自身の問題でもあり、現在の状況は、大きな意味では私たち自身が選びとった結果だからだ。どう変えようとも(変えなくても)、誰かが笑い、誰かが泣く結果となろう。だからこそ憂うべきなのであり、だからこそ真剣に取り組むべき課題なのだ。

恥ずかしいということでいうなら、むしろ、こういう根っこにある大事な問題を素通りしてただこれを政権叩き、官僚叩きのネタとして消費するだけの、わかりやすい「弱者の味方」ポジションを飯の種にしているメディアとか(もしそんなところがあるなら(棒読み))の方がよほど恥ずかしい。いっちゃ悪いがチョー恥ずかしい。」


国家公安委員長、交通違反の取り締まりに苦言

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月04日 14時02分09秒

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130604-OYT1T00571.htm?from=main1



「古屋国家公安委員長は4日の閣議後の定例記者会見で、警察による交通違反の取り締まりについて、「取り締まりのための取り締まりになっている傾向がある」と苦言を呈し、あり方を見直す必要があるとの考えを示した。

 古屋委員長は「取り締まりは事故防止に役立つことが大切だ」と指摘。歩行者のいない50キロ制限の片側2車線の直線道路を例に挙げ、「交通の流れで70キロくらい出る。そういう所(での取り締まり)は疑問」と述べた。欧州では歩行者が多く道路の幅が狭い街中などで厳しい取り締まりをしているという。

(2013年6月4日12時13分 読売新聞)」


その通り。もっと言ってやれ。


隠れてて、違反車両見つけたら出てくるとかわけわかんないもんな。


事故や交通違反を未然に防ぐためには、予め表に出とけって。


国民から金巻き上げるために隠れてるなんざ、チンピラのやり口だよな。

菊池桃子(きくち・ももこ)さん(45) NPO法人理事

2013年06月22日 | Weblog
2013年06月04日 12時52分08秒

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130603/trd13060323060019-n1.htm 2013.6.3 22:58



「往年のアイドルが再び輝きだした。NPO法人「キャリア権推進ネットワーク」理事に今春、就任。自分の働き方を主体的に選べる「キャリア権」の普及を目指すため、元厚生労働事務次官の戸苅利和氏らと意見交換を行う一方で、母校の戸板女子短大客員教授として、先週から労働教育に関する講義で熱弁を振るっている。

 タレントになった16歳から、納税者として社会保障費の使われ方に関心を持つようになった。「少子高齢化で納税世代、生産年齢人口が減る。日本を守るために人材確保が重要だ」と切々と訴える。

 安倍晋三首相が「成長戦略」で掲げる育児休業3年の推進には「素晴らしい。ただ早く職場復帰したい女性もいる。選択肢を広げる政策にしてほしい」と期待を寄せるとともに注文も。



労働問題への強い思いは、脳梗塞を患い左手足にまひが残る長女の子育てから培われた。「希望した学校に受け入れてもらえず就学がとても難しかった。国の政策や社会構造に疑問を持った」と胸中を吐露。社会的弱者のための職業訓練の必要性を身近な問題として捉えるようになった。

 自身も特定疾患を患い、公言している。「イメージが暗くなる」と周囲から反対されたが振り切った。平成24年には法政大大学院で雇用問題を専攻し、修士号を取得。学究心は年々強まるばかりだ。

 「人はハンディキャップを糧に『勉強しよう』『元気になろう』と努力する。だから輝けるんです」と目を細める。座右の銘は「笑う門には福来たる」。転んでも立ち上がるしなやかさがまぶしい。(比護義則)」



頑張ってもらいたいね。


アキバの職質、違法と認定 都に5万円賠償命令 東京地裁

2013年06月22日 | Weblog
2013年05月29日 01時33分38秒

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130528/trl13052817020004-n1.htm  2013.5.28 17:00



「東京・秋葉原を歩行中に警察官から職務質問され、犯罪事実がないのに送検、起訴猶予処分を受けたとして、豊島区の男性会社員が都などに約200万円の損害賠償などを求めた訴訟の判決が28日、東京地裁であった。都築政則裁判長は職務質問の違法性を認定、「休日に秋葉原を歩いていただけで所持品検査までされた精神的苦痛は大きい」として、都に5万円の支払いを命じた。

 警察官職務執行法は職務質問について「異常な挙動」から犯罪関与が疑われる場合などに実施できると規定。都側は「任意での職務質問は一般的に許容される」と主張したが、都築裁判長は規定に該当しない場合は任意でも違法との判断を示した。

 判決によると、男性は平成22年3月に職務質問された際、小型ナイフ付きの携帯工具を所持していたことから任意同行を求められ、軽犯罪法違反容疑で書類送検された。東京区検は同5月、男性を起訴猶予処分とした。

 都築裁判長は、男性の工具所持については同法違反の疑いに「合理性がある」と指摘。任意同行以降の刑事手続きの違法性は認めなかった。

 秋葉原では20年6月、無差別殺傷事件が発生。警視庁で警戒を強化していた。警視庁訟務課は「主張が認められず残念。判決内容を検討し対応を決める」としている。」



警察の任意なんて全然「任意」じゃないからね。



警職法でつっかけて、ちょっとぶつかってきて公務執行妨害で現行犯逮捕だからね。

やりたい放題だよな。

「首相、米倉氏、頭が悪い」民主・桜井政調会長

2013年06月22日 | Weblog
2013年05月24日 23時41分52秒

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/130524/stt13052422020010-n1.htm  2013.5.24 22:00



「民主党の桜井充政調会長は24日、東京都内での連合の会合で、雇用対策や経済政策をめぐり安倍晋三首相と経団連の米倉弘昌会長の対応を批判し「(2人は)同じくらい頭が悪い」と発言した。過剰な中傷として、与党から反発が出そうだ。

 桜井氏は共同通信の取材に「冗談半分で言った。不適切であればおわびする」と釈明した。

 会合では「企業は目先の利益を追求し、非正規雇用者を増やしている。継続的な経営にマイナスになる」と指摘。その上で「米倉氏と話したことがあるが、首相と同じくらい頭が悪い。ああいう人がトップに立っているから社会は良くならない」と述べた。」



本気で言えよ。不適切でもなんでもないから、お詫びなんて全然必要ないよ。



人間を物品として扱ってるし、そういう法律作ったのは自公政権だし。



米倉は、東電は自らを誇りに思えって言った人間だからね。こんなのがトップにいたら社会が悪くなるばかりだよ。

連続追及 第10弾PCなりすまし事件 特別対談佐藤博史×江川紹子

2013年06月22日 | Weblog
2013年05月19日 13時44分00秒

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/35788



警察と検察 史上最悪の「冤罪捜査」を問う



「マスコミにリークする情報も底をついたか。もはや捜査当局に決定的証拠がないことは明らかだ。それでも拘束し続ける警察・検察の思惑とは—。冤罪に詳しいジャーナリストが主任弁護人に訊く。

何が何でも有罪にする
江川 2月10日の片山祐輔氏(30歳)の逮捕から、すでに80日近く経過しました。最近の片山氏の様子はいかがですか?

佐藤 この対談の直前にも会ってきましたが、「一日も早く自由になりたい」と言っています。一時は不眠に悩まされ、自殺も考えるほどでした。保護室に隔離されたこともありましたが、だいぶ落ち着いてきました。彼の誕生日が5月10日なので、それまでには保釈が認められるようにしたいと考えているところです。

江川 検察はさらに別件で追起訴をする用意があるようで、捜査も続行中です。すぐに保釈されることは考えにくいと思います。

 そもそも、この事件では警察が4件の誤認逮捕で大失態をして威信を傷つけられた。何が何でも片山氏を真犯人として有罪にするのだという強い意志を感じますね。

佐藤 4月17日の進行協議の場で検察官が発言したことなのですが、検察官としては、この件については捜査継続中であり追起訴を予定しているので、公判前整理手続きに付すことの可否について意見を言えないし、証拠開示もしない、という答えでした。その理由は「証拠隠滅のおそれ」があるというのです。すでに起訴した事件で、捜査継続を理由に証拠の開示を断るなんて、前代未聞です。

江川 それは、検察側が「これが決定打」というほどの証拠を持っていないからではないでしょうか。もちろん、押収したパソコン関係のデータにどのようなものがあるのかまだわかりません。遠隔操作ウイルスをつくったとされるプログラム言語「C#」について、片山氏は自分がその言語を使えないから犯人ではないと主張していますが、検察側は使えるという証言をぶつけてくるでしょう。

 ただ、最高裁の判例で状況証拠だけで有罪とするためには、その人が犯人でなければ説明がつかないものが含まれていなければならないと言っている。つまり、片山氏が「C#」を使えると立証できても、真犯人が片山氏以外にあり得ないという証明にはならない。片山氏が犯人でないと説明がつかないような客観証拠を彼らが持っているのか、大いに疑問です。

佐藤 私は、警察・検察は片山さんを逮捕・起訴する明白な証拠は持っていないと思います。

江川 私が釈然としないのは、取り調べの録音・録画を片山氏が求めても、警察が一切応じようとしないということです。検察に対しては、録画はせずに録音だけでも取り調べに応じると譲歩しているんですよね。



佐藤 ええ。それで検察も当初は冷静に取り調べをするような素振りで、録音も検討した様子があるんです。その後、態度を豹変させましたが。

江川 取り調べは、自白を得ることだけが目的ではなくて、被疑者から多くの情報を引き出すことが大事です。否認していたとしても、片山氏が犯人だと確信しているのであれば、事実についての説明をさせて、客観的事実との矛盾点を集めていけばいい。そうしないのは、捜査機関としての役割を放棄しているとしか思えないんですよね。おそらく、警察と検察は、自白を得ることが取り調べだと思い込んでいるのではないでしょうか。

 この事件は4件の誤認逮捕があって、うち2件は「虚偽の自白」をもとに誤認逮捕してしまっている。その過ちを前提に、片山氏の捜査では強引に自白に追い込むようなことはせず、公明正大な手続きを経ることが捜査側には求められています。裁判所もそれを後押しするような役割が期待されている。にもかかわらず、そういう意識が見られないことが問題です。

佐藤 (痴漢冤罪をテーマにした映画を撮った)周防正行監督も言っていましたが、今の検察や警察の取り調べ手法は、容疑者を自白に追い込むことにおいては適合しているが、無実の人を間違って自白させる危険を常に伴っている。もし、われわれ弁護人がいなければ、片山さんは屈服させられていたかもしれない。

決定的画像なんてない
江川 捜査段階で、捜査に関する疑問や問題点がここまで出てきたのは、佐藤先生が体を張った弁護をしてきたからなのは間違いないですね。

佐藤 その結果だと思いますが、警察・検察側に決定的な証拠はないことが明らかになったと思います。1月3日の午後3時頃に江ノ島のネコに首輪(真犯人しか知り得ない情報を入れた記録媒体が取り付けられていた)を付けたのが片山さんであるというのが逮捕の端緒だったはずなのに、今でもその画像さえ出てこないのですから。

江川 捜査側が手の内を晒したくないと考えて、証拠を温存している可能性もありますが、ただ、私も、片山氏が首輪を付ける決定的な場面の画像はないと思います。私も現地で確かめましたが、当該のネコがいたという山頂付近にはカメラは1台しかありませんし、解像度は高いにせよ、画角はそれほど広くありません。そのうえ、当日は多くの人で混雑していました。

佐藤 にもかかわらず、報道では片山さんがネコに首輪を付けて、その写真をメディア各社に送りつけたことになっている。しかも、警察が片山さんの携帯電話を回収したら、それと同じ写真が携帯電話から見つかった、と。たしかに、それなら片山さんは真犯人ですよ。でも、そんな写真はないんです。

 警察や検察の想定だと、片山さんはネコに首輪を付けることを目的に、1月3日に江ノ島に行ったことになっています。でも片山さんは、神社で参拝してから山頂に上がり、ネコと遊んでから、釜揚げしらす丼やたこせんべいを食べたりしている。江ノ島には数多くの監視カメラがあるそうですが、もう一度、映像をよく見てほしい。なぜ真犯人が目的達成の前後に神社に参ったり、食事をしたりするんですか。真犯人ならばもっと注意を払って行動するものでしょう。



江川 同種の事件で前科があることや、犯行声明メールにあった雲取山、江ノ島に実際に行っているなど、彼を疑いたくなる要素は、確かにいくつもあります。

 一方で、彼が犯人だと考えると変な点も複数あります。真犯人が送ってきたメールの一部には、ハングル文字が使われていました。しかし、片山氏がハングルに詳しいという話はない。また、犯人からのメールには捜査機関に補捉されないための注意深さが感じられますが、片山氏の行動は、あまりにも無防備なんですよね。逮捕直前のマスコミの尾行にも、まったく気がついていない。犯人像と片山氏の行動がどうも噛み合わないのです。

裁判所もグル
佐藤 それまでに誤認逮捕という失態があって、片山さんを逮捕したわけですから、当然、慎重な捜査を遂げて、絶対確実という証拠をもとに逮捕したと思いますよね。私も片山さんに接見するまでは彼が真犯人だと思っていました。もし彼が犯人ならば、早く罪を認めるよう説得するつもりでした。

 ところが会ってみると、無実ではないかと思い、今では100%無実であると断言できます。現在は7人の弁護士が輪番で毎日接見していますが、逮捕直後から片山さんの言葉にはまったくブレがない。もし、彼がウソをついていて、それぞれの弁護士から個別に質問を受けたら、絶対に矛盾が出てくる。7人の弁護士全員を騙すなんて、簡単にできることではない。

江川 報道では、捜査関係者のコメントとして、彼らは片山氏が犯人であるという確信を持っていると書かれています。しかし、どういう根拠に基づいているのかわかりません。記者の人には、その根拠を聞いてほしい。

 捜査機関が自信を持っているという言葉があてにならないのは、厚生労働省局長の村木厚子さんの事件でも明らかでした。裁判で捜査段階とは真逆の証言が次々と出ていても、検察は「自信を持っている」と言っていましたから。

佐藤 彼らが自信を持っている根拠は、パソコンの中に決定的証拠があると考えているからでしょう。ところが、捜査員の大半がサイバー空間においてはド素人です。ITの専門家が言ったから信じるという信仰にすぎません。事件につながるウイルスの痕跡をFBIが発見したという話もありますが、海外の捜査機関に頼らざるを得なかったという事実が、警察のサイバー捜査における能力の低さを露呈させています。

江川 警察や検察だけではなく、裁判所を含めた刑事司法全体の問題が見えてきますね。裁判所は検察の言い分を追認し、片山氏の家族さえ接見禁止としました。権利を制限する場合は、何らかの具体的な問題がなければおかしい。なのに裁判所は、漠然とした理由でもとりあえず検察の主張を認めておけば、自分たちの責任を問われることはないだろうといった無責任な対応に終始しているという印象です。



なのにマスコミは裁判所を問題にしませんよね。警察や検察は往々にして非難されますが、裁判官は批判されない。そのことが問題です。東電OL殺害事件でも、一審の無罪から逆転有罪にした裁判官についてマスコミが反省を求めるということはほとんどありませんでした。

佐藤 今回のケースでも誤認逮捕につながる逮捕状を出したのは裁判所です。その反省を踏まえていない。

江川 裁判所には「誤審」を検証するようなシステムすらないのです。これが冤罪を生む理由でもある。だからこそ、まずは冤罪を起こさないために可視化が大事なんです。被疑者や参考人が求めたら録音・録画を認めていくという方向にならないと、日本の司法はダメになると思います。

「週刊現代」2013年5月11・18日号より」


内田樹の研究室 学校教育の終わり

2013年06月22日 | Weblog
2013年05月11日 17時28分55秒

http://blog.tatsuru.com/2013/04/07_1045.php



「大津市でのいじめ自殺、大阪市立桜宮高校でバスケットボール部のキャプテンの体罰自殺など、一連の事件は日本の学校教育システムそのものがいま制度疲労の限界に達していることを示している。
機械が壊れるときは、金属部品もプラスチックもICもすべてが同時に劣化する。それに似ている。学校教育にかかわるすべてが一斉に機能不全に陥っている。
これを特定のパーツを取り替えれば済むと考えている人は「どこが悪いのか?」という「患部」を特定する問いを立てようとする。だが、それは無駄なことだ。日本の学校制度はもう局所的な手直しで片付くレベルにはない。
「日本の学校制度のどこが悪いのでしょうか」と訊かれるならば、「全部悪い」と答えるほかない。
けれども、学校教育は「全部悪い」からといって、「全部取り替える」ことができない。自動車なら、新車が納車されるまで、バスで通う、電車で通うという代替手段があるが、学校にはない。新しい学校システムができるまで子どもたちを収容する代替機関が存在しない。
学校を全部変えるということは「無学校状態」に子どもたちを放置するリスクを負うことであり、私たちはそんなソリューションを採択することができない。
つまり、学校教育システムを全部変えなければいけないのだが、部品は今あるものをそのまま「使い回し」てゆかなければならない。
いわば、自動車を走らせながら修理するようなことを私たちは求められているのである。
これが学校教育についての私の基本的な立場である。「走りながら修理する」ために、何をすればいいのか? 何ができるのか?

日本の近代学校教育システムは「国民形成」という国家的プロジェクトの要請に応えるかたちで制度設計された。つまり、学校の社会的責務は「国家須要の人材を育成すること」、「国民国家を担うことのできる成熟した市民を作り出すこと」ことに存したのである。サラリーマンになるにしても兵士になるにしても学者や政治家であっても、教育の目的はあくまで「国家須要の人士」の育成である。成否は措いて、この目的そのものは揺るぎないものだった。
1945年の敗戦でも、学校教育の目的が国民国家の未来の担い手を育てることであるという目的そのものに疑いは挟まれなかった。戦後生まれの私たちの世代は「民主的で平和な日本の担い手」たるべく教育された。
明治維新以来、学校教育は「国民国家を維持存続させるため」のものであり、教育の受益者がいるとすれば(そういう言葉は使われていなかったが)、端的に共同体それ自身だったのである。

この合意が崩れたのは一九七〇年代以降のことである。
歴史的理由については贅言を要すまい。歴史上例外的な平和と繁栄である。私たちは「平和と繁栄のコスト」をいろいろなかたちで支払うことになったが、学校教育の目的変更もそのひとつである。
このとき、学校教育の目的は「国家須要の人材を育成すること」から、「自分の付加価値を高め、労働市場で高値で売り込み、権力・財貨・文化資本の有利な分配に与ること」に切り替えられた。
教育の受益者が「共同体」から「個人」に移ったのである。

もちろん、明治に近代学制が整備されたときから、人々は自己利益のために教育を受けた。ほとんどの場合はそれが「本音」だった。だが、「おのれひとりの立身出世のために教育を受ける」という生々しい本音を口に出すことは自制された。あくまで学校教育の目的は「世のため人のため」という公共的なレベルに維持されていたのである。
七〇年代以降、それが変わった。人々はついに平然と学校教育を「自己の付加価値を高め、自己利益を増大するための機会」だと公言するようになった。教育の受益者が「共同体」から「個人」にはっきりと切り替わったのである。
だが、その根本的な変化が学校教育をどのように変容させることになるのか、どのように「破壊する」ことになるのか、そのときの日本人は想像していなかった。
その後、教育はつねに「教育を通じてどうやって個人の利益を増大させるか?」という問いをめぐって論じられた。教育改革も教育批判もその点では同じだった。その前提そのものが設定の間違いではないかという反問をなす人はいなかった。 
もちろん文科省の発令する文書には依然として「愛国心」や「滅私奉公」的な言辞がちりばめられていた。だが、そこで言われる「愛国心」は実際には単に「上位者の命令に従うこと」しか求めていなかった。「滅私奉公」してまで何をするかというと、「グローバルな経済競争に勝ち残ること」つまり「金儲け」なのである。
このとき、国民国家はほぼまるごと「営利企業モデル」に縮減されたのである。上司の言うことを黙って聞いて、血尿が出るまで働いて、売り上げノルマを達成すること、それが学校教育の事実上の目標に掲げられる時代になったのである。

「公教育」という理念を考え出したのは啓蒙主義の時代のフランス人だが、行政制度として実現してみせたのはアメリカ人の方が早かった。だが、そのときも公教育の導入には強い抵抗があった。というのは、アメリカ社会は伝統的に「自己教育・自己陶冶」を重んじる国だったからである。
学校教育に税金を投入すると聞かされたアメリカの裕福な市民たちはこう言って抗議した。
「もし教育を受けたものが、そこで得た知識や技術のおかげで出世し、高い地位を求めるのであれば、それは自己負担でやるべきことではないのか。なぜ、私が刻苦勉励して納めた税金を他人の子どもの教育に投じて、自分自身の子どもたちの競争相手を作り出さなければならないのか?」
この反対論は強固なものだった。
公教育論者たちはこれを説得するために苦肉の理屈に訴えた。
あなたがたが税金を投じて学校教育を整備してくれれば、文字が読め、四則計算ができ、基礎的な社会的訓練ができた子どもたちを作り出すことができる。それは長期的にはビジネスマンのみなさんにとっても「よいこと」であるはずだ。彼らは優秀な労働力となり、活発な消費活動を行う消費者になるだろう、と。
市民たちはこの言い分を受け入れた。とりあえずアメリカの高額納税者たちは「労働者の質向上と市場の成熟」という長期的な利益を「今期の税額の多寡」という短期的な利益に優先させるくらいの計算能力を備えていたのである。
日本の教育改革論はどれも公教育への税金投入に反対したこのときのアメリカの納税者のロジックを下敷きにしている。すなわち、「教育の受益者は本人だ。そうであるならば、教育のコストは自己負担すべきだ」というものである。
貴重なる公金を支出するなら、学校は目に見えるかたちで、今すぐにその「見返り」を示さねばならぬ。それはとりあえず能力が高いが、安い賃金と長時間労働を受け入、上司の命令に従順な労働者を量産して、納税者の金儲けを支援させよというものである。
ここには「次世代の共同体を担う成熟した公民を育成する」という長期的な国益への配慮はもう見られない。企業の収益が今すぐに増大するような教育的アウトカムばかりが求められている。そして、「短期の損得を先にして、共同体が瓦解するリスクを冒すな」とそれを抑制する対抗的なロジックを語る人はもはやメディアにはほとんど登場しないのである。

近代の学校教育が「国民国家内部的」な制度である以上、学校教育の衰退が国民国家の衰退と歩調を揃えるのは当然のことである。
経済のグローバル化に伴って、いま世界中で国民国家はその解体過程にある。領土があり、官僚組織と常備軍を整え、その土地と文化につよい帰属意識をもつ「国民」を成員とするこの統治システムそのものが終わりつつある。
グローバル資本主義は人、資本、商品、情報が超高速でクロスボーダーに移動することを要求する。この要求は不可逆的に亢進し続ける。クロスボーダーな運動にとって最大の障害は国境、ローカルな国語、ローカルな法律、ローカルな商習慣である。これらすべてをすみやかに排除することをグローバル資本主義は求める。
経済のグローバル化を強力に牽引しているのはアメリカという国家だが、アメリカの国家戦略を実質的にコントロールしているのはすでに政治家ではなく、グローバル企業である。
国民国家はグローバル資本主義にとって、クロスボーダーな経済活動を妨害するローカルな障壁だが、利用価値がある限りは利用される。
国家資源は、政治家も官僚組織も軍隊もメディアも、もちろん学校教育も総動員される。
だから、グローバル化の進行過程で「国民国家の次世代の成員を育成する」といった迂遠な目的を掲げる公教育機関が存続できるはずがない。
グローバル資本主義は国民国家とも、学校教育とも「食い合わせが悪い」のである。

だから、「グローバル化に最適化した学校教育」はもう学校教育の体をなさない。教育にかかわるすべてのプレイヤーが「自己利益の最大化」のために他のプレイヤーを利用したり、出し抜いたり、騙したりすることを当然とするようなれば、そこで行われるのはもう教育ではないし、その場所は「学校」と呼ぶこともできない。
現に、学校のグローバリスト的再編を求めている当のグローバリスト自身、日本の学校がもう学校としては機能していないことをよく理解している。だから、彼らは平気で自分の子どもには「スイスの寄宿学校で国際性を身につけろ」とか「ハーバード大学で学位をとってこい」というようなことを命じる。日本の学校が「もうダメ」なら、外国の学校で教育を受ければいい。そう言い切れるのは、「学校教育の受益者は本人である」という信憑が彼らのうちに深く身体化しているからである。優秀な人間はどんどん海外に雄飛すればいい。日本なんかどうせ「泥舟」なんだから、沈むに任せればいいというのはひとつの見識である。
だが、そういう人は学校教育については発言して欲しくない。
繰り返し言うが、学校教育は国民国家内部的な「再生産装置」であり、ほんらい自己利益の増大のために利用するものではないからである。

残念ながら今の日本の支配層の過半はすでにグローバリストであり、彼らは「次世代の日本を担う成熟した市民を育てる」という目的をもう持っていない。
ご本人たち自身が子弟を外国の学校に通わせており、国内での雇用創出にも地域経済の振興にも興味がなく、所得税も法人税もできれば納めずに済ませたく、彼らがその収益を最優先に配慮する企業の株主も社員もすでに過半が外国人なら、それも当然である。
だが、不思議なことだが、「正直なところ、日本なんかどうなってもいい」と思っている人間しか社会的上昇が遂げられないように今の社会の仕組みそのものが再編されつつあるのである。
だから、まことに絶望的なことを申し上げなければならないのだが、今の日本では学校教育を再生させるために打つ手はないのである。
教育改革をうるさく言い立てる政治家やメディア知識人はいまだに「勉強すれば報償を与え、しなければ処罰する」という「人参と鞭」戦術で子どもたちの学びを動機づけられると信じているようだが、それがもう破綻していることにいい加減に気づいたらどうかと思う。
利益誘導は、高い学歴や社会的地位や高い年収といった「人参」に魅力を感じない子どもたち、「欲望を持たない子どもたち」には何の効果も持たない。「そんなもの、欲しくないね。僕は家に引きこもって、ゲームをしている方がいいよ」と言う子どもに利益誘導はまったく無効である。
同じように、あまりにスマートであるために、学校に通って付加価値を高めるというような遠回りを「かったるい」と思う子どもたちにも利益誘導は無効である。彼らは学校に通う時間があったら、起業したり、ネットで株を売買したりして、若くして巨富を積む生き方を選ぶだろう。学校に通う目的が最終的に「金をたくさん手に入れるため」であるなら、自分の才覚で今すぐ金が手にできる子どもがどうして学校に通うだろう。  
「人参と鞭」で子どもたちを学校に誘導しようとする戦略はこうして破綻する。「欲望のない子ども」たちと「あまりにスマートな子どもたち」が学校から立ち去ることをそれはむしろ推進することになる。
引きこもりや不登校の子どもたちは別に「反社会的」なわけではない。むしろ「過剰に社会的」なのである。現在の教育イデオロギーをあまりに素直に内面化したために、学校教育の無意味さに耐えられなくなっているのである。
だから、ひどい言い方をすれば、今学校に通っている子どもたちは「なぜ学校に通うのか?」という問いを突き詰めたことのない子どもたちなのである。「みんなが行くから、私も行く」という程度の動機の子どもたちだけがぼんやり学校に通っているのである。

欧米の学校教育は、まだ日本の学校ほど激しく劣化していない。「何のために学校教育を受けるのか」について、とりあえずエリートたちには自分たちには「公共的な使命」が託されているという「ノブレス・オブリージュ」の感覚がまだ生きているからである。パブリックスクールからオックスフォードやケンブリッジに進学するエリートの少なくとも一部は、大英帝国を担うという公的義務の負荷を自分の肩に感じている。そういうエリートを育成するために学校が存在している。
だが、日本の場合、東大や京大の卒業者の中に「ノブレス・オブリージュ」を自覚している者はほとんどいない。
彼らは子どもの頃から、自分の学習努力の成果はすべて独占すべきであると教えられてきた人たちである。公益より私利を優先し、国富を私財に転移することに熱心で、私事のために公務員を利用しようとするものの方が出世するように制度設計されている社会で公共心の高いエリートが育つはずがない。
 
結論を述べる。
日本の学校教育制度は末期的な段階に達しており、小手先の「改革」でどうにかなるようなものではない。そこまで壊れている。
唯一の救いは、同じ傾向は世界中で見られるということである。
学校教育が国民国家内部的な装置である以上、グローバル化の進行にともなって、遠からず欧米でもアジアでも、教育崩壊が始まる(もう始まっている)。だから、日本の学校教育の相対的な劣位がそれほど目立たなくはなるだろう。

もう一つだけ救いがある。それは崩壊しているのが「公教育」だということである。国民国家が解体する過程で、公教育は解体する。だが、「私塾」はそうではない。
もともと私塾は公教育以前から、つまり国民国家以前から存在した。懐徳堂や適塾や松下村塾が近代日本で最も成功した教育機関であることに異議を唱える人はいないだろうが、これらはいずれも篤志家が「身銭を切って」創建した教育機関である。
このような私塾はそれぞれ固有の教育目的を掲げていた。「国家須要の人材」というような生硬な言葉ではなく、もっと漠然と「世のため人のために生きる」ことのできる公共性の高い人士を育てようとしていた。
それがまた蘇るだろうと私は思っている。隣人の顔が見え、体温が感じられるようなささやかな規模の共同体は経済のグローバル化が進行しようと、国民国家が解体しようと、簡単には消え失せない。そのような「小さな共同体」に軸足を置き、根を下ろし、その共同体成員の再生産に目的を限定するような教育機関には生き延びるチャンスがある。私はそう考えている。そして、おそらく、私と思いを同じくしている人の数は想像されているよりずっと多い。」